2011年02月07日

芦田さん(@jai_an)の「授業法と評価法 『学校』における教育目標とは何か」を聴いて

先日予告したとおり、芦田さんの「授業法と評価法 『学校』における教育目標とは何か」を聴いてきた。「先生のための学校」ということで、もうちょっと各論(今回の場合はコマシラバス)中心の話になるのかな、と思っていたら、一般論が中心だったので、僕としては逆にありがたかった。後半がコマシラバス中心の話になるのがわかっていたので、途中の質問時間でクリアにしておきたいところをきちんと質問できたのもナイス。これは事前にきちんと資料を見せてくれていたおかげ。物凄く細かいところに配慮が行き届いていて(気が付かない人は気が付かないだろうけど)、超一流の講演だった。内容以前の、その姿勢もすごく勉強になった。そのうち資料はネットにアップされると思うけれど、キー・センテンスを書きつつ、ところどころに雑感をつらつらと。

あ、まず最初にキーワード。

メリトクラシー:実力主義、業績主義、学歴主義。自由平等主義の教育版。
ハイパーメリトクラシー:過剰なメリトクラシー。人間力、コミュニケーション能力、自己表現力、個性・自主性など。


○学校改革は徹底的にやる必要があるが、面倒だからみんなやりたがらない。
○グランドデザインとしてのキャリア教育が必要。
○実際に家を建てたことがなくても建てることができるようにするのがカリキュラム。
○大学が体たらくなので専門学校には大きなチャンスがあるのに、資格教育に走ってチャンスを潰している。
 →でも、全ての専門学校がきちんとやり始めたら、結局偏差値重視に戻るかも?
○「学問のすゝめ」は学歴主義。
 →ふむ。同意するのだけれど、その福沢諭吉さんのお膝元の慶應義塾が身分主義・階級主義なのはなぜ(笑)?
○学歴主義と身分主義・階級主義は対語。
 →なるほど。なんとなく理解していたけれど、こうやってはっきり明示されると「おお!」という感じ。「学歴社会」というキーワードのイメージが悪いのは、「学歴」が≒大学入試の成績になってしまっていることなのかな。それが固定化しちゃう。本当なら、あとから逆転できるはずなのに。ただ、その逆転の手法が現状少ないのは事実。
○主要5教科主義は努力主義。体育、音楽、美術などは努力ではどうにもならない。
 →これもなるほど、な感じ。
○点数で比較できるようにするのが試験。
○実力主義、家族主義は両方存在することが大事。
 →なるほど。
○学校は最後のセーフティネットである。学生を見放してはならない。
 →これまた、なるほど、という感じ。いや、なるほどというより、「そうか!」だな。僕もついつい「親が馬鹿だから」とか言いたくなる。この視点は発明というか、言われなければ気が付かなかった。
○文体評価がない。やれば良いのに。
 →確かに。伊坂幸太郎と宮部みゆきの文章を並べて、「どちらが良い文章か」とかやったら良いのに(もちろん、宮部>伊坂)。
○親子関係は社会ではない。
 →これも「そうか!」。
○親から離れる場所が学校。
