2013年10月23日

ブログでバイオ 第82回 「科学の価値は?」

70点の原稿を書くのと、70点の原稿を90点にするのと、90点を95点にするのには同じくらいの労力を要する。95点を100点にするのはほぼ絶望的な作業になる。頑張って97、8点になったぐらいで、「もうこの辺だろ」と思って出版してしまうが、なぜか本になってみるとまた「こうすれば良かった」などという点を見つけてしまう。しかし、その改善点を出版前に見つけることはとても難しい。なぜなら、その作業が本質的につまらないからだ。本を書く際、一番楽しいのは最初の70点の原稿を書くときである。

これは、本の執筆に留まらず、色々な創作活動について言えることだと思う。そして、科学技術の研究についても同じことが言えると思う。分子生物学が物凄くエキサイティングだったのは、恐らくワトソン・クリックの時代から、PCR法が開発された頃だったと思う。また、数学や物理学はそれよりもかなり早い時期に頂点を迎えていたと思う。分子生物学が大きく遅れてしまった理由は、対象が顕微鏡でも確認できないほど微小だったからだろう。

#DNAの構造を目で見ることができるようになって、分子生物学はようやくビッグバンを迎えたんだと思う。

しかし、そうやって遅れてきた分子生物学も、もうすでに70点の原稿書きの時代は終了してしまった。僕がそう感じたのは1990年頃で、研究者達がシーラカンスのゲノム配列を嬉々として調べ始めた時代である。それは、主要な動植物のDNA配列が決定され、だんだんとやることがなくなってきて、日本固有のサクラマスとか、線虫といった珍しい動物のDNA配列を調べて論文化し始めた時代で、高いお金をかけて捕まえてきたシーラカンスを対象としたあたりで行き着くところまで行き着いたと感じた。

もうちょっとターゲットを絞って、医薬品について俯瞰してみる。比較的早い時代から開発されていた低分子医薬品の割合は、ここ10年ほど、低下し続けている。2005年に84.4%だった低分子医薬品比率は、2011年に66.0%まで低下している。しかし、低分子医薬の売り上げが低下したわけではない。低分子医薬品の売上高は、むしろ増加している(2005年:13220800万ドル、2011年:15196100万ドル)。バイオ医薬品の売り上げが、それを上回るスピードで伸びているだけなのである(2005年:2452600万ドル、2011年:7830100万ドル)。世界で売れている医薬品は高脂血症薬、抗血栓症薬、リウマチ薬などで、普段僕たちが使うような薬ではない。そういう薬が不要だとはもちろん言わないが、僕たちがありがたいと思うのはロキソプロフェン(1986年発売)だったり、ジクロフェナク(1974年発売)だったり、アセチルサリチル酸(1897年開発)だったりする。こういう、ほとんどの人の生活の質を向上させるような薬は、もうあらかた開発されていて、研究の対象はニッチに向かっている。
(以上、数値データは厚生労働省「医薬品産業ビジョン2013資料編」http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/shinkou/dl/vision_2013b.pdfより)

今、ほとんどの人は「新しい薬剤を開発し続けるために、科学技術の推進が必要である」という主張に対して、そのとおりだと思うだろう。しかし、本当に必要なのだろうか。ましてや、そこに税金を投入していく必要はあるのだろうか。今、アステラスや武田が新薬を開発する必要に迫られている理由は、単に「既存社員の食い扶持を確保するため」である。

僕が学生だった頃から、がんをテーマにしている研究室はお金が潤沢で、最新の実験機材を購入できた。当時だと堅田研(現在東京大学大学院薬学系研究科生理科学教室教授の堅田利明さん、ちなみに同教室准教授の紺谷君は大学時代の同級生)などは、使っている機材がどれもこれも最新で、僕たちが洗って使っていたピペットマンのチップなどもディスポでどんどん捨てていた。別にそれが悪いことだとは言わないし、きちんと予算を取ってくることができる堅田さんが有能だというだけのことなのだが、当時も今も、がんをテーマにしていると研究費が大きくなる傾向は強いと思う。研究費が潤沢なら、論文もたくさん出すことができる。ただ、論文と、新薬の間には大きな溝があって、論文がたくさん出たからといって、画期的な薬が開発されるとは限らない。

では、そういった創薬に向けた研究が全部無駄なのか、といえば、決してそうではない。例えば僕の親戚は乳がんから胸膜播種に至り、抗癌剤治療も効かず、余命いくばくもないと診断されたことがある。ところが、そのあとに服用したホルモン剤が大きな効果をあげて、今ではがんが完全に消えてしまい、普通に生活している。彼女を救ったのは、間違いなく先端技術による新薬(ファイザーのアロマシン、2002年発売)である。がんの研究がなければ、今頃彼女はお墓で眠っていたはずだ。

問題は、費用対効果である。日本の場合、がん研究費はここ5年ほど、約400億円にのぼる。
#ちなみに、米国NIHの研究費は約8000億円程度である。

お金を投入すれば論文が増えるのは至極当たり前の話だが、がんに関して基礎研究論文数と臨床研究論文数を調べてみると、日本は基礎研究論文数で世界3位にも関わらず、臨床研究論文数では18位と、ほとんどの主要な先進国に負けている。
(以上、がん研究に関する数値データはライフサイエンス委員会がん研究戦略作業部会「がん研究の現状と今後のあり方について」http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n683_00.pdfより)

