2011年08月03日

本日の所感

8月になったことだし(意味はない)、放射能行政に関する今日の時点での僕の意見をまとめておく。色々と過去エントリーと重複するけれど、確認も含めてあまり気にせずに書いてみる。

僕は政府を信用していないけれど、それはどういうことか、というのが今日の文章のテーマ。

福島第一が爆発して、東日本の広い範囲に放射能がばらまかれた。ここまでは疑う余地がない。さて、ではどうするか。もし日本に無尽蔵に土地があって、お金も腐るほどあるなら、関東・東北の人間を全員よその安全な土地に引越しさせてしまえば良い。ところが、日本には土地もなければ、お金もない。やれることには限界があるのだ。

そんな状況において、政府は「科学的」という言葉を連発している。あたかも、科学的知見が十分なような口ぶりだ。しかし、実際は全然違う。ヨウ素131の安全性、セシウム137の安全性について(危険性ではない)のデータは全くと言って良いほど、ない。それは当たり前だ。大規模な人体実験はこれまで、チェルノブイリでしか行われていない。チェルノブイリでわかったのは、ヨウ素131によって特に子供に悪影響が出る、ということ『だけ』である。セシウムでどんな悪影響が出るかについてはもちろん、ヨウ素やセシウムがどの程度までなら安全なのか、ということも、きちんとした論文として発表され、それが国際的な同意を得たという情報を僕は持っていない。

政府はあたかもそういう情報があるかのように振舞っている。だから、気持ちが悪い。

政府としては「データがないから何もできません」というわけにも行かない。一方で、何でもかんでもできるわけでもない。だから、「基準値」などというものを決めることになる。これは、科学的な数字(=客観的な測定値)ではあるけれど、科学的に決められた数値(=科学的根拠に基づいて決められた数値)ではない。あくまでも行政的な視点(=経済的な視点)で決められた数値である。この数字が無意味、ということはないのだが、私たちはその数字が「科学」ではなく、「政治」であるということを理解しておく必要がある。

このことに関連する1つの記事が、8月3日に自由報道協会のサイトに掲載された。僕自身は自由報道協会の姿勢を全て受け入れるわけではない。ただ、客観的な事実として、ひとつ重要なことが読み取れる。

枝野官房長官からの回答全文掲載〜詭弁だと言わざるを得ないことが悲しい…

それは、枝野長官が7月7日においても「緊急時」であると認識しているということ。僕の感覚で言えば、4月以降は緊急時ではない。緊急時とは、「取るものも取り敢えず逃げ出すには時間がない状況」というのが僕の考えるところである。「緊急時」の明確な定義がない状態では、政府が決めた行政的な視点からの数値を共有することはできない。

また、もうひとつ認識しておくべきことがある。それは、日本という国の大きな特色である。何かといえば、「政治」が「責任」を取らないということだ。例えば、「年間20mSvまでは被曝しても大丈夫」と、政治的に基準値を決めたとする。その影響が出るのは、早くても5年後、遅ければ20年か、あるいはもっと時間がかかるだろう。そのとき、基準値を決めた人間は絶対に責任を取らない(注釈1)。

僕たちは目の前にある「無責任な基準値」を目の前にして、どうやって暮らすのかを考えなくてはならないのだ。

さて、その暮らし方には、次の3通りが考えられる。

1.福島第一由来の放射能は極力避ける
2.一定の目安(例えば政府の基準値)までを許容する
3.全て無視する

3の人は、何も気にせずに暮らしていれば良い。2の人は、どうやって目安を決めるのかが最大の課題となる。一番簡単なのは政府の基準値を信用するという方法だ。時々、今回のセシウム牛のように基準値オーバーのものが流通してしまうことがあるけれど、それだって、日頃から放射能ふりかけ野菜を食べているなら大差ないはずだ。この層の人たちがセシウム牛で大騒ぎしているのが一番おかしいとも言える。ただ、人間は感情の生き物であって、それを全部数字で割りきってしまうのも乱暴だ。この点については最後に書くことにして、とりあえずは1の人だ。今、埼玉の大部分のスーパーでは茨城産のネギしか手に入らない(注釈2)。クイーンズ伊勢丹あたりまで行くと他の地域のネギが売っているが、サミットやオリンピックなどに比較すると値段が3倍ぐらい、農協直販に比較すれば5倍以上である。国産牛肉ももちろん食べることができないし(ただし、オージーはおしなべて国産より安いし入手が簡単なので、野菜ほど事態は深刻ではない)、関東、東北の地魚も無理だ。新茶も飲めなければ、秋以降の新米も難しい可能性がある。昨日、富士電機が食品放射能測定システムの販売についてリリースを出していたが、このスペックを見ても、セシウムの検出限界は

