2007年09月05日

ブログでバイオ 第34回 「研究や研究者の評価」

32回のエントリーに対してUさんからコメントをいただいたので、丸さんから「僕が33回を書くからちょっと待って」と言われていますが、丸さんは西海岸で豪遊しているので、勝手にドリブルすることにします(って言っていたら、タッチの差で33回を丸さんがリリースしたので、こっちは34回ってことで(笑))。

まず、いただいたコメント、若干長いのでこちらにまとめて再掲した上で返答します。対象となっているエントリーはこちらです。

ブログでバイオ 第32回 「変わるべきは、大学と学生(含むポスドク)」

以下、Uさんのコメント全文。

このブログの趣旨とは多少異なるかもしれませんが、少しお伺いしたい事があります。博士と一言で言っても、その能力は人によって大きく異なり、ピンからキリまで様々です。ここでの議論は主に、ピンの部類に入る人達を除いた、その他多数の博士(キリを含めた)を対象にした議論になっているように思います。日本における、能力的には「ピン」に属する博士のキャリアパスについてはどのようにお考えでしょうか?

「研究の場も競争の場になった」とおっしゃられていますが、優劣を決定する客観的なルールと、そのルールに基づいて公正に評価するシステムが、競争の場には必要と思います。アカデミックでの科学研究の場合はどうでしょうか? 例えば、競争的研究費の獲得の場合、客観的なルールと公正な評価システムが存在しているのでしょうか? 研究費を出す側が、科学的なコンテンツを評価する能力を持たず、申請者の「名前」とpublication listで評価するようなシステムであれば、それは競争と言えるのでしょうか? 科学的な能力を磨くよりも、名前の通った大物研究者にすり寄ったり、不正まがいの事をしてでもpublication listの見栄えを良くする事の方が、競争を勝ち抜く上で有効だとしたら、これは公正な評価システムに基づいていると言えるのでしょうか? 科学の進歩を促進するのでしょうか?

企業での研究開発の場合は、「市場主義」というルールに基づいた、比較的公正な評価システムかもしれません。しかし、開発された商品の質よりも、市場を誘導する事の方が、利益に結びつくような状況が存在する場合は、市場主義は開発された商品の質を正しく反映しないかもしれません。巷で「似非科学」といわれているような商品でも、うまく宣伝して売れてしまえば、「勝ち」ということになりかねません。抗腫瘍効果が明らかでない、「似非」抗がん剤が、製薬企業のロビー活動によりヒット商品となったことも、20年ほど前にあったと思います。このようなケースでは、「売れた」=「優れた商品」という図式は当てはまりません。

第30回のコメント欄で少し話題になっていましたが、ノーベル医学生理学賞は、資本主義に役立つ(市場主義で高い評価を得た)研究に与えられるものではなく、医療や生物学の進歩に貢献した研究に与えられるものであり、そのような研究は、結果として市場で評価される商品に反映されるということではないでしょうか?

アカデミックあるいは企業の研究職でキャリアを展開しようとする、「ピン」に属する博士達にとって、彼らを評価するシステムは極めて重要と考えます。日本での研究の場においては、ある程度公正で有効な評価システムの構築が困難なのであれば、そこに競争原理は導入できないのでは、と考えます。「ピン」に属する博士達が、どんどん欧米に流出してしまうのではないかと、少々心配です。

色々な立場でバイオ業界にかかわってこられたbuuさんから見て、何かご意見あれば、伺いたいと思います。

ちなみに、博士の自己責任については、まったくおっしゃられる通りと思います。国益を考えるのであれば、「キリ」の博士ではなく、「ピン」の博士に関して、国は何らかの方策を考えた方がよいように思います。


