ミクシィにもすっかり飽きた。すぐに思いつくのは、中のコミュニケーションのレベルが低いこと。それは僕の個人的評価軸においてだけれど。これはfjの時代から約20年間、何度も何度も繰り返されている。このブログにも何度か似たようなことを書いたけれど、参加者が大衆化すれば、どうしてもそこで展開されるコミュニケーションのレベルは低くなる。
ここで言う「レベルの低さ」というのは2ちゃんとかとはまた別のベクトルで、全部で3つある。それは一つにはコミュニケーション能力、一つには情報収集能力、一つには評価能力。その結果、ミクシィの内部のコミュニティーはカラーで二分化されてきている。一つはオタク、もう一つは衆愚。この二つは専門性を評価軸とすれば両極に配置されるのだけれど、ミクシィの中のコミュニティはその両極に分かれつつある。
オタクのコミュニティというのは参加者はそれほど多くなく、そしてその種類は多い。そこでは非常に濃い会話が交わされ、純化し、ついていけない人は淘汰されていく。
衆愚のコミュニティは「ここではそんな会話はふさわしくない」「そんな表現は不愉快だから管理人さん削除してください」「これ以上続くなら、私はここを抜けます(と、言いつつ、抜ける気はさらさらない)」といった会話が登場するのですぐにわかる。こうしたコミュニティは参加者が大勢、場合によっては1万人を超えている場合もある。そこで繰り返されるのは、荒らし行為とそれに過敏に反応するコミュニケーション・リテラシーの低い人たちのいたちごっこである。
僕はたとえばラーメンやら、映画やら、中島みゆきやら、野田秀樹やらについてはそれなりに詳しいわけで、僕のことをラーメンオタク、映画オタクだと思っている人も少なくないのだけれど、実際には僕はそれほど詳しいわけでもないし、いつもそのことを考えているわけでもない。たとえばラーメンのことを考えるのはせいぜい一週間に2、3回である。「あぁ、今日はラーメンを食べたいな」と思う頻度は実はもっと低い。今日も目黒でラーメンを食べたけれど、それはラーメンが食べたかったからではない。別に何でも良いけど、折角食べたことがない店があるから食べておくか、程度のもの。そんな「薄い」人間にとっては「濃い」人間達が自説を振り回しているミクシィのラーメン関係コミュニティは近寄りがたい。
同時に、衆愚のコミュニティも居心地が良くない。「クソ映画」という表現があると、あっという間に袋叩き。あげく、ちょっとした管理人の意思表示があったのちにばっさりその掲示板は削除されてしまった。そして、その行為自体に対してほとんどの人間が違和感を持たないのである。多くの人は、「目障りな掲示板がなくなってせいせいした」と思っているのだろう。このことが非常に気持ちが悪い。言論を統制する、言論を封鎖する、内容を検閲し、場合によってはそれを全て削除する。こうした行動はインターネットの情報のあるべき姿の対極にあると僕は思っている。だから、僕が所属しているコミュニティでそういった行為が発生すると、「なんだかなぁ」と感じて、そこを出て行くことになる。16万人もいるコミュニティなら、一人ぐらい人がいなくなっても誰も気がつかない。衆愚なのは勝手だが、そこの一員と思われるのはどうにも不愉快だ。
SNSというメディア、いや、ミクシィというメディアは明確に衰退期に入ったのだろう。これは僕が個人的に「飽きた」からではない。参加者がかなりの人数に達してしまい、結果としてネットをやっている日本人はほぼ全員が参加していると言っても過言ではない状態だ。正確には、「やりたいと思っている人なら誰でも参加できる」という状態である。こうした状況においては、ミクシィというのはもはやコミュニティですらなく、ただの手段である。数年前のミクシィは会員制というハードルの元、ある程度のリテラシーとセンスを持った人間を母集団とし、それなりの特徴を保持していた。大衆化によってそれが失われてしまった。
