2010年04月14日

プラットフォームが変わっても、それを使う人間のマインドが一緒ならあんまり意味がない

この間の弘前大学が馬鹿だって話もそうなんだけれど、今の世の中で馬鹿と馬鹿じゃない奴の差っていうのは、ひとつには「情報の公開」の意味をきちんと理解しているかどうかだと思う。公開すべきものと非公開にして良いものの線引きが適切に判断できるかどうか、ということなんだけれど。弘前大学がなんで馬鹿かって、そもそも税金に依存している部分が大きい組織なんだから、自らの正当性を主張すべきは役人じゃなくて国民のはず。「俺たちは正しい」って主張するなら、当然のことながらそれは全国民に対してアピールすべきところ。そして、そのためのツールはいくらでも用意されている。それなのに「公開しません」って、お前は馬鹿か?ということになる。っていうか、非公開にする意味がわかんない。非公開にしなくちゃならないような恥ずかしい内容なら、抗議したこと自体も内緒にしておけば良いのに、「抗議はしました。内容は秘密です」ってこれは完全に馬鹿。こういう馬鹿は残念ながら回復不能で、勉強しても治らないから、さっさと職を辞した方が良い。周りはなんで辞めさせないのか不思議。周りも馬鹿なのか、辞めさせるための仕組みに不備があるのか。

この事例は顕著だけれど、馬鹿は「みんなが情報を発信できる」という状態にフィットすることができない。つまり時代遅れ。そして、時代遅れの奴が内々にアピールしていることって、「要は恥ずかしくて表には出せないようなどうしようもない理屈なんだろうね」と勘ぐられるわけだ。弘前大学の学生や卒業生には全然恨みはないけれど、もし僕がこれから大学を受験しようと思ったとしても、弘前大学だけは受験しないね。馬鹿と思われるのは嫌だもの。

「誰でも情報を公開できる」というのはここ10年ぐらいで生じた物凄いパラダイムシフトで、それに合わせて世の中の価値観はもう大きく変わってしまった。でも、その変革についてくることができないシステムは山ほどあって、その代表例がマスコミ。ちょうど昨日、smashmediaの河野さんが「週刊ポストが筋悪」みたいな記事を書いていたけれど、これなんかも典型例。「僕はこんな風にしゃべって、それをベースに向こうがこんな記事をおこしてきたけれど、僕はそれを大幅に添削して、でも、最終的なものは本誌を立ち読みしてね」みたいなことがすぐにぶちまけられちゃう。

僕は10年ぐらい前に講談社の東京一週間で連載を持っていたんだけれど、それをやめたきっかけは講談社サイドが僕の記名記事を勝手に改変して掲載したこと。当時は今みたいに個人がメディアを持っていない時代だったから、出版社と著者の間には明確なヒエラルキーが存在していた。表面上は「書いてください」とお願いされて、「わかりました」と書いていても、実際には「書かせてやるよ」「ありがとうございます」の世界だった。でも僕は自分の情報発信ツールを持っていたので、「ふざけんな。もう辞める」ってことで連載から外れて、今に到るまで勝手に情報を発信している。

時代は完全に変わってしまった。情報を持っている人間は、いつでもその気になったときに情報を発信できる。情報発信のためのハードルは格段に下がった。すぐ近くの別の国とかなら話は別かも知れないけれど、少なくとも日本にいる限りでは、情報発信に対するハードルはないに等しい。これを物凄く簡単に書けば、

これまで

情報→特定の権利者のもの
判断→有識者

という構造だったものが、

情報→みんなのもの
判断→みんながそれぞれ

となったということ。それで、判断能力というのは今はまだまだだけれど、それでも確実にアップしてきている。そして、アップしてきた人間が相変わらず「情報は俺たちのもの。判断は俺たちがする。迷える子羊達は俺たちについてこい」ってやってる人間を見て「ぷっ」と吹き出してしまうのはもうどうしようもない。

