日本人がノーベル賞を獲るたびに、「科学系の予算が減っていて困っている」という日本人研究者たちの嘆きが聞こえてくるのだが、「お前ら、そろそろ気がつかないと馬鹿のレベルだぞ」と思う。君たちのためのお金は、もう日本にはほとんど残っていない。よっぽどの馬鹿が財務省の主計官にならない限り、大幅な予算増は望めない。また、仮に増額されたとしても、君たちの懐は全然暖かくならないだろう。それでも文句を言うことしかできないって、本当に気の毒だ。気の毒って、置かれた状況が、ではなく、頭の中身が少なくて気の毒なのである。
今、ノーベル賞を獲っている人たちは、実力だけでなく、運も良い人たちだ。
山中さんでも、利根川さんでも、大隅さんでも、第二次世界大戦の時代なら、どんなに能力が高くても、まともな研究はできなかっただろう。多分、これは誰もが同意できるのではないか。戦争で国が貧乏なら、科学どころではない。科学には金が必要だ。つまり、国に余裕が必要なのだ。良く「人材育成が必要で、貧乏だからこそ基礎科学が必要だ」という趣旨の能書きを目にするのだが、これまで大学はそういう活動をほとんどしてこなかったし、人材を輩出してこなかったのではないか。だからこその、今の日本経済の低迷なのだ。
山中さんについては例外だが、ほとんどの研究者のノーベル賞に至るまでの業績は、海外での研究か、バブルがはじける前の予算によるものだ。その頃と今とでは、状況が大きく異なっている。今は戦時とは異なるが、高度成長期やバブルの時代とも明らかに異なる。残念なことに今の研究者は運の悪い人たちだが、その運が今後良くなる可能性はかなり低い。
国に金がない、というのは科学に十分な(?)予算が配分されない理由の一つだが、他にも二つ要因があって、それは、「科学にはこれからもどんどん金がかかり続ける」ということと、「科学の価値が下落している」ということだ。
科学に金がかかる、というのはもうだいぶ前からで、僕が理研のゲノム科学総合研究センターの事務方をやっていたときから、すでにヒトゲノム計画とか、タンパク3000とかで膨大なお金を使っていた。DNAシークェンサーなどの技術開発スピードがすごいのは喜ばしいことだが、それに合わせて必要な投資額もどんどん増えている。米国が潤沢な資金で研究を推進する以上、それに対抗するためには同じか、それ以上の投資が必要になってくる。アイデアがほとんどで、お金は全然要らない、という研究は数学ぐらいに限定されていて、残念ながらノーベル数学賞は存在しない。「これからも国家としてノーベル賞を獲り続けたい。あわよくば自分の研究や、自分の後進の研究で」と思う研究者もいるかもしれないが、その可能性は日本にいる限り非常に低いだろう。
また、科学の価値の下落については、3年前に、「科学の価値は?」という記事の中で科学の価値の非普遍性について次のように書いた。
科学の価値は一定ではない。多くの人々は、その価値が不変だと思ってはいないだろうか?しかし、そんなことはない。科学は生活を豊かにする手段である。その価値が過去において高かったとしても、今も高いとは限らない。そして、その価値が大きく下がっていく局面に、僕たちはそろそろさしかかっているんじゃないだろうか?
