2006年10月09日

臓器移植に関して思うこと

地獄の沙汰も金次第とは良く言ったものである。

腎臓移植でお金をもらったかどうかが大きな問題になっているが、どうも腑に落ちない。なぜ臓器を売買してはいけないのか。この理由が今ひとつ良くわからないからである。多分に宗教にかかわりのあることなので、この件に関してはキリスト教国、イスラム教国などと日本とを単純に比較することはできないと思う。仏教国ならではの独自の倫理観で考えていく必要があるのだろう。

臓器移植とは若干毛色が異なるのかもしれないが、似たようなものとして献血がある。今、日本では売血が禁止されているが、実はこうなったのはそれほど昔のことではない。禁止されたのは40年ほど前のことである。なぜ禁止されたのかといえば、血液の供給者が社会的地位の低い人が多く、それらが感染していた病気の病原体を血液からきちんと取り除くことが出来なかったことから、その品質に問題が生じたからだったと聞く。当時は肝炎など血液を介して感染する疾病の原因がはっきりしていなかったこともあり、売血をハブとして輸血後の肝炎が頻発してしまうという状況があったようだ。

もちろん今でも血液を介して感染するウイルス性疾患は根絶されておらず、B型肝炎、AIDSなど、感染後のその人の人生を大きく変えてしまうようなものも少なくない。また、未知のウイルスが売血を感染源として蔓延してしまうリスクも存在する。血液を提供する、という行為に経済的意思が混入したとたん、流通する血液のクオリティが下がってしまう可能性があるという状況は今でもそれほど変化がないのかもしれない。

ただ、そのリスクは現在の科学技術によって40年前とは比べ物にならないほど軽減できるようになっているのもまた事実である。危険な血液のスクリーニングは人物のフェイズでも可能だし、血液のフェイズでも可能だ。人物の特定は双子などの特別なケースを除いてほぼ100%の確度で可能になった。したがって、「3ヶ月に1度を限度」というルールを設定すれば、それはほぼ100%守ることができる(もちろん、人為的な不正が働けば話は別である)。また、採取した血液の安全性も既知の病原体であればほとんどのケースで検出可能だろう。

つまり、血液提供者の健康上の安全性(病気に罹患していないかとか)を確認し、提供者としての人道的安全性(短期間に何度も提供していないかとか)を確認し、さらに血液そのものの安全性(ウイルスの混在など)を確認するということが、以前に比較してかなり厳密に実施できるようになったということだ。

こういった状況で、街中を歩いていて「今日はO型の血液が不足しています」などとプレートを持って献血をお願いしている人を見ると、「今日の血液の価格 A型:1000円、B型:2000円、O型:1500円、AB型:2300円、RH−の方はそれぞれ1万円アップ」などとやれば良いのになぁ、などと思ってしまうのである。今の献血に関するルールはやや時代遅れな背景をそのままに踏襲していて、そろそろ見直したほうが良いというのが僕の私見である。

さて、それで、臓器移植に話を戻してみる。なぜ臓器を売ってしまってはいけないか。今の臓器の移植に関する法律(平成9年7月16日)には次のような基本的理念が記述されている。

(基本的理念)
第二条  死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない。
2  移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない。
3  臓器の移植は、移植術に使用されるための臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ、移植術を必要とする者に対して適切に行われなければならない。
4  移植術を必要とする者に係る移植術を受ける機会は、公平に与えられるよう配慮されなければならない。


また、臓器売買の禁止についてはこんな記述である。

(臓器売買等の禁止)
第十一条  何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない。
2  何人も、移植術に使用されるための臓器の提供を受けること若しくは受けたことの対価として財産上の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない。
3  何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくはその提供を受けることのあっせんをすること若しくはあっせんをしたことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない。
4  何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくはその提供を受けることのあっせんを受けること若しくはあっせんを受けたことの対価として財産上の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない。
5  何人も、臓器が前各項の規定のいずれかに違反する行為に係るものであることを知って、当該臓器を摘出し、又は移植術に使用してはならない。
6  第一項から第四項までの対価には、交通、通信、移植術に使用されるための臓器の摘出、保存若しくは移送又は移植術等に要する費用であって、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくはその提供を受けること又はそれらのあっせんをすることに関して通常必要であると認められるものは、含まれない。


正直、この法律の理念は法律の文面だけを読んでいると良くわからないのだが、要は「臓器の提供は人道的な配慮という崇高な意思の元に行われるべきで、そこに経済原理を介在させるべきではない」ということなのだろう。人間の体というのは部品でもなければ商品でもない、という潜在意識が多くの人の中で共有されているのかもしれない。

しかし、そうはいっても臓器は着実に商品に近づいている。ここ数年の間に数回、「日本では移植が不可能なので海外でやります。そのためにはお金が必要です。募金をお願いします」という話を耳にした気がする。具体的に死に至ろうとしている生命を目の前にすれば、多くの人は冷静ではいられなくなる。その延長線上にあるのが臓器の商品化(臓器そのものではないとしても、移植自体に数千万円の費用が必要であれば、結果的には「臓器移植」という行為そのものが商品化されている)であろうとも、そこに善意を注ごうとする。

こうした話においては「金さえ払えば臓器移植が可能になる」ケースがあるという事実そのものの是非は特に問題にならないようだ。しかし、募金をして海外で移植するのは美談かもしれないが、「日本人は海外で臓器を買いあさっている」などと後ろ指を差されてしまう可能性もある。なぜなら、日本から大金を払って海外で臓器移植している影でお金がなくて臓器移植ができない地元の人がいるかもしれないのだから。

