2016年04月29日

僕が日本から逃げ出した理由(4)

(4)日本の向かう先
賃金を上げろ、とか、大学の予算を増やせ、みたいな主張は稚拙である、また、資源という物理的視点から日本は圧倒的に不利な状況にあるというのが(1)から(3)までの趣旨だが、では、どうしたら良いのか、ということになる。話としてはそれほど難しくない。このブログでも再三主張していることだが、「日本型雇用習慣からの脱却」である。これは、文字にして書くのは簡単だが、実施するのは非常に難しい。なぜなら、膨大な数の既得権者たちが抵抗するからである。

日本型雇用習慣とはすなわち終身雇用(退職金制度を含む)、年功序列(反同一労働同一賃金を内包)、新卒一括採用、男性優遇(総合職と一般職の区別を含む)、定年制などである。これらを排除した先にあるのは能力主義と平等主義である。この能力主義は解雇規制の緩和も含むので、能力の不足している労働者の排除につながる。したがって、自分の能力に自信のない既得権者たちが強く反発することが予想される。

そして、こうした既得権者たちは、後進たちに「君たちも僕と同じ立場になれば、将来は安泰だよ」と囁く。これは、ポスドクが大量に余り始めた時に大学ポストに就いていた人間たちが繰り広げた甘言と同じである。彼らは、自分のポストだけは保持しながら、「こうすれば、余っている人材を活用できる」と、絵空事を描き続けた。僕が大嫌いな人間に榎木英介という奴がいるのだが、彼などはありもしない希望を描き続けた定型的人物である。数年前から「年功序列や終身雇用はやめたほうが良い」と宗旨替えしたようだが、彼のせいでありもしない希望を持った人間はたくさんいたと想像する。希望など、ないところにはいつまで経ってもないのである。僕は存在しない餅を絵に描く奴は大嫌いだ。

話を元に戻す。

景気が悪化した日本社会においては、まず普通に就職することが難しい。また、運良く会社に入ることができても、そこが自分にとって良い会社とも限らない。今は活躍できても、10年後に同じ環境とも限らない。そうした時に、すぐに会社を変わることができる雇用の流動性こそが、社会の活性化にとって大切なのだ。

能力主義の社会は、プロ野球やJリーグの社会を見ればわかりやすい。良い選手は、高い給料で雇ってもらえるし、より資本力のあるチームに買われて移籍していく。一方で年齢による衰えが見え始めれば下位リーグに移籍していく。レベルを落としても契約してくれるチームがなければ、引退するか、他国のリーグを探すことになる。選手として無理なら、解説者や子供教室やコーチなど、周辺の仕事をやるのでも良いし、それまでの経歴とは全く別の、メロンパンを売るような仕事を始めるのでも良いだろう。そういう働き方、生き方をしましょう、ということだ。

僕は1992年に大学院を修了して三菱総研に入社したのだが、それから会社にいくつかの「異例」を認めさせた後に小保方騒動で有名になった理研に出向に出た。その時、僕がやったのは、当時三菱総研の労働組合との交渉窓口になっていた団野副社長に直訴状を送りつけ、直談判に及んだことだ。その時、僕が主張したのは、「今の仕事のやり方では、三菱総研の仕事の処理の専門家にはなれても、社会に要求される専門家にはなれない。このままでは自分の専門性を切り売りして消耗する一方なので、外に出してくれ」というものだった。団野副社長は僕の意見に同意し、人事部をすっ飛ばして出向を勝ち取ったのである。理研では和田昭允センター長の下でゲノム科学総合研究センターの設立を手伝い、その後経産省の生物化学産業課に転職して、ベンチャー支援を担当した。経産省退職後も創薬系バイオベンチャーの社長にスカウトされた。これらの転職に際しては、自分の能力のみで勝負してきたつもりである。そして、今になって三菱総研の様子を聞いてみると、当時の同僚の中には僕が危惧したような「三菱総研の仕事の処理の専門家」になってしまい、会社を辞めることができないでいる人が何人かいる。こうした状況は、おそらくは日本中の大企業で散見されるのだろう。給料に見合った働き方ができず、他に活躍の場を求めることもできない人たちがたくさんいるんだと思う。彼らは、会社にしがみついてさえいれば、定年まで給料をもらうことができる既得権者でもある。こうした状況を、良しとするか、否か、なのだ。

ただ、誰も彼も競争して実力主義の社会で生きていけ、とは言わない。それなりの給料で、安定した人生を全うするのもありだと思う。そうした人材の受け皿は、本来役所(公務員)や大企業の役割である。身分は安定しているけれど、給料はそれなり、という立場だ。

問題なのは、運の良かった人たちが、能力もないのに不相応なポストに就いて、不相応な給料をもらっているということだ。これを「無駄」という。前述のように、今の日本は様々な厳しい環境に置かれている。この中では、みんなが効率的に動き、機能する必要がある。ところが、その非効率な状況が改善する方向に向かわない。これこそが、日本の問題点である。

アベノミクスは、単に円安を誘導しているだけである。円安になればほぼ自動的に日本企業の株価が上昇するのだが(ただし、ドル建ての場合は円安が相殺要因になるので、ドル建ての株価はあまり変動がない)、会社の活力が失われているので、その効果は長続きしない。株価が下がってくると「アベノミクスは失敗」と言われてしまうので、日銀が上場投資信託を買うこと(質的金融緩和)によって株価を買い支える。これで安心と思ったら、今度は国際的要因で円高になってしまい、また株価が下がる。これはいかん、と日銀が量的緩和に走る。とりあえず、円建ての株価が安定上昇することがアベノミクスの大命題になってしまい、海外の投資家の食い物にされる。上げ下げがある程度予想できる株式相場においては、資金力の大きな投資家が一人勝ちし、残るのは、日銀が大株主になって弱体化した日本の大企業たちである。

日銀の金融緩和は、企業の構造改革が進んでいる最中であれば鎮痛剤として機能する。しかし、構造改革がない現状では、末期がん患者に麻薬を投薬しているようなものだ。病気の根治は望めないのに、外見は元気になったように見える。それと知らない人たちは病気が快方に向かっていると勘違いするのだが、実際は何の解決にもなっていない。何もしないでいるうちに、病状は深刻化する一方である。

有権者がこうした状況を把握し、アベノミクスにノーを突きつけたとしても、それだけでは社会は変わらない。今の状態が続いた時に、どういう社会が訪れるのか、想像しなくてはならない。より良い未来のために、今の安定を捨てることができるのか。その改革は、今の日本人には非常に難しい選択になるだろう。

(1)最低賃金のアップが招くもの
http://buu.blog.jp/archives/51522709.html

(2)大学の運営費交付金の減額
http://buu.blog.jp/archives/51522710.html

(3)彼岸と此岸
http://buu.blog.jp/archives/51522711.html

(4)日本の向かう先
http://buu.blog.jp/archives/51522712.html

(5)日本の成長力が低い理由
http://buu.blog.jp/archives/51522713.html

(6)贈る言葉
http://buu.blog.jp/archives/51522714.html

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