2010年03月29日

TwitterのSN比

本稿は現在執筆中の割引制度に関する本に掲載する予定の文章なのだけれど、まぁ、ここに書いても別にいいでしょ、と思うので、載せちゃう。

さて、唐突だけれど、昼時に神田の町を歩いていることを想像してみて欲しい。通りにはカレー屋さん、ラーメン屋さん、定食屋さん、焼鳥屋さん、パン屋さん、コンビニ、牛丼屋さん、ハンバーガー屋さんなどのファストフード。色々なお店がある。なんとなく歩いていて、ピンときたお店に入って昼ごはんを食べることにする。普通の行動だ。

この何気ない日常に、「売り手」と「買い手」の情報交換が起きている。何の情報もなければその店に入るはずはないのだ。少なくとも、そこにお店が存在することをお店はアピールしていて、僕はそれを受け取って、その店に入る。その行動を仲立ちするのは「情報」だ。そして、その情報は、店側は不特定多数に発信していて、僕はその情報を個として受け取っている。これが商売の基本である。

さて、この「情報」は、一般には広告として理解される。僕はお腹がすいていて、何かを食べたいと思っている。その人間に対して、お店は「うちはあなたにこういう商品を提供出来ますよ」とプロモーションしていて、僕がその提案に合意したことによって、僕はその店で食事をすることに決めたのだ。このときの店からの情報は僕にとって間違いなく有益な情報である。つまり、広告とは、それを必要としている人間にとっては間違いなく役に立つのだ(必要としているのだから当たり前)。

ところが、ネットサービスが成熟してくると、この「広告」が幅をきかせすぎて、そして、そのメディアは衰退していく。世の中にあるほとんどのメディアはこのパターンで衰退しているし、ネットサービスは広告の参入が容易なので、メディアの寿命が既存メディアに比較して格段に短い。ブログというメディアは今や青息吐息だ。それは、アフィリエイト満載のブログがどんどん登場してきたことによる。先日、口コミマーケティングに対するガイドラインなどが発表されたが、これなどはそうした状況に歯止めをかけようという動きだ。しかし、こうした動きは、その衰退のスピードを減速させることはあっても、停止させたり、逆方向に進ませる原動力になったりはしない。なぜなら、広告したい人、ものを売りたい人は、「よりたくさん売りたい」と強く思っているし、「少しでもたくさん儲けたい」と思っているからだ。そのために、売り手は知恵を絞る。こういうひとりひとりの地道な努力というのは全くバカにできない。恐ろしいほどのパワーを秘めている。そして、それをコントロールするのは非常に難しい。そのエネルギーを利用すること、その流れに乗ることは比較的簡単だが、それを思った方向に導くのはとても大きなエネルギーを必要とする。また、そうした「流れの中にないもの」(流れの方向を変えようとする因子)は、得てして志半ばで全体のシステムから排除されてしまうことになる。

広告は、上にも書いたように、それを欲っしている人、必要としている人にダイレクトに届くなら、何の問題もない。問題は、それが必要としていない人のところに届いてしまうことだ。その頻度が多ければ多いほど、個々が貯めるストレスは増大し、それがメディアの負荷となっていく。その負荷を少しでも減らすにはどうしたらいいのかを考えたのがGoogle様で、そこに目を付けたところはさすがという他はない。今や、ほとんど全てのものがGoogle様の手の内に落ちつつあるのだが、今回はそのあたりに触れるのが目的ではないのでサクっとスルー。

