先日、「
社会の変質に対応できない日本の学生達」という記事を書いたときに少し触れたのだが、「5号館のつぶやき」さんが「
もちろん借りたものは返さなければならないのですが」というエントリーで書いていた
日本政府さま、「奨学金」を返してもらうために、「奨学生」だった人にまずワーキングプアにならなくてすむような職を与えてください。
というコメントはどうにも違和感がありまくりだった。その違和感がどこに起因するのか整理がつかないうちにブログで取り上げてみたわけだが、それに対して5号館のつぶやきさんは
まあ、今の学生や大学院生がみんなブウさんのように、賢く強いのであれば何も問題は起こらないなのだとは思いますが、どうしてそうなっていないのかということに関して、彼らを育てている「日本株式会社」の方針が間違っているのではないかというのが、「真逆なスタンス」から見えることなのではあります。
とコメントしてくれた。要するに「今の大学生は賢くありません。(彼らが賢くないのは彼らが悪いのではなく、)彼らを育てている社会が間違っているのだから、社会が彼らを助けなくてはならない」というスタンスである。あまりにも的が外れた意見なので、正直「はぁ?」という感じだったのだが、このコメントのおかげでもやもやしていたものが一気に晴れた。なるほど、「5号館のつぶやき」さんのコメントにことごとく違和感を覚えるのはその立ち位置の違いからではない。違和感の原因は、「5号館のつぶやき」さんが大学、および大学の教育者の責任から完全に乖離しているからである。
#「日本株式会社」の言葉の定義によってはニュアンスが変わる可能性もあります。
「5号館のつぶやき」さんは大学に所属している方であるらしい(伝聞)から、目の前にいる賢くない大学生達をなんとかしたい、と思っているのかもしれないが、僕には賢くない大学生を賢くないまま就職を世話してやることが大学関係者の務めであるとはとても思えない。やるべきことは、学生に「きちんと努力すること、勉強すること」を教え、社会のニーズに適合する人材とすることのはずである。こういう風に書くと大学を就職予備校として位置づけているように取られる危険性も存在するが、もちろん言いたいことはそういうことではない。あくまでも「社会に適合できるだけの基礎的な能力をつけさせる」ということである。そして、これこそが高校や大学における高等教育の役割だと思うのだが、「5号館のつぶやき」さんの主張はその視点が完全に欠落している(故意なのか、過失なのかは不明)。
僕は「5号館のつぶやき」さんがどういう立ち位置で大学にいるのか知らないのでなんともいえないのだけれど、もし事務職員としてではなく教員として大学に所属しているのであれば、「じゃぁ、あなたは何をやっているのですか?馬鹿な大学生をそのまま放置して卒業させ、『この可哀想な人たちを何とかしてあげてください』とブログでアピールするだけなのですか?」と言いたいところである。文科省や政治家に向けて(多分)無駄な意見表明を続けるくらいなら(これは実質的には困った大学生のガス抜きにしかならない)、生徒に向かって何かをした方が生産的ではないですか?とも思う。もちろん八方手を尽くしてその挙句、「もう大学としてやれることはこれで一杯一杯です。あとは国が何とかしてください」ということなのかもしれないのだが、果たして本当にそうだろうか。「5号館のつぶやき」さんは少なくとも努力しているのかもしれないが、ではそれが大学教育者のマジョリティであるかと言えば、決してそんなことはないと思う。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
僕は教職を取ったこともないし、教育の理論もわからない。そんな状態でも一応教壇に立ち、少ないながらも大学で学生達に勉強を教えている。生徒達は偏差値で言えば決して高くないし、やる気のある学生も少ない。そんな中で教えるのはとてもストレスのあることなのだが、それでもやりがいを感じている。どこにやりがいがあるのか。
例えば今年度、僕の「バイオベンチャー」という授業を申告した学生は6人だった。そのうち、授業に来たのはわずかに2人である。そんな中で1コマ90分、15コマの授業をしたわけだが、僕が教えているものは「バイオベンチャー」という非常に難解なものである。この科目は生物学を専門にしている学生に教えるのでも難しいものだが、バイオ(生化学)も知らない、ベンチャーも知らない、という白紙の状態からバイオベンチャーとはいかなるものかを教えなくてはならないわけで、正直、自分でも気が遠くなるような仕事である。しかし、今回の集中講義では、3日間の間に、彼ら2人のうちの1人は見ていて明らかに授業における目つきが変わってきていた。「この授業は面白いな」と感じてもらえていることが、教壇にいてもわかるのである。こうした教育の面白さ、やりがいがあるから、僕は「もう来なくて良いよ」と言われるまでは今の講義を続けるつもりでいるし、どこかから頼まれればそれも引き受けるつもりでいる(まぁ、オファーはないでしょうけど)。
そして、授業の中で同時に一つ感じたことがある。それは今僕が教えている大学に限らず、世の中の多くの大学生、大卒生と話をしていて感じることでもあるのだが、「大学の教師は一体何を教えているのか」という疑問だ。今の大学生達は、ほとんどが「考えるトレーニング」を積んでいない。単に知識を詰め込まれているだけに見える。場合によっては、その知識の詰め込みすらやっていない。要は「何もやっていない」ように見える。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
