意外と見過ごされがちなことだが、これは物価のみにとどまらない。自由な競争がある場合、人気のある職業は給料が安くなるということも言える。「給料が安くてもやりたい」と思う人がいると考えれば「なるほど」と思うに違いない。ところが、世の中には「なりたい人がたくさんいるのに、給料が安くならない職業」というものが存在する。医者、弁護士などの資格商売はイメージしやすいが、これに加えてテレビ局、新聞社、広告代理店などのマスコミ関係、さらにはパイロット、銀行員、保険なども該当する。これらを俯瞰してみると、法律で規制の網がかかっているものが少なくない。
例えば医者。医者の人数と言うのは完全に意図的に調整されている。医者になるためには医学部に行く必要があり、医学部の定員が決まっている以上、それを超えて増えることは絶対にない。医者を養成するにはそれなりに費用が発生し、その費用の少なくない部分を国が面倒見ている以上、迂闊に増やすことができないことは間違いないが、絶対数が十分でないのであれば当然対策をすべきである。例えばOECD加盟国の中での日本の人口当たりの医師数はOECD平均の約7割にとどまるというデータがある。日本は他国と比べてやや高齢化が進んでいる事情もあり、本来医師数は平均を超えるべきなのに、実際はそうなっていない。この、「約7割」という数字が本当であれば、日本の医師数は平均に達するためには1.5倍に増やさなくてはならないのである。
では、その足りない部分がどこにしわ寄せとして顕在化するかといえば、ひとつに過疎地の医師の地域的不足、もうひとつが産婦人科医や小児科医などの業務負荷の高い診療科の質的不足である。最近新聞で、産婦人科医が不足していることが原因となった妊婦のたらいまわしと、その結果の死産が報じられたりするが、これは「産婦人科の医師が高負荷であること」や「臨床医研修制度の変更」など、報じられていることが本質ではなく、ただ単に「医者が足りない」からである。どうしたら良いかって、それは簡単な話で、医者の数を増やせば良いだけのことである。「いや、医者を養成するにはお金がかかるから」というのなら、医者になりたい人の負担額を増やせば良い。「それでは金持ちばかりが医者になる」という意見も聞こえてきそうだが、それなら医学生のための奨学金を整備すれば良い。奨学金だから借金なわけで、当然それは返還しなくてはならないものだが、そのお金で育成された医者がテレビでタレント活動をやっているとかではなく、きちんと地域医療に貢献したり、負荷の高い診療科の医者になって一定期間を経過した場合に減免してやるとか、そういった制度を整備すれば良いだけの話である。
ただ、いたずらに数だけ増えてもヤブ医者が増えるだけだから、質を維持するための制度は当然求められる。質を維持する制度とは、定期的な資格検査(一度医師免許を取ったら生涯そのままというのはおかしい)や、医者を患者側で評価するための情報開示などである。医者といえども市場原理の中で切磋琢磨していくべし、ということである。
弁護士も状況は同じだ。弁護士の人数は司法試験の合格者数でほぼ線形に決まる。つまり、司法試験の合格者が増えれば弁護士の人数も増えるのである。日本は人口当たりの弁護士数が米国に比較してかなり少なく、3年ほど前から「2010年までに司法試験合格者を3000人に増やす」「平成30年ごろまでに実質法曹人口を5万人とする」ことを目標としてきた。ところが、最近、一部の弁護士会では「目標を見直すべきだ」などという意見表明が行われている。
中部弁護士会連合会「適正な弁護士人口に関する決議・提案理由」