広告に限らず、情報の発信者と、情報の受け手の間には、どんな情報であっても上のような「必要かどうか」という視点が存在する。必要な情報がどの程度含まれているかによって、そのメディアの価値は上下する。例えば新聞ひとつ取っても、全ての記事に目を通して消化する人も入れば、テレビ欄しか見ない人もいる。見る側のニーズはそれぞれで、情報発信側はそのニーズに少しでも適合したものを提供しようとするから、大抵の場合、そういった情報提供メディアはほとんどの人間に対してオーバースペックになる。これまた卑近な例で言えば、僕は毎週週刊少年マガジンを買って読んでいるが、読むのはボクシング、サッカー、バドミントン、野球の漫画ぐらいで、他の漫画は読んでない。全く目を通していないのだ。なぜならつまらないから。ただ、他の漫画が面白いと思う人もいるだろうし、面白くなくても、勿体無いから全部読む人もかなりいるはずだ。それで、僕はまだ少年マガジンを買っているけれど、いつ買うのを辞めても不思議ではない。「これなら立ち読みでも十分」と感じてしまったとき、僕はこの雑誌を買うのを辞める。こうした行動パターンによって、僕はジャンプも、ヤンマガも、モーニングも読むのを辞めてしまった。新聞や雑誌などはわかりやすい例なのだけれど、ブログやTwitterなどのネットシステムにおいても同じことが起きている。例えば僕のブログは何度も言っているように、お手本にならない例。掲載されている記事がばらんばらんでまとまりがない。だから、ほとんどの人にとって、僕のブログはクズ情報ばかりで、その中に時々役に立つことが書いてあるといった状態になっているはずだ。そして、このあたりにTwitterというシステムの行く末を占う部分が出てくる。

Twitterというのは、ゆるい関係、流れて行ってしまっても問題のない情報が満載というところに価値がある。あぁ、読んでないや、それ、という事態が起きても何も問題がない。ところが、そうしたシステムでは困る人たちがいる。言うまでもなく、ここでビジネスを展開したい人たちだ。その人たちはなるべくきちんと情報を相手に到達させたいと考えている。だから、あの手、この手で情報が相手に伝わるように、できれば不特定多数の相手になるべく定着率が高い形で伝わるようにしたいと考えている。ところが受け手の方は別にそれを期待していない。むしろ、必要ではない情報は存在して欲しくないと考えている。そのあたりの非対称性が、Twitterの危ういところである。

ちなみに、こうした「受け取って欲しい人」と「受け取りたくない人」の関係は、ビジネスだけではなく、個人でも同じように存在する。多くの人がなぜTwitterでつぶやくのか。それはもちろん、誰かに読んで欲しいからだ。逆に言えば、読んで欲しくないなら、そこでつぶやく必要は全くない。もちろんそういう人もいるにはいるだろうが、恐らくはマイノリティ。どこの誰ともわからないけれど、とりあえずは誰かに読んで欲しいと思っているのだ。「私はここにいますよ」と。でも、受け取る側からすれば、そこで発信される情報を全て受け取るわけにはいかない。面白そうなもの、ためになるもの、フィーリングがあうもの、動機は色々だろうけれど、ほとんどのものはスルーされ、ちょっとしたきっかけがある情報だけが目に留まる。こうした、情報の垂れ流しと、偶然によってTwitterの空間というのは形成されてきた。ところが、その状況が徐々に変わりつつある。

例えば、公式RTというシステム。これは、誰かが「これは面白い」と思ったとき、自分のフォロワー達にそれを伝えるシステムだ。ただこれだけなら特に大きな流れはできないのだけれど、そこに商売が絡むとそうではなくなる。実際、今、公式RTを見ていると、コンサルティング色の濃い書き込みが山ほど見受けられたりする。また、Twitter割引などといった広告手法も編み出された。「フォロワーの数だけ割り引きますから、買い物するときに「○○で買い物してます」とつぶやいてください」とお願いするわけである。非常に簡単に広告媒体を手にいれることができる。ひとりのフォロワーにつき10円を支払うとしても、ひとりについて10円の費用で情報を発信できるわけだから、Googleの広告と同じような効果を発揮する。しかも、この行為に関してTwitterの運用者は何も関与していないのだ。つまりは、ある意味で非常に使い易い広告媒体ということになる(もちろん、その効果がどの程度なのかはさっぱりわからない。しかし、全国ロードショウの映画などではかなり効果が出そうだ。一方で、ちょっと地方でやっている個人経営の小売店などでは全く役に立たないだろう。つまりは、その広告が発信される行き先のフォロワーがどこに分布しているのかが非常に大きなポイントであって、現実問題として東京、大阪に集中していることは想像に難くないので、地方でこういう割引をしてもそれほど大きな効果をあげるとは思えない。