続いて返答。ちょっと「研究者」と「研究」がコンタミしちゃいそうなんで、なるべく分けて書きますけど、わかりにくかったらすいません。

>優劣を決定する客観的なルールと、そのルールに基づいて公正に評価するシステムが、競争の場には必要と思います。

以下は研究者について。

僕はそうは思いません。すごく卑近な例で申し訳ありませんが、たとえばラーメン屋の評価について、僕が「この店は日本一美味しい」と述べたところで、これは僕の主観的な評価に過ぎません。誰かが、「魔人ブウ*の評価なんかじゃなくて、客観的なルールを設定し、そのルールに基づいて公正に評価するべきだ」と言ったとしても、「じゃあどうするの?」ということになれば、現状の技術をベースにすればそれはほぼ不可能だと思います。なぜかって、その店を美味しいと思うか思わないかはどこまで突き詰めても所詮は一個人の主観、あるいは個人の主観の集合体であって、客観に限りなく近づけることはできても、それが客観になることはありません。

研究者とかの優劣といったものも同様で、何かルールを設定できるのかと言われれば、僕はそれは現状の技術ではなかなか難しいと思うし、また、その設定方法について万人の了解を得ることはほぼ不可能だと思っています。

結局のところ、ラーメン店の良し悪しを決めるのは消費者です。研究者の良し悪しを決めるのは、研究者を雇う組織、人間だと思います。

「このラーメンの味の良さがわからないなんて信じられない」と言っても仕方ありません。ビジネスをやっていると、「これは絶対売れる」と思って市場に投入してみたのに、全然売れない、なんていうことは日常茶飯事です。そのときそのラーメンが売れない理由はいくつかあって、

1.ラーメンが美味しくない
2.ラーメンの告知がうまくいってない
3.美味しいけど高い
4.個性が強くてラーメンが理解されない

ぐらいが考えられると思います。そして、その原因は、店が悪いのかもしれないし、味を理解しない消費者が悪いのかもしれないし、広報を担当している代理店が悪いのかもしれません。

これを研究者に置き換えると、

1.研究者の能力が低い
2.研究者のPRについて、周囲の締め付けがきつい
3.研究者は雇いたいが、費用対効果が見合わない
4.研究者自身の個性が強く、組織がもてあましてしまう

ぐらいになると思うのですが、その根源は研究者のレベルが低いのかもしれないし、研究者を評価する人たちのレベルが低いのかも知れないし、それらをPRする組織(大学等)が悪いのかも知れません。

ただ、どれだとしても「それを買おうとしない客が悪い」という考え方は的外れだと思います。ラーメンも研究者も、それを受け入れる客なり、組織なりがあって初めて評価がされるわけです。「すばらしい研究者は現在は理解されなくても、わが道を進むべきである」という考え方もありでしょうが、現在の日本ではちょっと難しいかな、と思います。ですから、研究者は何らかの形で買い手に理解されるような努力が必要だと思います。

たとえばタンパク3000が終了して、理研ではそれに従事していたポスドクの行き先がなくて大きな問題になっているようです。これは「あとの世話をしてやれない横山が悪い」という考え方もあるでしょうが、どこかにも書きましたけれど、横山さんはそんなに冷淡な人ではなかったと思います。横山さんは「ポスト『タンパク3000』」で予算を確保して、ポスドクを再雇用したいと思っていたんじゃないかな、と思うのですが、予算がつかなかったのなら仕方がないですね。そして、「あのタンパク3000でがんばったポスドク」という看板がどの程度再就職の役に立つのか、ということになってくるわけです。この看板が本当に役に立つのであれば、就職難とかで問題になることはなかったはずで、そのあたりに読み違い(読み違ったのは理研かもしれないし、横山さんかもしれないし、ポスドク本人かもしれないし、あるいは全部かも知れませんが)があったんだと思います。

ものを売るには、売る相手を良く見る必要があります。そして、就職するということは自分という人間を組織に売ることに他なりません。ということは、就職先となる可能性のある組織が何を求めているのか、ということはきちんと分析する必要があるわけです。それをやっていなかったら、就職先が見つからないのも当たり前です。今までは博士という人種の数が少なかったからそれでも良かったかもしれませんが、これからはそういう時代ではない、ということですね。今は医者だって、弁護士だって努力して売り込まなくてはならない時代です。研究者も同じです。以前、このブログでは経済産業省の「産業界ニーズと大学教育カリキュラムのミスマッチ分析」という調査を紹介しましたが、この手のことをきちんとやっておくことも一つの解決策になると思います。

>例えば、競争的研究費の獲得の場合、客観的なルールと公正な評価システムが存在しているのでしょうか? 