日本がおかれている状況を数字だけから分析すれば、

1.臨床に至らない、レベルの低い研究にお金をかけている
2.米国など、他国に基礎研究の成果を供与している

のふたつぐらいしか可能性が考えられない。良く役人は「基礎はあるのだが、それを臨床につなげる仕組みがない」というけれど、そんなことは多分ない。基礎研究の成果は論文化されるし、研究者自身も売り込みをかけるはずで、ちゃんとした成果なら、そうそう埋もれたままになど、なるものではない。新薬が欲しい大手製薬会社は、何かめぼしいものがないかと、目を皿にしてシーズを探している。また、もし埋もれてしまったとしても、今はそれを再評価する会社も現れてきている。創薬に限るなら、今の日本の研究は論文のための研究だったり、せいぜい論文になるぐらいしか成果が期待できない研究だったりする可能性が高い。

もちろん、そうした、大した成果もあげることができない日本の研究の中でも、時々iPSのようなびっくりするような成果があがることもある。しかし、じゃぁ次のiPSはいつ出てくるのか、といえば、10年後か、50年後か、下手をしたら、もう二度と出ないかも知れない。

しかし、もし成果が出なかったとして、誰が困るのだろう???

前述の、ファイザーのアロマシンも、あるいはアスピリンでも、ロキソニンでも、ボルタレンでも、どれもこれも日本オリジナルの薬ではない。でも、僕たちは普通にそれを使うことができる。自国で開発されていなくても、全然困っていないのだ。

さて、ここで全然話は変わるのだが、先日、僕の実家の近所で、踏切事故があった。一昨日も、家の近所の駅で人身事故があって、長い時間、ダイヤが乱れていた。こうした事故は、踏切に監視員を配置したり、駅のホームに柵(ホームドア)を作ったりするだけで、かなり減らすことができると思う。踏切に人を配置するのは、時間あたり2,000円の費用として、18時間営業なら三交代36,000円/日である。一ヶ月で約100万円、年間約1300万円だ。ホームドアの場合、設置費用は約3億円/駅とのことなので、がんの研究費を全部廃止すれば、全国の2000の踏切を有人監視にして、50駅にホームドアを設置できる。踏切は毎年固定費になるが、ホームドアは毎年50駅ずつ設置していける計算だ。

実際には、「がんの研究費を全部やめちゃいましょう」という提案の実現性はゼロに近い。なぜなら、がんの研究でメシを食っている研究者達が悲鳴をあげるからだ。悲鳴をあげるのは、がん患者ではない。なぜなら、もうがんになっている人たちが、この手の基礎研究の成果の恩恵に預かることができる可能性は、ほとんどゼロだからだ(あくまでも、時間的に、である)。僕たち生活者は、これまで当然のように投入されてきたがん関係の研究費が、実生活にはほとんど役に立っていないことをきちんと認識すべきである。一方で、もっと直接的に役に立つお金の使い方があるのだ。

何十億年後に、宇宙が膨張するのか、あるいは膨張をやめるのか、そんなことは知ったことではない。重力が何に起因するのかがわかったところで、メタボと診断された体が軽くなるわけではない。「ゲノムを解析すれば、優秀なヒトをデザインできる」としても、それを許してもらえるのか。

そんなことよりも、僕たちは、今日の晩ご飯のおかずが何なのかとかの方に興味があるし、約束の時間にちゃんと到着できるように、電車が人身事故で止まらないことの方がずっと大事なのである。僕たちが跡形も無い数十億年後のことよりも、笑っていいともの後番組が何になるのかとか、ごちそうさんのめ以子と西門さんがどうなるのかとかの方がずっと気になる。

科学なんか、全然大事じゃない。

ただ、昔から、科学に価値がなかったわけではない。昔は、科学には大きな価値があった。科学のおかげで、自動車は速くなり、テレビは高細密になり、誰でも携帯を持つことができ、食べ物を低温貯蔵できるようになり、いつも清潔でいい匂いのする衣服を身にまとうことができ、大きな地震が来てもそうそう建物の下敷きになることもない。しかし、もうそろそろ、十分なんじゃないだろうか?もっと速い自動車に乗りたいのか?もっと大きなテレビでくだらないバラエティを観たいのか?もっと高機能な携帯電話を使いたいのか?栄養満点なミドリムシを食べて生きていきたいのか?

これから先、科学によって生活が大きく変わる可能性があるんだろうか?あるいは、大きく変わって欲しいんだろうか?もうそろそろ、科学は行き着くところに行き着いたんじゃないだろうか。今いるのは90点の世界かも知れないけれど、それを95点にするためには、凄く大きなコストを支払わなければならない時にきているような気がする。

科学の価値は一定ではない。多くの人々は、その価値が不変だと思ってはいないだろうか?しかし、そんなことはない。科学は生活を豊かにする手段である。その価値が過去において高かったとしても、今も高いとは限らない。そして、その価値が大きく下がっていく局面に、僕たちはそろそろさしかかっているんじゃないだろうか?

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