僕が今回の授業でやったことはたった三つである。
一つ目は、最初に授業の目的を明確化したこと。「あなた達はなぜこの授業を取ったのですか?」と質問して、「単位が取りやすそうだから」「将来BVで働きたいから」「将来BVに投資して儲けたいから」「一般教養として」「なんとなく」「魔が差した」などの選択肢の中から選ばせた。彼らは「単位が欲しかったから」「なんとなく面白そうだったから」と答えたわけだけど、それでは困る。なので、その時点で僕は「大学と言うのは単位を配る場ではない。単位はあくまでも目印である。教師はあなた達に知識を与え、考える能力をつけさせ、社会に出たときにそれを競争する道具として使えるようにする役割を持っている。あなた達の立場はお客さんであり、お金を払ってそうした能力をつけさせてもらう権利を持っている。だから、あなた達はきちんとこの授業を通じて、知識と、考える習慣を身に付けてもらいたい。このうち、知識は今の世の中ならインターネットを探せばどこにでも転がっているものである。だから、どこにその知識が蓄積されているかを知っていて、その情報へのアクセス手段を身に付けていれば問題ない。しかし、「考えること」は違う。これは一度身に付ければ、生きていることそのものが全て訓練につながるが、そういう意識がなければ漫然と生きてしまい、貴重な機会を失うことになる。人生の初期の段階で「考えること」を身に付けた人とそうでない人の間には将来非常に大きな差が生じる。だから、この授業は「考えること」の訓練だと思って欲しい、と伝えた。
二つ目は、実際の授業において、一方的に知識を与えるのではなく、実際に考え、それを表現する機会を頻繁に与えたこと。「バイオって何ですか?」「生物の定義ってなんですか?」「ロボットと生物の違いって何ですか?」「身のまわりでバイオテクノロジーを利用しているものには何がありますか?」「遺伝とは何ですか?」「ゲノムとは何ですか?」「遺伝子とは何ですか?」「株式会社とは何ですか?」「資本金って何ですか?」「株って何ですか?」「会社って誰のものですか?」「会社の価値って何で決まりますか?」「株式会社の社長って何ですか?」。こうした基本的なことについて一つ一つ時間をとって考えさせ、それぞれについて全員に意見を聞き、そしてそれぞれについて回答を評価した。これによって、考える癖をつけさせ、自分の考えを頭でまとめさせ、それを表明する癖をつけさせ、さらに人の意見を聞かせることによって自分の意見との違いを意識させた。
そして三つ目。「遺伝子組換え食品への対応はどうすべきか」「食の安全はどこまで確保されるべきか」「AIDSへの世界的対応は適切か」といった、正解のない問題を与え、これについての意見を表明させた。そして、スタンスを表明させ、その理由を述べさせた上で、「じゃぁ、もしあなたが逆の立場だとしたら、どういう理由でそれを主張しますか?」と課題を出した。これは二の発展であるが、発想を強制的に変換させたのである。これによって、物事を客観的に見るためには何が必要か、人の立場からものをみるということはどういうことか、というのを体感させた。
やっとことはたったのこれだけだが、彼らのうちの一人(三年生)は途中から目を輝かせながら授業を聞き、授業に参加し、そして授業を要求した。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
そして、授業の最後に伝えたのは、次のような趣旨のことである。
「勉強というのはものすごく個人的なものです。また、大学の授業というのは、皆さんお金を払って聞いています。ですから、単位というのは、本来、教師が出すものではなく、生徒の皆さんが納得したときに受け取るものです。「お金を払って、その分の知識を得ることができた」という印みたいなものですね。
僕の授業は、形式的には僕の知識を皆さんに伝えるだけのものです。バイオとは何か、ベンチャーとは何か、そしてバイオベンチャーとは何か、という知識です。15コマの授業では、その全部を伝えることは無理ですが、おおよその地図のようなものは提示しました。これから、もし興味があれば自分で調べることができるはずです。また、何かわからないことがあれば、こんな時代ですから、インターネットで僕に質問してくれればいつでも答えます。
皆さんはバイオについても、ベンチャーについてもまったく白紙でした。だから、途中で一回でも授業を抜けてしまった人は、満足が行くだけの知識を得られなかったと思います。でも、それは最初に言っていますから、自己責任です。知識を得る機会を損失してしまい、そしてこれから先もその機会はないわけですが、これも最初に言ったとおりです。残念でした。抜けちゃった知識は、もし必要なら、友達に聞くなり、自分で調べるなりして補完してください。