これは「研究」について。

僕は公正な評価システムが存在しているのかどうか、知りません。なぜかといえば、文科省やらNEDOやらの評価の場に自分がいたことがないからです。また、その評価過程についての文書を見たこともありません。ネットで検索したことはありますが、その手の資料は見つけることができませんでした。評価システムが公正かどうかは、評価の内容を見なければ判断できません。そのあたりに興味があるのであれば、まずは評価の詳細について情報公開を迫るという手はあると思います。個人的にはこちらにはあまり興味がないので、僕自身はやりませんが。

>うまく宣伝して売れてしまえば、「勝ち」ということになりかねません。

いや、こんな商品は山ほどあるんじゃないでしょうか。

たとえば、医薬部外品では、その効果効能をうたえる成分は色々とあります。実際に個別具体的な製品を想定しているわけではないですが、ではこんな例を考えてみましょう。

設定1
シーチキンに整腸作用の効果効能が確かめられた。

設定2
シーチキンは整腸薬として医薬部外品の許可を受けた。

設定3
シーチキンを整腸薬として利用する特許権は存在しない。

さて、ここで誰かが新しい整腸薬を医薬部外品として販売しようとしたとします。しかし、シーチキンを入れてあるだけでは面白くないので、新規成分を探索しました。しかし、なかなか見つかりません。そのとき、候補物質としてマヨネーズを検査したのですが、整腸作用は見つけられませんでした。ただ、シーチキンマヨネーズはなかなか美味しいので、その組み合わせで売ることにしました。その際の売り文句は「新成分配合の医薬部外品! シーチキンマヨネーズ」でした。

消費者は、マヨネーズが新規成分として配合されたのかと勝手に勘違いします。しかし実際は、既存の整腸成分であるシーチキンに、特に整腸効果はないけれどもシーチキンを美味しく食べることができる新規成分のマヨネーズを添加したに過ぎません。整腸効果のある新規成分が付加されたわけではないのです。マヨネーズの効果は「美味しく食べる」かもしれないし、「日持ちがする」かもしれないし、まぁ色々考えられるところではありますが、そこが重要ではありません。とにかく消費者に錯覚を起こさせることが重要なわけです。別に整腸成分(=シーチキン)が入っていることは嘘ではないですから、医薬部外品として堂々と売ることもできるわけです。

ここに大金をつぎ込んで上手にマーケティングすれば、「そこそこ効く新規整腸剤」の完成です。

この想定事例では、別にメーカー側は犯罪をしているわけではありません。メーカーからすれば、たとえそれが意図的なものだったとしても、「きちんと理解しなかった消費者が悪い」ということになります。コンプライアンスの問題はあるでしょうが、僕はこういったことは社会においては日常茶飯事だと思っています。自分がこういったことをやるかやらないかは別問題ですが、僕のスタンスは「メーカーの意図に誘導されてしまう消費者の方に問題がある」というものです。

ちょっと長くなりましたが、

>「売れた」=「優れた商品」という図式は当てはまりません。

これはまさしくその通りで、だからこそ社会は面白いとも言えると、僕は思います。僕のように商売をやっている人間は、新しい商品やらサービスやらを投入するとき、「これは絶対に売れる」と思っているわけですが、実際はそう甘いものではありません。そういうことを繰り返すのがビジネスであって、そのあたりを理解せず、「良いものは売れるはずだ」「良いものは売れるべきだ」と考えていると、いつまで経ってもビジネスマインドは醸成されません。あくまでも「売れたものが優れた商品」なのがビジネスの世界です。

人にしても、物にしても、「良いものが正当に評価され、売れるべきだ」という考え方はわからないでもありません。ですが、それはあくまでも理想論であって、現実はそうではありません。

>資本主義に役立つ(市場主義で高い評価を得た)研究に与えられるものではなく、医療や生物学の進歩に貢献した研究に与えられるもの

これはその通りだと思います。

>そのような研究は、結果として市場で評価される商品に反映されるということではないでしょうか?

