2011年08月25日

Twitter後のネット社会 番外編 その11 Twitter微分論について

まず、Twitter微分論と心理主義について、乱暴に3行でまとめます。詳細は資料をあたってください。

Twitter微分論のまとめ
ツイッターは単に人間の行動を切り取り続ける。ネットの向こうにいる生身の人間の、「メシを食っている」といった行動だけが伝わってくる。その人間の肩書やこれまでの行動といった付帯状況が排除され、全ての人間が平等化される。
参考資料:【第二版・PDF版】twitterとは何か(中級) ― 「タイムライン」とは何か(twitter=「タイムライン」は何が新しいのか)

心理主義のまとめ
人工知能に「Aさんは牡羊座のO型です。Aさんの性格を正確に述べなさい」と聞いても返答は得られない。このような、機械的な応答が期待できないことに対して応えるのが心理主義。音楽や美術に関する評論が典型例。心理主義的な主張は「私はそうは思わない」と反論されると再反論が難しい。
参考資料:近代主義と心理主義と

さて、芦田さんの主張するTwitter微分論について、今日の時点での僕の見解をまとめます。

微分論は、「ネットのメディアはことごとくストックタイプ(データベース型)だった。ツイッターははじめてのフロータイプ・メディアである。ここにツイッターの面白さがある」というものです。フロータイプのメディアの良さは、情報発信者に関する付帯情報がどんどん切り捨てられる点だと芦田さんは述べています。確かに、そういった付帯情報によって、人間の発言は多様に歪められます。刑務所にいるホリエモンが「トイレなう」とつぶやくのと、AKBの前田さんが同じ事をつぶやくのでは全く意味が異なります。前者を見れば「ええっ、ホリエモンって、長野の刑務所にいるんでしょ?刑務所って、ツイッターできるの?」と考えるかも知れませんし、後者であれば「そんなこと、アイドルがつぶやくんだ」と考えるかも知れません。なぜそう考えるかといえば、私たちにはホリエモンや刑務所や前田敦子さんやトップアイドルやトイレについてのぼんやりとした(=自分以外の他者とは絶対に共通でない)イメージがあって、「トイレなう」という情報にそのイメージが付加されるからです。刑務所やトップアイドルに対するイメージは人それぞれ(=心理主義的)なので、これらの情報を受け取った時の感想もバラバラになるはずです。だから、「そんなこと考えてどうする。そいつらは今トイレに行ってるんだ。それだけで十分だろ」というのが微分論的なスタンスなんだと思います。付帯情報がなければ、「あぁ、ホリエモンと前田っていうどこかの誰かがトイレに行ったんだな」でおしまいになるわけです。そして、そこから始まるコミュニケーションに、今までにないものを期待するのが微分論なんだと思います。

微分論で述べられていることは確かにツイッターの可能性を述べているのですが、決して今のツイッターの特徴を述べていません。なぜかといえば、ツイッターにはプロフィールが記述できて、発言は3,000個までストックされ、データベース化されます。これらはツイッターの標準機能によってデータ検索が可能です。また、やろうと思えばTogetterのような外部システムを使って特別な意図を持ってストックすることも可能です。つまり、ツイッターは微分的な側面を持ちつつも、積分的な機能も提供しているわけです。微分論的に言えば、ソフトバンクの社長である孫さんを「50人以上の会社の社長をやってから偉そうなことを言え」と恫喝することも、オバマ大統領を「日本に住んでいるんだから、米国のことをとやかく言うな、バカ」と罵倒することもありうるわけですが、実際にそんなことをすれば「こいつはどこの馬鹿だ?」ということになります。ツイッターには微分論で述べられているような特性は確かにあるのですが、実際にはそういう使い方はされていない可能性が高いのではないでしょうか。

一方で、微分論的なスタンスが全く意味がないとも言い切れません。例えば、孫さんに対して、「ソフトバンクの経営方針はおかしいと思う」と、どこの誰だかわからない人間が直接発言し、コミュニケーションを取ることも可能です。そういった活動がツイッターによって簡易化されたことは事実でしょうし、意味もあることです。ところが、これが意味を持つのは、経営方針について意見を述べた人が、「孫さんはソフトバンクの社長である」という付帯情報を知っているからこそ意味があるわけで、どこの誰ともわからずに、手当たり次第に述べているだけでは、孫さんにはその言葉は届かないでしょう。

つまり、利用者がそぎ落としたいと考える付帯情報には、レベル差があることになります。「この情報は残しておきたい」「この情報は切り捨てたい」という、差異があるわけです。その差異は心理主義的ですから、人によって異なります。ある人は何も考えずに全てを無視するかも知れませんし、またある人は相手のプロフィール、過去の発言、さらにはリンク先などを徹底的に調べて利用するかも知れません。そして、その利用方法について、「こうやるべき」と主張することは意味がありません。ツイッターは他のネットメディアと同様、自由度が高く、その使い方は利用者に任されています。逆に言えば、ブログであっても微分論的に利用することは可能なのです。違いは、それぞれが持っている方向性だけ、つまりストック的になりやすいか、フロー的になりやすいか、というだけのことです。

たとえば、島田紳助さんのニュースについて、テレビはどの局もワイドショーで取り上げて、「写真があった」だの、「手紙が見つかった」だのと似たような放送を繰り返しています。一方でネットでは、Yahoo!のトップでも8個のニュースのうちの1つに過ぎず、他には岩手県知事選やら、マチャアキの新妻の話やら、一般の人にとっては比較的どうでも良い話と並列に述べられています。今、人工知能がテレビを見たら、恐らく紳助さんの話しか見ることができません。ネットでは、好き勝手に情報を選ぶことができます。これは一例ですが、そもそもネットメディアは利用に際しての自由度が高いのが一つの特徴で、その意味で非常に心理主義の影響を受け易いことになります。それは、ツイッターであっても同じです。

ですから、芦田さんが「ツイッターとは微分的なメディアである」と述べても、利用者がそれを望まないのであれば、全く微分的に利用されないことになります。実際のところ、正しく(笑)微分論的に使うなら、プロフィールも見ない、リスト機能も使わない、検索もしない、フォローする数は数百以上・・・といった、かなり特殊な(「特殊な」は、心理主義的な判断です)利用方法をしなくてはならない、ということになります。しかし、少なくとも私は、知らない人に何かを言われればプロフィールを読むし、タイムラインはノーマルはほとんど読まず、リスト化されたものを読みますし、必要に応じて検索もすればTogetterも使います。ほぼ、微分論的な利用法をとっていないことになります。では、それによってツイッターを使いこなせていないか、ツイッターの魅力を十分に満喫できていないか、と問われれば、別にそんなこともないと思っています。それ以前に、私にとってのツイッターは、ブログ、フェイスブック、Google+、スカイプといったネットメディアの一つに過ぎず、ツイッターに対してそれほど多くのものを期待してもいないのです。そして、これも非常に心理主義的な判断ですが、世の中の多くの人が、私と似たような感覚でツイッターに接しているのではないでしょうか。

微分的か積分的か、フロー的かストック的か(微積分を換言しただけ)というのは、ネットメディアについてはそれほど大きな問題ではない、というのが私の考えです。なぜ問題にならないかと言えば、テレビと違い、ネットメディアはその利用にあたって、格段に自由度が高いからです。

関連エントリー
その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

その2「自分ができることをやる」

その3「ポジティブ情報も生き残れないTwitter」

その4 ツイッターでの議論はソーシャルリンチにつながります(草稿)

その5 自分にとってのカリスマ

その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」

その9 自治体までFacebook

その10 芦田宏直氏の講義の事例


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