2016年09月01日

園子温という生きもの

「ひそひそ星」を観る前に鑑賞。

園子温監督が酔っ払いでヘビースモーカーなことはもちろんだが、表現力の源も伝わってくる。あと、名前が本名なのもこの映画で知ることができた。他にも色々と感じるものがあったので、通常のレビューとは異なるものの、映画も通常の作品と異なるのであえて書いてみる。

まず、小さい箱であったことを差し引いても、なんでこれが3人だけの客なのか。「ひそひそ星」の客に比較してもかなり少なかった。この辺からも、日本人の映画監督に対する考え方の軽さが伝わってくる。

日本は監督よりも俳優が前に出てしまう国だ。映画やドラマで、俳優よりも監督が注目されるケースは非常に少ない。

これは、寿司屋で言うなら、誰が握っているかではなく、寿司ネタが大間のマグロだったり、関サバだったりすることに注目されてしまうようなものだ。もちろん、ネタが売りになる場合もあるだろう。しかし、握り手の役割はもっとずっと大きいはずである。もう一つ例を考えるなら、陶芸において、作家は全く紹介されず、九谷とか、有田といった産地ばかりが脚光を浴びてしまうような状態とも表現できる。

実際はそんなことはなく、「あの寿司屋は凄い。大将は有名寿司店の出身で、ネタも大間のマグロを使っていたりするらしい」とか、「あの作家さんは九谷の研修所出身で・・・」と語られて、マグロや九谷はあくまでも付帯情報となるのだが、こと、映像コンテンツの制作において製作者が一番に取り上げられるケースは、声優よりも注目される宮崎駿監督など、アニメ作品に限定される。

映画やドラマにおいては、監督や脚本家の力量が最も重要である。俳優が演技力を発揮できるか否かも、監督の実力次第である。ところが、日本では、こういう評価にならない。役者が一番である。その影響は大きく二つである。一つ目は役者が自分の立場を勘違いすることで、二つ目は監督が育たないことだ。「園子温という生きもの」の作品の中でも、監督が育たないという点については明示ではないものの、きちんと指摘していた。プロデューサーがもっとお金を集めることができたら、園子温氏はもっと早く世に出ていて、日本の映画界は変わっていただろうと語っていた。

主にテレビ脚本を手がけている知人から話を聞いていると、業界全体が役者ファーストで動いていることが良く分かる。主演の俳優が脚本や演出に口出しし、脚本家を次から次へとダメ出しして交代させ、スケジュールがケツカッチンになって現場がテンヤワンヤ、なんていう笑えないエピソードも耳にする。時々、「この役者はいつも似たような演技をする」と感じることがあるのだが、それは役者当人が「俺の芝居はこれ」みたいな主張を監督に押し付けていることも少なくないと推測している。こうした役者優位の状態を否定できる監督は、北野武監督など、かなり限定されるのが実情だろう。

また、常に脇役であり続ける監督の立場が低いのも困ったものだ。最近でこそ、シン・ゴジラの庵野総監督のように、俳優よりも監督の名前でアピールできる作品があったりするのだが、これは超マイノリティである。立場が弱く、注目されないのに、責任だけは取らされる。映画を作って、それが売れなければ、次の機会がなかなか得られないのが現実である。失敗が許されなければ作品は保守的になるし、作品が役者で語られるから一層役者の立場が強くなる。これでは、監督は育たない。

ここで、観た映画とは直接関係ないのだが、一つ参考になる映像作品があるので、ちょっと見てもらいたい。6分ほどのショートムービーで、広島にある老人ホーム「エクセル福山」の宣伝素材である。



この作品は、どこにもクレジットされていないのだが、制作者チーム「分福」の新進気鋭ディレクター広瀬奈々子氏によるものだ。分福は「園子温という生きもの」の作品中で、現代映画の純文学として紹介されていた是枝裕和監督や、このブログでも作品を高く評価することの多い西川美和監督のユニットである。

見ればわかるのだが、短い映像の中にきちんとストーリーを盛り込んでいるし、短いがゆえに、見る側の想像力を膨らませることにも成功している。そして、同時に、押し付けでなく、「あぁ、この老人ホームは、一般に思われているような、良く映画やドラマに出てくるような老人ホームとはかなり違うんだな」と思わせることに成功している。これは、監督の力量なのだ。ところが、広瀬菜奈々子氏は、この映像の前にも、後にも、ほとんど誰の注目も浴びることがない。この映像作品は宣伝素材なので、老人ホームの名前が売れればそれで良いという考え方もあるだろう。しかし、それではもったいない。老人ホームの名前が売れて、同時に監督の名前の認知度もアップするのが望ましいのである。そうした状況が作られていかないと、日本の映像作品の質は上がってこない。なぜなら、映像作品の質は、映像監督の手腕に比例するからだ。

日本にはカネがない。これだけで、日本の映画監督たちは大きなハンディキャップを背負っている。そのハンディキャップを克服して、良い作品を生み出すには、監督の努力と運に頼っていてはダメである。

「園子温という生きもの」を観れば、少なくとも、監督と、その周囲は多大な努力と忍耐を積み重ねていることがわかる。

映画を観る側も、「この作品は、誰が作ったのだろう?」と興味を持つことが大切だ。もちろん、ポジティブな評価に限らず、「こんな酷い作品を作ったのはどこのどいつだ」というネガティブな評価もあって良い。どちらにしても、映画監督に興味を持つことは最初の一歩である。今は、それすらないのが問題なのである。

もし、日本人の多くが映画監督に対してそれなりのリスペクトを有しているなら、この映画などは、日本を代表する才能に関する貴重なフィルムとして、大勢の観客を集めても不思議ではなかったはずだ。

北野氏、庵野氏、園子温氏など、監督の名前で作品を語られる人もいるにはいるのだが、その数がもっと増えなくては、いつまで経っても日本の映像作品の質は上がってこないし、それは、観る側の我々の責任なのである。

僕は米国在住なので、なかなかこういう映画を観ることができないし、今回は運良く大阪での公開に間に合ったものの、このブログでの紹介は今日になってしまった。もう、それほど多くの人に紹介できないのが残念だ。

なお、この映画は大島渚監督の息子、大島新監督の手による作品である。

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