2007年05月25日

中村桂子さんからのコメントとそれに対する返答

なんとなく書いたエントリーが結構あちこちで取り上げられ、とうとう中村桂子さん本人からもコメントをいただいた(多分、ご本人)。エントリーのコメント欄でももちろん読むことができるのだが、何はともあれまずこちらに転記しておく。

元木様

 「私の視点」への御意見ありがとうございました。細かなプロセスを書いていただきそこが問題と思いました。またいろいろお教え下さい。1200字しかないので、細かいことが書けなかったのですが、要は、“プロジェクト”は目的が明確であり(必要性)、しかも科学としての必然性があるものでなければいけないと思うということが言いたかったのです。

 そもそもヒトゲノム解析は、1986年のダルベコによる“がんを知り、その知識を治療につなげるにはどうしても必要”という提案から始まりました。ですから解析が終った後にやるべきは、その成果を“がん研究”(これは予防、診断、治療を含む)につなげるにはどうするかというテーマになるわけです。そこで“遺伝子とがん”について徹底的に調べ・・・以降は新聞に書いたようになっています。この間のプロセスが透明で、科学として納得ができ、使うお金も妥当であり、プロジェクトとはこのように進めるべきものであるということを教えられるものになっています。科学として連続性があり、そこに関わっている人々がその分野について最もふさわしいと思われる専門家であり、その判断が開いた形で行なわれているからです。なぜ日本ではこれができないのか。私の最大の問いはこれです。

 もう一つ、米国と日本のプロジェクト推進の過程を見て感じるのは、米国ではこれだけ難しいテーマが解決可能だろうか、これだけの資金をかけてそれに見合う成果が出るだろうかという問いが常にあるということです。くじけそうになるけれど挑戦しなければならないという気持が見えるのです。一方日本の場合は“これで何でもできる”という言い方しかありません。たとえばオーダーメイド医療がそうです。途中のプロセスは何も見せずにSNIPsを解析すれば、すべての病気に個人対応ができるかのように言う。これは科学ではありません。米国が“がん研究”で示しているようなプロセスを考えなければ、研究ではないと思うのに、なぜ一流の研究者にそんなことができるのか。それが私のもう一つの問いです。

 以上二つ、プロジェクトと言えども“科学”であることを忘れないで欲しいと思うのです。大量のデータを出せば答が出るという意見があります。和田昭允先生がデータドリブン生物学だとおっしゃいます。確かに今の科学は大量のデータが必要です。これについても米国のプロジェクトの中に答が書いてあります。“どうしても大量のデータを出さなければならない。しかし、山のようにデータがあるだけでは意味がない。発がんのメカニズムがわかってもそれが治療につながらなければ価値がないのだ。” とにかく日本のプロジェクト関係者はこの米国のプロジェクトの立て方に学んで欲しいと思います。

中村桂子


まず最初に思うのは、このブログなんて僕がその場その場で思ったことを書き散らしているだけのしょぼいサイトなわけだけど、時々こうやって有意義(と僕が勝手に思っているだけだけど)な意見交換ができたりして、しかもそれがメール交換という個人的なやり取りではない形でできて、「あぁ、良い世の中になった」ということである。新聞の紙面では絶対に不可能なことであり、また、新聞という制限のあるフィールドからブログという事実上無制限の場に意見交換の場を転換できることが素晴らしいと思う。

さて、次に一つ書いておきたいことがある。それは「中村桂子さん自身も過去に勝ち組の一人だったのではないか」とか、「21世紀COEプログラムの現役委員なのだから、その場で発言したらどうか」と言った指摘に対して僕がどういうスタンスなのか、ということである。

実際、中村桂子さんは多くのナショプロの開始にあたって色々と意見を言うことができる立場だったのではないかと想像するし、また、そういった場で意見を言ってきている可能性は決して少なくないと思う。ただ、中村桂子さんがどういう発言をしてきたのか、このあたりについては僕は議事録をチェックしたりとか、そういったことまでする気はあまりない。というのは、これまでの中村桂子さんの活動内容というのは、あくまでも付帯状況であり、物事の本質とは関係のないことだと考えるからである。

