2011年05月05日

森を見て木を想像することの危険性

科学者は、実験して、そしてその結果から普遍的な法則を見つけ出す。ちょっと実験して、その結果をもとにして仮説をたてて、その正当性を追試で確認する。

さて、こういうタイプの人達が僕の周りには多いし、僕自身もそういうタイプの人間ではあるのだけれど、こと人間の中身を想像する場面についてはこの作戦は非常にあやうい。

例えば、公務員。ぱっとこの言葉を聞いて、「こういうタイプだろうな」というのを誰でもある程度想像できるはず。でも、目の前に一人の公務員が立ったとき、その人がそのタイプにあてはまるかどうかはわからない。あくまでも可能性の問題だ。それに、公務員という職業からイメージされるキーワードは一つではないはずで、一つ一つ検証していけば、ぴったりのこともあるだろうし、そうじゃないこともあるはず。そして、キーワードのうちの大部分が当てはまるなら、「典型的な公務員だね」ということになる。でも、「全く公務員っぽくない」可能性もある。公務員も色々なはずだ。

つい最近、僕のブログで勝間和代さんを批判した。そのとき、「彼女は学生のときに出産しているしね」というコメントがあったのだけれど、彼女がダメなのと、彼女が学生時代に結婚して子供を生んでいることには、僕はそれほど相関を見出さない。というか、反例がひとつでもあれば(厳密には、僕の場合は反例がひとつもなくても、だが)、「え?そうですか?」と感じる。つまり、それとこれとは別、ということだ。ちなみに、僕は学生の時に出産している、ちゃんとした女性を少なくとも一人知っている。学生の時に出産している女性でダメな女性は一人しか知らない。

僕は東大卒の人、特に理系の人間とも良く話すけれど、「東大」にも全体的な傾向は確かにある。官僚主義的で、偉い人が好きで、権力者と仲良くしたがる。僕はこの要素が全部嫌いなので、それが感じられると「ろくでもねぇなぁ」とは思うけれど、もちろんそういうタイプではない人間もいて、だから、最初から色眼鏡をかけることはしない。

公務員だからダメ、東大だからダメ、ということではないはずなのだ。

これが件のリバネスの話になると、少し微妙になってくる。現状でわかるのは、社長はダメだってこと。これは明白だ。続いて取締役会。ここも、ほぼダメだ。微妙になってくるのは株主ぐらいから。リバネスのダメっぷりが明らかになったのはこの冬からなので、おそらくはまだ株主総会をやっていない。株主総会を経てもやっぱり今の体質なら、株主もダメということになる。じゃぁ、社員は?ということになるのだが、これは一層難しい。社長がご乱心でどうしよう、とオロオロしている可能性もなくはない。僕が知っている幹部達はそこそこに能力がある奴らだけれど、全部が全部ということはもちろんないだろうし、もし能力があるなら健康食品販売なんていうインチキ分野に乗り出す必要はなかったはずだ。しかし、何もしない(何も出来ない)のと、悪いことをするのは全然違う。社長をはじめとする取締役会と、その他の社員では立場が全然違うわけだ。だから、僕はリバネスの関係者であっても普通に接している。

かように、どこに所属しているか、あるいはどこに所属していたか、ということと、その個人の資質というか、人間そのものは別なので、森の中にいるからと言って、個人までを断定してしまうのは危険である。

このことは、個としての人間の中でも言えると思う。例えば池田信夫さんなどは僕の中では典型的だ。こと経済学の分野では「なるほどなぁ」と思わされることが多い。ところが、原発関連になってくるとちょっと様相が怪しくなってくる。最近は死者の絶対数で原発の危険性を論じているけれど、原発よりこんにゃくゼリーが危険、原発より焼肉屋が危険となってくると、「ん?」となる。タバコの危険性と放射線の危険性の比較は決して筋悪ではないけれど、ならば考えるべきはタバコの禁止であって、放射線の許容ではないはず。さらに「あれ?」となるのは、放射線の分子生物学的影響について。

「そういうことは生物学的に起こりえない」と東電は説明しなきゃ RT @yoheitsunemi: 女子高生が「「将来結婚し、子供を産む夢がつぶされたら補償してくれるのか」→福島第1原発:東電副社長が謝罪 飯舘村民ら補償求める

http://twitter.com/#!/ikedanob/status/64350847282331648

こういった記述になってくると「『起こりえない』は言い過ぎだよね」と思う。

しかし、これも木と森の話と一緒。森の中の木が全部均一であるわけではない。ひとりの人間の中にも正しいことと正しくないことは混在している。外部の人間が「全てにおいて正しくあって欲しい」と思うのは勝手だが、池田信夫さんだから全て正しいとか、河野太郎さんだから全て正しいとか、そういう決め付けのほうがおかしい。「この人の言っていることはおおよそ正しい」というフラッグは何の問題もないが、「この人が言っているんだから正しいに違いない」では宗教である。正しい可能性が高い中で、それが正しいのか、それとも正しくないのか、それはそれぞれがそれぞれの尺度で個別に判断する必要がある。僕が滅茶苦茶にけなしている人間の一人に福島瑞穂氏がいるけれど、彼女だってときどきは正しいことを言うこともあるんだと思う。多分。

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