2006年08月23日

ダメなものはダメ

適切な政策というのは現実を直視するところからしか始まらない。ところが、現実ではないと多くの人が思っていても、それが容易に認められない場合がある。

非常に身近なところで例を挙げれば自衛隊である。憲法の解釈上軍隊ではないと規定されながら、事実上軍隊として機能し、日本人の代表として海外にまで派遣されている。命がけで働いている彼らを見るにつけ、護憲を訴える人達はなんて無責任なんだろうと思う。実際には憲法違反の存在でありながら、その解釈を色々と変えてしまうことによって、自分の都合の良いように考え、「こんな憲法を持っているなんて素晴らしい」と自己満足している。自分達は決して前線になど立たないのに、である。もちろん、「自衛隊は違憲だから解散すべし」というのは筋が通っている。自衛隊がなくなっても日本の安全は保障されるというのが国民的コンセンサスとなるのであれば、すぐにでもそれを実行すべきである。逆にそれができないのであれば、平和憲法などは完全な建前論になってしまうのだから、さっさと現状に沿ったものに改憲すべきだと思う。そうやって、まず自衛隊が軍隊であるということを認定しなければ、適切な政策を立案していくことはできないと思う。

さて、この自衛隊と似たような性質の問題がある。それは、「人間は誰にでも一つぐらいはとりえがあるものだ」というもの。これって本当ですか?どんなことも人並み以下にしかできない人って本当にいないんですか?僕はいると思う。何のとりえもない人が。でも、もちろんそういう人の基本的人権が無視されてはいけないと思う。

ところが、「どんな人も何かしらとりえがあるものだ」と考えた時点で、「何のとりえもない人」というのは存在しないことになる。存在しない人の基本的人権などは考える必要がないから、そのための政策も不要になる。本当にそれで良いのかな。っていうか、そもそも本当にみんな「誰でも何かしらのとりえがあるものだ」と思っているのだろうか。

世の中には、とりえがなくてもできる仕事が一杯あるし、もしないのならそれを前提とした雇用体系を構築すれば良いだけ。たとえばニューヨークには、ものすごく大勢の単純作業労働者がいる。日本で考えてしまうと「こんなことは機械化しちゃえばあっという間なのに」と思うようなことでも、人間が黙々とそれをこなしているのを見てきた。恐らく、「何のとりえがない人でも毎日パンが食べられて、神様に感謝できるようにする必要がある」と皆が考えているんじゃないだろうか。その方が犯罪発生率も落ちて、皆が安心して暮らすことができる、という「落しどころ」を見つけたんだと思う。

でも、日本では「みんなが何かしらとりえがあって」「みんなが中流の生活を送れる」ということになっている。このあたりのゆがみがそろそろ表面化してもおかしくない。

昨日の朝日新聞は「心の病 30代社員急増」というのが一面記事。原因の一つとして「成果主義」が挙げられているが、確かにそういう側面もあると思う。しかし、成果主義が悪いのではない。悪いのは、成果主義を不必要な人にまで適用してしまった企業と、多くの人に適用しても問題ないと考えさせてしまった社会である。

誰もが競争社会の中で生きられるわけではないのは自明だ。のんびりと与えられたことだけをやって楽しく暮らしていくことを希望している人は決して少なくないと思う。仕事だけが人生ではない。「仕事で大きな成果を挙げて、将来は管理職となり、会社に貢献する人間こそが素晴らしい」と、人生に対する価値観を画一的に決め付けてしまうところが日本社会の悪いところではないか。企業が成長していくためには競争は間違いなく必要だし、そのためには成果主義は非常に合理的である。ならば、少数の会社の成長を担う人間だけにそのシステムを割り当てれば良いだけの話ではないのか。結果として成果主義で働く人間の給料は高くなるだろうが、別に、給料が高いからと言ってその人間だけが幸せな人生を過ごすとは限らない。その陰で、分不相応な成果主義を押し付けられて心の病になってしまう人がたくさんいるとしたら、社会としては不健全だと思う。

