2005年11月17日

モラルをベースにした不毛な議論

世の中には色々な議論があるわけで、その目的や質は様々である。
基本的には議論は「何らかの結論に行き着くための方法」のはずだが、例えば朝まで生テレビのように結論を出すことが目的ではなく、様々なスタンスが存在することを提示することが目的の場合もある。実のところ、世の中のあちこちで繰り広げられる議論というのはこちらの方が多かったりする。なぜなら、ある一つの事象をどう捉えるかというのは、それを捉える人間の背後に存在する山ほどの経験をもとに導かれているもので、たかだか数時間の議論によってその考えが変わるものではないからだ。

ただ、会社の経営方針を決めるといった議論の場合、もちろん議論のための議論を繰り返していたのでは話にならない。「結論を出すための議論」をやるという共通認識の下に議論を進め、何らかの結論を導き出す必要がある。「結論を出す」というベースの共通認識がある場合、そこから離れた議論を展開する人間はレベルが低いということになるし、もし議論が拡散しつつあることに気がついた場合は全員の合意を以て議論の方向を修正する必要が生ずる。こうしたベクトルの修正が為されるため、基本的にこの手の議論はよっぽどのことがない限り結論に行き着く。もちろん、その結論が正しいかどうかは別の問題ではあるのだが。その場合、反対のスタンスの人間は議論を通じて自分の主張を変更するのかもしれないし、あるいは全体のバランスを考え、その場面では引いておくという判断を下すのかもしれない。とにかく、自己を主張しているだけでは組織は成立しないので、どこかで調整局面を迎えることになる。つまり結論を導くための議論は相手の考えを変えさせることではなく、表面上納得させ調整することである。

このような、参加者全員が共通認識を持っている場合の議論は非常に楽である。楽でないのは、それぞれがばらばらの目的のもとに議論している場合である。こうした議論の事例はネットの掲示板でも、あるいはブログ同士でも見ることができる。以前、その手の議論はブログ同士でどこまでできるのだろうか、と思い、討論用のブログを立ち上げたこともあるのだが、「まぁこんなものだろうな」と思ったあたりに落ち着いた。どんなところに着地したかというと、お互いが自分の意見を言うだけで、結果的に平行線で終るという、まぁこの十年くらい、ネットの中で山ほど繰り広げられてきた議論と同じところに着地した。お互いが「あいつはわかっちゃいねぇ」と考えておしまいである。この経験をもとにして企画したのが、このブログで展開している「ブログでバイオ」である。これは僕とmaruさんの二人が好き勝手に考えていることを書いているに過ぎない。お互いのフィルターを通して、バイオをどういう風に捉えているかを雑談しながら情報発信しているわけで、そこには特定の結論に行き着こうという目的は存在しない。どうせ結論に至らないのであれば、そんなことは最初から目的にせず、好き勝手に書いちゃえ、ということだ。これはブログを通じた意見交換の一つの典型例だと思う。

逆に言えば、もしネット内での議論で明確な結論に行き着こうと考える場合には、誰かが全体を俯瞰しコントロールする役割を果たす必要があると思う。全体に対して明確な目的を与え、そこからはみ出した場合には軌道修正する必要がある。その際、その水先案内人はある程度客観的に議論を俯瞰し、時に意見を言うことが理想であるが、そうした立場で議論を進めるのはなかなかに困難である。

例えば今、現在進行形で行われているBSE問題に関するブロガー新聞なども好例である。とりまわしを僕がやっているが、僕は米国産牛肉の輸入解禁に対して明確に反対の立場であり、間違っても中立な立場ではない。本来は双方のスタンスに理解をしめす人間が全体を統括することが望ましいが、実際にはこの問題に興味のある人間は必ず賛成、あるいは反対のスタンスに立たざるを得ず、結果的にどちらかに有利な状態で議論は進んでいくことになる。

かように難しいネット内での議論であるが、つい先ほども似たようなケースに遭遇した。テーマは、レストランで料理を撮影する際に店の人や周囲の人の了解を得るべきか。

この議論は実はもう10年近く前、ようやく40万画素ぐらいのデジカメが普及してきたころにラーメンMLの中で活発に行われたことがある。しかしながら、もちろん結論には至らない。個人の考え方によって、個人の責任で判断する、ということに落ち着かざるを得なかったわけである。シャッター音が気になる人もいるだろうし、気にならない人もいるだろう。ストロボが気になる人もいるだろうし、気にならない人もいるだろう。どこまで配慮するのか、これは社会環境を背景にしたマナーの問題である。

