2012年09月27日

討論型世論調査に関する私見

原発問題に関して今年の夏、日本では「エネルギー・環境の選択肢に関する討論型世論調査」が実施された。この調査について、産経ニュースにこんなニュースが掲載された。

「討論型世論調査」から見えるもの
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120927/art12092708000002-n1.htm

こと原発問題に関しては、日本の新聞社の主張は賛成:日経、産経、読売と反対:朝日、毎日、東京に真っ二つにわかれているので、どちらの情報もバイアスがかかっていると最初から構えて読む必要があるのだが、この記事は原発推進派の産経らしからぬ、比較的中立な記事である。その主旨は、

政治と国民の乖離を埋めるシステムとして「討論型世論調査」への注目が集まりつつある中、世界で初めて公式に「討論型世論調査」が日本で行われた。結果については一定の留保をつける声もあるが、政治と有権者の距離を縮める有益な手段と評価する有識者もいる。討論型世論調査は政治家が政治判断を国民に丸投げしているに過ぎず、議会政治の制度疲労とも言える。


といったものである。

さて、この「討論型世論調査」について、僕は先日こんなガイドラインを書いた。

泥縄のガイドライン
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51358990.html

言うまでもなく、今年の夏に行われた「討論型世論調査」の混迷っぷりを揶揄したものだが、この討論型世論調査に関する僕のスタンスをもうちょっと明確にした文章にこんなものがある(必要なのは中間の2段落だけど、誤解を招かないように全文引用)。

こちらの記事で揶揄しましたが、

http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51358990.html

「国民的議論をしましょう」と言った時点で、政治家は国民に議論を丸投げしてしまったのです。自民党もそれを許したんですから、同罪です。

「国民的議論」というものの定義にもよりますが、そのやり方をきちんと明確にせず、場当たり的に対応した結果がこれです。結果的に、日本で始めて(#註)、国民投票的な意思決定が行われてしまったわけで、結論が出てから騒ぎ出すのは馬鹿丸出し、という感じです。

というわけで、僕は自民党の雇用政策と原子力政策(=民主主義を否定する姿勢)には納得が行きませんので、自民党には投票しません。もちろん、民主党にも、公明党にも、社民党にも、共産党にも投票しませんが。

#上記引用中、「始めて」は「初めて」を誤記したもの

これは自民党前衆議院議員で、日の出テレビの代表を務める福田峰之氏のブログの記事について、Facebook上で当人宛に書いたコメントで、もとのブログの記事はこちらである。

国民の民意と政治家の決定
http://fukuroh.air-nifty.com/katsudou/2012/09/post-7bfd.html

福田氏の主張で一番おかしいのは「参加者の多くが言っているから、世論調査の数字が物語っているから、という理由で、政治家の判断を拘束すべきではないと思う。あくまで、国民意見は大切な判断材料の1つにしか過ぎない」という部分で、書いてある事自体は間違ってはいないけれど、書くタイミングが間違っている。つまり、結論が出てから言うことではないのである。これは言うなれば後出しジャンケンそのものである。

最初から、「国民的議論をしましょう。でも、その結論はあくまでも判断材料のひとつ。どんな結論になっても、それに従うわけじゃありません」と明示しておくべきだったのである。しかし、政府は“わざと”、討論型世論調査の結論をどうやって利用するのかを示さなかった。「示さなかった以上、どう使おうと勝手」と政治家サイドは思っていたのだろうが、国民は「示さなかった以上、最大限に尊重されて当たり前」と考えた。少なくとも、僕はそう考えた人間の一人である。そして、僕のように考えた人間たちの声の大きさに民主党は負けて、「原発ゼロ」を基本方針にせざるを得なくなった。ことここに至り、自民党は「これは民主党が勝手にやったこと。選挙で俺たちが勝てば、全部ご破算だ」という意向のようだ。昨日、自民党の総裁選があったけれど、テレビで候補者たちが語っている番組で、全ての候補が原発ゼロを見直すと表明していたので、僕は総裁選への興味も失ったし、次の選挙では自民党にも投票しないことに決めた。

さて、話を「討論型世論調査」に戻す。政治家の思惑通りだったのかは別にして、世界で初めて(冒頭の記事による)公式に討論型世論調査が行われ、政治が国民に丸投げされてしまった。僕は、「丸投げ」自体は、決して悪くなかったと思うのだが、手法そのものにはまだ改善の余地があると思う。

