2016年01月22日

日本の大学の病状

文系の大学のことはわからないので、理系の大学を中心に、大学教育について書いてみる。僕は一応日本では優秀と言われている大学で勉強した経験があるのだが、まず言えるのは、東大や東工大ぐらいの大学だと、難しい入試をクリアして入学している学生ばかりなので、みんな普通に勉強ができるということである。だから、教員が当たり前の授業を行っていれば、誰でもそれなりの成果をあげることができる。その中で、その成果をいかに効率的に、かつ大きくすることができるのか、ということが、大学教育に課せられた課題となる。

さて、大学の授業だが、その質は当時全く(多分今もほとんど)制御されていなかった。授業が上手な先生もいれば、下手な先生もいた。僕の感覚では、約9割か、それ以上が下手だったと思う。では、上手い、下手は、どこで分かれるのか。

「しゃべりが上手」というのがまず第一だろう。これは大学よりも、自動車免許の学科の授業のほうが良い例になると思うのだが、なぜなら、教習所の教官たちは「どうやって寝させずに話を聞かせるか」ということに知恵を絞っているからだ。ただただ自動車を運転したい生徒たちは、横断歩道から何メートル以内が駐車禁止なのか、といった情報には全く興味がない。彼らにどうやってその手の情報を叩きこむのか、というのは教える側のノウハウである。この「しゃべりが上手」というのはかなりの部分まで天性のものがあるので、上手なのにこしたことはないのだが、どうしようもないところでもある。今でも口がうまい人はいくらでもいて、彼らは「わかったような気にさせる」のがうまい。わかったような気にさせるのは理解させているわけではないので、良い教師とは言えない。むしろ、悪い教師である。つまり両刃の剣なのだ。なので、このことはあまり深く追求しない。

大学教育において一番大切なのは、「目的を提示する」ということだと思う。僕の学生時代は、これができない先生がほとんどだった。理系の大学の一般教養の数学や物理で教わる内容は、本当につまらないものばかりである。イプシロンデルタがどうとか、行列の固有値がどうとか、文字ばかりが並んでいて、ほとんどの学生にとっては全く面白くない。落ちこぼれが現れるのもこのあたりからである。本来、きちんと勉強することのできる資質を持っている学生を集めているのだから、この程度の場面で落ちこぼれさせてしまうのは実は学生ではなく教員の側に責任がある。東工大ぐらいでも、まともにこの目的設定ができる教師はほとんど見当たらなかった。教える側からすれば、「勉強ができない(=目的設定ができない)のは学生が悪い」ということなんだと思う。確かに、遠い先を見据えて、高い目的意識を持って勉強している学生もわずかにはいたと思う。しかし、それは完全にマイノリティだった。

「なぜイプシロンデルタを理解する必要があるのか」「微積分はなぜ重要なのか」などの目的が見えていなければ、学生たちは勉強する意味を見出すことができない。彼らは、これまで「大学に合格するため」に勉強してきていて、なぜ大学に行くのかといえば「大学に行けば何か良いことがあるはず」といった近視眼的かつ漠然とした目的意識か、あるいは「ノーベル賞を獲りたい」のような根拠のない目的意識でいたはずだが(実際、僕達も「俺は二回獲る」などと話したりしていた)、とにかく「希望の大学に合格する」という目標のために勉強してきた。今までその程度の動機付けで勉強してきたのだから、「大学を卒業する」という目的で難解な授業を理解させることができるかといえば、それは難しい。何しろ、学歴社会の日本では、大学に入った時点でその後はほとんど決まってしまう。最終的には「単位」(=卒業)を餌に勉強させることになるのだが、それは非効率的だし、成果も限定的になる。一番望ましいのは、「勉強することが楽しくて仕方がない」という状況に学生を置くことだ。これができれば、学生は勝手に勉強する。僕の場合は高校生時代は相対論が大好きで色々勉強したおかげで、早慶理科大東工大の物理の入試は全部満点だった(自己採点)し、大学では生命の起源について強い興味を持っていたので、生物関係の成績は非常に良かった。大学の教員が学生に対してやるべきは、彼らの知的好奇心を刺激してやることに尽きる。そのためには目的の明確化が必要なのだ。

僕は合格難易度の低い大学で教えた経験があるのだが、「単位」を目的とした学生に授業することは非常に難しかった。僕が学生たちと相対して最初にやることは、彼らの一義的な目的を「単位」から、「知的好奇心を満たす」ことに修正することだった。人数が大勢になれば、全員に対してこの修正が成功するわけではなかったのだが、そのあたりが教師としての資質なんだと思う。優秀な教師なら、全ての学生の目的を修正できるはずだ。ただ、少なくとも僕の場合は、学生の目的を知的好奇心に修正しようとしたのだが、最初からこれを企図しないとしたら、学生たちの目的はいつまで経っても「単位」のままである。こういう教師は、まともな授業ができないと僕は思う。そして、そういう教師がほとんどだった。なぜなら、彼らの多くは「教師」のプロではなく、「研究」のプロだったからだ。彼らは自分の研究に興味があって、できれば研究ばかりをやっていて、教育はやりたくない、という人種だった。

