先日、知人の陶芸家がFacebookで「私の作品がオークションに出ているのを見つけた。入札がなくて、公開処刑されている気分だ」という主旨のことを書いていた。これはなかなか興味深いことだったので、ついでに陶芸作品の価格などについて書いておく。
まず、この陶芸家氏だが、時々百貨店の企画展に出展したりする程度に人気のある若手陶芸家で、僕も日本橋三越の企画展で作品を見かけて一目惚れし、衝動買いしたことがある。彼はコミュニケーション能力・セルフプロデュース能力が高く、若手の作家さんの中においてリーダシップも発揮していて、今後の活躍が期待される作家さんだ。個人的に強みでもあり逆に弱点でもあると思っているのはアートラインから日常使いまで幅広く展開していて、多作なことである。
陶芸家はアート作品を作る人、日常使いを作る人、その両方を作る人がいるのだが、日常使いの場合はある程度多作になって、似たようなデザインやカラーバリエーションで作品数を稼ぐことになる。僕は浮気症のコレクターなので、ほとんどの場合で代表的な作品をひとつ購入してしまうと、新しい特徴的な作品が登場するまでは同じ作家さんの作品は「あ、また同じような作品だな」と思って購入しない。一方で、特定の作家さんのファンなら、食器棚に普段使いのお気に入りの食器が並んでいるのが嬉しいはずで、かくいう僕も大平真己さんだけは別で、家の食器棚には彼女の食器が並んでいたりする。大平さんはアートラインにはあまり興味のない作家さんで、僕が家で鍋をやるたびに使っている大皿でも数万円程度と、アート作品に比較したら驚くほど安価だ。彼女に、「アート作品は作らないんですか?」と聞いたら「みんなが買えないじゃないですか」と笑っていたのが印象的なのだが、要は「一人でも多くの人の日常に溶け込んで、身近で使ってもらいたい」と考えているのだろう。大平さんと同じ感じで、将来、この人の作品を普段使いの食器棚に並べたいな、と思っている作家さんに川上真子さんや児玉みなみさんがいるのだが、彼女たちも(多分)普段使いラインの作家さんである。作家さんが目指す方向は人それぞれである。
さて、話をまずアートライン中心にしてみるのだが、買う側からすると、作品の価格が高額になればなるほど、「この作家の陶磁器はそこまでの価値があるのか」という疑問を持つようになる。だから、ヤフーオークションの落札価格は参考になる。酒器展などで抽選が行われるレベルの作家さんだと僕も日常的にオークションをチェックしているのだが、ちゃんと入札があるし、価格もそれなりだ。中古ということもあってか、価格は実際の販売価格より若干安くなることがほとんどだが、今が旬の作家さんや、作品のできが良ければアップすることもある。ただ、凄い人気作家でも、天井はある。例えば魯山人の作品より高額になることはなく、僕が買うような作家さんたちだと、酒器なら10万、茶器なら20万程度が上値だろう。この辺はラーメンなら1200円、とんかつなら5000円程度と上値が決っているのと同じだ。もっと高額な作家さんでも天井があるのは同じで、例えば魯山人はわかりやすい「天井」である。そうした状況において、「この作家さんの作品の客観的な価値はどのへんなのか」というのは常に購入サイドに存在する疑問なのだ。なぜなら、陶芸作品の価格は所詮言い値だからである。例えば僕のこのぐい呑みは一万円で欲しいという人がいたのでその人に譲ったのだが、
北大路魯山入のぐい呑み
http://buu.blog.jp/archives/51505665.html
こんなものはただのぐい呑みなので、普通の人ならせいぜい2000円ぐらいしか出さないと思う。しかし「10000円で欲しい」という人が一人いるだけで値付けは終了してしまう。価格とはそんなものだ。
