2011年02月01日

せっかくだから、僕の学部のときについて書いておく

昨日、スキー部の後輩のお通夜の帰りにつらつら大学時代のことを思い出した。せっかくだから、ここに書いておく。

僕は大学時代、一番一所懸命やったのは部活だった。2年生の途中まではグータラ部員だったけれど、スキーの技術が岡部哲也氏の登場で大きく変わり、何やら色々と楽しい時期だった。それから、麻雀。もう、週末はほとんど麻雀だった。今は武田薬品に行ってブイブイ言わせている藤沢朋行君と一緒に週末のほとんどの時間を大岡山の「順風」で麻雀して生活していた。そうは言っても、全然勉強していなかったわけでもなく、どちらかと言えば当時の大学生の中でもかなり勉強していた部類だったと思う。というのは、それまで化学の枠組みの中で斜陽を味わっていた生化学関連の研究者達が、ようやく陽の目を見た時期だったからなんだと思う。僕は新設された「理学部生命理学科」の一期生となって、学科に所属したのだけれど、教授たちの多くはやる気満々で、そして、それまで物理と化学しか勉強してこなかった僕にとって、当時の分子生物学はめちゃくちゃ楽しい学問だった。そういうわけで、僕はスキーと、麻雀と、読書と、バイトと、そして勉強が生活のほとんど、という暮らしをしていた。

そうこうするうちの自然に4年生になって、研究室に所属することになったのだが、僕の希望は当時軽部研にいたスキー部先輩の横山憲二さん(今は産総研にいるのかな?)に薦められた渡辺公綱さんの研究室だった。ところが、所属を決めるときのじゃんけんで負けてしまい、僕は物理化学系の研究室に所属することになった。その部屋は希望でもなんでもなかったので、じゃぁ、そこで1年間勉強して、あとはどこかマスコミでも就職するかな、と思っていたのだけれど、なぜかそこで大学内のお家騒動みたいなものに巻き込まれてしまい、色々あった挙句に僕は希望通り、渡辺研に配属となった。

当時の渡辺研はまだ東工大に来たばかりで、助教授は不在、助手が上田卓也さん(今、東大かな?)という布陣。学生もそこそこにいて、他に理科大とかから外研生も来ていて、大所帯だった。僕はそこに急遽配属になったのだけれど、ちょうどそのとき、Candida cylindraceaという酵母が通常の遺伝暗号に従わない、という発見があって、上田さんはその研究をやりたがっていた。そこに僕がふらふらっと入っていったので、「じゃぁ、元木はこの酵母を培養してくれ」ということになった。培養がどれだけ大変なのかわからなかったけれど、了解した僕は、そのとき、渡辺さんと上田さんに次のようなお願いをした。

「これからずっと、土日も要らないので、毎日研究室に来ます。そのかわり、来年の1月のインカレと、3月のスキーの大会には出させて欲しい」

僕にとっては学生生活で最後のインカレと東京地区国公立、東日本国公立の3つの大会は、スキー部人生の集大成でもあって、それらの大会でそれなりの成績を出すことがひとつの目標でもあったわけだ。

そして、そのとき、酵母の培養要員が欲しかった上田さんの要望に、僕の提示した条件がフィットした。ということで、めでたく交渉は成立。じゃぁ、元木は毎日研究室に来て、酵母を培養して、一日も早く目的とする酵母のtRNAを精製してくれ、ということになった。その酵母は8時間ごとに培養液の透明度を計測する必要があって、以後、僕は毎日8時間おきに大学に行って(自転車で30分程度だった)、培養を続けた。培養をしている以外の時間はほとんど何もやれることがなかったので、テニスのサーブだけは非常に上達した。そして、雨が降れば読書。合間合間に家庭教師のバイト。そうやって、僕はずーーーーーっと毎日酵母の培養だけをやった。そして、それを通じて、「あぁ、生化学の実際って、凄くつまんないんだな」と感じるようになった。ワトソンとクリックによる革命的な発見があって、以後、長足の進歩を遂げた分子生物学は、僕が研究室に入ったあたりがバブルの最後の時期と一致するような感じだったんだと思う。それでもまだT7の系が構築されたり、PCR法が開発されたりと、面白い話はちょろちょろあったのだけれど、あれもやろうぜ、これもやろうぜ、という感じではなくなっていた。そして、秋になった頃、「この調子で培養していては、一年間で目的とする酵母は集まらない」ということがわかった。だけど、僕は別にそれほど大した問題ではなかった。あぁ、じゃぁ、僕の卒研は、酵母の培養をしました、以上、で終了かな、ぐらいに考えていた。しかし、上田さんは早く実験をして、早く論文にしたかったらしく、秋も大分深まった頃に、「大岡山の山中研(今は福森研?)に馬鹿でかい培養槽があって、500リッターの規模で培養ができるらしい」という話を聞きつけてきた。それまで僕がやっていたのは、2週間で10リッターの規模だったから、100週分を一気にできる勘定だ。正直、「それならなんで早くそれをやらなかったの?」という気分だったけれど、一日3回研究室に通うのにもさすがに辟易としていたので、「やれやれ、やっと開放される」ということになった。そして、そのイッパツ解決の培養をやって、「これでもう十分」という量の酵母が得られたときは、すでにスキーシーズン真っ只中だったわけである。そして、得られた酵母からtRNAを抽出して、問題となっているセリンとチロシンに対応しているtRNAの配列を決めましょう、ということになったのだが、その作業は築地のがんセンターの口野さんに教えてもらう必要があって、そこに出かけていってやり方を教わったのは、当時の渡辺研のドクターだった横川隆さん(現在岐阜大)だった。僕はがんセンターには一度も行くことがなく、結局横川さんが全てのシーケンスを決めたのだけれど、それは、「こんな大事な研究を技術のない学部生にやらせておくのはリスクが大きすぎる」ってことなんだろうと僕は思っていた。実際のところはどうだったのか知らないけれど、当時渡辺研のエースだった横川さんが、僕が9ヶ月かけて集めた酵母で実験して、論文にすることには何の異論もなかった。是非、いい結果を出してください。僕はスキーの合宿に行きます、という感じ。