ブログでバイオ 第82回 「科学の価値は?」
http://buu.blog.jp/archives/51415573.html(註釈1)
僕はこの仮説にかなりの自信を持っているのだが、これが正しいとすれば、科学へ投資することに対する日本人の意欲は、今後も減衰していくだろう。
この他にも、少子高齢化が進んで、社会保障に必要なお金が増え続けているといった社会環境もある。米国の都市部を歩いていると頻繁に妊婦と出会うのだが、日本ではそういうことがない。日本社会には、明るい兆しが何一つ見当たらない。そして、それはそのまま日本の科学に対する逆風でもある。ところが不思議なことに、自分たちの研究費が削られていくことと、日本の経済状態をリンクして考えることができる研究者は非常に少ないようだ。自分の専門領域のことにしか興味がない人種を専門馬鹿という。
●研究の個人性と公益性
また、研究者たちが理解すべきことに、研究は極度に個人的なもので、公益性が低いということがある。要は、研究なんてプラモデルを作ったり、麻雀したり、野球をしたり、釣りをしたりしているのと大差ないということだ。この認識を共有することがまずスタートで、その上で、なぜ研究に税金を投入しなくてはいけないかを考えなくてはならない。
「いや、科学は公共の利益に資する」というのなら、それを提示する必要がある。しかし、残念ながら公共の利益につながった研究は、最近ほとんど目にすることがない。僕が専門のバイオ・ベンチャーだけを見ても、古くはアンジェスMGに始まって、オンコセラピー、さらには最近株式公開に至った会社まで含めても、創薬に成功した会社は一つもない。公開後の初値や、直後に記録した最高値を維持することも困難な会社ばかりである。本庶佑さんなど、いくつか期待が持てる研究者はいるものの、これまで投資してきた金額を考えると砂漠に水を撒いていたようなものだ。
前項で書いたように、今、ノーベル賞を獲っている日本人研究者のほとんどは、1990年代のバブル経済によって好き勝手に実験できた人たちだ。その研究者たちと、今の研究者が置かれている状況は全く異なっている。また、実験にかかる費用も異なっている。実験機器は大型化し、導入コストも、ランニングコストも高騰している。大量のデータをアウトプットしなくてはならず、労働力も必要だ。つまり、国の金はなくなってきているのに、実験にはどんどん金がかかるようになってきている。
ガソリン代が高くなってきているのに収入は減ってきて、おまけに車が古くなってきて燃費が悪くなってきているような状態だ。これでは、車でどこかへ遊びに行くなどはもってのほかである。
それでも、研究者たちは馬鹿の一つ覚えで「金をくれ」と言い続けている。やれやれ。貧すれば鈍するの言葉通りである。君たちの研究資金のほとんどは税金が原資なんだよ。君たちは国に向かって「金をくれ」と言っているつもりかもしれないけれど、実際は国民に向かって言ってるんだよ。
プラモデル作りにも、麻雀にも、野球にも、釣りにも、一定の必要性は存在する。同様に、研究にも必要性は存在するだろう。しかし、大金をつぎ込むほどの必要性があるのか、という、プライオリティの問題になってくると、話はいきなり不透明になってくる。電車のホームに柵を作って自殺者を減らしたほうが良いのではないか、国民みんなが等しく健康的な暮らしを続けていくための出資のほうが重要なのではないか、リニアモーターカーを作って東京名古屋間を40分で結ぶほうが重要なのではないか、国立競技場を作って東京五輪に備えたほうが良いのではないか。比較すべき話は山ほどある。そして、こうした山ほどの案件を精査して優先順位をつけているのが財務省だ。色々な考え方はあるだろうが、僕は近年の財務省の科学に対する姿勢はそれほど冷淡だとは思わない。科学の予算が今すぐなくなっても人の命が短くなることはないが(註釈2)、社会保障費が減額されたら、これまでなら生きていられた人が死ななくてはならない可能性も少なからずある。そうした状況にあっても、科学技術振興だけで1兆3千億円も出しているのである。
研究者たちは何か特別なことをやっているつもりなのかもしれないが、個人的な好奇心を満たすために、税金を使って研究しているに過ぎない。そりゃぁ、他人のお金を使って、自分の好きな研究ができればこんな幸せなことはないだろう。
●ある家族の状況
ある家族を想定してみよう。3世代家族で、50歳前後の夫婦と寝たきりの祖父、20代前半の子供の4人家族だ。夫婦の所得はそれほど多くなく、祖父の面倒を見なくてはならず、生活は苦しい。それなのに、20代の子供は全く働こうとせず、競輪競馬と宝くじの購入にせいを出していて、良い加減にしろとしかると「これで1億円が当たれば、家族みんなで楽ができる」と言うばかりである。バイトをして金を稼げと言えば、「そんなくだらないことで貴重な時間を浪費したくない」と言い、もっと可能性の高いことをやれと言えば、「俺は競馬が好きなんだ」と言って聞き入れない。そして、小学校時代の同級生で大金持ちの息子を例に出して、「俺もあいつの家に生まれれば良かった。好きなことをやっても誰にも文句を言われずに済んだのに」と嘆いている。