今の日本の科学行政が正しいのか、正しくないのか、を論じる際、中村桂子さんというひとりの科学者の発言内容や姿勢と、今回の発言とのあいだに乖離があったとしても、僕の興味はそこにはない。また、実際に乖離があったとしても、「中村桂子さんにはそんな発言をする権利はない」などと言う気も毛頭ない。これまでの行動と現在の意見とに齟齬が生じているのであれば、それは中村桂子さん個人の中で何らかの処理をすれば良い話だ、というのが僕の考えである。もっと言ってしまえば、この問題については中村桂子さんだけではなく、納税者であり選挙権を持つ国民一人ひとりも当事者であり、利害関係者であり、中立な立場にはない。誰もが中立な立場でものごとを論じることができない以上、各人がどういうスタンスに立っているのかについては目をつぶっておくことが有意義な結論に到達する最も有効な方法だと思う。

さて、前置きが長くなったが、中村桂子さんのコメントについて僕なりに返答したいと思う。

科学として連続性があり、そこに関わっている人々がその分野について最もふさわしいと思われる専門家であり、その判断が開いた形で行なわれているからです。なぜ日本ではこれができないのか。私の最大の問いはこれです。


僕が比較的良く知っているところについて例を書きます。

理研でマウスcDNAエンサイクロペディアプロジェクトを指揮した林崎さんは、エンサイクロペディアの完成後に何をするのかな、と思っていたら、いつの間にかRNA研究の人となっていました。僕は東工大で渡辺公綱教授(現在産総研生物情報解析研究センター長、もともと三菱化成生命研の人ですから中村桂子さんも良くご存知だと思います)の研究室に所属していましたので、大学時代からRNAが専門だったわけですが、当時はRNAの世界は比較的棲み分けがうまく行っていて、研究費の取り合いと言う事はあまり聞いたことがありませんでした。その後、渡辺教授の下から上田さん(東大)、姫野さん(今は弘前大学かな?)、堀さん(愛媛大?)、鈴木勉さん(東大)といった研究者がスピンアウトしてあちらこちらにRNAの専門家が散らばっていったわけですが、そのルーツは大体渡辺研に帰着されていたと思います。そんな状況下で突然理研に新しい勢力が現れ、しかもそれが林崎さんという非常に良く知っている人だったのでびっくりした記憶があります。

cDNAはmRNAから作られますから、研究の流れとしてcDNA→RNAと進むのは良くわかるのですが、林崎さんがRNAの専門家としてその機能解明に乗り出すというのはどうなのかな、と感じました。もちろん林崎さんの研究意欲は並々ならぬものがありますし、理研としても非常に若くして主任研究員の地位に登りつめた林崎さんをサポートしたいという気持ちは非常に良くわかります。吉良さん(僕が理研にいたときは副理事長)なども林崎さんを常にサポートしていました。でも、本当にRNAの研究を主導する人が林崎さんで良いのか、というのが僕の疑問でした。もちろん僕は素人なので、林崎さんの適・不適はわかりません。きちんと議論したうえでそれが最適という結論だったのかも知れません。

ただ、その議論の過程というのは、少なくとも僕は見ることができませんでした。残念ながら僕自身は現在バイオの研究の場からは完全に離れてしまっていますし、その話を知った当時には正直なところRNAの研究にそれほど興味もなかったので、「へぇー、そうなんだ」と思っただけで深くは突っ込みませんでした。

#実際のところどうなのかは大学のクラブの後輩でもある鈴木勉助教授あたりに今度会ったときに聞いてみようかな、と思います。

まぁ、鈴木助教授は渡辺公綱さんの愛弟子ということもあって、「経産省−産総研−生物情報解析研究センター長渡辺さん」というラインが存在する以上、今は経産省寄りの研究者と考えて差し支えないでしょう。このあたりの問題も背後にはあるのかも知れません。どれもこれも僕の勝手な推測なわけですが、そうした推測に頼らざるを得ないのはナショプロの検討が開いた形で行われていないからです。

ところで、こうやって書いているとぼんやりと見えてくるのは、「省壁」の存在です。僕自身、理研から経産省に行った時は理研の研究者から裏切り者呼ばわりされながらも、ライフ課とバイオ課の垣根を少しでも下げることができないかと考え、当時の両課の課長補佐に声をかけて飲み会も開催し、意見交換の場なども作ってみたのですが、結局両課の交流というのは尻すぼみに終わってしまいました。

例えばcDNAプロジェクトで言えば、理研は「ヒトでは発生段階で発現するcDNAなど、ライブラリ化が困難なものがある。その点、モデル動物のマウスならどんなフェイズでもライブラリ化することが可能である。なので、ヒトのライブラリを作っても不十分だ」と説明していましたし、経産省では「マウスは所詮マウス。実際に薬を作るためにはいくらマウスのcDNAを研究しても最終的にはヒトのcDNAに行き着く。なので、最終的な勝利者は我々だ」という説明をしていました。どちらの説明も一理あるのですが、「どちらも完全ではないので、両方を統合してヒト−マウス共通cDNAライブラリを構築しよう」という話には決してなりませんでした(今はどうなのか知りませんが、少なくとも経産省時代に僕がこの必要性を訴えたときはスルーされて実現しませんでした)。