医学部、歯学部、薬学部などは国家試験に合格するという明確な目標があるので話が変わってくると思うのだが、普通の理学部や工学部では、それぞれの授業で「どうしてこの勉強をしなくてはならないのか」をきちんと明示する必要があると思う。ところが、僕がみてきた限りでは、大学においては授業にしても、実験にしても、そういう動機付けがほとんど存在しなかった。教科書の内容を理解すれば授業は終わり、言われたとおりに実験して数値を取って、過去のレポートを参考にしてレポートを書けば実験は終了。これは教育というよりは単位を配布する(学生から見れば単位を受け取る)ルーチンである。

こうした”作業”は、研究室に所属する学部4年生でも同じだった。言われたとおりに実験して、週に一度は英語で書かれた論文をみんなで読む。これを続けるだけで卒業できてしまう。さらに言えば、大学院の修士課程もほとんど一緒である。実験の手技は身に付けることができるが、それはその研究室を出てしまったら役に立たない。ただ、「二年間我慢して先生の言いなりで労働力を提供した」だけである。知的好奇心の刺激は存在したのだが、その内容はあくまでも教授の興味の範囲に限定されていて、広がりを持たなかった。

もちろん、いつの間にか「捏造しない」とか、「きちんとしたデータが揃うまで頑張る」とか、「仮説→実験計画→実験→考察→検証」とか、科学の基本的なところは叩き込まれるのだけれど、学生を「どこに出しても恥ずかしくない研究者」へ育てるという意識は、教員の中ではそれほど強くはなかったと思う。むしろ、自分の手足となって実験をしてくれることが重要だったし、そのための教育に終始していたと思う。

「博士が余って困った」という話はもう何年も聞いてきたのだが、何のことはない、そこでしか役に立たない研究者を育てているから、使いみちがないのである。修士課程の2年なら根性をつけたで済む(逆にこの根性トレーニングは企業のウケが良いようで、学部卒よりも修士修了の方が格段に就職条件は良い)のだが、これが博士課程を含めた5年となると話は違ってくる。おまけに、博士課程で勉強した分給料は高いとなれば、企業だって採用には躊躇する。その分能力が高いなら話は別なのだが、不幸にして博士課程で身につけた能力の多くは、その研究室か、それに類するところ(つまり、税金から研究費が与えられる組織)でしか役に立たない。つまり、博士が余るのは大学とその教員に責任があるのだ。しかも、そのポストがパーマネントなら、当分改善の余地はない。

ただ、学生は学生で、そういう背景があるのをわかった上で「研究したい」と進学するのだから、その先に貧乏生活が待っていても文句は言えない。博士課程に進学するということは、「大学教授のポストをゲットして、好きな研究を続ける」ために宝くじを買うようなものなのだ。すぐにハズレくじとわかったとしても、なかなか潰しは効かない。

博士課程に進学したら潰しが効かなくなる、ということは僕が学生時代でバブルがはじける直前の1990年ぐらいでも、すでに言われていた。だから、博士課程に進学する人は少なかった。博士課程に進んでしまって、実際に潰しが効かなくなっても、「ほらね?」、つまり自業自得で終了だった。研究費が潤沢だった当時ですらそうだったのだから、今はもっと厳しいはずだ。では、そういう博士課程の学生の厳しい状況は改善の余地がないのだろうか?

恐らく、状況を変えるには、大学のカリキュラムや教員たちのマインドを変える必要がある。既得権者たる大学教員たちの手足となって研究し、良質な論文を量産してくれる学生ではなく、どこに出しても恥ずかしくない学生を育てる教育をやる大学へ、変えていく必要がある。それが可能なのか、ということだ。話は議員定数をいつまでも削減できないでいる政治家たちと同じ構図である。既得権者であり直接の利害関係者である大学教員が意思決定をする立場にあるのだから、その変革は難しい。日本の大学がぱっとしないのも、博士が余るのも、結局は「日本的」なものの考え方に起因しているというのが僕の考えである。日本はこうやって経済も、学術も、科学も、少しずつ沈んでいくのだろう。

だから、本気で研究で身を立てたいと考えているなら、さっさと海外の研究機関へ出て行ったほうが良い。日本よりも潤沢な研究費を得られる国はある。「頭脳流出」がどうとか、言ってられる場面ではないのだ。

今になってみれば、バブルがはじけたあたりで日本のアカデミアは死に至る病に罹患したのだろう。恐らく、もう治ることはない。

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