2014年02月12日

国民の映画

kokumin


正直に言えば、僕は三谷幸喜の映画や芝居があまり好きではない。笑えるとは思うのだけれど、SETの三宅裕司以上に笑いに徹することができないあたりがいかがなものかと思うし、三谷族とも呼べるような俳優陣の仲良しクラブ的な色彩が作品からにじみ出ているのも好きじゃない。しかし、脚本が全然駄目ということでもないので、良い役者さんが出ているなら、じゃぁ、という気持ちにもなる。今回は、夢の遊眠社時代から贔屓にしている段田安則さんが出演しているということで、渋谷まで観に行ってみた。

この作品は初演が3.11と重なったようで、地震の混乱や計画停電の心配もあって、やや不幸な形で上演されたようだ。いつもは再演をやりたがらない三谷幸喜だが、不完全燃焼という思いが強かったのかも知れない。

結論から先に書くと、これまで何本かの映画(有頂天ホテルとか、マジックアワーとか、ステキな金縛りとか、清須会議とか)や芝居(12人の優しい日本人とか、おのれナポレオンとか)で三谷作品を観てきているが、初めて「これは面白い!」と感じた。なるほど、コメディ色の濃い作家と思っていたけれど、実はコメディ色を抑えた作品のほうが味が出るようだ。じゃぁ、喜劇色が全然ないのかといえばそんなこともなく、「レイダース 失われたアーク」といったナチスに関係のある映画を取り入れた場面など、喜劇的なところも散りばめられていた。本流のストーリーと、喜劇的なスパイスの配合具合がちょうど良かったということだと思う。

舞台は1941年。いよいよきな臭くなってきているドイツで、宣伝大臣ゲッペルズがホームパーティを開く。参加者は映画関係者とナチスの高官。そのパーティの前後を描いた群像劇である。前半は登場人物が徐々に出揃ってくるのだが、ちょっと単調で退屈な場面が続く。しかし、物語がいよいよ深刻になってくる休憩後は、緊張感が維持され、最後まで全く退屈しない。何より、ヒトラーやホロコーストの影が徐々に登場人物たちを侵食していく脚本の出来が良い。

役者陣に目を移すと、中心になっている小日向文世と段田安則が当然のように良い演技をしているし、それを取り囲む役者たちもそつがない。吉田羊あたりはちょっと存在感が薄い気がしたけれど、声が届きにくい役者がいるわけでもなく、ちょっとどうなの?と感じる役者はほとんどいなかった(観た席がE列20番と、めちゃくちゃ良いポジションだったのは確かだが、多分もっと後方でも声が聞き取りづらいということはなかったと思う)。最近はすっかり映像作品での活躍が増えて、堺雅人のように「細かい表情で見せる役者」になった感のある小日向文世だが、舞台では舞台なりに見せ方を変えてくるところがベテランの味である。それをしっかりと受け止める段田安則も、「どこにいるのかわからない存在感のない男」を、抜群の存在感で演じていた。

群像劇ということもあって、芝居の多くの場面で10人以上の役者が舞台上に登場しているのだが、セリフを言っている役者の後方で、ライトが当たっていない役者がそれぞれ別の演技をしている。この演出は山田洋次監督の「東京家族」あたりでも意図的に行われていたのだが、この舞台では映画よりもずっと顕著だった。この演出によって、舞台が構造面で立体的になるのは間違いないのだが、一方で観客の視点があちこちに移動してしまい、集中力に欠けてしまうというデメリットがある。僕の場合、後方で椅子に座って何やら無言でごちゃごちゃやっているカップルに気を取られていてセリフを聞き逃すといった事態が数回起きてしまった。メリット、デメリットの両方がある演出だったが、群像劇のカラーが色濃くなっていたことは間違いがない。

舞台中央に大きめの階段を設置し、役者の登場・退場する場所をひとつ増やしたのも、変化をつける意味で効果的だった。

大勢の人物たちを登場させ、それぞれにストーリーを持たせ、そしてきちんと退場させていく。そのあたりの風呂敷の広げ方とたたみ方が見事だった。これまであまり好きではない三谷ワールドだったけれど、こういう芝居を観ることができるなら、また劇場に足を運んでみようという気にもなる。

東京公演は3月9日まで。そのあと、大阪、愛知、福岡の各地で公演あり。

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