2011年05月28日

Twitter後のネット社会 番外編 その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

なんと、芦田さんから直々に教えを受けております。

このエントリーは「Twitter後のネット社会 番外編 その6 芦田さんのツイッター微分論について その1」の続きです。

芦田さんより「次の二つの文書を読め」ということでしたので、読ませていただきました。最初はこちらです。

【第二版・PDF版】twitterとは何か(中級) ― 「タイムライン」とは何か(twitter=「タイムライン」は何が新しいのか)

以下、まとめと感想となります。なお、感想、意見は一番最後のセンテンスに対してのものになります。

タイムラインは、一個の人間を付帯情報(肩書きとか、実績とか、学歴とか、職歴とか、家柄とか、国籍とか)から分離する。
タイムラインから「現在」だけを切り取ると、全ての発言者は平等になる。
誰の意見に対しても、誰もが発言できる。
より平等性を高めるためには、フォロー数が必要である。
フォロー数が増えれば、発言対象となりうる発言が増える。発言機会が増大する。
フォロー数を増やすことによって、情報はより一層付帯情報と分離される。

→11「フォロー数を増やして微分化すればするほど、関心は連続する。つまり情報選択の主体(特には「検索」の主体)はここでは不要になる。」についてはちょっと疑問です。本当でしょうか?例えば、ランダムにつぶやきを選択したらどうなるのでしょうか。ランダムな選択は機能的ではないということかも知れません。無意識のうちに、自分に都合の良いつぶやきが選択される、ということかも知れません。それを称して、「情報選択の主体は不要」ということでしょうか。

これまでのネット情報は有効利用にスキルが要求された。
それを少し容易にしたのがSNSとRSS。しかし、スィートスポットが狭かった。
タイムラインの情報量が、自動的な(能力的ではなく)スルーを可能にした。
同時に機会を増大もしている。
スキルが低くても、自分に適合した情報に行き着くことができる。(18について。例えばあずまんとかは逆の状態)

→全般的に、異論はありません。その通りだと思います。


続きまして、こちらの文章です。

機能主義とメディアの現在−情報社会とデータベースと人間の死と(講演) ※補論:土井隆義の『個性を煽られる若者たち』における個性論

以下、まとめと感想になります。

機能主義の「機能」とは、原因と結果を外観上直結するもの。中間の動作をブラックボックス化する。

サイバネティクスの思想は、まず「制御できるもの」と「制御できないもの」の二つで世界をみる。そして、制御できないものを、制御できるものを使って相対的に制御する。メルトダウンした原発を注水によって冷却、安定化するとか。ウィナーはこれを全ての事象に応用できると考えた。

機能主義的な動き、すなわち機械的な動きは、動いたところで完了する。
サイバネティックスでは、必要に応じて動く。自動。

→機械的と自動的は違うのでしょうか。踏んだら開く、そこでおしまいなのが機能的で、開いたものが閉じて、また次に踏まれるのを待つのが自動的、ということでしょうか。

動いたことを検証し、その原因について検証する場合、その存在は人と区別がつかない。

行動主義とは、外観(外部から観測可能な事象)が全てを規定するという考え方。外から見た行動が同じなら、中身が生身の人間であろうが、アンドロイドだろうが、無関係、ということ。

賢い奴がいたので、東大卒だと思ったら実は中卒だった。でも、外観が賢いのであれば、そいつは東大卒と同等に評価されるべき。

人間は関係のあるものと関係の無いものを分類し、重要度の低いものを無視できる。

人工知能だと、環境要因について、あらかじめ関係のあるもの、関係のないものを分類しておく必要がある。電話をする、という目的に対して、部屋の電気、そとの天気、ファックスの調子、パソコンの調子・・・と、色々存在するものについて、これは関係がある、と定義する必要がある。関係ないものを定義して外さない限り、それは関係のあるもの。

関係ないとした部分でアクシデントが起きたときに人間は驚く。人工知能は全てを関係があると思っているので、驚くことができない。全て想定の範囲内。

現在について評価できるのは未来でしかない。現時点において、現在の評価はできない。

→多分、このあたりが芦田さんと私の立ち位置の違いなんだと思うのです。現時点で「正しい可能性の高い選択肢」を選ぼうとするか、最初から諦めるか、です。でも、芦田さんも別にそれを諦めてはいないはず。それをツイッターに求めるかどうか、ということでしょうか。