医療や生物学の進歩に貢献することと、市場で評価される商品に反映されることは、全く異なる要素だと思います。ただ、その二つの要素のベクトルが、近年は一致してきているというのが僕の考え方です。それは、鯨と鮫が(たぶん)全く違った進化をしながら、現在の形態が非常に似ているのと同じようなことではないかと思います。

僕が書いたのは「資本主義の役に立つものがノーベル賞を取る」であって、「資本主義の役に立つからノーベル賞を取る」ではありません。ちょっとわかりにくかったかもしれませんが。なので、Uさんの考え方と同じだと思います。

>ある程度公正で有効な評価システムの構築が困難なのであれば、そこに競争原理は導入できないのでは

「公正」という言葉の定義にもよるのですが、それが「何らかの手法による客観的な評価」という意味であれば、上にも書いたと思いますが、それは困難だと思います。あくまでも、評価は市場がすべきであって、市場とはすなわち個人の主観の集合体ですから、客観に近づけることはできても、客観にはならないというのが僕の考え方です。そして、それであっても競争原理は導入できると思います。実際に、資本主義社会ではそうした競争がそこここで導入されています。

また、そういう社会に少しでも近づけようとする努力は尊重されるべきだと思いますが、それを国や社会に求めても、実現はなかなか困難だと思います。特に村社会の日本では難しいと思います。

>「ピン」に属する博士達が、どんどん欧米に流出してしまうのではないかと、少々心配です。

僕は、実は博士にしても、ポスドクにしても、どんどん欧米に出て行けば良いのに、と思っています。日本では活躍できなくて、しかもちゃんと実力があるなら、なんで欧米に出て行かないんだと。国家としては頭脳の海外流出は大きな懸念でしょうが、使いこなせないなら仕方ありません。国内で飼い殺しにするほうが人類として損失です。

>「キリ」の博士ではなく、「ピン」の博士に関して、国は何らかの方策を考えた方がよいように思います。

僕は「別に国が出る幕じゃないよな」と思っています。そもそも国は博士がピンなのかピンじゃないのかすら判断できないのではないでしょうか。だって、役人たちだって、何かすごい研究を見つけたいな、と思ったときは、自分たちで独力で探すんじゃなくて、専門家にヒアリングしまくって、その意見を参考にしているに過ぎないんです。まぁ、ノーベル賞でも取ってくれれば「あぁ、なるほど」などとわかるのでしょうがこれはあくまでも結果論です。理研とか、ノーベル賞を取った人は何人もいますが、理研での研究でノーベル賞を取った人ってどのくらいいるのよ、ということです。じゃぁ理研が駄目なのか、文科省が駄目なのか、というとそういう意見もあるでしょうが、僕はそういった組織の目利き能力を云々する気は特になくて、「別に国が評価しなくたって、市場が評価してくれるんなら別に良いんじゃないの?学問的な評価と市場の評価が一致してきている以上(ノーベル賞を取るような研究が市場でも同様に評価されている、という現状を鑑みて)、わざわざ国がやる必要はないよね」と思うわけです。

この手の議論をしているとすぐに「国が」という意見が出てくるのですが、僕は国の関与は極力減らしていくことこそが日本の発展、国力の強化につながると信じているので、なかなか同意する気になりません。

#多くの人は基本的に公務員が嫌いなくせに、困るとすぐに公務員に頼るんですよね(^^;別に良いんですけど。

僕は公務員は別に嫌いじゃないし、友達もたくさんいますけれど、でも公務員に頼るのは辞めたほうが良いと思うし、国の関与は基本的に小さいほうが良いと思っています。特に国の持っているシンクタンク機能はどんどん民間に移転していったほうが良いと思っています。国と、国の下請けである大手シンクタンクの両方にいた経験から。

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ブログでバイオ 第35回 「博士を減らして質を高めるべきだ」【地獄のハイウェイ】at 2007年09月07日 18:55