2011年03月09日

京大カンニング事件(?)のその後

ネットを見ていると、色々な意見があって面白い。記憶に残っているところだと、

たかがカンニングで大騒ぎしすぎ
いい加減な試験監督が悪い
カンニングできるような試験が悪い

といった、カンニング受験生を間接的に擁護するものが多い。この中には「そうだよな」と思うものもあれば、「それは違うでしょ」というものもあるのだけれど、最も単純に首肯できないのが、「カンニングできるような試験が悪い」という意見だ。この主張の意図するところは「検索や、得意な人に聞けばわかるような試験で何がわかる」というものだが、果たしてそうだろうか。

例えば人と話をしていたときに、「情に棹させば流される」というフレーズが出てきたとき、それを書いた作家の名前がぱっと頭に浮かばなかったり、あるいはその作家の他の著作がわからない、といった、いわゆる「教養のない奴」は、やはり問題があると思う。もちろん、こんなフレーズはグーグル様に問い合わせれば答え一発である。しかし、それが頭に入っているのか、いないのか、というのは、人間の価値として大きな差が生じる。これはあくまでも一例だが、そういったものの蓄積をテストするのが大学入試であり、「もっと頭を使う問題を設定しろ」などというのはちょっと的が外れていると思うのだ。

では、入試問題をもっと物凄く難しくしたら良いのか?ということにもなる。例えば、「夏目漱石の思想について思うところを書きなさい」としたら良いのか、ということである。こういった問題は「客観性」という面で大きな問題を抱えることになる。採点に当たって、採点者の主観がどうしても混じることになるのだ。回答者が太宰治の思想に傾倒していたらどうなるのか、ということである。いや、太宰治も夏目漱石に傾倒していた時期があるし、「お伽草子」のような著作もあるから、接点が全くないわけではないだろうし、また、太宰の視点から漱石を論じることも可能だ。しかし、太宰視点の漱石論と、漱石視点の漱石論では、どちらが良い、というのを決めるのは難しい。あくまでも「文章のフォーマット」(=文法)として正しい方を高く評価する、という手はあるけれど、そういった文体評価であればもっと簡単に試験することができてしまう。「難しい」とか、「考えさせる」問題は、採点時に採点者の主観が混じってくる危険性が非常に高いのである。

「カンニングされてしまうような試験でスクリーニングしているのはナンセンス」という考え方から導きだされる試験方法は、「偏差値によって極力客観的にスクリーニングしよう」という思想の対極にあって、結果的に良い学校に通っていたり、良い家庭に育っていたりする人間が有利になる。もちろんこういう考え方もあって良いし、例えば慶應幼稚舎などは父母の面接などを通じて、子供の所属しているクラスを判定したりしているようだが、少なくとも国公立大学において、主観の混じる試験を実施するというのは、僕の感覚ではピンとこない。

では、大学入試とはどうあるべきか。僕は、大学入試は普通にセンター試験だけでオシマイにしてしまえば良いと思っている。このブログにも何度か書いたけれど、僕は三菱総研の会社としての質に失望して、医学部を再受験したことがある。当時もう30歳を超えていたが、Z会の通信教育を利用して、センター試験では821/900を取った。二次試験で東京医科歯科大学を受験して落ちたのだが、その時の試験科目は小論文と面接だった。僕はこの試験結果に納得がいかず、再受験を断念して理研に出向に出してもらったのだけれど、今でもなぜ落ちたのかはわからないでいる。小論文とか、面接といった主観的な手法(当時、僕はもう三菱総研の副研究員で、報告書などは普通に自力で書いていた。つまり、文章のフォーマットの部分で問題があったとは思えない)によって試験で落とされることは、甚だ適正さにかけると思ってもいる。

そもそも、大学とはそこまで試験で学生をスクリーニングすべきなのか、ということもある。確かに医学部のように、学生の育成に時間とお金がかかる一部の学部では、慎重であるべきかも知れない。しかし、そういったごくわずかな例外を除けば、大学などは特別な試験など行わず、センター試験一発で合否を決めてしまえば良いのだ。その学生をどうやって教育するのかが大学の真価の見せどころのはずではないか。大学は本来教育機関なのだから、「このレベル以下ではうちの大学では教育できない」という人間をスクリーニング出来れば試験としての機能は果たしている。ところが今は、「うちの大学の卒業生を名乗りたかったら、この試験に合格しろ」というものになってしまっている(もちろん、看板に足りうる大学だけだが)。難しい試験問題を出して、それに対する解答能力によって優秀な人間をスクリーニングすることに血道をあげている現状は、教育機関としての矜持を放棄しているように見えるのである。

