2016年06月25日

ワシントンDCの社会が弱者に優しい理由

僕は、移動にはバスを使うことが多い。

こちらに来る前は、車社会なので自家用車がないと大変だよ、と聞かされていたのだが、実際に住んでみれば、ロックビルや駅から遠くに住んでいたりしないなら、自家用車がなくても問題ないと思う。もちろん、車がなくても大丈夫な家を選ぶ必要はあるのだが。僕は、フレンドシップ・ハイツというDCからのバスのターミナルになっている場所に住んでいる。ここには地下鉄レッドラインの駅もあって、公共交通機関の便が非常に良い。地下鉄もバスも同じように便利に使えるのだが、利用頻度は1:9ぐらいだろうか。バスの方が断然良く利用する。理由は簡単で、安いからだ。

さて、そのバスだが、三ヶ月も使っていると色々と見えてくることがある。すぐに気がつくのは、運行がものすごくルーズだということである。30分に一本しかないのに、10分遅れてくるのはもちろん、数分早く来てしまうこともある。慣れないうちはあまりにも時間通りに動かないので途方にくれたものだが、それはあくまでも日本の厳密な運用に慣れていたからであって、こちらの人は全く動じていなかった。30分の間隔で運用されているはずのバスがバス停で二台連なっていても、みんなどこ吹く風である。

そうした状況を毎日見ていて、運行がルーズな理由も見えてきた。ワシントンは車椅子で行き来している人が非常に多いのだが、彼らのほとんどは介助者がいない。そうした単独の車椅子利用者でもバスを利用することができる。バスから機械式の橋が道路にバタンとでてきて、その橋渡しでバスに乗ることができる。この作業は全自動なのだが、橋の出し入れを含めてそこそこ時間がかかるので、車椅子の客が一人いたら、それだけで2分ぐらいは余計に時間がかかってしまう。これでは、分刻みの運行は不可能だ。バリアフリーを優先しているのはバスだけではなく地下鉄もなのだが、これは、4分間隔で運行している山手線や丸の内線には真似ができない。

この他にも、足が不自由な人のためか、こちらのバスはバス停で止まるとよっこらせ、という感じで車高が低くなって、歩道との落差がなくなる。あと、バスの前に自転車を2台まで載せることができて、その上げ下ろしにも時間がかかる。慣れていない子供だと3分ぐらいかかったりする。

ここまで書くと美談っぽいのだが、ルーズな運行が先だったのか、バリアフリーが先だったのか、どちらなのかはわからない。たとえば今日は、ベテスダで34系統のバスを待っていると、10分以上遅れてやってきた。おかげでバス停には客が10人ぐらい待っていたのだが、全員を載せるとロータリーをぐるっとまわったところで一時停止して、一番前に乗っていた高校生ぐらいの男の子を下ろした。はて?どうしたんだろう、と思っていると、男の子はダンキン・ドーナツに駆け込んで、ジュースを買って戻って来た。そして、買ってきたジュースを運転手に手渡したのだ。パシリかよ!!その間、多分2、3分である。予定よりもだいぶ遅れているのはお構いなしだ。ロータリーから出て信号待ちをしていると、今度は横断歩道から駆け寄ってきた若い男性が運転手に話しかけている。今度はなんだ?と思っていると、おもむろにドアがあき、その男性が乗ってきた。ここはバス停じゃないぞ、と苦笑していると、その様子を見ていた別のおじさんが、道路の向こうから走ってくる。それで、また待ち時間である。

なんのことはない、社会全体がのんびりしていて、時計の針の進みが遅いのだ。そういう社会だからこそ、体の不自由な人や、高齢者に優しい社会になりえたのかもしれない。僕はもうすっかりそういう社会に慣れてしまった。最初はイライラすることもあったのだが、慣れてしまえば意外と心地よいものである。

#あくまでもワシントンDCでの話で、ニューヨークだと全然違いそうです。

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