○政治家は票をどれだけ取ったか、頭をどれだけ下げたか、お金がどれだけあるかのとても卑しい人種。典型的なメリトクラシー。
○1日の試験で人間が試されるのが大学受験の価値。内申書などを参考にすると、監視される期間が長期化する。
 →確かに一発逆転が可能なシステム。
○有名私立高校、大学は、身分差別がある。欧米と同じ。
 →「ソーシャル・ネットワーク」もそういう映画だった。
○良い試験は採点コストが安く、受験者には長い思考を要求する。
 →マークシートは必ずしも悪くないんだなぁ。というか、むしろ高度なのか。そういう試験がきちんと設計できるなら。手間がかかるから良い評価ができる、と考えていた。スイッチが切り替わった。
○「学び合い」によって空洞化しつつある教育。
 →学び合いなんてあるんだ。あとで調べてみよう。
○意欲があれば良いというわけでもない。馬鹿ほど意欲があるもの。
 →勤勉な馬鹿ほど始末に終えないものはない。
○今の教育は「馬鹿でも間抜けでも個性」と肯定してしまう。
○「褒めて伸ばす」と言うが、馬鹿を褒めてどうする。
 →全くそのとおりですな。馬鹿は叩かないと。
○教育が荒廃している理由は、過剰なサービス社会化。保護者を怒らせないことが教員の使命になっている。
○学校教育は何かの役に立つ必要はない。社会の要求と独立しているのがメリット。
○「生涯教育」で教わるのは手段。何の役に立つのか、によって受講するかどうかをきめる。その点が学校教育と異なる。
 →なるほど。ただ、そうなると理系大学院の教育の位置づけが難しい。
○学校で教育して、一番優秀な奴が社会のリーダーになる。これが日本型。
 →役割分担は大事。誰でもリーダーになれるわけじゃない。
○昔の貧農は、子供をたくさん生んだ。その中に優秀な奴が一人いると、そいつにお金をかけて、貧困層からの脱出を図った。これができるのが日本。
 →大学受験に家柄は関係ないものねぇ。
○家庭の出自、社会的なニーズから隔離されているからこそ学校。
 →有名私立高校とかはちょっと事情が異なるわけですな。
○年をとると「必要」と「利害」に縛られる。それらからフリーなのが学生。
○家族と学校に保護された学生時代にしか、「事柄」に集中できないし、「事柄」にルールがあることを感得できない。
 →小さい頃に音楽をやっていないと絶対音感がつかないのと同じか。
○凄い先生、凄い奴にどれだけ出会っているかが大事。専門学校では出会うことができなくて気の毒。
 →確かに、こういう部分はある。良い大学のほうが出会える確度が高いはず。
○時代の流れが速い今、基礎力としての教養、思考力の養成が重要。
○キャリアコンサルタントはキャリア形成に失敗した奴がやっている。
 →確かに。
○ちゃんと勉強してない奴は検索エンジンとウィキペディアの使い方が上手。
○評価を第三者化することが大事。
 →これだ!これ!!!!もうこれを再認識できただけで5000円の価値があった。
○授業の評価は出席率や満足度で測ることができる。しかし、これらは教師の人柄に規定されてしまうことが多い。
○学校で身につけたものが、どんな外部指標と結びつくかが大事。