これが、そのまま、日本の研究者の状態である。もちろん、研究者は、20代の子供だ。金になるかどうか全くわからない遊びが、研究である。バイトは大学における事務仕事だ。大金持ちの幼馴染は米国の研究者である。
今はこれでも生活が成り立っているが、50代の夫婦もいつまで働けるかはわからない。今後の見通しは全く立たない。
この家族の例で、子供がギャンブル生活を継続するためにはどうしたら良いのだろう。一番簡単なのは、幼馴染の家の養子になることだ。それが無理なら、乞食になって、お金を恵んでもらう手もあるだろう。大金持ちに上手に取り入って、お小遣いをもらうという手もありそうだ。しかし、どれもこれもまっとうに自分の力で生きていくわけではない。科学者とは、そういう人種なのだ。
この中で他人に迷惑をかけずに安定した生活が続けられるのは、金持ちの養子になることである。すなわち、米国の研究機関で研究を続けることだ。なぜ、多くの研究者がそういう手段に出ず、貧乏な日本という国で乞食みたいに「金をくれ」と言い続けているのか、僕にはさっぱり理解ができない。打ち出の小槌がどこかにあると思っているのだろうか。
もちろん、理想的な最善策は、この家族の収入が安定して増え続けることなのだが、今の安倍晋三自民党の経済政策、アベノミクスでは無理である。そのあたりはこちらに書いてあるので、興味があればこちらを読んで欲しい。
日本の向かう先
http://buu.blog.jp/archives/51522712.html
日本の成長力が低い理由
http://buu.blog.jp/archives/51522713.html
贈る言葉
http://buu.blog.jp/archives/51522714.html
また、「俺たちがやっているのは、本当に社会貢献なんだ」と強弁したい人は、こちらでもどうぞ。
明日はどっちだ?(引き続きの現実逃避)
http://buu.blog.jp/archives/51099611.html
●まとめ
(1)日本は貧乏
(2)科学は金がかかる一方で、そこに投資する余裕が日本にはない
(3)科学は以前のような価値が失われつつある
(4)そもそも、研究なんて所詮は個人の道楽
(5)道楽に「金をくれ」というのは貧乏人のいうことではない
(6)好きなことをやりたいなら、日本の外へ行け
●NIHなら
ここからは、僕の専門のバイオ分野に限った話になるのだが、医薬系バイオに限定すれば、NIHは世界でも有数の予算規模を誇っている。医薬系の研究を続けたいなら、NIHは有力な就職先である。だから、「研究費が減額される一方だし、研究環境は悪化の一途である。ノーベル賞研究者たちも改善を主張しているのだからなんとかして欲しい」と乞食の真似事をしている暇があったら、NIHへ行くべきだ。
もちろん、海外の脱出先はNIHの他にもいくつか候補があるのだが、残念ながら、NIH以外の場合は、僕は協力できない。あくまでも、NIHに限定した話だが、もしNIHのポストを確保できたなら、僕に相談すれば良い。どこに住んで、どうやって暮らしていけば良いか、これは研究とは別の話だから、研究者にとっては荷が重いかもしれない。そこは、僕がアドバイスするし、NIH周辺の日本人コミュニティを紹介することもできる。家族がいるなら、家族の英語力をどうやってアップさせるのかといった内容でも相談に乗ることができる。研究以外の場面では、可能な限り支援しようと思う。
米国にも差別はあるし、米国においては日本人は差別される側である。他にも、日本とは違う生活習慣がたくさんあって、誰でもそれなりにストレスは抱えるだろう。それでも、好きな研究を思う存分できるなら、文句はないのではないか?
沈んでいく船にしがみついていても良いことは何もない。溺れる前に、さっさと船を降りたら良い。自由と可能性を求めて外に出るか、乞食のままで溺れるか、あるいは研究を諦めて別の仕事に就くか、なのだ。
生物以外の領域については僕は良く知らないのだが、研究費が必要な分野なら、日本以外で研究できる場所があるはずだ。日本の歴史や文化を研究するとか、東日本大震災の影響を研究するといった例外を除けば、おおよそどの分野でも、日本を脱出するのが最善策だろう。自分の能力に自信があるのなら、生産的なことに時間を使った方が良い。金くれー、金くれーとTwitterでつぶやき続けているのはみっともないだけだ。
#ちなみに、NIHは博士取得から5年以内の制限がある。ということで、一応タイトルには(若手)と括弧書きしておいた。
(註釈1)科学の価値の下落について疑問を呈しているはてブがあったのだが、ここでリンクしている記事を読んでいないのだろう。
(註釈2)はてブを見ていたらここの文脈を読み切れない読者が数名いたようなので、ちょっと修正した。元は「科学がなくても人の命が短くなることはないが」だった。