2011年02月10日

ら抜きに関する雑感

つい3日ほど前、ツイッターでら抜きが馬鹿、という話をしていたら、タイムリーに教えてgooにこんな記事が載った。

「ら抜き」言葉って気になりますか?

ということで、ツイッターに書いたことを多少加筆修正しつつ、こちらに書いてみる。

今日の午前中は採用についての相談。ところが、いつの間にから抜き言葉を使う奴が死ぬほど馬鹿に見える理由は何故か、という話題に変わってしまった。結局、馬鹿に見える理由は判明しなかったけれど、ら抜きを使う奴は死ぬほど馬鹿だ、むしろ死んだほうが良い、ということを共有した。

次に、死んだほうが良い馬鹿に「死ね」という代わりにどう対応すべきかを相談したのだが、僕が「その単語は下一段活用です」「その単語は上一段活用です」「それはカ変動詞です」などとマイルドに指摘するのはどうかと提案し、一度は受け入れられた。ところが、「馬鹿はそんな難しいことを言われても、何を言われているのか理解出来ない」という指摘があって、言われてみれば僕がときどき馬鹿にTwitterで「それは上一段活用」などと指摘しても、返信があったことは一度もない。特に理系の馬鹿に対してはこうした指摘はほとんど意味がなく、単に周囲の非ゆとり層がニヤニヤして終了することになるのだ。結局のところ、「ろくに読書もせず、ミクやツイッター、携帯メールにはまっているような馬鹿には何を言っても無駄。それで『就職が厳しい』とか、あたりまえだから、死んだらいいよ」という、ありきたりな結論に至った。

ということで、ら抜き言葉を使う奴は、就職がなくても文句を言ってはいけない。これまでの人生で通った学校の先生たちを恨むように。

それで、もう一度ら抜き言葉が馬鹿に見える理由を考えてみた。多分、きちんとしたインプットが行われていて(基本は読書、20代前半まで)、それを処理する訓練が行われている(20代半ばから)人間なら、ら抜き言葉なんて使いたくても使えないってことが原因だろう。らを抜くってことは、人生前半のインプットが少なすぎるということ。これを一言で表現すると、馬鹿。

ら抜きは、良い、悪いじゃない。まともなインプットをしている人間にとっては、「生理的にイヤ」なもの。こういう生理的にイヤっていうのは、何に起因するかって、「教養」「育ち」なんだよね。インプットの質と量。僕の周りは理系が多いせいか、一層馬鹿が多く見える。こいつら、子供の頃に全然本を読んでなかったんだろうなぁ、と思う。それは親か、学校が悪いんであって、本人は悪くないけれど、そいつらが馬鹿親になるので、馬鹿が再生産される。


文法的に間違っているら抜き言葉の気持ち悪さは当たり前なんだけれど、文法的に合っていても気持ち悪い文章というのは存在していて、このあたりもインプットの質・量の問題なんじゃないかな、と思う。卑近かつ分かりやすいところで言えば、宮部みゆきや東野圭吾と、伊坂幸太郎の文体の違い、とか。

ところで、理系って、読書量が文系に比較して本当に少ないんだろうか。このあたり、どこかにデータってないのかな。

件の記事では、「良い」「悪い」で意見を並べているけれど、良い、悪いの問題じゃないんだよね。理屈じゃなくて、感覚の問題だから。そして、その感覚は「これまでどういう文章に触れてきたか」によって規定される。「どういう文章に触れてきたか」は、すなわち教養。これのあるなしを問題にする人もいるし、しない人もいるけれど、ら抜き言葉を使うかどうかで、教養の有無は推し量ることができる。質問者が「間違いなく『無教養な男だな』と、呆れると思う」というのは全く以て正しい。なので、ら抜きを使うかどうかは、無教養と見られても構わないかどうか、ということ。

うちの会社には無理です。

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