過去の悪さを人前で公言できる人間は自分の現在を肯定しているだけ。

データベース主義は、とにかくデータを集める。何が必要になるかは将来しかわからないから、今のところはデータを集めておく。

データは入力段階で差別してはならない。

大量のデータを差別(選別)するシステムが「検索」である。

検索には情報量と抽出スピードが要求される。

膨大な情報をベースにして最適化された行動を選び出せることが最も幸せなこと。

→データベースを共有化でき、検索システムが共有化されれば、「判断」は不要になるわけですね。個性がなくなり、全ての人間(とロボット)が機能的に同一になると理解しました。未完成で、理解不能な事象の前でオロオロし、R2-D2に愚痴をこぼすのがより人間的なC-3POであり、その愚痴の中で不要なものをスルーし、重要なものにだけ対応する能力を持つのがR2-D2である、と理解しました。

機能主義的に言えば、人間は実力のみで評価されるべき。そのひとつが学歴主義。これに対立する概念は階級主義、家族主義。

マークシート試験は非差別主義のシステム。

一人の人間の中から受験日の一日を切り取って、評価する。より自由であり、平等である。

ツイッターは、それをさらに140文字まで縮めたもの。データベース主義をやめようというメディア。

→なるほど。私の場合、ツイッターを見て、「?」と感じると、その人の背後のデータベースを見てしまいます。それは過去の発言であったり、プロフィールだったりします。そして、それを見た上で、「あぁ、こいつは馬鹿なのか。じゃぁ、納得」として、私のデータベースにそれを入れなかったりします。つまり、入力段階でデータを選別、差別していることになります。この行動について、「データはほとんど無限に蓄積できるんだし、その情報の良し悪しは現段階では評価できないんだから、とりあえず放りこんでおけよ」というのが芦田さん的な考え方ということでしょうか。

短い時間で切り取ると、人間は誰でも同じ。

→本当にそうなのでしょうか?例えば昨晩、私が

すげぇ、ツイッターっていつの間にか、フォローしておいてタイムラインに出さないっていうのができるようになったんだ(笑)。お付き合いでフォローしておいて、でも目障りだからタイムラインに出さない(笑) 非常に日本人的な機能だな、おい。米国人もこのような日本的なもののあはれを解するようになったとはいとをかし


と書いたら、

「いとをかし」は「とても趣がある」ということですが・・・趣?


と書いてきた馬鹿がいて、想像するに、この方は私に対して「あんた、「をかし」の意味を勘違いしているんじゃないの?」と思っているわけですが、私は当然「をかし」の意味を理解した上で、「米国人ですらこんな風に他人の目を気にするようになってしまったのねぇ。感慨深いですねぇ」と書いています。そして、そのことぐらいは普通の常識的な日本人なら簡単に理解するわけです。140文字まで切り取っても、その文字はやっぱり大量の「付帯情報」を背負っていて、そこを切り離すのは難しいのではないか、と私は思います。

単に、私がそういう使い方をしている、ということかも知れませんが。

ツイッターによって人間を小さく切り取る(→これを芦田さんは「微分」と表現)ことによって、賢い人も馬鹿も一緒になってコミュニケーションができるようになる。交流が活発化する。

→なるほど。私のように、「あぁ、こいつ馬鹿だな。さようなら」というのは、芦田さん的には間違った使い方になるのかも知れません。前提には、現時点で情報の良し悪しは評価できない、というのがあるのでしょうか。あるいは人間の良し悪しも評価できない、と。私は明確に評価しています(できる、できない、あるいはその評価が正しい、正しくない、に関わらず)。そういう意味では、私は物凄く評価が好きですし(ラーメン評論家だし、なんちゃって映画評論家だし)、差別的な人間でもあるんだと思います。「こいつとのコミュニケーションは時間の無駄だから、辞めておこう」と考えるような人間です。

インターネット利用の活性化の鍵は検索能力の向上と思われていた。

→今も私はそうだと思っています。

情報検索の問題点は情報の時間軸が見えにくいこと。抽出結果が古くて役に立たない可能性が否定出来ない。検索が役に立つのは、検索者に時間差を埋める能力がある場合。データ識別能力(評価能力)がある場合。

専門家は安易に発言しない。馬鹿はインプットとアウトプットの間に時間がない。土日に読んだドラッカーの話を月曜日の朝礼で話す。

専門性とは、時間による蓄積と評価がなされること。

ミクシィにしろ、ブログにしろ、その場の発言ではない。時間をおいている間に、書き手は情報を評価している。ツイッターはその評価の場面が存在しない。

ツイッターには、「現在」が内包する迫力が存在する。

→確かに、総統閣下動画が一晩で10万ヒットしたときのツイッターは凄いものがありました。

ツイッターは、利用主体の意欲と選択なしにネット情報を活用できるメディア。

ツイッターのつぶやきは「現在」の共有である。

→ここも私とは違うところです。私にとってのツイッターは、あるデータベースへのトリガーでしかありません。ただ、ツイッターをどういうツールとして捉えるかはそれぞれで、芦田さんが主張するような使い方が「最も効率的かつ本質的な使い方」である可能性は否定しません。私はあまりそういう使い方をしていない、ということです。その上で、一般の人にどういう利用方法をオススメするのか、という問題は引き続き存在します。このあたりが、「ツイッターの利用法」につながりそうです。

