2009年09月24日

中立的シンクタンクなど必要ない

政権交代が起きたおかげで、色々とパラダイムシフトが誘発されて、第三者的に見ていて面白い。

そんな中、時々目にするのが「こんなときこそシンクタンクが必要だ」という意見。それはそれで間違いないのだが、ここで少なくない人が誤解しているのは、「シンクタンクというものは中立的に正しいことを主張するんじゃないか」ということ。三菱総研にいた僕が言うのだから、少なくとも三菱総研については間違いがないが、政治的にも、思想的にも、完全に中立な主張などは三菱総研の中には存在しない。これは当たり前と言えば当たり前で、別に三菱がどうとかじゃなくて、シンクタンクならどこだって偏りがある。また、顧客とか、その担当者に都合の良いように報告書をまとめるのも日常茶飯事。特に三菱総研はついこの間株式公開したわけで、一層中立性は担保されにくくなったはずだ。

ただ、政治的、思想的に偏っていたからといって、そこが発信する情報に価値がないわけではない。要は、その情報や判断をどう利用するか、利用者サイドの問題になってくるわけである。

つい昨日も現役のシンクタンク研究員(50代前半の、最も発言力がある人種)と、シンクタンク就職希望者とのディスカッションを聞く機会があった。そこで研究員氏が言ったことは「クライアント(顧客)は、『どうしたら良いのか、○なのか×なのか、右なのか左なのか』を聞いてくるが、我々は情報を整理して、おススメのプランを提示するだけ。最終的な判断はクライアント自身がやらなくてはならないし、その判断に対する責任もクライアント自身が取らなくてはならない。その点で、我々がやっていることはあくまでもアドバイザーである」ということ。もう、これ以上でもないし、これ以下でもなくて、シンクタンクの現状がこれによって完全に語りつくされている。僕が三菱総研に在籍していたときには「成功報酬のような形態はあり得ないのか?」という議論もあったのだが、クライアントサイドからも、三菱総研サイドからも、都合が悪かったり、リスクがあったりで、結局現実的ではない、ということになった。成功報酬云々はまたちょっと論点がずれるが、何しろ今のシンクタンクという組織は基本的にそのアウトプットについてなんら責任を取らない立場である。だから、役に立たない。

ちょっと、政党、シンクタンク(政策志向の場合)、官僚、生活者の関係について整理してみる。

本来、シンクタンクとは政策提言をすべき組織であって、政策について民意を問うのは政党の役割だから、政党の頭脳がシンクタンクで、手足となるのが官僚でなくては困る。生活者は政策の内容を見て、政策を支持する。駄目な政策を立案していれば、結果的に政権を取れなくなり、シンクタンクの職員の給料は安くなる。下野したら下野したで、きちんと給料をもらうために真剣に「生活者に支持されるための政策を考える」ことになるわけだ。これが、政党、シンクタンク、有権者のあるべき関係であって、シンクタンクの職員の給与というのは間接的に生活者の評価を受ける必要がある。そして、手足は頭脳が変わったらそれにあわせて動けば良いだけ。「テニスをやるぞ」と思えばそれに合わせた動きをするのが手足の役割だし、「水泳をやるぞ」と思えばそれに合わせた動きをするのが手足の役割。じゃぁ、今日はテニスをするべきなのか、水泳をするべきなのか、それを考えるのは頭脳の役割だが、頭脳はどうしたって偏りがあるので、「テニス大好き」という頭脳なら基本的にテニスをやりたがるし、暑いのが嫌いな頭脳なら、当日の気温にあわせて、「今日は暑いから水泳」とか考えることになる。生活者は、そういう動きを見ていて、「僕は水泳が好きだから、こっちの頭脳を選ぼう」とか考えれば良い。

ところが、今はなぜかシンクタンク機能を官僚が果たしている。手足が勝手に「テニスをやろう」と言い出してしまう。しかも、手足は一つしかない。二大政党制よろしく、選挙によって「今回は手足をこちらに変えましょう」というわけにはいかないのだ。生活者は手足に対して文句を言うことができないので、「本当は水泳をしたいのに」と思っていても、なぜかテニスをやる羽目になってしまい、「どうも納得いかない」ということになる。