要すれば、「弁護士に対する需要は飽和状態。このまま弁護士が増えれば競争が激化し、弁護士の多くは収入の確保に時間を奪われ、公益活動ができなくなる」などという主張を展開している。これだけでもう「この既得権者たちは相当に馬鹿だな」という感じなのだが、自由競争を排除することによって安定したサービスが提供できる、と弁護士達が本気で考えているのであれば、サービスを受ける側としても「それならお前らは毎年司法試験を受けて、受かった人間だけが資格を更新しろ」と言いたくなる。米国では毎年5万人が司法試験に合格しているわけで、人口当たりで言えば約15%程度にしかならない日本が過当競争であると言える神経を疑いたくなる。数が増えて、競争が発生し、そして生活者が希望する弁護士をきちんと選択できるような情報の開示がされれば、弁護士の質はアップすると断言することができる。ただし、その際に弁護士の生涯賃金がどうなるかまではわからない。能力のない弁護士の所得は間違いなくダウンするだろう。しかし、それは能力がないのだから仕方がない。能力がないにも関わらず既得権者として高額な所得を得ているとすれば、そちらの方が異常である。
ちょうど昨日もこんなニュースが流れたが、
弁護士の求人、大幅不足か “就職難”に日弁連危機感
就職難や「質の低下」が懸念され、法務省は見直し作業の開始を決定。
きっと既得権者から圧力がかかったんだろうな、想像する。もし法務省が本気で質の低下を懸念しているとすれば、頭の中身を覗いてみたくなる話である。もちろん、弁護士が大量に生産されれば、能力の低い弁護士は今より増える可能性がある。しかし、その一方で弁護士の中に競争が生まれるのだから、質の高い弁護士も増えるし、またトータルの平均で見れば弁護士の質は上がるのではないかと想像する。なぜなら、競争の中で生き抜いていくための努力をするようになるからである。
日本人は総じて公務員が嫌いなようだが、なぜかこういう規制の拡大に対しては鈍感だ。資本主義社会の一員としては、公務員を嫌うべきではなく、公務員の持つ権力の拡大、すなわち規制の拡大こそ嫌うべきだと思うのだが、根底にあるマインドが被支配思想なのかも知れない。
別に医者や弁護士の給料を安くしろと言いたいわけではない。小泉改革のときに「頑張って努力している人が報われる社会」という言葉を良く耳にしたがまさにこれである。医者であっても弁護士であっても、頑張っている人が報われるべきだし、頑張るチャンスは誰にでも与えられるべきだ。
ここまでは特定の職業について指摘してみたが、実は公務員を含む一般の労働者についても同じことが言えると思っている。今の労働者は法律によって過剰に保護されているというのが経営者でもあり、被雇用者でもある僕の私見である。会社は簡単に首を切ることができないので、簡単に雇用することができない。人件費は会社にとって最大の固定費であるから、極力それを低減しようとするし、雇用する際は慎重の上にも慎重な検討をすることになる。しかし、この状態が本当に被雇用者にとって望ましい状態かと問われれば首を傾げざるを得ない。
もし仮に会社がいつでもどんなときでも社員を解雇できるようになったとしたらどうなるのか。雇用される側は、いつ首にされても大丈夫なように自らのスキルアップに励むはずである。会社に要求するのは安定した雇用ではなく、自らがスキルアップできるような業務上の処遇である。
随分昔のことになるが、僕が三菱総研に就職したとき、僕はバイオの専門家として会社に入った。ところが、配属された部署は自衛隊の仕事が中心で、自分の知識や経験などは全く活かすことができなかった。ただ、交渉能力やプレゼン能力、報告書作成能力などは業務内容に関わらず要求される会社だったので、それだけを活かして仕事をした。初めのうちは「これも修行のうちかな」などと殊勝に考えて仕事をしていたのだが、数年で我慢の限界に達した。当時はメールなどはまだ一般的でなかったから、当時会社の実権を握っていた副社長に手紙を出し、直談判に及んだ。そのとき僕が副社長に言ったのは、「僕は自分の能力を切り売りしてお金をもらう気は一切ない。会社にも貢献できて、自分のスキルもアップするような仕事をしたい。しかし、今は少なくとも自らのスキルアップにはほとんどつながっていない。本来、そういった配慮は会社がすべきことではないのか。こういった状況が続くなら会社を辞める」といった主旨のことである。当時三菱総研ではそういった仕事を僕にやらせるのは不可能ということだったので、結果的に僕は理化学研究所に出向することになり、ちょうど作業に入ったばかりのゲノム科学総合研究センターの立ち上げを手伝うことになった。