現在の大企業における就職試験においては、ほとんどのケースで「大学で何を勉強したのか」は問われていないと思う。問われているのは、大学入試でどの大学に受かったのか(つまり、卒業した大学)と、大学時代に何をやったか(主に体育会活動とアルバイト)である。なぜなら、大学ごとに教育のカラーがなく、「東大ならこういう学生」「京大ならこういう学生」というものがさっぱり見えてこないからだ。あるのは、「東大に受かっているなら頭が良い」「京大に受かっているなら、東大よりはちょっと落ちるかも知れないけれど、頭が良い」といった程度のものである。

最近はどうなのか知らないが、共通一次試験が導入された前後、「マークシートの試験で画一的に受験生を評価するのは良くない」という主張があったと記憶している。しかし、中学や高校で受けた教育によってカラーがある方が珍しいのではないだろうか?また、高校で頭角をあらわすような才能であれば、別に大学なんか行く必要もないし、どの大学に行こうともきちんとその後も活躍できるはずだ。「教育機関」としての大学に与えられた役割は、その他大勢の学生たちをどうやって個性的で魅力的な人間にするのか、のはずである。

もういっそのこと、二次試験なんか辞めてしまって、その代わりにセンター試験を2度やってやったら(受験生にチャンスを与えるという意味での複数回実施)どうなのか、と思う。「ネットで問い合わせれば答えが得られるような試験」になるのは仕方がない。カンニング防止は「試験当日は衣料品等以外持ち込み禁止、筆記用具も含め実施者が提供、試験中のトイレは禁止(どうしても行きたいならその場で解答用紙提出)、衣服以外の私物が発見された場合は失格」ぐらいをやれば十分対策ができるはずだ。

学生のカラーは、入試で決めるものじゃない。大学の4年間の教育で決めるものだ。なればこそ、大学入試などはネットで質問したら回答が得られるようなものであっても何ら問題はない。改善されるべきは、大学の教育の質である。

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この記事へのコメント
肯首→首肯 では?
Posted by どうでもよいことですが、 at 2011年03月09日 15:03
> 肯首→首肯 では?

いやいや、全然どうでも良くないです。ご指摘、どうもありがとうございます。直しておきます。
Posted by buu* at 2011年03月09日 15:06
そこで修正なさってはつまらない。

漱石枕流。
Posted by YY at 2011年03月09日 23:23
> そこで修正なさってはつまらない。
>
> 漱石枕流。

確かに、文章の中身を考えたらそれが一番ナイスな対応でしたね(^^;思い至らず。修行が足りませんでした(涙)。
Posted by buu* at 2011年03月09日 23:25
>医学部を再受験

社会人再受験に対しては厳しいと聞きますね(なぜなのでしょうかね。医者は純粋培養がお好きなのかもしれません)。
特に面接では、面接官の何人かが「不可」を出すと(生意気だと思われると)、成績に関係なく落とすという噂もあります。

>センター試験を2度やって
TOEIC, TOFELのように隔月実施とか、毎月実施でもよいのではないかと思います。
Posted by aabb at 2011年03月10日 01:18
> 社会人再受験に対しては厳しいと聞きますね(なぜなのでしょうかね。医者は純粋培養がお好きなのかもしれません)。

育成にお金がかかるので、一年でも長く働けるほうが良いんじゃないですかね?で、そういう理屈で不合格にするなら、最初から言っておけ、という話で、情報公開が無料になったら医科歯科大学に片っ端から情報公開請求してやろうかと思います。もちろん、嫌がらせで(笑)。

> TOEIC, TOFELのように隔月実施とか、毎月実施でもよいのではないかと思います。

問題を作るのが大変ですよねぇ。受験料を高くすれば良いのかな。二回目だと50%アップ、三回目だとさらに50%アップ、とか(笑)。
Posted by buu* at 2011年03月10日 02:54