今僕は「日本のバイオベンチャーの社長は年寄りばかりでおかしい」という問題提起をしている。そして、この状況を改善するための方策をいくつか考え、実行つつある。しかし、その一方で「社長人材なんて、育成しようと思って育成できるものではない」とも思っている。一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、実際は僕の中ではきちんと整理ができている。何をしようとしているかといえば、能力があり、熱意があり、魅力のある人間であるにも関わらず、何らかの障害によって飛躍できないでいる人を見つけてきて、その障害をなるべく取り払ってあげるようなことをしたいと思っている。もちろん対象は誰でも良いわけではない。「能力があり、熱意があり、魅力のある人間」というのは大きなハードルで、ちょっとやそっとでは見つからないかもしれない。

僕の視点は、「社長をやりたいと思っている人間はいる。少なくとも、やりたいと思っていない人間にやらせてもうまくはいかないので、やりたいと思っている人間の中から候補人材を探す必要がある。ただし、やりたいと思っていれば誰でも良いのではない。逆に、やれる人間は非常に限られている」というもの。その限られた人材を見つけ出し、その人達だけにチャンスを与えれば十分だと思う。日本の政策は不自然な「平等主義」に立脚することが多いが、今は「ダメなものはダメ」と切り捨てることこそが重要だと思う。才能のない奴にいくら情報とチャンスを与えても、良い社長にはなれないんだよ、ということ。

例えば、努力次第で「誰もがイチローのようになれる」とか、「誰もが中田のようになれる」とか、「誰もが北島のようになれる」とか、思ってませんよね。でも、これってスポーツだけの話じゃないですよ。ビジネスマンだって一緒。誰だって努力次第で偉くなれるわけじゃないです。ところが、これまでの日本社会は年功序列で、誰でも失敗しなければそれなりに偉くなれてしまったものだから、みんな偉くなれないとダメな奴だと勘違いするみたい。もう世の中はそういう時代ではなくなってしまったということを認識しないと。

僕達の世代から見ると「馬鹿だよなぁ」と鼻で笑ってしまうような話として、小学生の徒競走で順位をつけないという奴がある。なんだそれ、って感じですね。足が速い奴もいれば遅い奴もいる。足が速いことで評価される人間なんてほんの一握りなんだから、それで良いじゃん。1位とビリは厳然として存在するはず。「うちの子供がビリになったらかわいそうだから」って思うんですかね?で、そうやって過保護に育てて、社会に出たらいきなり競争にさらされて、「君は能力がないから就職できません」とか言われちゃうわけですか?競争は子供の頃から存在するのに、それをあたかもないように偽っているだけじゃん。それをもって良い教育というのか、甚だ疑問。

まずは現実を直視しろ、と。競争はいつでもある。凄く良い思いができるのはほんの一握りだから、もしそれを目指すならきちんと努力しろ、と。それで、努力してもダメなら、そりゃ才能がないのか、運がないのか、努力のやり方が間違っていたのか、まぁ理由はいろいろだろうけど、仕方ないね、と。こういうこと。ダメなものはダメ。

でもね、少数の天才、秀才、勤勉な人に引っ張ってもらって、のんびりと暮らすのって、格好悪いんですかね?何にもとりえがないのって、やっぱ嫌ですか?言われたことだけやっておけば良いって、凄く楽だと思うのですが・・・・。

もし、普通より下とか、平均より下になることに対して恐怖感を持つのであれば、その社会自体がおかしいんじゃないかなぁ。全部が平均なんて、あり得ないんだから。人の中の自分を相対的に見るんじゃなくて、自分の価値観で自分の位置を見ろ、と。

元プータローとしてこう思います。

それでまとめですけど、何が言いたいかというと、「こうだったら良いな」と主観を交えて見るのではなく、また認めたくないことから目をそらすでもなく、きちんと客観的にあるがままに見て受け入れろ、ということ。

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