2007年04月16日

将棋界の今後 その3「今の将棋界」

さて、そういった将棋のプロ達をとりまく環境は近年、徐々に変わってきているようだ。勝負師から事業主、被雇用者という色合いが濃くなってきている気がする。「勝負の世界」と、世の中から隔離されたところでは存在しえず、徐々に社会システムに収容されつつあると思う。また、そうした中で棋士たちは自分の存在をアピールする必要も出てきている。多くの棋士達が自らのブログを設置して情報発信し始めていることからも、環境の変化が窺い知れる。そして、社会からの注目は勝負の行方だけではなく、連盟組織へも拡大しつつある。最近では、女流棋士の独立問題が新聞などにも掲載されている。勝負をやっていれば良いという世界ではなくなりつつあるのが将棋界である。ただ、もちろん、それは全ての棋士に当てはまるわけではない。羽生、森内、佐藤といった現在棋界を牽引しているメンバーは相変わらず勝負の世界に没頭しているようだし、それは本人も回りも歓迎しているところがあるのだと思う。「周囲の雑音に惑わされず、将棋道を極めて欲しい」という思いがその背景にはあって、僕もそれで良いのではないかと思う。要は、役割分担である。

注目度が高まりつつある将棋界なのだが、肝心の日本将棋連盟の運営は上にも書いたように経営の素人が当たっている実際がある。件の女流棋士の独立問題においては日本将棋連盟側(主に米長理事長)、独立を希望している女流棋士、独立を希望しない女流棋士のそれぞれがブログや日記などでその心情などを吐露している(一部はすでに削除されている)のだが、中にはそうやってオープンにするのはちょっといかがなものかと思われるものがある。また、最近は内部の文書なども公開されてしまうことがあるのだが、連盟が独立を希望する女流棋士に送った文書などは連盟の二枚舌外交を自ら晒すようなものとなっていて、「この組織は組織として成り立っているのだろうか」と疑問に思うことすらある。

そうした中、では我々一般の将棋愛好家は将棋のプロ達に何を求めているのだろう。世界のあらゆる分野で価値観が多様化しつつあるのは誰もが認めるところだと思うのだが、もちろん将棋界であってもそれは例外ではない。トップ棋士が作り上げる棋譜、将棋というゲームの普及、日本将棋連盟の円滑な組織運営・・・、プロ棋士に求められているものは色々だろう。もっとも典型的なものは最高レベルの人間が作り上げる棋譜であることは間違いないが、それだけではなくなってきていることも間違いない。

そして、その一つの典型例が女流棋士の存在でもあると思う。こういっては失礼かもしれないが、彼女達が作り上げる棋譜は、やはり男性棋士が作り上げるものに比較するとレベルが落ちてしまう。例えば男性棋士による名人戦の解説などを聞いていると、他の棋士がたくさん集まってああでもない、こうでもないと検討を重ねても、その予想通りに局面が進むことは稀で、逆に予想通り進んでしまうと優劣がはっきりしているという状態であることが多い。最終的には「やはり指している当事者達が一番良く読んでいますね」という結論に行き着く。一方、女流の将棋の場合は男性棋士の検討どおりに進まない場合、それは悪手である場合が少なくない。「この手はちょっとどうかと思いますね。疑問手です」とその場で評価が下されてしまったりするのである。そして、その手を境に棋勢は一気に傾いてしまったりする。つまり、彼女達女流棋士に今求められているのは、「人間として最高峰の棋譜を作り上げること」ではない。

では、それはなんなのか。以前、女流棋士の一部が歌を歌ってCDを出したりしていた時期もあった。また、将棋教室を開いてみたり、最近では沖縄のビーチで将棋を指そう、なんていう企画も立てていたようである(この企画はなぜかポシャッてしまったようだが)。実は当の女流棋士自身もそれを模索しているのかも知れない。

ただ、ここで一つ言えるのは、キーワードとして「コミュニケーション」が将棋界において大きな役割を果たすだろうということで、棋士がブログを始めたりしているのもその顕在化の例だと思う。コミュニケーションという部分では女流棋士は明らかに男性棋士よりも優れた面があると思うのだが、このことについてはまたあとで触れたいと思う。

3

コンピュータ対竜王
これまでの将棋界
今の将棋界←今ココ
ソフト優位後の将棋界
将棋というゲームの変質
プロ棋士の価値
パラダイムシフト
日本将棋連盟理事会の構造的特徴
活路はコミュニケーション要素か?

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