そういうわけで、僕としては点数なんてなんでも良いし、興味もありません。たとえば皆さんが勝手に希望の点数を書いてくれればそれでオッケーだったりもするのですが、まぁ、大学の方としてもそれじゃぁ困るでしょうから、基本的に出席点で点数をつけます。テストは面倒だからやりません。僕がしゃべったことは全部大事です。だから、その内容に軽重をつけることもしないし、ピックアップして理解度をはかるようなこともしません。また、授業の内容はもちろん興味がないなら全部不要な話です。生きていくうえで必須のものではないですから、忘れてしまってもかまいません。
課題は、レポートを出しておきます。ただし、レポートは出しても出さなくても点数は一緒です。レポートを出すのは自由。内容は、今回の授業についてサマリーをまとめる、ということにしましょう。話を聞いて、なんとなくわかった気になるのは良くあることです。でも、それを文字にしようと思うと意外と難しかったりします。知識を頭の中で整理して、それを文字にしてみる、という作業は多分皆さんにとって役に立つはずです。だから、もし今回の授業の内容をきちんと自分のものにしたいと思う人がいたら、その作業をやって、提出してみてください。その内容はもちろんチェックしますし、何か間違っていることがあれば、チェックしてお知らせします。
大事なことは、「考える癖をつけること」と、「情報がどこにあるのかを知っていること」です。知識をただ単に与えられ、それを覚えるだけならパソコンで十分。正しいか正しくないかではなく、とにかく自分で「考えること」と、どこにアクセスすれば欲しい情報があるのかを知っていることが大事なわけです。考えることというのは僕の授業でたびたび皆さんに課題として出しましたね。「南アフリカや東南アジアにおいてエイズで死ぬ人がたくさんいる一方で、治療薬関連の特許で大もうけしている人がいる。このことをどう思いますか?」なんていうのはその一例ですが、こんなのに模範解答はありません。ですが、このことについて真剣に考えて、自分の意見をまとめたり、人の意見に耳を傾けてみることはものすごく大事なことです。また、今回の授業では、ネットを使って実際にいろいろな情報を調べました。その調べ方も大きなノウハウです。僕の調査方法を皆さんは実際に目で見ていたわけで、これについても今後の人生で大きなヒントになるかもしれません。ならないかも知れませんが。
まぁ、何はともあれ、今回の授業で何かひとつでも持ち帰っていただければ、僕はそれで満足です」
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
勉強、特に高校や大学の勉強と言うのは誰かのためにやるのではなく、本来自分のためにやることである。少なくとも義務教育ではないのだから、「国に言われたからやっている」のではない。ここで、「自分の」目的は人それぞれだろう。就職に有利だからかも知れないし、お金が稼げるからかも知れないし、自分の知的好奇心を満たすためかも知れない。その目的が何であれ、義務教育以降の勉強は人のためにやることではない。そして、大学は、人のためにやる勉強、人に言われたからやる勉強をするために通う場所ではない。こんな簡単なことをなぜか今の大学生の多くは知らない。それは大学、および大学の教師の責任だと思う。
確かに、バブルの頃は違ったと思う。人に言われたから大学に通い、そしてそこを卒業するだけで安泰な人生のレールに乗ることができた。だから、今の学生達は20年前の学生に比較したら気の毒でもある。しかし、30歳を超えてから突然競争社会に放り出されて呆然とするよりはずっと恵まれているとも言える。早く気がついて、早く対応した学生から順番に勝ち組になるチャンスを得られるのが今の学生でもある。
いや、大学生の質がどうとか、今と昔の大学生の比較が主題ではない。言いたいことは、大学と、大学の先生は、本当にちゃんとした教育をしているのか?ということである。教室にいる人数が多ければ教育の密度は変わってしまうから、僕のようなスタイルで授業をできるような科目ばかりではないことは十分承知しているが、一方で知識だけを押し売りするようなスタイル以外でも授業ができる科目もたくさんあるはずである。そもそも、まず最初の段階として「すぐに忘れてしまうような知識を頭に詰め込んで試験で合格点を取り、それを続けて大学を卒業しても何の役にも立たない」ということをきちんと教えないでどうする。
ストライヤーやらセルやらを片手に、付箋を貼ってあるところを順番に学生に読ませて「ここが大事ですよ。試験に出しますからね」なんていう授業をやってんじゃないでしょうね?ということだ。「おいおい、大学でそんな小学校みたいなことから始めなくちゃいけないのか?」という声も聞こえてきそうだが、僕はそこから始めなくちゃいけないと思う。冒頭の「5号館のつぶやき」さんはそのエントリーの中で
「奨学金」を借りてまで高等教育を受けた人
に対して仕事を与えてくれと書いているが、その高等教育を受けた人たちの質が低いから問題なわけで、その質が低いのは直接的には国の責任ではなく、現場における教育の質が低いからでしょう?ということである。
#僕の授業がちゃんとしている保証はもちろんないんですけどね。
##ちなみに僕は稲田祐二さん(元東工大、現桐蔭学園横浜大学)を教師としてとても尊敬しております。稲田さんの授業は僕の人生を変えてくれました。
###文科省が大学の教育について、シラバスはもちろん、実際の授業現場にまで踏み込んで詳細な干渉をしているというのであればまた話は別です。が、僕は今まで大学で講師をやってきて、その種の干渉を受けたことはないです。