Twitterはこれまで、こうした商行為がそれほどアクティブに展開されていなかった。だから、そこには「読んで欲しいちょっとしたつぶやきを書く」という行為と、「たまたまそれを読んで、面白いと思った人が反応する」といった行為だけが存在した。実際にはこれも、「面白い情報には偏りがある」という冷酷な現実があって、つぶやいてもつぶやいても全然読んで貰えない人というのも存在しているはずなのだ。というか、実はそういう人の方が多いのかも知れない。そりゃぁ、誰だって、面白くない情報よりは面白い情報を読みたいのだから。こういう齟齬がもともと存在していたのだけれど、今後は恐らくそこに商行為の齟齬が発生してくる。つまりは、Twitter割引に触発されて何気なく「今、○○で買い物をしてます」といったつぶやきをする人がどんどん増えてくるわけだ。さらには、「公式RTをしてくれた人にはさらに割引」とか、「公式RTしてもらえるつぶやきをしてくれたらさらに割引」といった行動が誘発されるのは容易に想像ができる。そうした空間に、Twitterはなりつつある。今まであまり広告が存在しなかったTwitterの中にこうした広告が山ほど存在することになるのかも知れない。

例えば、今、キャラメルボックスという劇団が「Twitterフォロワー割引」を実施している。

Twitter、やってますか?

これは「割引」という看板になっているが、実際はTwitterを利用した広告行為である。つぶやいたお客さんは割引という「対価」を貰うことによって、Twitter上にキャラメルボックスの「広告」を流していることになる(広告主がキャラメルボックス)。これなどは先日、WOM マーケティング協議会が発表したガイドラインに照らすならば、ほぼ間違いなく

口コミは自発的なものである。金銭で生み出されない。誰からも強要されず、発信者の自由意思が尊重される。


という部分に抵触している。なぜなら、このつぶやきは自発的なものではないからだ。さらにいえば、恐らくつぶやいている本人はキャラメルボックスの口コミマーケティングの手先として利用されていることに気がついてすらいないだろう。彼らは単に「得した!」としか思っていなくて、自分が広告をしているという自覚はないのだ。これは「割引」という言葉を利用することによって巧妙に隠されているのだから仕方がない。ストレートに言えば、つぶやいた人が受けるメリットは「割引」ではなく、「広告宣伝料」である。「Twitterでうちの劇団の名前をつぶやいて宣伝してくれたら、フォロワー一人当たり10円をお支払いします」ということなのだが、そこを「割引」という言葉でわかりにくくしている。僕は割引制度の専門家であり、同時にIT分野の会社の社長もやっているから、このあたりは慎重に見てしまうのだけれど、普通の人はほとんど気がつかないに違いない。お得な割引があるよ、でオシマイのハズである。

しかし、みんなが気がつこうが、気がつかまいが、ここに存在しているのは厳然たるマーケティング(というか、どちらかと言えばセールスプロモーションかも知れない)行為である。以前、僕はキャラメルボックスが実施しているブログライター取材というのに何度か参加したことがある。タダで芝居を観て、その感想を好きなように記事にする、というものだ。記事の内容にはチェックや圧力がかからず、好きなことを書いて構わない、というフェアなシステムだった。ところが、今回のTwitter割引はそれとは違う。書く文面が厳密に規定されているのである。それによって劇団名と劇団に関するハッシュタグの存在をPRしているのだ。

もちろん、純粋な割引であるということを主張することも可能ではある。ただし、その場合は

(3)その場で「キャラメルボックスなう #caramelbox」とアカウントからつぶやいてください。


という広告行為を要求してはならない。逆に言えば、これをやっているから割引が成立しているわけで、この行動がないならキャラメルボックスにとって何の価値もないことになる(あくまでも「いや、効果を調べたいだけなんです」ということなら、キャラメルボックスという文字も、ハッシュタグの使用も不要で、もっと意味不明かつ独自性のある文字列(例えば「和風ローストカレーバニラ風味」とか(笑))を書いてもらうようにオーダーすれば良い)。