テーマ主義はストックの文化で、専門家が必ず勝つ。

→そうですね。だから、専門家である私は安心なのです(笑)。

ツイッターは人間を細かく切り取ることによって平等性を増大させるツール。これによって多様な交流を実現する。

社会のサービス産業化が進み、営業マンニーズが高まっている。「売る人間」が必要。

営業マンに必要なのは体系的な知識ではなく、空気を読む力。コミュニケーション能力。

人間は他者に敏感になることを要求されている。人が来たらドアを開く自動ドアと一緒。いつ誰が来ても大丈夫なように構えている。

今の若者は24時間コミュニケーションに縛られ、疲弊している。
→このあたりは「情報病」と同一の考察で、言葉が変わっているだけです。おそらく三浦展さんとの情報交換はなされていないと思うのですが(勝手な推測ですが)、結論が非常に似通っていることは興味深いです。

友人関係が密になり、コミュニケーションを継続していることが大事になる。内部に物凄く巨大な他者を抱えている。

ツイッターはそうした拘束感がない。

ツイッターは、ストックのない人間でもある種の社会性を構築できる。
→ストックのある人間も、それとは別の社会性を構築できるはずです。

牛丼をトリガーにして哲学に踏み込んでくる人がいる。これが「ソーシャル」。

→これはそのとおりだと思います。

大量にツイートするとフォローを外す奴がいる。こういう奴らは元々のフォロー数が少ないから。これではツイッターならではの有効利用は難しい。

→昨日、「あなたの窓」機能を使ってのぞき見したら、その人のタイムラインが私のつぶやきでいっぱいだった、ということがありました。確かにこれでは困ってしまいます。つまり、ゴミ情報が大量に流れていて、自分に都合の悪いものは機能的に意識の外に排除されていくのがツイッターだ、と理解しました。

「時間を忘れること」と「死を忘れること」

→残念ながら、このパートは私に哲学に関する基礎的な知識がなさすぎて読解不能です(汗)。しっかりと理解するためには相応の勉強が必須です。


芦田さんと私の違いは、まず、芦田さんがツイッターを「教育する場」としている一方で、私は「情報を発信する場」としている点にあると感じました。ここに、ツイッターに対する認識の違いが生じているような気がしました。

そして、芦田さんは、生徒を前にして、勉強したがっている人にどうやったら機能的に勉強できるかを説いていると感じました。一方で私は、一定のスキルを持った人を対象として、情報を効率的に集めていく方法について論じています。両者の違いは、芦田さんはツイッターによってコミュニケーションを発生させ、その先に学びの機会を設定していることに対し、私はツイッターをトリガーとしてデータベースへのアクセスする手順について考えています。

芦田さんの手法は、コミュニケーション能力を必要とし、私の手法はデータ抽出能力を要求します。その上で、芦田さんの主張は、ツイッターで要求されるコミュニケーション能力は、ツイッターが持つシステム上のメリットによって、かなりの部分まで低減されている、ということなんだと思います。問題は、そうしたクラスターからのアクセスに対して、「なんだよ、お前は」とブロックする有識者の存在ということなのかも知れません。相手が大量のフォロワーを持つ場合、パンピーからのアクセスも大量となりますから、相手が反応してくれる可能性はどうしても低くなります。

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この記事へのコメント
哲学ネタ参考に。
http://wiredvision.jp/news/201104/2011042119.html
結局の所、そんなこと考えずに過労死するのが人間として
正しい生き方だと思います。
社長はたぶん過労死で死ぬでしょう。
暇なのでそういう人間にあこがれます。
うっかり事故で死に損なうと、
病院で暇ができてしまい、そういう考えがうかんでしまうので
それはそれで諦めるしかないですが。
Posted by 非糞忙しい人間 at 2011年05月29日 14:10
> 正しい生き方だと思います。

生き方の「正しさ」は難しいですね。僕の中には僕なりの正義がありますが、それはあくまでも僕の個人的な正義であって、あちらこちらで見せるものでもなく、強制するものでもないので、人それぞれかと。

> 暇なのでそういう人間にあこがれます。

暇は暇で良いと思います。僕はそれで食べていけるなら、仕事は一切やりたくありません。

> 病院で暇ができてしまい、そういう考えがうかんでしまう

僕もびっこになって半年ぐらい病院生活したり、無職で一年近く過ごしたりした経験があります。無職だったおかげでブログの本を書けたし、びっこだったおかげで、世の中のバリアフリーじゃない具合に敏感になれたりもしました。
Posted by buu* at 2011年05月29日 18:06