ナショプロの連続性というのはあくまでも文科省は文科省の中で、経産省は経産省の中で、というのが基本のようで、アカデミックな部分は文科省がやり、それを経産省が引き継いでブラッシュアップして産業化につなげ、最終的な製薬は厚労省で、という流れになることは非現実的な状況だと思います。こうした縦割りの状況を改善するための調整を総合科学技術会議でやるのかな、と思っていたのですが、どうもそんな感じでもありません。

結局のところ、役人の一番大きな行動原理は大抵の場合「どの位の予算を獲得するか」になってしまっていて(中には本当に日本の将来について考える役人もいるのですが、最終的にはそれを指揮するのはあくまでも課長であり、僕が知る限り課長は全員が「予算を取ること」を第一命題にしていました)、全体を俯瞰するのは困難だと思います。

ただ、こういう状況にあるのは、決して役人の責任ではないと思います。少なくとも、役人の立場からこの状況を改善していくことは不可能に近いと思います。なぜなら、今の役人が存在するのは過去からの長い歴史の積み重ねの延長線上であり、それを変更するには非常に大きなエネルギーを要するからです。

もちろん科学者にも責任はないと思います。林崎さんや横山さんが一つのナショプロを終えたあと、「じゃぁ、次は何をやるんですか?」というのは必ず出てくる問題で、それまで一緒に研究してきた人間に対して少しでも多くの仕事を配分しようと思えば、やはり次のナショプロを取ってくるしかありません。一番最初のエントリーで「トップはトップでマラソンを走り続けなくてはならない」という主旨のことを書きましたが、それはそれで非常に辛い状況にあるんだと思います。

長く書きましたが、「なぜ日本ではこれができないのか」という問いに対する僕の答えは、「これまでの過去の積み重ねがそれを不可能にしている。そして、役人も科学者も、それを変える事は非常に難しい」というものです。

また、仮にこの状況を完全に米国型にした場合、研究者達は熾烈な競争社会に身を置くことになります。真の意味ではそれこそが日本のサイエンスにとっては望ましいスタイルなはずですが、一方で実際にそうなった場合、その中で自分の場所を見つけることができなくなるサイエンティストが大量に発生するのではないかと思います。それはサイエンティスト達がぬるま湯に慣れてしまっているからです。このぬるま湯体質も長年の歴史によって培われたものであり、簡単に改善される性質のものではないと思います。

これは最初のエントリーで思わせぶりに書いたことなのですが、「若手人材の浪費の背景には、日本に実質的に有効な宗教が存在しないことが大きな影響を及ぼしている」というものがあります。

後日書こうと思っていたことは、日本の変な平等意識が競争社会への脱皮を不可能にしているというものです。日本においてはポスドクの多くはサイエンティストです。そして、真の意味でのテクニシャンという立場は多くの人が避けたがります。「テクニシャンは自分で考えることをせず、サイエンティストのオーダーにあわせてピペットマンを使い続けるだけの作業者である」という考え方が背景にあると思います。

ニューヨークとかをプラプラ歩いていると、主にカラードですが、一日中アスファルトのガムを掃除している人とかがたくさんいます。でも、彼らは宗教があるから、「どんな仕事をしていても、毎日ご飯が食べられて、主に感謝できて幸せです」と考えることができます。生きている理由に迷いがないんです。別に仕事に生きがいがあるわけではありません。もちろん米国にもワーキングプアという考え方はありますし、それに疑問を持っている人たちもたくさんいます。しかし、疑問を持たずに宗教にすがって生きている人も間違いなく存在するし、そしてその存在を真っ向から否定することもないようです。

これは米国だけではなくて、英国も、ドイツも、米国型資本主義社会を標榜している国はほぼすべからく同じような状況だと思います。フランスでは米国型資本主義への舵取りに対して暴動も起きているようですが、都市部を中心に、やはりそれを支持する人が多数を占めているようです。

僕は米国の資本主義に対するスタンスは非常に高く評価しています。ただ、それが日本の社会に簡単に受け入れられるかと言えばそれは違うと思います。社会のバックグラウンドに真の意味での宗教がない日本においては、競争社会に身を置くことによって職を失い、居場所を失い、生きがいを失い、そして生きることに絶望してしまう人が大量に発生してしまうのではないかと危惧しています。