10年ほど前にインドが腎臓移植のメッカとして指摘した記事を読んだことがあるのだが、今でもフィリピン、中国などでは腎臓の売買が盛んなようだ。現実問題として死と隣り合わせになっていれば、「臓器移植は無償で提供しようという善意によってしか行われない」などとは言っていられないのだと思う。

結果として、どういうことが起きるのかといえば、「凄いお金持ちは海外で腎臓移植手術を受けることが出来る」という現状を生み出すのである。庶民感覚からすると、「凄いお金持ちは良いなぁ。おれは貧乏だから死ぬしかないなぁ」で諦めがつく、ということか。これが国内での臓器売買が許可されると話が変わってくる。「あの人はちょっとお金持ちだから臓器移植ができる。でもおれは貧乏だから死ぬしかない」ということになる。閾値が凄く高いところにあれば諦めがつくが、それが目前になってしまうと「それは納得ができない」ということなんだろうか。つまりは「凄い」と「ちょっと」の違い。

以前、「ダメなものはダメ」というエントリーで「「こうだったら良いな」と主観を交えて見るのではなく、また認めたくないことから目をそらすでもなく、きちんと客観的にあるがままに見て受け入れろ」と書いたけれども、この件も同じ。法律の存在によって、助かるはずの命が助からないケースもある。大金を使うことによって日本では助からない命が海外で助かることもある。

では、その上でどうしたら良いのか。今のままが良いのかもしれないし、日本人は死んだら基本的に全員臓器提供者とならなくてはならないという新しいルールを作り、その上で臓器を安く提供するのが良いのかもしれないし、市場経済に任せて売買可能にするのが良いのかもしれない。どれを選ぶにしても、まず多くの人がこの件に関して知識を身につけ、その上で民主的に国の姿勢を決めるべきだろう。何にしても、「無事手術を受けられたらしいよ、良かったね」とか、「臓器をお金でやり取りするなんてけしからん」で終わらせるのではまずいんじゃないかと。みんなが「わかんないから専門家に任せておけ」という姿勢だったから今の官僚社会がある。「公務員改革が必要」と論じるためにはまず生活者自身が自分の姿勢を改めて、脱官僚を図れるような社会を構築する必要がある。

僕?とりあえず、臓器提供意思表示カードはいつも持ち歩いてます。死んだらオシマイだからね。どうせ焼かれちゃうなら、役に立ててもらった方が良い。

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この記事へのコメント
意思表示カードは持って歩いてます。ただし「移植拒否」で。
ま、理由は個人的なものなので議論する気はありません。

(ブウさんの)議論の全部を理解してはいないんだけど、クローンを忌避するのがよくわかりません。本人の臓器から、欠陥を取り除いた臓器をクローン培養して移植すれば良いだけのように思います(霊長類のクローンが国際合意としてどんな形であれやっちゃいけないことになってるのは理解しています)。
脳死移植を待つ、なんてのは「誰かが死ぬことを望んでいる」ということなので、人道上大きな問題なんじゃないかと昔から思っていますが、それについてどのような舞台であれ議論しているのを見たことはありません。ちょっと残念。ヒトはほっとけば死ぬから、それでいいのかな?
Posted by e- at 2006年10月10日 01:03
クローンについてはまた別の話だから、そのうち機会があれば。

普通にオーダメイドの臓器を作れるようにはなると思いますが、そのときもやはり「お金持ちはスペアの腎臓や肝臓を作れます」ということになると思います。

格差があるのなんて当たり前。今だってお金持ちはPETとか使って健康診断して、がんを早期に発見できたりするんです。そうなりたかったら努力してお金持ちになれば良いだけの話。努力してもお金持ちになれなかったら、それはやり方が間違っていたか運がなかったか。貧乏人の家に生まれたのも運がないことの一つです。

ちなみに僕も普通に育英会の第一種の奨学金をもらえるような家庭の育ちですが、それを残念に思ったことはありません。お金の価値が良くわからないうちに250万円も借りてしまったことは残念ですが(^^;
Posted by buu* at 2006年10月10日 13:47
ヨッパライで書いたんで、支離滅裂でした。失礼_(o)_

お金持ちのためのオプションにしかならないかな…残念。
Posted by e- at 2006年10月10日 15:55
>お金持ちのためのオプションにしかならないかな…残念。

まぁ、時間が経てば当然廉価版ができるでしょうから、100年ぐらい経てば誰でも出来るようになっているかもしれませんね。

資本主義社会ですから、お金持ちが色々な面で有利なのは当たり前です。

僕は日本人が金持ちを嫌うのが良くわかりません。

松井だって、イチローだって、中田だって、みんなものすごい金持ちですが、彼らのことを「金持ちだから嫌い」という人はあまりいません。こちらの理由も良くわかりません。経済人だって、たたき上げで金持ちになるためには相応の努力をしているはずです。
Posted by buu* at 2006年10月11日 13:17
>金持ちを嫌うのがわかりません

まったく同意です。
それが世に受け入れられない努力なら、やがて検察なりなんなりの調査のメスが入るはずです(国策捜査という闇があるにせよ)。
正当な努力は正当に報いられるべきとは思います。が、懲罰的な税金はどうよ、と思うのもまた一つ(笑)

仕事の量をセーブするか、脱税(逸税)するかを選ばなくちゃならないというのはいかがなものでしょうね。この国の問題の一つだと思います。
Posted by e- at 2006年10月12日 00:31