ちょっと補足すると、社会環境の背景というのは、要は社会が慣れているか、慣れていないか、ということである。以前はデジカメを持っていること自体が珍しく、また暗いところでアナログの写真を撮ろうと思えば大げさな道具が必要で、料理の写真を撮ること自体がそれなりに大仕事だった。ところが今は多少暗くてもストロボなしで撮影できるし、そもそもかなり高性能なデジカメがケータイに付属しているため、誰でもいつでも気軽に写真を撮れるようになった。要は、社会がデジカメに慣れてしまったわけだ。もちろん慣れたからといって盗撮をするとかの迷惑行為は論外だが、料理の写真を撮ることがそれと同列でないことは明白である。デジカメに対するアレルギーが現在進行形で軽減されていることを背景にしているので、料理を撮影することの是非を議論することは一層難易度を増している。

議論の方向性はやる前からはっきりしている。どこまでがマナーで、どこからがマナー違反か。こんなことに明確な線をひける人間がいたら見てみたいものである。居酒屋でみんなで飲んでいるときはOK、だれそれの結婚式でもOK、でも、フランス料理はNG、とか?酒が入ったらNGで入らなければOKとか?ワインはNGだけど、ビールはOKですか?立食パーティはOKだけど、座って食べているときはNG?一々ケースバイケースで考えなくちゃならないようでは、結論には至らない。

最終的には「情報発信をする立場、あるいは記録を保存したい立場からは写真があったほうが良い」というスタンスと、「料理を提供する立場、あるいは食べる立場からは撮影は迷惑だ」というスタンスの綱引きになる。これは個人の中でも存在する葛藤であって、良い店で本当に純粋に料理を楽しみたければ写真など撮影している場合ではなくなるわけだ。それには他の尺度もあって、例えば食事をしながらプロポーズしている最中に「あ、写真を撮らなくちゃ」とカメラを取り出す人はそうはいないだろう。このように、料理ではなく会話のほうに重点があるケースというのもままある。食事をする目的が会食者の親善のためだったりする場合、料理は主たる被写体ではなくなるが、やはりレストランの中でシャッターを押すこともあるかもしれない。では、それが適切であるかどうかをどうやって判断するか。つまるところ、食事をしている際に発生する様々なニーズのバランスがどこに傾くか、の問題である。

この議論はやる前から結論がでないことがわかっている。こうなると議論の場は単なる自己主張の場になる。「これはマナーだ。守るべきだ」「俺の勝手だ。金払って注文しているんだから撮影して何が悪い」みたいなものである。議論のための議論をやりたい場合、あるいはただ自己主張をしたい場合にはこういうのも良いかもしれない。また、様々なスタンスを出し合って、そういうことを考えたことのない人に選択肢を陳列するのも利があることだろう。ただ、個人的には、もう何度も議論したことでもあるし、また社会環境が徐々にデジカメ容認の方向へ徐々にシフトしている中で、何らかの意見を書くのは馬鹿らしいし、時間の無駄だともいえる。また、そもそもその場が議論にふさわしい場なのか、という問題もある。

不幸にして僕はその議論の真ん中に存在することになったので、僕は自分のスタンスを明示してそのコミュニティを抜けた。別に議論をしたいからそこにいたわけじゃないし、自分のスタンスに同調して欲しいわけでもない。さらに言えば結論がでないことがわかっている議論に参加することや、どこの誰ともわからない個人の価値観を押し付けられるのは真っ平ごめんである。相手の言い分が気に入らないとかではない。

議論というのは時と場所を選ぶべきで、その場にあった議論を展開することが重要だ。自らを強く主張したい種類の人間というのはそのあたりが理解できない。もちろんそうした種類の人にも正義はあるわけで、今回の場合は「自分の信じるマナーは社会一般で受け入れられるべき普遍的なマナーだ」という信念を貫き通すことである。まぁ、それはそれで構わないし、別にそれを制止する立場にもないのでどうでも良いといえばどうでも良いのだが、そういうコロニーの中に一緒にいることは好きではない。なぜかって、良識とか、常識とか、その手のものをタテにして持論を展開する人間との議論が面倒だからである。最終的に立脚するところが合理性とか、論理性ではなく、感情になるからだ。