ということで、僕の卒業研究は、実質的にはCandida cylindraceaの培養だけで終了した。でもまぁ、その後、僕が培養した酵母でこんな論文とかも出ているし、

Serine tRNA complementary to the nonuniversal serine codon CUG in Candida cylindracea

(さっき、CandidaとMotokiでぐぐったら引っかかってきた。素晴らしい)

それを使って実験をした鈴木勉君とかはその後RNA界で色々と成果を上げたらしく、僕が経産省にいたときに何度か役所で会ったこともある。皆さんが偉くなってくれて、僕の培養も無駄にはならなかったということ。

ちなみに僕は渡辺公綱さんから「あいつは手抜きをする奴だ」とレッテルを貼られ(なぜなら、僕は雪が降ってから、約束通りスキーの合宿に行ってしまったのだ)、翌年からは新しく助教授として渡辺研に参加した西川一八助教授の部屋に移動になった。つまりは厄介払いされたわけで、一年間、文字通り雨の日も、雪の日も、暑い日も、寒い日も、毎日8時間おきに培養したCandida君の実験はついぞ一度もやらなかったことになる(笑)。まぁ、渡辺さんからすれば「手抜き」なのかも知れない。でもさ、毎日8時間おきって、言うのは簡単だけれど、連続しての睡眠時間は6時間以上取れないし、一日たりとも休めないから旅行にだって行けないし、飲み会とかだって限定的になるし、実際にやったら生活はボロボロだよ。でも、僕は約束は守った。約束を守って「手抜き」と言うなら、それはそれでひとつの見識である。

僕はこうやって、学部の4年生(5回生)を終了した。卒論はA4で5枚程度だったか。なぜなら、Candida君の培養方法と、どのくらいの収量が見込めるのか、といった実績ぐらいしか書くことがなかったからである。その論文(とも言えないが(笑))がどこに行ったのかすら僕は知らない。確か鈴木くんに渡したと思うけれど、大したものじゃないからどうせどっかで捨てられちゃったんだと思う。あと、残ったものといえば、僕が培養したそこそこ大量のCandida酵母君と、東日本国公立大学スキー大会回転競技6位の賞状だったのである。

西川さんとは今も年賀状のやりとりをしている。もうあと2年で定年、みたいなことが今年の年賀状には書いてあった。渡辺さんは産総研お台場のなんとかセンターのセンター長とかをやっていて(今もやっているのかも知れないけれど)、僕が役人の時にも何度か会ったことがある。「君も偉くなったねぇ」とか言っていたけれど、ちょっと後輩にあたる上村さん(現在は経産省から長崎県へ出向中)のことは「上村さん」と呼んでいたのに、僕のことは「君」だったから、「あぁ、もうすっかり忘れてんのね」と、心の底でちょっと笑ってしまった。

こうやって振り返ってみても、僕が4年生のときにやったことって、全く研究とは言えないものなんだよね。でも、誰かがやらなくちゃいけなかったことでしょ?なんとかっていうリソースセンターで凍結保存されていた種菌を起こすところから始めて、大量培養までで約9ヶ月。「こんなの、卒論になんかならないよ」っていう意見もあるかも知れないけれど、もし僕が培養しなかったら、横川さんや鈴木くんのペーパーは書けなかったわけで。いや、彼らに対して何か含むところがあるわけじゃないよ?彼らはそこそこの論文に、培養しただけの僕の名前を載せてくれているし、ね。逆にありがたい話。それはそれとして、当時の大学にはこういう雑用をする役割は学部生しかいなかったわけで(今はどうなのか、知らないけれど)、そういう時代だったんだよな、と思う次第。

ということで、元木一朗君の学部の話でした。

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この記事へのコメント
社会人としての元木一郎君は、やることちゃんとやって約束も守ってるし、100点だと思うけど、指導教官からの評価は50点くらいなんだろうなぁ、とも思う。

大学院の教官視点で言えば、やれと言ったルーチンワークはルーチンとしてこなした上で、自分で研究室に関連した方向性に沿って、何らかの自由研究はそれ以外の時間で勝手にやってるべきで、そこまで始めて80点。さらに言えば、その自由研究で他の大学院の先輩のメインワークを凌駕するくらいじゃないと、100点はつかない。つまり、大学院の先輩学生に追いつき追い抜いて行くレベルじゃないと、「手抜きをする奴」というレッテルを張られるのだと思う。

では、実際そのレベルに到達する院生がどのくらいいるの? というと、やっぱり渡辺研クラスのビッグラボでも5年に1人くらい(50人くらいに2、3人)じゃないかな、と思う。これまでみてきた中でもそういうレベルの人は35過ぎで教授になってるし。

結論から言うと、95%以上の大学院生は「手抜きをする奴」なんですよ。悲しいけど、こういう、無給の大学院生の頑張りによって研究室が支えられている、というのが日本の研究の実態なんですよね・・・
Posted by ななし at 2011年02月03日 23:31
> 大学院の教官視点で言えば

いや、これは学部のときの話です。
Posted by buu* at 2011年02月04日 02:34