ということで、「こんなときこそ民間シンクタンクの出番」という意見は、適正でもあるし、間違いでもある。求められているのは、「どこの誰のためともわからず、その判断が間違ったとしても何の責任も取らない」シンクタンクではない。政権与党、あるいは政権を取ろうとしている野党のために、生活をかけて、最終的には生活者に評価を受ける立場のシンクタンクである。日本にそういうシンクタンクがあるのか、ないのか、良くわからないのだけれど、少なくとも野村や三菱がそういうシンクタンクでないことは間違いがない。

では、なぜそういう「政党の頭脳」たるシンクタンクが日本に存在しないのかと言えば、話は簡単で、官僚がいるからである。

ようやく二大政党制が機能し始めて、政権交代が起きうる体制になった。社会主義からの脱却の小さな一歩ではあるけれど、日本の民主主義にとっては大きな一歩でもある。次に求められるのは、おそらくは脱官僚。別に官僚が無能だと言っているわけではない。というか、僕は日本人の中でも、官僚の能力を非常に高く評価している人間の一人だと思う。そして、僕が思うのは、「官僚を上手に使いこなす」などという腰の引けた姿勢ではなく、官僚組織を解体して3分割することが必要ということ。

3つとは、民主党か、自民党か、どちらかのシンクタンクを形成すること。残りは、政権与党の言いなりになって、機械的に作業をするだけのクラスター。第3のクラスターももちろん必要だ。

「国民のために考え、常に正しい判断を下すシンクタンク」などは幻想である。最低でも二通りの選択肢を用意し、それについてきちんと国民の評価を受ける。何か失敗をしたら、その責任を取る。重要なのは、中立であることではなく、責任を負いつつ判断をすることのはずだ。

では、それをどうやって実現したら良いのか。これも、実はそれほど難しくない。「中央官庁の方々は、今後、何も考えなくて結構です。政権与党と、そのシンクタンクが命ずるままに手足となって動き、国民のために働いてください」ということを表明すれば良いだけ。「えーーー、そんなんじゃつまらないじゃん。俺は政策を立案していきたいんだよ。財務省から予算を取って来るのが面白いんじゃん」という人は、勝手に辞めてもらって、民主党なり、自民党なりのシンクタンクに転職すれば良い。そうすると、多分中央官庁の人手は足りなくなるだろうけれど、幸いにして世の中には高学歴ワーキングプアと呼ばれている人たちがたくさんいるので、そういう人たちをどんどん採用すれば良い(ただし、任期付きで、是非。能力があれば延長可能で)。政党付属のシンクタンクという受け皿を用意しつつ、官僚組織の大幅な改革を実現すれば、黙っていても収まるところに収まるはずだと思うのだけれど。

って、書くのは簡単なんだがなぁ(笑)

ちなみに、中立的なシンクタンクは存在し得ないけれど、中立的な情報バンクは存在し得る。そちらはそちらで価値があるはず。たとえば、八ツ場ダムについてはこんな資料が存在する。

みんなの八ッ場パーフェクトガイド

これとか、凄く面白い資料なんだけれど、ちょっと「大丈夫かな?」と感じるのは、この資料をまとめたのが八ッ場ダム建設中止派だということ。情報というのは基本的に多ければ多いほど良いのだけれど、その中から自分達に都合の良いところだけを集めて提示するというのは誰でもやること。この資料も、中止派がまとめているだけに、どういうバイアスがかかっているかはきちんと考える必要がある。僕みたいに慎重な人間からすると、「とりあえず、どちらに与するというわけでもなく、情報だけをひたすら集めるような組織があればなぁ」と思うわけだ。あ、そういうことも、公務員の皆さんがやってくれれば良いんですね!

20100412追記 関係ある記事を見つけたのでリンク。
政権交代と回転ドアの「ブレーン」

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