2009年10月15日

ブログでバイオ 第66回「役所の人材育成には将来に向けたパースペクティブなどない」

普通のテーマで書いたつもりだけど、ブログでバイオにしちゃえ(笑)。

僕は経産省時代に人材育成の予算を獲ってきたことがある。バイオのベンチャー人材を育成しましょう、というようなお金だったわけだけれど、これはどんなお金かって、「将来活躍して、産業を支えてくれるような人材を育成しましょう」というもの。じゃぁ、そのお金を使って人を育成できるかといえば、それは可能性の問題であって、どうなるかなんかわからない。結果的にそのお金を使って育成された人や会社は出てきたので、それはそれで喜ばしいことだけれど、「これなら絶対」なんていう自信があったわけじゃない。要は、一種の投資だったということ。

さっき、Twitterでサイエンス・コミュニケーターの話があったんだけれど、こういうのも一緒。「科学技術の専門家と市民との間を橋渡しする人材が求められている」とか言っても、これは国のお金を獲るための作文であって、本当に求められているかどうかなんてわかったもんじゃない。もちろん、企業からすれば「せっかく最先端の技術を使っているのだから、それを理解して活用して欲しい」という建前はあるだろう(実際は、トクホみたいに本当のことを言えば大して効果が見込めないものを、科学を知らないおかげで勘違いして買ってくれる状態は企業にとってありがたいはず)し、大学などの人材供給サイドとしては「失業されたら困るから、社会に出たときに活躍できる可能性を確保しておきたい」というのがあるだろう。双方に利益があるので、「よーし、じゃぁ、この予算を獲りにいくぞ」ということになる。

正直に言うけれど、僕が人材育成の予算を獲りに行ったのだって、「今まで人材育成の分野は厚労省と文科省のテリトリーだったけれど、経産省もこの分野を開拓したい。これまで散々バイオベンチャーを見てきている人間から見て、何か玉は出せないのか」という上の意向があったから実現したわけであって、「どうしても絶対何が何でも人材が必要」というわけではなかった。役所(の上層部)が考えることは「どういう文脈で予算を確保するか」である。

これらの予算獲得スキームの中で、育成される側の当事者の意向なんていうのはどこにも存在しない。また、当たり前だけれど、彼らの将来に対する保障もない。重要なのは、人材育成のテストが行われ、ある程度の方法論が確立され、それが一般化することなのだ(それが可能かどうかというのはかなり疑わしいが)。もちろん、そのテストを通じて育成された人材が大活躍してくれれば、そんなに望ましいことはない。「ほらみろ、うまく行ったじゃないか。俺たちは政策立案能力が高いんだぞ。次はこれだ」みたいなことになるわけだから。だけど、別に育成した人たちの将来がどうなるのかなんてわかったものじゃない。バイオベンチャーの人材だって、2000年前後はブームだったからニーズがあったけれど、今はどうなのかわかったものじゃない。結局、最終的には仕事があるかどうかは周辺環境と本人の努力次第、能力次第ということになる。

そして、「さぁ、育成したのは良いけれど、どうにも仕事がありませんね」という事態はそう珍しいことではない。その場に至って、役所は「僕たちは財務省に行って予算を獲ってきただけ」というし、その予算で動いた組織は「僕たちはお金を使って人材を育成して、マニュアルを作っただけ」というし、社会は「別にそんな人材は必要ないですよ」というので、人材が宙ぶらりんになるわけだ。こういう場面で、優しい人たちは「このかわいそうな人たちをなんとかしてあげてください。国のお金で育成したんだから、国が面倒を見てあげてくださいよ」とか言うわけだけど、もう筋違いも甚だしい。

仕事が仕事として成立することの難易度は、その仕事が対象とするマーケットの大きさと、マーケットまでの距離によって規定される。そして、成立するからといって、その仕事ができるかといえば、これはこれでまた別の、本人の能力とか、努力とか、運とかが関わってきて、誰もがそれをできるわけではない。

ためしに、サイエンス・コミュニケーターっていう仕事が成立するのか、という個別具体的な事例について考えてみる。

まず、マーケットサイズ。「科学技術について、お金を払ってでも知りたい」という人がどの程度いるのかということ。僕は北の丸の科学技術館の一部の展示とか、つくばのエキスポセンターの一部の展示とかのプロデュースをやってきているので、お金を払って科学についての知識を得たいと思う人たちを実際に見てきている。しかし、そのパイがどの程度なのかというと、おそらくそれほど多くないと思っている。また、そのパイを一箇所に集めるというのもそれなりに難しい。となると、マーケットのサイズ自体はそれほど大きいとは言えないのではないか。