もちろん、ミクシィに意味がないわけではない。たとえば、僕が「どこかに夢の遊眠社が好きだった人はいないかな?誰かいたら、情報交換したいな」と思ったときには威力を発揮する。つまりは上で書いた「オタク」の部分にアクセスすればいい。また、それがない場合は自分で作ってしまえば良いだけだ。実際、僕が作った「夢の遊眠社」というコミュニティには現在76人が所属している。ミクシィというメディアは、そういうコミュニティ作りには非常に強い。
結局のところ、ミクシィはソーシャルネットワークというパーツから、ソーシャルネットワークを形成するためのインフラへと成長したということなんだと思う。そういうインフラを一民間企業が掌握したというのはある意味凄いことだと思うのだけれど、その内容がインターネットそのものに近づけば近づくほど、その中身は希薄になってくるはずだ。具体的に言えば、そこで日記を書く人の人数は減り、コミュニティで記事を書く人の数は減り、そしてそれらを閲覧する頻度も減ってくるだろう。僕が「ミクシィは衰退期に入った」と感じる最大の理由は、そこで生産されている情報の量が明らかに減少していると感じることだ。その理由がどこにあるのかは正確にはわからない。けれど、この感覚はおそらく多くの人が感じていることだと思う。「なんか、最近のミクシィはつまらないな」という感覚。そして、「ちょっと飽きちゃったかも?」という感覚。
こうした変化によって、今まで「アクセスしていると面白いことがあるかもしれない」場所だったのが、「ある目的があるときだけアクセスすれば良い場所」へと変わりつつあるのだ。そして、「何か明確な目的があるわけではないけれど、なんとなく」というクラスターはたとえばTwitterなどのそれに適したメディアに流れてしまい、また、何か特別な目的を持って情報収集したい人は、昔からそこに存在するウェブサイトやブログへ流れてしまう。
ここまで書いてきて、ちょっと僕の頭も整理されてきた気がする。昔はミクシィの中で、2ちゃんねるやTwitterのような活発なやり取りが行われていた。そういう場所では、上に挙げたような衆愚が展開されることがない。「こういう表現は不愉快だ」などと表明しているそばからそのネタは消費され、過去のものになっていた。だから、誰もそんなことには気を配らなかったのだろう。今のミクシィは情報の生産頻度が下がってきてしまって、結果として、一部の物好きによる、あまりたくさんではない、そして提供スピードが遅い情報の集積場となってきてしまったのではないか。こうした情報はフィルタリングの餌食になりやすく、そして、得てして価値が低い特徴がある。要するに、ミクシィの中に存在する情報の価値が下がってきているということだ。
巨大化と衰退を繰り返すのが普通のネットサービス。ヤフオクのように例外もいくつかあるのだけれど、ミクシィの場合は衰退の可能性が高いと思う。ただ、ミクシィが一つの社会インフラであることは間違いがない。ソーシャルネットワークという部分から、別の部分、たとえばゲームを提供するプラットフォームへと変わるとか、あるいはより小さなネットワークへのハブに変わるなどの方法によって生き残っていくのかも知れない。
大衆化によってなぜミクシィが衰退に向かってしまったのか(あくまでも僕の個人的感覚であって、そう思わない人の方が多いのかも知れないけれど)。Twitterのようなサービスもミクシィで展開できたはずだ。それができなかったのはなぜか。もしかしたらそれは、「公開企業」としての立ち位置での展開が難しかったということなのかもしれない。そういえば、ミクシィが株式公開してからは、ミクシィ内のアダルトコミュニティなどが激減したようだ。厳密に言えば株式公開の影響ではなく、未成年者でも利用できるようにしたためにアダルトコミュニティを検閲することになったのだが。アダルトに限らず、公開して以後、ミクシィは非常にお行儀の良い空間、言葉を換えればつまらない空間になったと思う。
公開企業になったことによって実現可能になったことも少なくないはず。しかし、同時に失ったものもあるようだ。ミクシィはプライベートカンパニーでいれば、もっと面白い会社でいられたのかも知れない。