2007年04月16日

将棋界の今後 その5「将棋というゲームの変質」

ソフトの登場によってゲームの質が変わってしまった例は恐らく将棋が最初ではない。オセロはすでにコンピュータが優位だし、チェスもコンピュータと人間のトップはほぼ同程度の実力を持つ。そうした中でオセロやチェスはどういうものとして人間に受け止められているのか。そのあたりを俯瞰してみると、将棋が今後どうなっていくのかという疑問に対しての一つの答えが見つかるはずだ。しかし、残念ながら僕はオセロやチェスの世界について全く知らない。チェスについては将棋と同じように(あるいはそれはチェスの世界から将棋に移植されたのかもしれないが、まぁどちらが先でも良い)レーティング制度があって、強さを数値化していることとか、世界大会を含め各種大会が実施されていることとか、時々世界チャンピオン対コンピュータの勝負が行われていることとか、プロがいることとかは知っているのだけれども、それ以上突っ込んだところを知らないのである。なので、非常に重要な判断ファクターを持たないままに、個人的な予想をいくつか列挙してみる。

まず、ソフトの手のひらの中でやる勝負事になるので、いわば広い広場でやっていた野球からドームの中でやる野球へと変質することになる。あるいは、無限に広がる大宇宙から地球上だけに移動が制限される、みたいな感覚かもしれない。ただ、それは「無限に広がる大宇宙」から「45坪の一軒家」ほどの大きな変化はないはずだ。ある程度の自由度と広さは確保されている。しかし、その気になれば詳細なガイド(=ソフト)によって必要以上に解説、種明かしすることが可能でもある。人間が棋譜という形で表現するものは、コンピュータがLSIの中の電気信号として何度も繰り返した道のりの一つを選ぶに過ぎない。それが棋譜という形で残されているか、いないかの差はあるものの、全くの未踏の地ではなく、コンピュータがサーベイした可能性の一つを辿っていることになる。

それから、場合によってはゲーム自体に「先手が必敗」「後手が必敗」「最善手を指し続ければ必ず千日手」などの結論が出るかもしれない。チェスなどは最高峰の戦いを通じてかなりの頻度で引き分けが発生することがわかってきているが、将棋も同様にその結論が事前にわかってしまう可能性がある。ここがマージャンと趣を異にするところで、マージャンには偶然という要素があるが、将棋にはそれがない。したがって、ゲーム自体に「最善手を続ければどうなるか」の結論が出てしまう可能性がある。こうなってしまうと、勝負ごととしての要素が大きく損なわれてしまい、仲間内の知恵比べの場となってしまう可能性が大きい。

こうやって、「その後の世界」がやってきてしまったとき、トッププロの世界はどうなってしまうのか。まず、純粋に「良い棋譜」を作ることはできなくなるはずだ。ただ、「面白い」とか、「個性的」というのはまた別の話である。今でも、将棋にはときどき興味深い戦法が現れる。少し前なら8五飛車戦法。普通の感覚では8四の位置に配置する飛車を、8五にしたことによって、将棋の戦法が大きく変貌した。大勢の棋士が片っ端から可能性を求め、検討を重ねた結果、「どうやらこの戦法は難しい」という結論まででてしまったのだが、一大ブームが巻き起こったのは間違いない。今ではゴキゲン中飛車と呼ばれる戦法が一つのブームであるし、一手損角換りといった戦法も目新しい。ここは将棋の戦法について突っ込む場ではないので詳細は述べないが、どれもこれも「常識的に言ってこれはないよな」と思われていた盲点を突いた作戦である。8五飛車戦法などは詳細に調べられた結果、「どうも無理っぽい」という結論になってしまったので、恐らくソフトがこの作戦を率先して採用することはない。効率や強さだけを重視するのではなく、知的なゲームの面白さという要素があってこそ、世の中に出てきた戦法とも言える。そして、これが「その後の世界」の一つのあり方になるのだろう。換言すれば、ソフトが人間より強くなった世界でのトッププロのつくる棋譜は、芸術の領域に入ってくるのかもしれない。限られた大きさのキャンバス(将棋盤)、限られた数の絵の具(駒)を用いて表現する自分の世界、といったものである。

こうした芸術面にも注目すれば、トップ棋士の存在価値はもちろん無視できない。しかし、同時に将棋という文化の普及活動やそれを下支えする日本将棋連盟という組織の運営に比重が大きくなっていくのは仕方がないところだろう。その結果、「飯の種」としてのパイは激減する可能性が大きいと思う。そして、この「その後の世界」の到来は、「良い棋譜」をつくることに注力しているプロ棋士にとって死活問題でもある。逆に言えば、現在普及面での貢献が大きいかもしれない女流棋士の方が、将来性は大きいのかもしれない。

ただ、そうは言ってもパイの総量は減少傾向に向かうのは間違いない。どこに出口を求めるのかは今後数年の大きな課題となるだろうし、将棋界というものが今の小学生、中学生にとって魅力的なものになるのかならないかの瀬戸際でもある。個人的な予想を書かせてもらえば、将棋界の将来は今の小中学生にとっては決して魅力的なものではなくなりつつあると思う。今の体制を維持するのであれば、現存する男性棋士、女流棋士を食べさせていくだけの収入は見込めないと思う。

そうした中で、日本将棋連盟は「将棋倶楽部24」というウェブサイト(ネット将棋を指せるシステム。これによって日本中の誰もが好きなときに自分のレベルにあった相手と将棋を指せるようになった)を購入した。これはなかなかの慧眼だと思う。「場の提供」というのは決して悪くないし、収入源としてもポテンシャルが高い。このサイトが市民権を得たところで「利用料をいただきます。月額100円です」とした場合、利用者の反発は買うものの、結局のところ収入増にはつながるはずである。まず無料でサービスを提供し、ライバルを淘汰し、利用者が離れないと確信したところで有料化する、という手段はYahoo!オークションの成功例を挙げるまでもなく、一つの常套手段である。ただ、問題なのはそれを日本将棋連盟がやっている必然性がなくなってくることだ。例えばGoogleが「この将棋サイトは面白いね。買ってしまおう」と触手を伸ばした場合、それに対抗する組織力があるのか、というのが一つ。そして、連盟がそれを断ったとき、Googleがそれを独自に開発してしまったらどうするのか、という問題もある。単純に開発力だけを見ればGoogleの方が数枚上手である。恐らくその気になれば、長く見積もっても一ヶ月で将棋倶楽部24と同等のシステムを作り上げることが可能なはずである。Googleが巨大な資本力をベースに対抗してこないのは、現在の24が無料だからだ。Googleに限らないが、有料化された時点でその商業性に目をつけ、ターゲットとされる可能性は決して小さくない。その時、日本将棋連盟は恐らく対抗する手段を持たない。

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パラダイムシフト
日本将棋連盟理事会の構造的特徴
活路はコミュニケーション要素か?

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