肉類 約140Bq/kg(精密測定時 約50Bq/kg)
米類 約90Bq/kg(精密測定時 約35Bq/kg)
葉菜類 約250Bq/kg(精密測定時 約100Bq/kg)

という数値である。1の人にとってみれば、この数字はかなり甘い。
http://www.fujielectric.co.jp/about/news/11080102/index.html

なぜなら、現在の計測技術を用いれば、もっと厳密な測定が可能だからだ。これまた、経済的な視点からの妥協に過ぎない。

1の人は、関東、東北の農水畜産物は一切口にしない方が良い。外食や加工品を口にすることによって、どうしても避けられない放射性物質の体内取り込みがあるはずだ。そうした影響をなるべく低くするためにも、自分で防御できるとこは防御する必要がある。ただ、このシステムは、2の人には役に立つだろう。

3の人はもちろん、2の人も、仮に福島を中心とした東北、関東でがん患者発生率がアップしても、自分ががんになったとしても、あるいは自分の子供ががんになったとしても、少なくとも誰も責任は取ってくれない。そのことだけはきちんと理解しておく必要がある。

さて、最後に、アナログな感情をデジタル化することに対する不快感について。さっき後回しにしたけれど、人間の感情はアナログだ。突き詰めればデジタルの集積がアナログに見えているだけかも知れないが、単純に◯と×に分けることはできない。例えば目の前に、放射性セシウムについて次のような数値の商品があったとする。

1. 0ベクレル/キログラムの牛肉
2. 200ベクレル/キログラムの牛肉
3. 400ベクレル/キログラムの牛肉
−−−−−厚生労働省の基準値500ベクレル/キログラム−−−−−
4. 600ベクレル/キログラムの牛肉

この時、消費者はどうするのか、ということだ。僕なら、迷わず1を買う。2〜4は買わない。幸いにして僕は牛肉を一切食べないでも生きていける人間なので、1が売り切れているなら諦めることができる。一生、それで問題がない。一方で、「政府の基準値を信用する」という人なら、1〜3なら、どの商品でも同じはずだ。だけど、きちんと数値が表示されているなら、まずは1を、それが売り切れなら2を、3しかないなら3を買うだろう。恐らく、「どうせなら、なるべく放射能汚染の少ないものを買いたい」と思うと想像する。僕に言わせれば、4の肉は等量の無汚染豚肉と合い挽きにしてしまえば3よりも気分的に良いんじゃないの?ということになるのだが、そのあたりの消費者心理はかなり微妙なようで、4は絶対にイヤ、という人も意外と多いのかも知れない。

それで、政府の数字を信用する人であっても、どうせなら放射能汚染の少ないものを選びたい、と思うという考え方にはそれほど異論がないと思うのだが、政府のやり方は、わざわざ上記の1〜3の差異を隠蔽するというものだ。それによって何が起きるかって、1、2、3の肉の差別化ができなくなるのである。そうすることによって、2や3に生じている商品の瑕疵をごまかすのが主眼だ。

もしこの情報を詳らかにした場合、恐らく1の値段は上昇し、2は下落する。3は2以上に下落するだろう。そうした市場動向によって、2や3の肉を出荷している畜産家に被害が出ることを恐れているのだ。ことここに至り、政府の姿勢は「基準以下なら、なるべく広く浅く、大勢の日本人に放射性物質を食べてもらおう」というものである。そのために、本来はアナログデータである汚染度を、基準値以上と基準値以下の2つに分類しているのである。

僕は、責任を取らない政府がこういう手法を取ることに対して非常に大きな嫌悪感を持つ。だから、僕はもう当分、東北、関東の肉、野菜、穀物は食べない。僕が知りたいのは、無責任な数字より上か、下か、ではない。目の前にある商品がどれだけ放射能に汚染されているのか、である。その数値を見た上で、自分で決める。数値が表示されないなら、その商品は買わない。これは風評被害ではない。行政の不作為によって生じた人災である。


注釈1:甲状腺がんだけは責任を取る可能性がある。
注釈2:サミットは2日から新潟産の長ネギの販売を開始した。

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