食事中に写真を撮ることが「お行儀の悪いこと」であることは間違いない。お行儀最優先で考えれば答え一発。しかし、お行儀がすべてにおいて優先されるわけではない。仮にそのような一元的な考え方をこの手のネタに導入してしまったら、例えばネットで料理をまずいと評することはお行儀が悪いことになるし、それをよしとするならネットの口コミサイトなどというものは成立しなくなる。それとも、料理評を書くたびに事前に「ネットで料理評を書きますが構いませんか?」と了解を取っているのだろうか。勝手に推測させてもらって申し訳ないが、きっとそんなことはしていないだろう。

では、なぜ写真撮影はダメで料理評を書くのはマルなのか。これまた勝手に推測させてもらえば、「料理評価サイトに勝手に記事を書くのは構わないが、勝手に写真を撮るのは良くない」と発言する人間は、自分が当事者として「料理の写真を撮る」という行為によって不快な思いをしたか、あるいは当事者から不快な思いをした旨伝えられたからだと思われるし、一方で料理評価サイトに書き込みをするのであれば「まずい」と書かれても当事者として不快な思いをしたことも、当事者から不快な思いをした旨伝えられたこともないからだろう。そうした経験をもとに発言するのはもちろん勝手だが、その主張を押し付けられるのは不愉快だ。なぜかって、それは所詮個人の都合によるものであって、普遍的な価値観ではないのだから。

放送禁止用語をブログ上で使用するかどうか、という話に通じるところがあるが、この手の議論は基本的に「面倒くさい」し、議論してもお互いが不快になるだけで何も生産しない。だって、僕はおそらくいくら議論しても自分のスタンスを変えないし、おそらくは相手も変えないのだから。そもそも、変えて欲しいとも思っていないし。もちろんこういう議論をやることが好きな人種もいる。それ自体が個人のアイデンティティになっている人だ。それはそれで構わないのだが、少なくとも僕はそういう種類の人間ではない。

そういえば、もう何年も前にラーメンMLを抜けたときも、こんな話だったね。そのときも「なんじゃん桂なんて、名前を入れてからかうのは良くない」という、モラルの話だったような。基本的に、そういう話がキライなんだよね(^^; 田島陽子とか、ナベツネとかが嫌いなのと同じ理由で。田島陽子と議論するのが楽しくなさそうなのと同じ次元で、料理の写真を撮影することの是非について議論するのは楽しくない。

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この記事へのコメント
あくまで議論の目的が「何らかの結論に行き着くための方法」であるとするならば、「ある一つの事象をどう捉えるかというのは・・・たかだか数時間の議論によってその考えが変わるものではないからだ。」というのは議論の目的の放棄であろう。例えば「朝まで生テレビ」は議論の目的は放棄し、議論そのものをエンターテイメントとして鑑賞することを目的としていることは自明だ。実は文中で書かれている理由そのもので「議論の是非を議論することは不毛である」と結論付けられるはずなのに、それと同等の「議論論」に思わず明け方につき合わされ(つい読み入ってしまったのは私の罪なのだが)、反芻しながらループしてしまったのは、私が酔っ払っているせいであって、それを吐露したくなったのも、同じ理由であるということを表明させて頂いた上で、単にチャチャを入れている結果になっていることをわかった上で放置させていただきます。
Posted by り at 2005年11月19日 06:15
了解(笑)
Posted by buu* at 2005年11月21日 08:32
つ「法律学基礎論覚書」

http://www.yuhikaku.co.jp/bookhtml/008/008860.html

議論学としてよい。
Posted by DK at 2005年11月23日 23:55
内容をkwsk
Posted by buu* at 2005年11月24日 00:14
食べログスレから来ました。

もうmixiのコミュには復帰しないんですか?
Posted by 食いだおれ at 2005年11月25日 12:35
こんにちは。

今の環境では復帰する気はありません。

もともとミクシィの中でやることに意義があるか疑問でしたし、議論をする場としても適当ではないと思います。仮に議論をするのであれば、非公開にして参加資格を明確にすべきでしょうね。例えば「レビュー5本以上、食べログ内でのハンドルを明示」とか。コメント機能が本サイトにあるのにわざわざ別の場を作るのであれば、何らかの差別化が必要だと思います。

結論の出ない話は2ちゃんでやれば良いんじゃないですか?僕個人に対してはこのブログに書いてくれれば基本的に応じます。
Posted by buu* at 2005年11月25日 13:00