件のTwitterに関する週刊ポストの記事だって、別にこんなもの、週刊誌の記事で読む必要なんてないわけだ。河野さんも散々Twitterについて良い記事を書いているし、僕だっていくつかの記事を書いている。他にも、ネットの中には山ほどのTwitter論があるわけで、そのあたりにアクセスして情報収集、フィルタリングする能力のない人なら、そもそもTwitterを有効利用するのなんて無理という話。普通につぶやいて、普通につぶやきを読んでいれば良いだけのこと。

僕はこういうところで専門家風を吹かせる気はさらさらないけれど、ブログにしても、SNSにしても、Twitterにしても、それを商売で上手に利用するためにはどうしたってそれなりの見識が必要であって、そういうものなしに突っ込んで行ってケガをするのも勝手だし、ケガをするのは嫌だからって手を出さなくても勝手だし、専門家に相談して慎重に進めるのも勝手なんだけれど、一言で言っちゃえば「使いようだけれど、簡単じゃないですよ」ということ。ところが、世の中は「使えるのか」「使えないのか」に単純化してその評価を消費しようとする。ここのところが筋が悪いところ。

素人であれば素人であるほど、「使えるの?それとも使えないの?」と簡単な回答を求める。だから、週刊ポストみたいな雑誌も、それに対応する。結局のところ、書く方も、読む方も、ちゃんとした知識があるわけじゃないし、それで勉強しようとも思っていない。要は時間が潰れて、表層的な知識だけが身につけば十分なんだ。わかったつもりにさせることができれば週刊ポストは役割を果たしているし、わかったつもりになって読者は満足している。それはそれで良いのかな、と思わないでもないけれど、河野さんが「僕はそんなこと言ってないけどね」と言いたくなることももちろんわかるし、それについて情報発信するのは社会に対して非常に有益だとも思う。

でも、話としてはそこまで。僕たちが知っておくべきことは、「マスコミはこういう風に作業する」ということで、それを受けて、今後のマスコミ情報についてもちょっと一歩引いたところから読むようにすれば良いだけのこと。それこそが「判断能力」の向上につながる。

少なくとも僕の場合、Twitterというメディアにはそれほど期待もしていないし、最近は独特の気持ち悪さも感じている。例えば今回の河野さんの記事とか、Twitterの中では「これは酷い話だね」という感じで物凄い勢いで広がっている。要は、ネット対マスコミの戦争の具として使われちゃっているということ。ネットのヘビーユーザーにとってはマスコミを叩くことは楽しいこと、スッキリすること、溜飲を下げるようなことなのかも知れないけれど、僕はそれはそれでおかしいと思っている。確かにこれまでの日本はテレビや新聞が物凄い力を持っていたけれど、それが今後全部ネットにリプレイスされるかどうかはわからないし、少なくとも完全になくなるものでもない。それは2ちゃんねるが勢いがなくなったと言っても廃止されるわけではなく、ミクシィが駄目だといっても倒産してサービス停止になるわけでもないのと一緒。そりゃ、イケイケドンドンではなくなるだろうけれど、そういう新陳代謝はあって当たり前だし、やがて一定のところに落ち着くはず。でも、そういうことを無視して、「既存マスコミは酷い」「週刊ポストは酷い」「このニュースをどんどん広めよう」とか始めるに至っては、「でもまぁ、ネット住民もそれはそれで気持ち悪いよね」ということになる。理性的な考察があって、「マスコミはこういう姿勢だから、そのあたりを割り引く必要があるよね」というなら全然平気なんだけれど、感情的に文句を言っているのがほとんどだから気持ちが悪い。その上で、「オレは嫌い」は全然気持ち悪くないのだけれど、「オレも嫌い」は気持ち悪い。それで、この「オレも」の部分が、ネットでは助長されやすいんだよね。特にTwitterのRTという機能はそれを助長する。

「みんなが思っているから安心」というのは全然新しくない、非常に日本的なマインドだったりする。折角新しいプラットフォームを手に入れても、それを使う人間のマインドが変わらないんじゃ、意味が無いよな、と思う。それは、情報を公開するツールを手に入れているにも関わらず、相変わらず秘密主義の弘前大学とか、編集者が記事を自分で書き換えても読者はそれを知ることができないと考えている週刊ポストの記者と、ほとんど何も変わらない気がする。

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