まず、最低限、「討論型世論調査の結果については、基本的にその時点での最終決定とする」という合意が必要だ。「有識者が検討する際の一資料」程度では話にならないし、参加する人間にとってもどっちらけである。やるからには、「これが最後の手段」という覚悟を持つべきだ。

次に、どういった形で情報提供が為されるべきかを考える必要がある。国民が討論し、判断するのだから、国民にはできるだけたくさんの情報がフラットに提供される必要がある。しかし、この夏に行われた事例でも、情報提供は「フラット」ではなかった。

参考:良く見たらすげぇ印象操作しているな、この資料(笑)
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51349861.html

情報提供する側が中立を装いながら、その実フラットではないのでこういうことが起きる。3.11以後、日本が陥っている最大の機能不全は「政治不信」なのだが、これもその一端である。そして、日本人はもう政府に対する信頼を取り戻すことはないだろう。だから、討論型世論調査を実施する際は、政府以外の中立的組織がハンドリングする必要がある。その上で、当事者たちが我田引水するための資料をたっぷりと提供すれば良い。原発問題でも、利害関係者はあちこちにいるので、その人たちは徹底的に自分の説を支持してもらえるような資料を提供し、また相手方の資料を否定するような情報を発信すれば良い。つまり、土俵に上がるのは利害に関係する当事者たちで構わないのだ。加えて、中立を装っている行政もこれに参加すれば良い。

国民は、一人ひとりが審判である。「討論型」というけれど、専門性を持ち合わせない国民が有効な討論を実施できるとは思えない。利害関係者達が繰り広げるバトルをリングサイドで見ていて、ジャッジすることになる。これは裁判員裁判と同じようなものだが、判断にあたっては、助言する人間が必要になってくる。この助言者もできればフラットな立場の人間が望ましい。

これらをまとめれば、ボクシングの試合のようになる。

対戦者(利害関係者):情報を提出する
解説者(助言者):提出された情報をできるだけフラットに解説するとともに、戦況を分析する
審判(国民):解説者の解説を参考にしながら判定を下す


さて、討論型世論調査をボクシングの試合に喩えるなら、忘れてはならないことがひとつある。それは「試合時間」である。何ラウンドで実施し、各ラウンドは何分なのかを決めなくてはならない。トップダウン型の脳みその持ち主は「情報って、どのくらい提供すれば良いのかな?その情報はどのくらい噛み砕いてあげれば良いのかな?」などと考えがちだが、そんなのは実はどうでも良い話で、国民に理解してもらえなければ自分たちの意向は受け入れられない、という状況さえ作ってしまえば良いのである。お上が決めて、合意事項としなくてはならないのは次の3つだけである。

◯結果はその時点での最終結論ということ
◯試合時間
◯集計方法

リングに立つ人たちは利害関係者なので黙っていても登場するし、資料を提出するだろう。解説者も、インターネットの時代だから、ボランタリーにやる人がいるだろうし、ある程度みんなが納得するような人材をお金で雇うのでも良い。あとは、ニコ生やUstreamでそれを中継し、新聞やブロガーが記事にすれば良い。それらを見て、国民が判断すれば良いのである。残された問題は「誰が全体をハンドリングするか」で、これについてはしっかりと考える必要がある。私案はあるのだが、この部分が最大の問題になるところなので、あえてここでアイデアを出すことは控えておく。

最後に、「集計方法」についても考えておく必要がある。冒頭の記事では「参加者にバイアスがかかっている」という指摘があった。いっそのこと、国民投票的な手段を講じても良いと思う。ただし、不勉強な人が何気なく投票したり、お金で票が買われたりする可能性も念頭に入れておく必要があるだろう。

原発については負け犬が遠吠えを続けていて、なんだかなー、という状況である。でも、その無理筋が通ってしまう可能性が少なからずあるのがこの国で、だからこそ信頼を失った政府は、たとえ次の選挙で政権がどこになろうとも、その信頼を回復する可能性が低いと、僕は感じている。そうした決定的な機能不全に陥った日本にとっては、討論型世論調査はひとつの希望でもある。中には米軍基地問題のように高度に国際的で軍事機密を含むデリケートなものもあって、全てがこの俎上に乗りうるわけではないのだが、例えば科学技術関連の研究費をどうするのか、といった問題などは、お偉いさんに全てを任せるのではなく、討論型世論調査を実施してみても良いのではないかと思う。

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