キャラメルボックスの加藤さんが上記のガイドラインを知っているかどうかは知らないし、知っていてあえて無視しているのかも知れず、またあえて無視していてもだからどうだということは特にないのだけれど、個人的にはこういう活動というのはTwitterの存在を脅かすものになっていくだろうな、と思う。みんながこれを始めた状況を想像してみれば良いだけのことだ。

Twitterというシステムはブログに比較して格段に情報を発信しやすい。だから、広告を発信することも簡単だ。普段、「ネットの広告ってうざい」とか思っている人が、いつの間にか自分自身で広告してしまう可能性がある。この事例はその典型である。そして、今後はこういう事例がもっともっと増えていくだろう。

このキャラメルボックスの事例もわかりやすい例なんだけれど、実際にはもっとわかりにくい、微妙な例も存在する。最初の方に、「広告とは、適切な相手に届くなら必要不可欠」ということを書いたけれど、高度なマーケティングになると、「適切だと相手に思い込ませる」というものになってくる。もう、こうなってくると本当に微妙で、僕とかも営業をやっている人間であるにも関わらず、「自覚できないでいる人に必要性を気付かせる」ことと、「本当は必要ではないのに、必要だと勘違いさせる」ことのボーダーラインがどこにあるのか、自分でもわからない。営業をしている本人もわからないし、営業されているお客様もわからない、というケースがあったりする。例えばホリエモンのメルマガ。彼のメルマガを僕は読んでないので正確なことは何とも言えないのだけれど、多分、彼のメルマガを読んでも、ほとんどの人にとっては何の役にも立たないはずだ。なぜなら、彼は能力の高い人で、彼だからできたこと、彼じゃないとできないことが山ほどあるはず。そして、それをベースにしてアドバイスしても、それを聞いた側は「できる気になる」だけで、やっぱりそれは実現しないのだ。そして、「あぁ、やっぱりオレはホリエモンじゃないんだな」と気付くことになる。でも、別にこれは悪いことではない。ただ、「きっと役に立たないだろうな」と思うだけのこと。役に立たなくても別に誰も困るわけではない。で、その役に立たないものを、いかにも役に立つように見せて売っている。このあたりの、「役に立つと思わせる」ところが彼の才覚でもある。で、Twitterを利用して、フォロワー達に「ホリエモンの書く情報は自分の役に立つに違いない」と思わせる活動は、どこからがマーケティングなのかさっぱりわからないし、判断は不可能だろう。

ちょっと思うのは、ホリエモンは昔は無能な人を切り捨てて好きなようにやってきた人(つまりは、流れの中にいなかった人)だと思うのだけれど、それじゃぁ日本社会では限界があると気がついたんだろう。無能な人を敵にするんじゃなくて、無能な人の味方のふりをして、そこから少しずつ上納金を集めた方がずっと儲かるし、敵を作らないって気がついたんだと思う。そして、流れを変えるんじゃなくて、流れに乗ることにした。そして、そのためのツールとしてTwitterとか、メルマガとか、ブログとかを利用している。これは非常に示唆的な現象であって、多くの人が参考にできる事例だと思う。そして、ホリエモンはそうやって宗旨替えしつつ、その布教活動のツールとしてTwitterを上手に利用している。このあたりはさすがだと思う。

さて、そろそろまとめ。メディアの質というのは、そこに存在する情報のSN比(情報とノイズの割合)によって規定される。情報なのか、ノイズなのかは受け手次第。つまり、SN比は個人個人によって変わってくる。ただ、メディアの自由度が高ければ高いほど、そのメディアは商行為が入り込んできて、一般論としてはSN比は悪くなる。そして、それこそがメディアの寿命を規定してしまうのだ。

僕は、TwitterがかなりSN比が落ちてきたのを感じて、つまらなくなってしまって自主的な書き込みを無期限で停止した(ブログやYahoo!への投稿のお知らせは自動投稿されるし、友達との連絡には引き続き利用している。また、会社の社長としてのオフィシャルな情報発信は別アカウントで実施している。辞めたのは個人としての利用)。また面白いものに戻るならいつでも活動を再開するのだけれど、この手の流れはなかなか元には戻りにくいものだと思う。「商用利用が可能か」と議論や検討を始めたところが、そのメディアの終りの始まりなのだ。

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