三菱総研の人事部はその間に状況が変わるように努力する、ということだったのだが、残念ながら出向の最中にも会社の状況は変わらなかった。状況が変わらなかったのは会社のせいばかりとも言い切れないので、出向期間終了後には三菱総研を退職し、官民交流法を利用して任期付きで経済産業省に移り、さらにバイオベンチャーの社長に転職した。この間、全ての場所で求めていたのは業務を通じての自らのスキルアップである。会社から得られるものはお金だけではないし、逆にお金以外のものの方が大きかったりする。文科省系の理研、経産省、そしてバイオベンチャーと、それぞれの場所では他では得がたい経験を積むことができたし、人脈も作ることができた。これは「業務を通じて自らのスキルをアップさせる」という意識が背後にあったからである。では、そういった意識をなぜ持ち続けられたのか。それは僕が子どものころに見てきたものによるところが大きいと思う。
僕の父は日産自動車の会社員だったが、僕が6歳のとき、白血病になって38歳で他界した。母はそのときすでに横浜の片田舎で美容院を経営していたが、手に職があったおかげで僕のことをきちんと育てることができた。もちろんその間さまざまな苦労はあったはずだが、僕は子どものころ、貧乏で恥ずかしいと思った記憶がない。今から考えると住んでいたアパートには玄関がなくて、友達が来ても靴は外に沢山脱ぎっぱなし、みたいな状態だったし、近所の道路をトラックが通ればそのたびに家がガタガタ揺れるような状況ではあったものの、給食費が払えないとか、授業料が払えないとか、そういう事態には一度もなったことがなかった。女手一つで子どもを育てた母の背中を見ていて、「生きていくためには自分が食べていくだけのお金を稼げるスキルを持っていることが重要だ」と刷り込まれたのだろう。そして、「いつ首になっても大丈夫なように」という危機管理意識を身に付けたのだと思う。「いつ首になっても大丈夫」な準備が出来ていれば、いつ首になってもおかしくないようなことも言えるようになる。以前、東大で講演をしたときのテーマは「出すぎた釘は打たれない」というものだったが、いつ首になっても構わない、という姿勢の人間の意見は逆に尊重されたりもすると思う。
こうして考えてみると、なぜ会社に従業員をいつでも解雇できる自由が実質的に与えられていないのか、不思議に思えてくる。会社にその自由を与えることは、従業員にとってプラスになると思うし、会社には「固定費の負担」とは別の形の負荷がかかることになる。このあたり、現行の労働基準法、労働契約法の運用は果たして今の時代にフィットしているのか、もう一度原点に戻って考えてみる必要はないのだろうか。
労働契約法
第三章 労働契約の継続及び終了
(解雇)
第十六条 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。
(旧労働基準法第2章 労働契約 第18条の2
医者も、弁護士も、公務員も、そして会社員も、法律の傘の下から出た方がずっと良いのではないかと思う。「安定が保障されているから安心して頑張れる」(個人的にはこのロジックには大きな疑問が残るのだが)のか、「不安定が前提だからそれに適合するように頑張る」のか、の違いである。世間一般で言われている「勝ち組負け組」といった話に与する気はさらさらないのだが、労働基準法に守られて年功序列の社会に胡坐をかいている人達を勝ち組と称するのであれば(こういう形で勝ち組を定義している例はほとんどないと思うのだが)、勝ち組の権利はもっともっと小さくすべきだと思う。
医者にしても、弁護士にしても、公務員にしても、そして普通の会社員であっても、「安心」は最低限の労働の質を担保することにこそなれ、向上へのモチベーションにはならない。
参考資料:
使用者の発意による雇用の終了に関する条約(ILO駐日事務所)
使用者の発意による雇用の終了に関する勧告(ILO駐日事務所)
労働基準法 第二章労働契約