ところで、このところのそこそこ大きな展示会では、僕の中では「見附ブレーキ」というものが存在していて、価格相応か悩んだ時には(少なくない場面で同時に出品されている)見附正康さんの作品のクオリティと価格を見て、比較するようにしている。そして、多くの場面で、「見附さんのより高いのはちょっとないな」となって、購入を見合わせる。魯山人作品はあまり販売されないので(もちろん、黒田陶苑などではほぼ日常的に販売されているのだが)、もうちょっと身近なところで「標準」を提供してくれるのが見附作品なのだ。問題は見附作品と比較して、今、目の前にある作品がどの程度の位置にあるのかを判断することが難しいということなのだが、そのあたりは所詮感覚なので、あまり深く突き詰めないようにしている。単に「見附作品と、これと、どっちが欲しいか」である。
ものの価格は基本的に需要と供給で決まる。そして、一部に熱心なコレクターが存在すると、当然ながらその価格は上昇する。特に百貨店が絡むとその率はアップする傾向にある。三越や伊勢丹で個展をやるたびに20%ぐらいずつアップしていく作家もチラホラ見受けられる。そうやってどんどんメジャーになっていくのはもちろん結構なことなのだが、それは作家自身にとってプレッシャーだろう。熱心な個別のコレクターが作品に飽きて離れてしまえば(飽きなくても、保管しておく場所がなくなったとか、資金繰りが難しくなったとか、色々事情は考えられる)、いつ売れなくなるかわからない。そうなったとき、高値を煽った百貨店は間違いなくそっぽを向く。彼らは中間マージンを目当てにしていて、自分たちはリスクを負っていないから、だめになれば次を探すだけだ。ラーメン屋でも、テレビに取り上げられて大行列店になり、ほどなくブームが去って、過大な投資を回収できずに潰れてしまった店はいくつかある。陶芸家の場合、売れなくなったら価格を下げれば良いだけのことだが、価格が下がればどうしたって「過去の人」という雰囲気がつきまとうし、支持してくれているコレクターも、自分が買った価格よりも下がってきているのを見たら悲しい気分になるだろう。かように、価格とは一度上げたら、下げにくいものである。
アートラインの作家たちはそういうリスクを抱えながら、微妙なところで価格を決めている。その際、大きな役割を果たすことになるのが、作家が軸足を置くギャラリーとなる。小さなギャラリーと百貨店では宣伝力が違うので、小さなギャラリーで2週間個展をやったのに売れず、同じものを百貨店に置いたら1日で売れた、という笑えない話も現実にあって、ギャラリーもあまり強く言えないところもありそうだ。親身になって面倒をみてくれて、将来にわたってプランを考えてくれるけれどあまり売れないギャラリーと、使い捨てではあるけれど間違いなく売れる百貨店では、資金的な余裕があるならともかく、日銭を稼ぐのもやっとという若手陶芸家なら、どうしたって百貨店を選びたくなるだろう。だからこその、「見附ブレーキ」なのだ。それは、陶芸作品のバブルを見つける指標の一つでもある。
陶芸作品は市場が小さいだけに、価格変動が大きく、高騰もあれば暴落もある世界だ。そして、その価格変動の中心にいるのは少数のコレクターである。そうやって決められた価格は信頼性が低いし、比較的近い場所(つまり、作家さんと仲がいいとかだが)にいると、コレクター自身の判断にもバイアスがかかる。あるいは、展示に2つしか作品がなく、希望者が10人いて抽選になって、くじで二番を引いた時、作品のレベルがほぼ同じなら良いのだが、レベルに差があった時に購入を見合わせる度胸があるコレクターはほとんどいないと思う。そんなこんなで「自分の価値判断は間違っていないのか」ということを確認する意味で、オークションが提供してくれる「適正価格に関する一情報」(適正価格ではない)はとてもありがたい。
#ちなみに僕の場合は、売り場における作家さんとのコミュニケーションも重要な要素で、「この作家さんは応援したいな」と思った時は、迷うくらいなら購入するようにしている。
さて、件の作家氏に話を戻す。その作品は、結果的に4件の入札があって、販売価格よりも若干安い程度の価格で落札された。未使用とはいえ完全な未開封新品ではなく(陶磁器なら当たり前だが)、作品はアートラインよりは普段使いラインに寄った感じの作品だったので、現状ではほぼ適正な価格で落札されたと思う。入札した人の中には件の作家さんのFacebookの記事を読んで入札した人もいたようで、Facebookに書いた甲斐もあろうというものだった。
