2010年09月06日

公的なのか、個人的なのか

僕は以前に比較して将棋のネタをブログであまり書かなくなった。なぜかといえば、公益法人改革を踏まえた活動が将棋関係者の間で活発化し、それが僕の考えと乖離してきたからだ。公益法人を目指すのは勝手だけれど、僕は公益法人と仕事をする気はないし、公益法人に興味もない。

僕は将棋連盟は公益法人になるべきではないと思っている。なぜなら、プロ棋士の互助会であり、獲得したお金の再分配機能が中心であるところの将棋連盟は、確かに文化の担い手という側面はもつものの、決して公益に資しているわけではないからだ。将棋連盟がなくなっても将棋はなくならないし、将棋連盟がなくなっても羽生名人や渡辺竜王は相変わらず将棋の第一人者である。将棋連盟は、プロの将棋指しの、プロの将棋指しによる、プロの将棋指しのための組織で良いじゃないか。

将棋を指す人間の裾野が大きくなった方が、強い将棋指しが輩出される可能性は高い。しかし、今の将棋連盟の組織運営が金銭的に苦しいとしたら、それは組織が収入に比較して相対的に大きくなりすぎたからに他ならない。これは、組織そのものが大きくなったのかも知れず、組織の大きさは変わらずに、収入が減ったのかも知れないが、僕はこのあたりには興味がないのでどうでも良い。とにかく経営が苦しいとしたら、それは身の丈にあった組織になっていないというだけのことだ。「プロとしての権利を剥奪してしまったら、生活に困る棋士が出てくる」という意見もありそうだが、そんな話は中小企業やベンチャーなら当たり前の話だし、大企業でもそろそろ解雇規制の自由化について議論が始まっているところである。いつまでも既得権者が守られる社会ではない。

世の中は大きく変わってきていて、特にマスコミをめぐる環境変化は著しい。その中にあって、棋士の立ち方も大きく変わっていくはずだ。いつまでもパンダ然として新聞社などから降ってくるスポンサー料の上にあぐらをかいていられるわけもない。じゃぁ、どうするのかって、方法は二つである。ひとつは国の援助にすがり、タックスイーターとして生きること。もうひとつは自分たちで稼ぐことである。

僕は経営者だから、当然のことながら後者を推奨する。僕が知っている将棋の棋士はそれほど多くないけれど、きちんとお金を稼ぐことを知っているし、稼ぐ能力もある人が多い。ただ、その一方で棋士という看板の価値を上げることに血眼になり、スポンサーを集めることに汲々としている人たちもいる。

ライブログがLPSAに注目したのは、当初、LPSAがそうした自立した法人、自分たちで稼ぐことを目標とした法人だと感じられたからだ。稼ぐとは、看板商売や公的な補助金に頼るという意味ではない。民間のスポンサーを集め、そのスポンサーたちにきちんと価値を還元する、お客様を有料で集め、お客様にきちんと満足を得てもらう、新しい価値を創造し、それによって正当な対価を得る、こうした活動をやっていこうとしているように見えた。そのためには当然のことながらスポンサー各社をきちんと見る必要があるし、お客様をきちんと見る必要がある。少なくともその目線の先にあるべきは新聞社だったり、大企業だったり、テレビ局だったり、文科省だったりではなかったはずだ。そうした、天から降ってくるお金ではなく、自分たちで稼ぐ組織だと思ったし、それを目指せるだけの規模だったし、そしてそれを目指そうという意図が感じられた。

だから、僕たちが最初にやったのは将棋SNSの立ち上げである。このSNSは、将棋連盟とは違った形で将棋ファンの集まる場所をつくり、それをひとつのメディアとして成長させていこうという狙いだった。ライブログはあくまでもシステムサポートに徹し、このSNSが成長したときには全面的に運営をLPSAに譲渡するという方針で始めたものだ。今のところ将棋SNSはそこそこのアクセスがあるものの、メディアとして成立するほどのアクティビティはない。当初はLPSAの人たちもアクセスしてくれていたが、今ではさっぱりである。そろそろどうぶつしょうぎSNSに衣替えしようかと思っているくらいだけれど、それはそれ。

