祖父が創業した町工場が閉鎖するそうだ。この町工場は、木型をもとにして金型を製作する工場で、これまで日産自動車、ビクターなど、横浜を拠点としている大企業の下請けをやってきた。祖父はもう何年も前に亡くなっていて、その後は親戚を中心にして事業を継続してきたのだが、彼らも高齢化が進み、工場(こうば)を閉鎖する方針でいると連絡があった。知人をこの工場に連れて行くと「リアル下町ボブスレーだね」とか、「陸王ってこんな感じなんだろうね」という感想を必ず聞いていたので、残念ではあるけれど、仕方ない。
このことに関して、つい先日、こんな記事を見かけた。
中小企業「黒字廃業」相次ぐ 東南アジアで買い叩かれ、ものづくり現場は焼け野原
https://dot.asahi.com/dot/2018012200048.html
記事では、日本の高度成長を支えた中小企業が次々と廃業し、
日本経済を支えてきた技術や知識、ノウハウといった「宝物」が消えている。
と嘆いている。しかし、これを嘆いても仕方ない。「嫌ならお前が投資しろ」という話で、じゃぁ将来性があるのかといえば、ないのである。問題は、消えて行くことではない。消えた代わりに生まれて来る産業がほとんどないことだ。
皆無とは言わない。楽天やユニクロなど、日本で創業して大企業に成長した会社はいくつかある。ただ、退場した中小企業をリプレイスするほどの規模ではない。では、なぜ日本ではそういう新産業の創設が難しいのか。僕は15年ほど前に経産省でバイオ企業のスタートアップ支援を担当していたので、当時からいわゆるベンチャー企業の抱える問題点を見てきた。そして、米国に移住して、米国での日常生活を通じて、その問題点は一層明確になってきた。それは、「リスクへの恐怖」である。
例えば、最近、DCの街を歩いていて頻繁に見かけるのは電動スケボーを利用している人だ。「ビーーーーーー」という音とともに、ゆるい上り坂なら何の問題もなく走り抜けて行くので、すぐにそれとわかる。「面白いな。日本でもはやらないかな」と一瞬思うのだが、すぐに「どうせ道交法や道路運送車両法で禁止だな」と打ち消すことになる。「怪我をしたらどうする」「ヘルメットは義務化するのか」「事故が起きた時の対応は」「保険は」などと、色々と解決しなくてはならない問題が山積していて、それをひとつひとつクリアしているうちに生産もマーケットも東アジア、東南アジアに奪われる。
あるいは、Uberも同じである。今、DCで暮らしは、UberやLyftの存在なしでは考えられない。スマホで予約から決済まで全てが完了し、安価が良ければシェアすれば良い。タクシーよりもずっと安くて、これほど便利なものもない。ところが、これを日本へ導入しようとすると、一向に進まない。「タクシーの運転手の既得権を侵害する」から始まって、「利用者のプライバシーの確保が難しい」という話まで、ともかく新規事業に対してあれこれ注文をつける。米国でも、Uberに全く問題がないわけではない。しかし、米国の精神は、「面白そうだからやっちゃえ」「新しいからやっちゃえ」「何か問題が起きたら、それはそれでそのとき考えよう」というものだ。石橋を叩くのではなく、橋が壊れたらちゃんと対応しようね、ということである。この差はとてつもなく大きい。
壊れる前に危機を回避するのか、壊れた時に善処するのか、日米のマインドは逆である。これは、両国の成り立ちにも起因しているのかもしれない。海に守られた島国として守り重視で成立し、300年も鎖国して独自の文化を確立した国と、欧州からやってきた移民によって、全部新しく開拓して行く必要があった国の違いである。
日本が今のままを維持するのか、米国型に変えて行くのか、どちらを選ぶのかは、僕が決めることではなく、国民ひとりひとりが考えることだ。しかし、多分多くの国民は今のままで良いと思っているのだろう。
リスクを回避するための規制主義、前例主義は、決して悪いことではない。大きな問題は起きにくいし、既得権者たちの安定は維持される。高度成長期とバブル期にできた鉄道や道路や立派な建物が壊れるまでは、便利な生活を楽しめるはずだ。
一方でのリスク回避の帰結が、今の沈滞した日本社会である。バブル期までと決定的に違うのは世界のボーダーレス化と技術革新のスピードである。日本社会の慣習は、これらと非常に相性が悪い。世界の変化のスピードについていけなくなり、競争力を喪失し、活力のある次世代産業が育ちにくい。しかし、今の日本は大量の既得権者が逃げ切りを狙っている社会で、大きな変革が起きる可能性は低いだろう。
米国で暮らして、米国の先端技術の現場を見ていても、米国の社会が極度に先端的という印象はない。例えばNIHの研究室を見ていても、使っている機器はおんぼろである。東大や理研の方が良い機器を使っていると思う。じゃぁ、米国人が働き者かといえば、そんなこともない。ここも、むしろ日本人の方が勤勉である。アジア人が米国にやってくると大抵活躍してしまうのは、東洋人が勤勉だからだろう。それでも日本が米国に太刀打ちできないのは、リスクに対するマインドぐらいしか思い当たらないのだ。
若い人たちに言えるのは、「能力があるなら、さっさと日本から出て行け」ということだ。日本にいても明るい未来は期待できない。日本に引き止められるかもしれないが、それらは大抵、「これまで一緒にやってきたんだから、一緒に沈もうぜ。死ぬ時は一緒に死のうぜ」という、脱出するすべのない人たちの声である。
日本にも、海外に誇るものはある。治安、食文化は世界有数だし、老後の医療費も安い。だから、海外でやるだけやって、疲れたら日本に戻って来れば良いのである。もちろん、海外の方が居心地が良ければ、そのまま海外で暮らしても良い。ときどき日本へ戻ってきても、その交通費は大したことはない。例えばDCー成田間は往復で8〜12万円程度である。
日本は、先進国であることを放棄して、平穏な暮らしを手に入れた。大きな破綻が起きるまで、このままに違いない。ちょうど、東京の下町でひっそりと閉鎖して行く町工場のように、ゆっくりと衰退して行くのだろう。