以下、僕の質問に対して。

○理系の大学、大学院は職業教育である。
○理系大学生は大学、大学院で大した勉強をしていないから、学部の入学試験の成績(学歴)で判断される。
○大学、大学院の教育の審査は出口評価、それも第三者化された評価によって為されるべき。文科省は手を付けつつある。
○大学院生やポスドクが余るのは指導教官の責任。教授は学生を他の場所に追い出すか、あるいは自分の研究室を継がせる力がないなら、研究室を持つべきではない。
 →やっぱりそうか。
○出口評価を第三者化する。評価者には授業を見せない。
 →理系の場合、仕事のないポスドクがたくさんいるよね。評価者候補だな。



このあたりまでが一般論。このあとからは専門学校における各論。



○オープンキャンパスは入学希望者をチェックする場所。入学させたら学校に責任が生じる。
○授業の評価が「声が小さい」「板書がヘタ」といった視点になる。
○標準偏差を見ることによってある程度までテストの質をチェックできる。
○専門学校の目標は就職目標。就職目標は高くなくてはだめ。
○単位をくれるのが良い教官ではない。
○シラバスは学校の差別化に使いにくい。コマシラバスは差別化可能。
 →僕が経産省時代に作った「スキル・スタンダード」は「シラバスの目標」のはず。理系大学院にもスキル・スタンダードが必要なのか。ただ、役所に任せても難しそう。
○教育Good Practiceは全然ダメなものになってしまった。
○教育GPの初期の目的は特色のある大学だった。「フランスの哲学について学びたければ○○大学」といったもの。しかし、それを作るためにはフランス哲学以外の哲学者を切る必要がある。それができなくて、骨抜きのGPになった。
 →でも、となりの大学はドイツの哲学になるはずだよね・・・・
○就職率はぎりぎりじゃなくて、GW明けなどの早い段階で比較しないと。
○選択授業はおかしい。全部パッケージ化して、その専門性、安定性によって出口のクオリティをコントロールするのが筋。
○目標の提示と試験のない授業法研究には意味が無い。
○小学校は上位接続(大学)との関係が希薄なため、第三者評価が難しい。
○出口目標、授業目標、入り口管理が必要。そして、そのポリシーメイクは出口目標の設定から実施される必要がある。
 →理系大学、大学院には出口目標がないよね。
○学び合いも場合によってはありうる。大前提として、まず教育によるINPUTが必須。
○教育による良質なINPUTがある場合、学生の自主的な動きが可能になる。それによって、INPUTのさらなる質的向上が可能になる。
○専門学校は企業が必要としている専門能力を身につけるところなので、成績が良い奴が良い会社に就職するのが当たり前。専門学校生に対して「人柄が」とか言う会社は専門学校生の就職先としては相応しくない。
 →なるほど。
○大学の就職センターは全く意味が無い。なぜなら、就職センターはカリキュラムを理解していないから。これはハイパーメリトクラシー。就職センター機能を充実させればさせるほど、教務が弱体化する。
○就職に当たっては、学校で何を勉強したかではなく、どういうバイトを通じてどういう社会的スキルを身につけているのかが大事になっている。つまり、企業はバイトで身につけたハイパーメリトクラシーを高く評価している。
○試験の成績データにおいて、最低点数を上昇させるのはカリキュラム。
○教員は、たとえ三流の学校であっても一流を目指す必要がある。三流なのはあくまでも結果。
○試験で落第者を出さないカリキュラムが必要。
○国語算数理科社会の偏差値で勝負するのではない。専門学校は別の基軸で勝負する。偏差値40以下でも、うちの学校からはいい会社に就職する若者がいっぱいいる。
○入学時の偏差値で負けていても、出口で勝てば良い。
 →大学も同じだよね。
○出口は企業。そこで評価されることが大事で、学歴は本来関係ない。そこから逃げる奴らが「コミュニケーション能力」に走る。
 →確かに。
○いつも大きな目標を立て、そしてそれを共有することが大事。
○専門学校は一流と三流を逆転させる機能を持っている。
○今の専門学校のほとんどは、駄目な先生が、生徒に駄目な資格を取れるように教育している。
○役に立たない資格が多いから、資格を生徒に要求する会社は駄目。
○人柄も同様。
○「技術力がある」「世界レベルの技術を身につけようという上昇志向」「金融に関する知識」などを高く評価してくれる会社が専門学校にとって良い就職先。
○内部における反省が大事。これがないと外部介入が起きる。
 →個人でも、組織でも、自己省察は大事。再確認。



まとめ
僕は今、理系大学、大学院の学生がなぜ就職難なのかについて考えている。色々考えてきて、その上で今日の講演の内容と僕の考えの整合性がどうなっているのかチェックしたかった。それで、わかったことは、僕の考えていることはそう的が外れているわけではない、ということ。理系の大学、大学院が企業への職業教育的色彩を濃く持つ以上、それらから輩出される人材のスキルというのはある程度明確にされているべきだし、それがきちんと身についているかどうかは第三者による審査が必要だ。

「大学院博士課程を終了した人材が当然身につけているべき能力」を文科省が明示しないのであれば、民間企業でそれをやってしまったらどうか。そこで設定された「能力」は当然多くの評価者から審査される必要があるけれど、もしその妥当性が認められ、また、その会社がその能力基準に対して個別の学生がどの程度まで到達しているのかを明示できるとすれば、その評価はTOEICや学部学歴よりもずっと信頼度の高い指標となる可能性がある。では、誰がその「能力」を設定し、誰が個別の学生の到達度を審査するのか。そういえば、日本には優秀なのに仕事のない博士がたくさん余っているんだったっけ。このスキル・スタンダードは一度作ったらオシマイ、ではないことも自明。ということは、ある程度継続的に雇用を創出していくこともできるはず。基準は「チェック」と「バージョンアップ」が必須。

「評価」を難しくするのは、システム構築に注力していないから。良い評価システムが構築されていれば、個別の評価は簡単になる。記述試験よりもマークシートによる評価のほうが高度だということ。このあたりも確認・共有化しておく必要がある。

なんか、もう少しな感じだ。

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