2011年02月28日

うーーん、こんなにも考え方の違う人がいるものなのか

面白いなぁ、と思いつつ下記の記事の全文を読みました(笑)。

「京大入試ネット不正事件」に見る入試制度の限界
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110228-00000301-newsweek-int

さて、ちょっと引用してコメントなど。

それは、大学入試というものが「受験生に特有の個性や潜在能力」を測定するということは全くやっていないという事実であり、にも関わらずまるで前近代の中国の科挙試験のように「一発の入試が人生を決める」というバカバカしさを捨てられないでいるという点です。


これは全然的はずれでしょう。なぜなら、現在は就職試験ですら、大学の入試を参考にしているのです。すなわち、卒業した大学の学歴です。企業は、大学で何を勉強したのかなどは基本的に見ていません。だって、そんな話をされても面接担当者はそれが素晴らしいことなのかどうか、全く判断ができないからです。つい先日、仲の良い経産省の課長補佐ともこの手の話をしてきましたが、企業が採用に当たってチェックするのは、主として卒業した大学(大学で何を勉強したのか、ではありません。どこの大学を出たのか、は、イコールどこの大学に受かったのか、という意味です)、それと大学時代の部活、およびバイトです。大学は、運動部、あるいはバイト先で教えられる程度のことすら、今は教えていないのがほとんど、という状態です。また、言葉を変えるなら、学力的な潜在能力は、大学入試の時点でしっかり測定されている、というのが今の日本におけるコンセンサスです。

例えば、採用に失敗したら最悪の場合業績の悪化に直面する民間企業が、そんな「粗っぽい選抜」はやっていないということを考えれば明白だと思います。


日本の採用は実際のことろ、非常に粗っぽいと思います。例えば三菱総研の場合、旧帝と東工大、一橋、および早慶で社員の95%以上を占めていた印象があります。

「高校の教育課程を超えた部分で明らかな才能」を持っている人間が全く評価されないというのもナンセンスな話です。


いや、芥川賞を取れたり、すぐに会計士になれるような人は別に大学になんか行く必要がそもそもないですから。そんな能力を測定する必要すらないです。その能力をさらに伸ばすことができるなら大学に行く意味もあるでしょうが、東京芸大などの才能系の大学や医学部などの一部を除いて、大学で能力が伸びることは稀なのではないでしょうか。それの良し悪しはまた別として。

「ちょっとネットで掲示すれば数十分で誰かが回答を教えてくれる」程度の「いわゆる入試問題」で合否が決まるというのは何とも安易な話です。


いやいや、その程度の入試問題ですら解けない奴を落とすのが入試ですから。できる奴を見つけるのと、できない奴を落とすのは、一緒です。

数学でも物理でも、あるいは国語にしても社会にしても「答えの出ない難問」に向かわせて、知的苦闘の痕跡で能力資質を判断するような問題は可能だと思うのです。


可能かもしれませんが、どこもやっていません。どこかがやれば良いというのはその通りで、僕もそういう入試をやったら良いのにとは思いますが、やらないからといって「安易な話」だと断ずるのは早計だと思います。

こうした「訳せ」とか「要約せよ」という「誰にでもできる」問題で合否が決まるというのも選抜として手抜きもいいところです。


道具を使えば誰でもできるのは当たり前。道具を使わないでも一人でできるかどうかを測定していのですから、手抜きとは全く違います。「道具を使っても難しい問題を、道具持ち込み可で実施しろ」というのはひとつの見識ですが、それは東大のような難易度の高い学校が始めないことには誰もやらないでしょう。

英語で堂々と論評させ、中間点も含めて英語の知的表現能力のクオリティを厳しく見ればいいのです。


そういう試験を作ることができて、適正に採点できるなら、その通りでしょう。実際はそうではないのだから仕方がない。ただ、「しっかりしろ」という点はその通りですね。

「面接など主観的な判断は不公平」とか「小論文で一字でもオーバーしたらダメ」とか「高校で習っていないはずの公式を使うのはルール違反」などという腐敗した官僚主義のようなカルチャー


3つのうち面接については違う性格のもので、「面接が主観的で不公平」なのはその通りでもあり、これは決して「腐敗した官僚主義」ではないと思います。そもそも、腐敗した官僚主義とは何なんでしょうか。僕の理解では、良く言われる「官僚主義」とは前例主義、形式主義、縦割りとセクショナリズム、ぐらいだと思います。文字数オーバー、習っていない公式の利用はルール違反は確かに形式主義にあたると思いますが、面接が主観的というのはどこにも「官僚主義」的なところが読み取れません。

「入試イコール基礎能力判定の科挙試験」といった権威付けはやめて、各大学が文系も含めて「入るのは簡単だが出るのは難しい」という制度に改め、その上で「ちゃんと卒業できそうな人材を選別する合理的な入試」へとシフトすべきだと思います。


ここまで言っていることは結構めちゃくちゃでしたが、この部分はその通りですね。ただ、そのためには、大学が「教育機関」として大きく変わらなくてはなりません。

この「学歴ロンダリング」という言葉には染み付いているように思います。


染み付いているのはそのとおりですが、なぜそうなるのかって、ほとんどの大学も大学院もきちんと教育していないからです。入学時点と卒業時点で、大学生の学力は何も変わっていないのが実情(むしろ落ちているケースもあるのでは)です。「学歴ロンダリング」という言葉がなぜ正鵠を射る表現なのか、それは取りも直さず、大学が何も教育していないからです。東大を出ても、京大を出ても、違いは何もありません。東大卒の人間と新潟大卒の人間の差は、東大に受かったか、新潟大に受かったか、の差でしかありません。大卒の人間の学力を測定する方法は、今のところ入試時点での学力で比較するのが一番正確なのです。大学卒業時点での能力をきちんと評価できるようになれば、話は随分と違ってくるわけですが・・・・。

まぁ、そんなこんなを解消する手段を、今色々と考えているところなんですけどね。

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