2011年06月12日

Twitter後のネット社会 番外編 その8 遅れて登場した「村の重鎮」

フェイスブックに私の友達が作っているコミュニティがあって、以前、そこに招待されたので参加しています。宗教団体のコミュニティとかではありませんから、別に毒になるわけでもなく、「まぁいっか」という感じで参加しているのですが、その管理人氏、一所懸命そのコミュニティを盛り上げようとして投稿を繰り返しています。しかし、投稿するのはその管理人氏のみです。他の参加者はときどき「いいね」ボタンを押すか、ほんの数文字のコメントを書くだけです。そして、コミュニティの参加者は25名です。

それで、少し前に、管理人氏はネットメディアの専門家である僕に「どうやったら増えますかね?」と聞いてきました。

彼がフェイスブックに投稿していたコンテンツは、そのどれもこれもが本来ウェブサイトに系統立てて記載されるべきもので、もしフェイスブックを利用するのであれば、あくまでも本コンテンツはウェブ上に記載され、補助的な手段として更新情報がコミュニティ参加者に配信されるべきものでした。フェイスブックへの投稿はアーカイブ性が低いため、例えば一ヶ月後に参加した人は、今ここで行われているやりとりを見る機会がありません。これでは砂漠に水を撒いているようなものですし、そこに投入されている労働力はただの無駄になってしまいます。

つまり、

1.ウェブサイトの構築
2.フェイスブックのコミュニティ参加者を増やす
3.コミュニティに更新情報を流す
4.フェイスブックでフェイスブックにふさわしいやりとりをする

といった手順が必要なのに、ウェブサイト、フェイスブックの特性を把握していないために、管理人氏は毎日せっせと無駄作業に励んでいました。そこに投稿されているネタが面白いものであれば、これによって参加者の増加も期待されますが、もちろんそのネタは面白くも何ともないものです。これでは参加者は増えるはずがありません。ちょうど、サイエンス・コミュニケーターが抱える問題点と同じものを抱えていたわけです。

赤の他人なら「無駄作業ご苦労様」で終了なのですが、さすがに彼は私の友達なので、放置しておくわけにもいきません。そこで、「私のTwitter後のネット社会を読んだほうが良いよ」と書いてあげました。管理人氏は「読んでみます」と答えましたが、その後も相変わらず砂漠に水を撒いています。そこで、「読むとか言って、読んでないでしょ」と書いてあげました。

すると、しばらくして、管理人氏からチャットで「元木さんは生産的じゃない、前向きじゃないと不快に思っている人から複数メールが来た」と連絡が来ました。私は、「あぁ、なるほどねぇ」と膝をうちました。

私たちのような、ネット住民は「文句があるなら、その場で書けば良いじゃん」と思ってしまいます。ところがそうではない人たちが一定量存在します。これまでは、それに該当するのは「情報病」患者であり、「変異型情報病」患者でした。そして、フェイスブックによって、もう一つが加わったことになります。名称はないのですが、これまで技術的なハードル故に2ちゃんねるやミクシィを使うことができず、ようやくネットに入ってきた人たちです。仮に、ここでは「村の重鎮」とでもしておきます。彼らは肩書きや人間関係をそのままフェイスブックに持ち込みました。日頃の人間関係をただ単にインターネットの中に持ち込んだだけです。そして、彼らは、日頃やっているように、背後でこっそりと自分の不満を管理人氏にぶつけるのです。これを見て、「あぁ、フェイスブックとはつまらないメディアだなぁ」と痛感すると同時に、2ちゃんねるに代表される匿名メディアの素晴らしさに、今更ながらに気がつかされました。

2ちゃんねるであれば、私が何を書こうとも、それはどこの誰ともわかりません。その文章を読んで、「お前、アホかよ、もっと生産的なことを書けよ」(実際には、2ちゃんねるではこんなコメントはつかないでしょうが)と批判がありそうなものです。なぜかと言えば、「発言」と「発言者」が厳密に分断されている(=匿名化されている)からです。フェイスブックの場合、「俺のような肩書きの人間に対してなんて言いぶりだ」とか、「お前は俺の友達なんだから、もっと親切に書けよ」とか、「お前は俺の部下なんだから黙ってろ」とか、そんなこんなの圧力が存在してしまいます。ですから、背後で、人間関係を利用して「不愉快なんですけどぉ」とかメールすることになります。

私はこれまで、2ちゃんねるやツイッターといったメディアの匿名性をそれほど重要視してきませんでした。そして、私自身、ネットではほとんど実名で情報発信してきていました。ただ、私の場合は、相手がどんな肩書きだろうと基本的にそれを考慮しません。ですから、これまでも問題がなかったんだと思います。しかし、普通の人は違います。ネットの中にリアルな肩書きや人間関係が持ち込まれた場合、自由な発言が阻害されてしまう人の方が多いでしょう。それを目の当たりにして、私は愕然としました。

フェイスブックに対してはこれまでも、アーカイブ性が低いとか、インターフェイスがわかりにくいとか、システム的な部分でクエスチョンマークをつけ続けてきたのですが、今回は決定的に「つまらない」と感じてしまいました。これならミクシィのほうがまだマシだとも感じました。

これは、フェイスブックというシステムへの失望ではありません。日本のムラ社会気質とフェイスブックが融合したからこその失望感です。私のように、インターネットに対して、制限のない、自由闊達な、きままな、自律的な情報のやりとりを期待していた人間には、この失望は衝撃的ですらありました。

しかし、一方で、この融合は、あるクラスターに対しては大きな福音でしょう。それは、ムラ社会が大好きな、いわゆる官僚とか(ここでの「いわゆる」は、皆さんが想像する典型的な、という意味です)、いわゆる大企業の社員とか、いわゆる学者とかです。そういった、ムラ社会が大好きで、そこの居心地が良く、できればネットにもその居心地の良さを持ち込みたい層にはものすごくフィットするかも知れません。

前回、私は「フェイスブックは加齢臭に満ちている」と書いたのですが、その原因がどにあるのか、確信しました。何か自分の意にそぐわないことがあると、こっそりとメールしたり、悪口を言い合ったり、肩書きを利用して黙らせたり、ついつい日頃日常生活でやっていることをネットの中でもやってしまうような人が存在するからです。「村の重鎮」によって、日本のフェイスブックは色付けされつつあります。今後、この流れはかわっていくのでしょうか。引き続き、観察を続けたいと思います。

ここまで書いてふと気が付きました。物凄くだだっ広い大自然の中にいながら、ルールでがんじがらめにされて、マナーにもうるさく、高齢者愛好家が多い、というところで、ゴルファー層に共通点がありそうです。「村の重鎮」とすべきか、「ゴルファー」とすべきか、これももう少し考えてみたいと思います。

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この記事へのコメント
ゴルフをやられたことはありますか?
あるとすれば、どれくらいやられているのですか?
Posted by 1 at 2011年06月13日 07:31
> ゴルフをやられたことはありますか?
> あるとすれば、どれくらいやられているのですか?

子供の頃は親戚に連れられて良く遊びましたが、おとなになってからは全くやっていません。
Posted by buu* at 2011年06月13日 12:42
>すると、しばらくして、管理人氏からチャットで「元木さんは生産的じゃない、前向きじゃないと不快に思っている人から複数メールが来た」と連絡が来ました。

って本当のことを言ってくれたその管理人の友達を大事にしてあげてください。
Posted by juju at 2011年06月15日 06:00
> って本当のことを言ってくれたその管理人の友達を大事にしてあげてください。

役人出身なので色々と大変そうです。
Posted by buu2 at 2011年06月15日 18:15