そして、次にやったことがどうぶつしょうぎプロジェクトのサポートである。この事業も単独でかなりの収益があげられると考えていたし、そうなればそこで得た収益を将棋の普及に回すこともできるはずだ。だから、ライブログとしては非常に譲歩した形での契約を締結した。しかし、その後の顛末は先日ブログに書いたとおりである。

個人的に感じることは、経済的自立を目指した北尾さんと、その他のメンバーとの乖離が大きかったのではないか、ということだ。誤解を恐れずに書くなら、僕が個人的に話をしたことがあるメンバーの中では、中倉姉妹、藤森さん、島井さんといったあたりは組織の運営についてそれほど強い興味があるわけではなく、ただ、楽しく将棋が指せれば良い、という感じの人達だった。彼女たちの考えは決して間違いではないのだけれど、「じゃぁ、どうやって食べていくのですか?」という部分についてはそれほど明確なものが感じられなかった。ほどなくして北尾さんがLPSAを抜けてしまい、「お金を稼ぐ」という部分で大きな戦力ダウンを強いられたLPSAは、そういった「楽しく将棋を指したい」という人たちまでも、慣れない「お金稼ぎ」をやらなくてはならなくなり、相当困惑しているのではないかと思う。もちろんそれまでのスピードが残っていたから、その慣性を利用してこれまでは走ってくることができたけれど、そろそろその自転車はふらつき始めていると思う。例えば、これまで安定して開催してきた1dayトーナメントも、最近は開催されない月がある。こうした現象を見ていると、そろそろ限界が見えてきているのではないかと感じるのだ。

思い返してみると、LPSAが一番勢いがあったのがちょうどどうぶつしょうぎカップを開催した頃である。どうぶつしょうぎが注目されはじめ、そして船戸さんが連盟から協会に移籍したりした。そのあたりを境にして勢いは失われてしまった感がある。

今の世の中、「将棋は文化だから、いくらでもお金を出します」なんていう奇特な会社は少ない。今までは大口のスポンサーだった会社も、一寸先は闇である。会社の経営が傾いたときに、将棋にお金を出すのか、それとも社員に給料を支払うのか、と二択を迫られれば、当然後者を取る。じゃぁ、国に頼ろうか、と思っても、こちらも台所は火の車である。補助金等をつけようものならすぐに事業仕分けで仕分けられてしまうだろう。やはり、自分たちで稼がなくては仕方が無いのである。

ネットを見ていると、連盟を支持する人も、協会を支持する人も、お金を稼ぐということを積極的に支持していないケースが多いと思う。共産主義ならこれでも良いのだが、絶滅危惧種よろしく国が保護しようとか、ファンが保護しようとか考えると、その種そのものの弱体化を招くだけである。保護しようという考えは、その人達の置かれた立場と抱えている問題を無視し、その人達を堕落させるだけである。

今、棋士に求められていることは、公的な活動をすることではない。自分たちでどうやって稼ぐかを考えることだ。そして、それは「棋士」という看板だけに頼るのでは駄目なのである。看板に頼るだけでは、単なる既得権者である。本を書くのでも良い。将棋の解説をするのでも良い。アマチュアに将棋を教えるのでも良い。お客様たちに正対し、彼らを満足させ、そして、そのことによってどの程度の報酬を手に出来るのかを知るべきだ。

世の中では博士の就職難が言われて久しい。僕も比較的近いところでそれを見てきているが、博士と将棋の棋士が置かれている立場は非常に似ている。博士たちは、あくまでも自分が好きなことをやってきただけの人間である。博士という看板には何の意味もない。「研究」という言葉に騙されているだけで、公益という要素は非常に希薄だ。研究とはあくまでも個人的なものなのである。同じように、棋士も、自分たちが好きな将棋をやり続けただけの人たちである。一定の成績を残す必要はあるものの、棋士という看板には本来何の意味もない。将棋そのものは文化だが、プロとして将棋を指す棋士たちのアクティビティに公益という要素は非常に希薄である。将棋を指すという行為も、あくまでも個人的なものなのである。

問題は男なのか、女なのか、ではない。公的なのか、個人的なのか、である。

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