2010年01月13日

衆愚化を絶対に回避できない一般参加型ネットサービス

一般参加型のネットシステムはどうしてすぐに衆愚化が叫ばれるのか。この問に対する回答は簡単なんだけれど、いくつか順を追って考えてみる。

ミクシィにしても、はてブにしても、2ちゃんにしても、必ずと言って良いほど、サービス提供からある程度の時間が経つと「衆愚化が進んでいる」という問題提起が行われる。そして、その時点ではもうその流れは修正不可能となっている。というか、「衆愚化している」というのはあくまでも評論的視点であって、だからどうだということは、最初からない。そして、この流れはどんなサービスであっても逃れられないというのが僕の私見で、だから、「Twitterは衆愚化している」と言えばそこそこの確度で正しいし、「Twitterは衆愚化しつつある」と言えばかなりの確度で正しいし、「Twitterは衆愚化する」と言えばもうこれはまず間違いがない。

では、ここで言うところの衆愚化とは何なのか、ということになるのだが、この定義は色々と考えられる。そこで、僕なりにそれを考えてみるのだが、まず「衆愚にならないために必要なこと」を考えると、こんな感じになる。

個人的ニーズ:
1.僕が欲しいのは判断材料としての情報である(=判断をして欲しいのではない)
2.そのためには、多様な意見が存在することが望ましい
3.情報にバイアスがかかるのは避けられないが、情報にどういうバイアスがかかっている可能性があるのかは知っておきたい

ニーズの背景:
1.絶対的な正義は存在しない
2.様々な視点からの情報が必要だし、場合によっては新しい視点からの提案も必要
3.最終的に判断するのは「みんな」ではなく、自分

そのために必要なこと:
1.意見の多様性が確保されている
2.情報発信者がそれぞれに独立していて、相互に干渉しあわない
(当然ながら集合知に関する概念と共通)

衆愚とはこれの逆であると定義するならば、一般参加型ネットシステムの衆愚化とは、

1.意見が均質化している(均質化しやすい)
2.参加者が相互に干渉しあっている(馴れ合っている)

と定義できる。

僕は現在でも2ちゃんについてはある程度の多様性と相互独立性が確保されていて、極端な衆愚には至っていないと考えているのだが、一方でミクシィに関しては衆愚化が行き着くところに行き着いた感があり、メディアとしての魅力はほぼ完全に失われたと思っている。メルマガの代わり、同好会の情報共有の場、友達との連絡ツール、他の参加者と一緒に楽しむ形式のゲームによる時間つぶしなどには使えるが、それ以外のことに利用するのはちょっと難しい印象がある。すでに成長期を終えているので、一時のようなスパムの増加には歯止めがかかっているようだが、メディアとしての面白さは欠片もない。もちろん、ミクシィに何を求めているかは人それぞれなので、「いやいや、ミクシィは素晴らしい」と思う人の方がマジョリティであっても不思議ではないし、実際のところ、株価の推移を見ても、2008年1月前後の200万円以上という株価には全く及ばないものの、2009年3月ぐらいからは順調に上げてきている。それでも、僕は「ミクシィはもう終わったな」と思っているし、そのあたりのことは去年の9月に書いているのでそちらを読んでもらうとして、

ミクシィはプライベートカンパニーでいれば良かったのかも知れない

ミクシィの例でも明らかなように、一般参加型のネットシステムは衆愚化という宿命を背負っているもので、しかもそれは避けられないのだ。

では、何故衆愚化するのか。

これは日本だけに特殊な状況なのか、それとも全世界的な傾向なのかはわからないけれど、日本に限れば、利用者が衆愚化を求めているからである。つまりは、均質化された意見と馴れ合いの状況に自分を置きたいと思っているのだ。「みんなが私と同じ意見だから、私の意見は正しいと思いたい」し、「自分の意見はないけれど、みんながどう思っているのかは参考にしたい」し、「みんなに溶けこむことで安心したい」し、そして「みんなと一緒であることによって考えることから解放されたい」のだ。

衆愚化を避ける方法を、僕は今のところ一つしか思い浮かばない。それは、そのシステムに参加する人の大部分が、そのシステムのクオリティを維持するためには衆愚化こそが敵であると認識し、その危機感を共有し、そして、それを避けようと意識し続けることだ。まぁ、「衆愚化は駄目」という思想を共有しようとすること自体、思考の自由度を奪うもので、それすらも衆愚への道行ではある。だから、本来は「やめようぜ!」と旗を振るべきことですらない。だから、僕も、「僕はこう考える」と、自分の意思を表明するだけだ。あとはこれを読んだそれぞれの人が考えれば良いし、共鳴するなら、そう考えれば良いだけのこと。

例えばTwitterにはRTという機能がある。「僕もそう思う」と思った場合に機械的にこれをやると、その情報はあっという間に拡散する。これなどは衆愚化のためのターボチャージャーみたいな装置である。しかし、その一方で、「この話、くだらなくて面白いよな!」というのをRTでみんなに知らせたいという気持ちもあって、それはそんなに衆愚にはならない。いや、結局は受け手の問題なんだろう。RTされてきた情報を見て、「あぁ、こういう意見もあるんだな」と、自分の判断のオプションを増やせるなら、RT機能は衆愚にはつながらない。RTを読んで「僕も同じだ」「仲間がいた」と安心したり、「みんなはそう思っているんだ」で思考停止したり、「みんながそうなら意見を変えよう」と安易に大衆に流されたりするのが衆愚につながる。

そして、日本人は、その農耕民族的な気質からして、どうしても衆愚に流されやすい。衆愚化が悪化すると「みんなこう言ってるんだから、意見を変えなさい」と多様性を排除しようとする思想まで現れたりして始末に負えない状態となるのだが、日本では決して珍しくない。実際には「私も同じ意見です」と表明することは、多数決で何かを決めようとする場面以外では何の生産性もない行動なのだけれど、日本においてはそれが意味を持つところが特徴的だ。

だから、日本ではどんなシステムであってもすぐに大衆化し、そしてすぐに消費し尽くされてしまうんだと思う。まぁ、そのおかげで次から次へと新しいシステムが登場するわけで、それはそれで悪くないと思う。ふと後ろを振り返ると衆愚化した残骸が山ほど転がっていたとしても、その中からもきっと何か新しいものが生まれてくるはずだ。

だけどやっぱり、イノベーションを生み出していく社会の構築には、この気質はちょっと向いてない。

同じシステムでも「色々なものを見たい」と思うか、「同じ考えの仲間を見つけたい」と思うかによってその将来像は全く異なる。また、「他人とは異なる情報を発信したい」と思うか、「他人と一緒であることを表明したい」と思うかによってもその将来像は全く異なる。システムの将来像は、システムそのものには寄らなくて、利用者によって規定される。システム構築サイドが「衆愚化しないシステムを作りたい」と考えても、どうにもならないのだ。

いや、もしかしたら、どうにかなるんだろうか?「衆愚化しない一般参加型ネットサービス」とは。ちょっとここについてしばらく考えてみたい。今年から始める予定の勉強会があるのだけれど、一見、全然関係なさそうでいて、実際のところ、一つのブレイクスルーになる可能性がある気もする。そのあたりについてはまた後日お知らせできればと思う。

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