オークションのような二次マーケットでいくら値段がつこうとも、作家さんの懐にお金が入るわけではないのだが、「この作家さんの作品はこの程度の値段がつく」と記録が残ることは、値段が不当に安くない限りにおいては、悪いことではない(100円スタートで入札なしとかだと悲しいが)。知名度がまだそれほど高くない状況においては、自作がオークションに出ているのを見つけたら、自分でそれをFacebookなりTwitterなりで書いてしまうのが手っ取り早い宣伝になるはずだ。
「気持ちを込めて作ったので、転売などして欲しくない」という考えもあるかも知れないし、件の作家さんのFacebookにも彼の知人なのか、お客さんなのかから「酷い」といったコメントが書かれてもいたのだが、それはちょっと感傷的すぎるだろう。コレクターがコレクションを手放す理由は様々だが、僕もこれまで保有していたテディベアやピンズの多くを手放してきた。件の作家さんはヤフオクに自作が出品されたのはこれが初めてだったようだけれど、超一流作家への階段をひとつ登ったと考えるのが妥当だと思う。これが寡作でなかなか手に入らない作家さんならまた話は変わってくるのだが、件の作家さんはそういうタイプではない。ならば、ヤフオクに出品されたことで、自身の知名度がアップしていると前向きに考えたほうが幸せだと思う。言葉を変えるなら、作品の写真と自分の名前だけで買い手がついたのだ。
百貨店がバブルを誘発するということについて書いたので、ギャラリーについてもちょっと触れておくが、百貨店が作家にしてくれるアドバイスはせいぜい「これはもうちょっと高くても良いんじゃないですか?」ぐらいだ。それには、「みなさん、ぐい飲みがこのくらいなら、茶碗だとこのぐらいですよ」という無意味かつ無責任なアドバイスも含まれる。一方でまっとうなギャラリーならもっと気の利いたアドバイスをしてくれるはずだ。彼らは百貨店とのつきあい方についても作家さんにきちんとアドバイスしてくれるし、オークションに出品された時にも対応を考えてくれる。買い手サイドに対しても、ちゃんと付き合っていれば、という但し書きがつくけれど、買った美術品は適正価格で引き取ってくれたりもする。こういうギャラリーには、良いコレクターも集まってくるし、作家さん同士の情報交換によって良い作家さんも集まってくるだろう。そういうギャラリーなのかはまだ付き合いが浅くて良くわからないのだが、陶磁器を中心に扱っているギャラリーとしては、個人的には名古屋の「数寄」さんや京都の「器館」などはとても良い印象を持っているし、外苑前の「白白庵」も居心地が良かった。陶磁器中心ではないけれど、もちろん銀座一丁目の「万画廊」などもとても良いギャラリーだと思う。
#先日初めて伺った川越の「うつわノート」さんも非常に良いギャラリーだった。(2016年追記)
#ちなみに大嫌いで、応援している作家さんが出品していても絶対に近づかないし、二度と買わないし、その旨作家さんにも伝えてあるギャラリーとして野々市の「ルンパルンパ」がある。
「価格」とは、作家とコレクターを直結させる言語である。日本人はとかく金儲けを嫌う人種であるが、キレイ事だけで生きていけるようなおめでたい国でもない。生活がかかっている以上、正当な価格で取引されるべきだし、そのためには情報の充実が必要だ。だからこそ、僕は自分が買った陶磁器作品についてはきちんと写真を撮って、このブログで公開している。自分が気に入った作品なので、なるべく魅力が伝わりやすいように撮影する努力をしている。半分冗談で「お前たちが宣伝するから、価格が上昇しちゃうじゃないか」と言われることもあるけれど、情報は多いに越したことはない。
件の作家さんは、ヤフオク出品にあたっては作品の名前と写真とサイズ、それと作家名だけが記載されていた。それだけで落札されたのだから、立派なものだと思う。知り合いの陶芸家と名刺について話した時、「師匠から、『陶芸家は名刺を作ってはいけない。陶芸家は、名刺ではなく作品で語るべきだ』と教えられた」と言われたことがある。なるほど、場所がヤフオクだったことについては色々な考え方があるだろうが、件の作家さんは、間違いなく作品で語っていた。