2010年11月09日

レクイエム

このブログも長いことやっているので、中には今でもアクセスを集める記事がある。そんな、ときどき思い出したようにアクセスが増える記事のひとつがこれ。

dark side of tabelog(草稿)

きっかけはなんだかわからないけれど、今、ツイッターやら、tumblrやらで引用されている。

このエントリーは食べログだけじゃなくてフードアナリストを批判もしているので、ときどき2ちゃんねるにURLが貼られたりする。それでアクセスが増えるのは一向に構わないのだけれど、「草稿」って書いてある通り、まだ完成度の低い内容だし、どちらかと言えばこっちの方がまとめになっていてオススメだと個人的には思う。


食べログの横暴(あれ?から改題)


でも、どちらも2年以上前に書いたものである。結果的に僕の予想したとおり、食べログはダメなサイトになってしまったのだけれど、今になって、「食べログってこんな問題があるらしいよ」って、どんだけ周回遅れなのよ、と思うのだけれど、それはそれ。

僕自身、もう食べログは全然利用しなくなってしまったので最近の状態がどうなのかは知らない。iPadには一応アプリを入れておいたけれど、先日有料化とかされて阿呆らしいので削除しちゃったし。でも、どうせろくでもないサイトになっちゃったんだろうな、とは想像出来る。

ラーメンの評論家として活動していた経験からすると、この手のレビューサイトっていうのは適切に運営するのが凄く難しいと思う。少なくとも、味の分かる人間が参考にするに足る情報を発信し続けるのは至難の業だ。それはなぜか。

まず、評価する側なんだけれど、石神君みたいに凄く鋭敏な舌を持っていて、適切な評価ができる人もいるけれど、そうじゃなくて、ただただいろんな店を食べていれば幸せ、という人もいる。石神君みたいなタイプはむしろ少数派で、実はラーメン評論家って言ってもただただたくさん食べているだけの、強靭な胃袋と人よりもちょっとましな記憶力の持ち主だったりする。

続いて、その情報の受け手。こちらも評論家と同様、鋭敏な舌を持っていて、適切に評価できる人は少ない。コンビニのお弁当とか、おにぎりとか、あの手のものを食べて美味しいとか言っている人は、まず間違いなく何を食べても「好きなものなら」美味しく感じるはず。だって、コンビニ弁当なんて、どれひとつとっても美味しい物なんて存在しないもの。僕の個人的な経験からすれば、だけど。

最近夜中にファミレスのメニューを片っ端から食べて、あれが美味しい、これがまずいって評価している番組があるけれど、あんなの、ファミレスで食べたらどれもこれもうまいわけないだろ、って思う。でも、実際はそうじゃない。かくいう僕だって、ラーメンと和食はそこそこに食べた経験があるから評価できるけれど、寿司とかは正直微妙だし、焼肉も微妙。フレンチとかになったらほとんど分からないし、ワインも経験値が低いから評価なんてできない。お酒の類は、ある程度はわかるけれど、あくまでもある程度。厳密に飲み比べしてみれば判別はできるかもしれないけれど、国産ビールを20種とか並べられたら、どれがどれ、みたいな同定作業は全く不可能だ。

つまり、多くの人は、何を食べたって、好きなものなら美味しいって感じちゃう。そこに必要なのは、料理人がなんの食材を使ったとか、なんのスパイスを使ったかとか、隠し味がなんだとか、そんなことじゃない。どこかの誰かが「これが美味しい」「この店が美味しい」って言ってくれていること。

じゃぁ、その情報発信元は誰でも良いのかっていうと決してそんなことはない。結局、ラベルが重要になってくる。どこの誰ともわからない奴が「美味しい」って言っていてもあんまり意味がない。一時期、「みんなが美味しいって言ってる」というのは意味があるんじゃないかっていう風潮があったけれど、それは否定されつつあると思う。みんなが美味しいと言っていても、所詮は素人情報の集合体。それは決してブランドにはならない。みんなが着ていてもユニクロが「カッチョいい」ものには成り得ず、「安くて実用的だよね」にとどまるのと同様、素人がこぞって「美味しい」と評価するようなお店は、「お腹はいっぱいになる」けれど、評論家が口を揃えて「美味しい」と評価することとは全く別の次元に存在する。そして、そういう素人情報の集合体としての「美味しい」は、料理に対する付加価値には成り得なくなってきたと思う。

やっぱり、料理はそれなりに看板を持った人間が評価しないとだめなんだ。

昔の食べログは、レビュアーにそういうブランド力があった。だから、評価もそれなりに信頼がおけた。また、新しい才能を発掘する場としても機能していた。僕自身、「この人の味覚は信用できるな」という人を見つけることができた。しかし、もう駄目だ。そういう才能はそんなにたくさんあるわけじゃない。そして、その才能を見つけるためには、今の食べログはノイズが多すぎる。つまり、大した味覚もない人間がバンバン投稿して、その投稿が「レビューを評価する」とは別のモチベーションによって評価されてしまう。このあたりを予想したのが件のエントリーである。そして、その予想通りに食べログは死んだ。今残っているのは僕から見ればただの残骸である。

でも、そんなサイトでも、もちろんニーズはある。なぜか。情報を発信する側も多くの人間は味なんか大してわからないけれど、受け手も大してわからないからだ。その上で、情報に「有識者曰く」というラベルが付いているよりも、「みんなが言ってるんだけど」というラベルが付いている方が嬉しいタイプの人間もそこそこに、いや、凄くたくさん存在するからである。

断言するけれど、味のわかる人間は、発信するサイドとしても、受け手としても、もう食べログ周辺にはほぼ存在しない。食べログ周辺に残っているのは、発信する側も、受ける側も、味のわからない人ばかりである。でも、日本全体で絶対数を論じればそちらが圧倒的にマジョリティなのだから、特に問題はない。それが証拠に、ツイッターで「食べログ」とか検索すると山ほど引っかかってくる。そうやってつぶやいている人たちは、食べログの点数を参考にしている時点で「私は味がわからない人間です」と表明していることにこれっぽっちも気がついていないのだけれど、みんな味がわからないんだから、別に恥ずかしいことでもなんでもない。ネットサービスというのは、こうやって落ち着くべきところに落ち着く。その「落ち着く場所」をConsumer Generated Mediaの運営サイドではコントロールできない。だから、そのメディアが「味の分かる人間が参考にするに足る情報を発信し続けるのは至難の業」なのだ。

問題は、味のわかる人間がどこに行くのか、ということだけれど、きっと多くの人にとってはそんなことはどうでも良い事なんだと思う。そうじゃなかったら、日高屋も(もちろん幸楽苑も)、マクドナルドも(もちろんロッテリアもモスも)、吉野家も(もちろんすき家も松屋も)、商売が成り立つわけがない。

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