そうした中で、どういう解決策があるのか。簡単なことで言えば、テクニシャンの待遇の改善があると思います。テクニシャンの存在なくしてはサイエンティストは思ったような実験を実施することができないのですから、少なくとも金銭的な手当ては技術に応じて相応のものを受け取る権利があるはずです。サイエンティストではないから、という理由で待遇が悪くなってしまうのでは、研究の体制が維持できなくなると思います。

ただ、ここでまた一つ別の問題が生じます。それは「テクニシャンにお金を払いたくても、先立つものがない」という問題です。時代がバブル絶頂期であれば話は全然別だったでしょう。しかし、日本はバブルの絶頂期に道路を作り、ビルを作り、橋を作り、構造物インフラに多くの力を投入してしまいました。結果として日本の建物は非常に立派になり、道路は整備され、新幹線も充実し、多額の借金と引き換えに見た目の素晴らしい国土を作り上げました。そして、その繁栄の裏で知的財産は軽視され、空白の何十年かを作り出してしまったんだと思います。今の日本には、研究を直接的に実施していくテクニシャンという、ある意味では社会的弱者を支える余力がないのが現実だと思います。まさにデッドロックという状況で、この状況を打開するには国民理解の相当な増進と、問題意識の喚起が必要です。

ちなみにこの状況を招いてしまったのは、今は年金生活の人々だと思うのですが、その責任を問う機会はもう訪れないと思います。これは単純人口増を前提とした年金制度と同じような状況だと思います。

バイオから離れた立場からこういった評論家然としたコメントを書くのは二階からの目薬程の効果もないのは百も承知です。ただ、僕は僕なりに、今に至るまでに当事者としていくつかの警告を発してきていました(古くは科学行政について。最近ではBSE問題について)。その声に耳を傾ける人がほとんどいなかった以上、僕の態度が評論家的であり、当事者意識に欠けている点については容赦していただきたいと思います。

#そういう背景もあって僕は現在ITの世界に身を置いているわけです。科学行政については、ライフサイエンスサミットのパネルディスカッションの場(パネラーは井村裕夫さん、五條堀孝さん、清水信義さん、末岡宗広さん、林良英さん、山崎達美さん)で、「このままでは日本のバイオ産業は本当に駄目になる。今が方向転換する最後のチャンスだ」という主旨の発言をしたのが僕なりの最後の努力だったかもしれません。

日本の場合は“これで何でもできる”という言い方しかありません。たとえばオーダーメイド医療がそうです。途中のプロセスは何も見せずにSNIPsを解析すれば、すべての病気に個人対応ができるかのように言う。これは科学ではありません。米国が“がん研究”で示しているようなプロセスを考えなければ、研究ではないと思うのに、なぜ一流の研究者にそんなことができるのか。


この部分については、ほぼ賛同するのですが、微妙に賛同できない部分もあります。

まず「これで何でもできる」と言えるのは、最終的にそれを言っているのが役人だからだと思います。もちろん役人が博士を取得し、一線で一定期間研究を実施した後に活躍の場を官庁に求めた人で、またそのポストで長年その研究を継続して見てきたということなら中村桂子さんが理想とするような立案もできると思います。しかし、残念ながら日本はそういう体制にはありませんし、当面改善もされないでしょう。NIHの実態などは僕は正直あまり良く知らないのですが、NIHにおいてはもっとずっと専門的な人たちが継続的に研究をチェックしているのではないかと想像しています。

例えば僕は理研のcDNAライブラリをNIHが使わせてくれ、と言ってきたときに、理研の代表としてNIHの担当者と交渉に当たりました。その際、NIHは担当者が複数来日しましたが、全員が博士保持はもちろん、弁護士の資格なども持っていました。要は本当の意味での専門家だったわけです。日本はそういった体制で交渉に当たることができません。また、担当者(当時の僕も含みます)には諦めだけが存在し、それを改善して行こうという意欲も、力もありません。

僕が「どうなのかな?」と思うのは、タンパク3000にしても、SNIPsにしても、「無駄遣いだった」と断じてしまうにはやや時期尚早なのではないか、ということです。もっとうまいやり方は確かにあったと思います。ただ、どぶに捨てたような状態でもないのではないかと考えています。まずは結果につなげるための努力をすべきフェイズなはずです。山ほどのデータがあるのでしょうから、それを元に知的財産を確保し、ベンチャーを立ち上げ、産業化を目指すのがその第一歩なんだと思います。マウスcDNAエンサイクロペディアの成果を元に作られたダナフォームはその後あまり噂を聞きませんが、SNIPs解析においてはオンコセラピー・サイエンスが一応株式公開まで漕ぎ付けています。