次にマーケットまでの距離。これは個人でやる場合と、会社でやる場合とが考えられるのだけれど、まずは個人でやる場合で考えてみる。元木一朗というサイエンス・コミュニケーターがいたとして、こいつに誰がどういう目的で仕事を出すのか。製薬会社にしろ、食品会社にしろ、「元木さん、ぜひ当社の技術を生活者の皆さんにわかりやすく伝えてください」などとオーダーを出すのか、ということなのだが、ちょっと考えにくい。「そんなの、広告・宣伝の部署のやつにやらせておけ」ということになるはず。じゃぁ、学校?「うちの高校生たちにサイエンスを教えてやってください」というオーダーを出すのか、ということ。うーーーん、これもちょっと簡単には思い浮かばない。コミュニケーターが元木一朗じゃなくて、ノーベル賞受賞者とか、あるいはトップアイドルとかなら話は別(たとえばキムタクが女子高に行ってトクホについて説明する、なんていうのならニーズは必ずあるはず)なのだけれど、それはサイエンス・コミュニケーターという仕事自体へのニーズではない。将来的にカリスマ・サイエンス・コミュニケーターが誕生して、引く手あまたになる可能性は否定できないのだけれど、じゃぁ、安定してオファーがあるの?とか、誰でもオファーがあるの?となると、常識的に言って答えはノーだと思う。じゃぁ、元木一朗サイエンス・コミュニケーターは個人としてはやっていけそうにない。じゃぁ、会社の中の人間としてならどうなのか。たとえば味の素にサイエンス・コミュニケーター。うーーーーーん、なくはないかな。味の素に一人ぐらい、プロのサイエンス・コミュニケーター。なんかありな気がする。でも、二人は要らない。あと、内部で育成可能なので、わざわざ育成されたサイエンス・コミュニケーターを採用する必要はない。となると、企業の場合は会社自体がマーケットになるけれど、そのポストに就くのが大変だってことで、それはサイエンス・コミュニケーターを目指す人から見れば、マーケットまでの距離が遠いことに他ならない。もうひとつ、会社のパターンとして考えられるのが、サイエンス・コミュニケーターをある程度プールしておいて、必要に応じてそれを派遣するようなスタイルの会社に所属すること。これになると上にあげたパターンよりも大分先が見えやすい。そういう会社があるのかどうか知らないけれど、リバネスあたりがやっていても不思議ではない。

個人でやるにしても、組織でやるにしても、やっぱりマーケットまでの距離はかなりあるようだけれど、会社組織としてコミュニケーターを抱えて、そのプロデュースをしていく、というのなら、ありなのかも知れない。と考えていくと、「可能性はゼロではないけれど、これは結構難しくない?」ということになる。マーケットサイズは小さいし、マーケットまでの距離は離れているのだから。難しいということは、本人の才能も、努力も、運も必要ということである。加えて、マーケットを顕在化させるだけの何らかの仕組みが必要だ。あと、忘れてはいけないこととして、サイエンス・コミュニケーターなどという名前を使っていないけれど、似たようなアクティビティを発揮している人はいくらでもいるということがある。たとえば僕は「親と子のゲノム教室」というバイオの入門書を書いていて、時々科学技術館のインストラクターに対してバイオをレクしに行ったりしている。そういう人間はすでに山ほどいるわけだ。

もちろん、「絶対無理」というわけではない。おそらく、最初の数人は大丈夫。でも、そこから先は難易度が格段にアップする。パイオニアは偉いので、先行者利益を得られるわけだけれど、追従者は「柳の下にどじょうはそう何匹もいませんよ」という現実を目の当たりにすることになる。まぁ、ニュース番組でちょっと能力不足を露呈させてしまった菊川怜あたりなら行けるかもな、と思うけれど。あ、これも純粋なコミュニケーターとしての能力じゃなくて、本人自体のアイドル性に依存しているか。

閑話休題。と、いうことで、結論としては、サイエンス・コミュニケーターっていうのは基本、難しいよね、ということになる。ケーススタディ、終了。

ある種の分野において、国のお金でスキルアップできることがあるのは間違いない。でも、将来は全然保障されていない。その手の人材育成のテスト生募集では、お題目として、「これこれこんな人材が必要とされている」などと書かれているけれど、そんなものは何だって書けるのである。「ラーメンのおいしさを網羅的に調査し、今一番おいしい店を紹介してくれる人間が求められている」「映画を年100本観て、面白い映画を紹介してくれる人間が求められている」「競馬に精通し、購入すると当たる可能性の高い馬券を紹介してくれる人間が求められている」って、全部嘘ではない。たまたま、誰も予算要求しないから(あるいはしたけれど、財務省にはねられた)実現しないだけで、「こういう人がいたら良いのにな」なんていうのは山ほどある。そして、たまたま財務省が「そのとおりだね」と思ってくれたとしても、ただ、それだけということ。じゃぁ、そういう人間が輩出されたからといって、本当に必要とされているのか、その点については、役人は何のパースペクティブも持ち合わせていない。財務省は予算を要求されたから予算をつけたのだし、各省は予算が欲しいから作文しただけなのだ。

役所のお金というのは基本的に単年度。政権が交代してしまえば継続性なんていうものはあっという間に失われる。そうした中で配られるお金は、どうしたって散発的なものになる。人材育成だって、あくまでも最初の背中を押すだけのこと。そこから先は、当事者たちの努力と、周囲の理解と、そして社会のニーズが必要なのだ。ここでひとつ重要なことは、社会のニーズとは常に変化しているということだ。今必要とされていても、5年後に必要とされているとは限らない。

それからもうひとつ、忘れてはならないこと。この手の人材育成がうまく回り始めると、それなりの数の人間が輩出されることになる。そして、人数が増えたとき、何が起こるのか。一人当たりの価値が下落する。つまりは、収入が減るということ。弁護士や医者のように、規制によって人数が制限されている職業とは違うということを覚えておく必要がある。今皆が生活が成り立っているからといって、人数が増えたときに相変わらず成り立つのかどうかは非常に疑わしい。このあたりは、規制がない限りは市場原理に従うのだ。能力の高い人間は能力の低い人間より収入が多くなるし、総数が増えれば平均収入は少なくなる。

#念のために書いておくけれど、僕は役所が無責任だとか言いたいのではない。当たり前の話。要は、政策的に何か人材を育成しようという制度があったとき、それをうまく使ってスキルアップするのは良いけれど、それは別に将来を何も保障しないんだから、何をするにしても色々努力する必要がありますよ、ということ。

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