#株価はこんな感じで全く酷い状態ですが(^^;

もうやってしまったものは仕方がないので、あとはそれをどうやって着陸させるか、そこに知恵を集中すべきだと思います。

また、タンパク3000の場合は別の批判も耳に入ってきます。それらについては、3000という数値目標が一人歩きしてしまったために、結果として研究者達をがんじがらめにしてしまった結果ではないかと思います。他の研究者達がNMRを使いたいと言ってきても「まずは3000をこなすことが最優先」としてハードを貸し出すことを拒否したかもしれないし、また「構造が複雑なタンパクや結晶化が難しいタンパクは後回しにしよう」という判断があったかもしれません。このあたりは僕は当事者ではないのであくまでも推測ですが、そういう状況があっても何の不思議もありません。結果として、「3000の解析をやったのは良いが、役に立たないのではないか」「折角インフラを整備したのに、それを使えるのは横山研だけじゃないか。NMRパークは所詮横山さんのおもちゃだ」「理研が来ることによって鶴見小野地区にバイオクラスターが出来てくると思ったのに、実際にはそうなっていない」という批判が出てきたとしても、少なくともそれは横山さんの責任ではないと思うのです。

などなどと、いくつか思うところを書かせていただきましたが、根底の部分では僕は中村桂子さんのおっしゃっていることについてはほぼ全面的に支持しています。

サイエンスは論理的である必要があるし、また必然性が必要です。大型プロジェクトには連続性が必要で、またそれにあたるのは必然性のある専門家である必要があるし、その検討はオープンであるべきです。また、大量のデータは全て成果につなげる必要があり、成果につなげるための努力を続けていく必要があると思います。

ただ、日本においてそれを実行するためには、あまりにも多くの問題が山積していて、その作業の膨大さに絶望するばかりです。そんな中において「くじけそうになるけれど挑戦しなければならないという気持ち」が中村桂子さんの意見から垣間見えたことが、一番最初に僕が記事をエントリーした理由です。

#実は今日は飲み会で終電で帰ってきました。酔っ払った頭で長文を書くのはいかがなものかと思いましたが、最近は思い立ったときに書かないと、体力的にも精神的にもなかなか実行することができなくなってしまいました。なのでかなりの乱文となると同時に、冗長になる部分もあったかと思いますし、また誤字、脱字も散見されるかもしれません。それらの点につきましては後日修正していきたいと思いますが、推敲が不十分である点はご容赦ください。

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補足しておきます

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この記事へのコメント
中村桂子先生にお願いです。

Posted by 中村桂子 at 2007年05月24日 16:45
>一方日本の場合は“これで何でもできる”という言い方しかありません

これは、そのように作文しないと役所が予算を付けてくれないから、という問題なのですが、中村桂子先生が音頭を取って、お役所を変えていただけませんでしょうか。

このblogの社長さんも認めていらっしゃるように、お役所の体制については、
> 担当者には諦めだけが存在し、それを改善して行こうという意欲も、力もありません
という事態のようですから、ぜひお願いいたします。新聞への投稿も大事ですが、上層部の役人や政治家に意見を出していただけないでしょうか。
Posted by 生命科学分野の人間です at 2007年05月26日 00:54
>お役所の体制

あ、これは理研の事務方の話です。まぁ、似たようなものですが。

ちなみに役人の専門性についてはこちらですでに世の中に問いかけております、はい。

http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/860284.html

なんというか、文科省の大型プロジェクトを産総研で、あるいは経産省の大型プロジェクトを理研でやる、なんていう事にはまずならない、というのが彼此の差かと。
Posted by buu* at 2007年05月28日 15:21
中村先生にしても、スパコン切った金田先生や松井先生にしても、それぞれ研究者として誠実にあの場に臨んだんでしょうが、結局政治的役割としては、仙石、枝野両議員のいった一言に尽きるとおもいます。「科学者が反対しているというが、仕分け人の中にもノーベル賞候補の科学者もはいっていた」。

個々の案件の是非や、学界政治の不合理をあの場で色々持ち出しても、それは結局は蓮舫辻斬り劇場の太鼓持ちを演じたことになってしまいました。
Posted by 違う角度ですが at 2009年12月02日 07:56