2017年05月14日

大学は滅亡しつつある

このブログを含め、これまであちこちで書いているのだが、あらためて書いておく。

日本にはバブル期みたいにお金がないので、福祉以外は全てダウンサイジングしていく必要がある。この作業の中で、なるべく国民の生活に悪影響が出ないように工夫する必要があるわけで、それが大学運営にあたっては「選択と集中」だったり、「成果主義」だったりするのだけれど、日本人は「評価」が決定的に苦手である。これは個人的には、日本が古来より農耕社会、村社会だったことや、あるいは戦後の高度成長において護送船団方式で成功をおさめたことに起因する日本人の国民性で、まるばつをつけるのではなく、みんなで仲良く、というのが染み付いているんだと考えている。だから、選択したくないし、頑張って選択してもそれに責任が持てないし、評価もできず、仕方なしに外人にアドバイスを仰いだりする。しかし、テンポラリーに来日して、資料に目を通しただけのアドバイスには限界がある。結局、評価といっても縁故がものを言う状態になって、まともな「選択」にはならないし、失敗しても誰も責任を取らない。

大学運営とはちょっと話が異なるのだが、2000年代前半に、内閣府と経産省が旗をふって、「バイオ産業の市場規模は2010年に25兆円」と大風呂敷を広げたことがある。僕はこの大風呂敷について、第二回ライフサイエンス・サミットという日本としては非常に規模の大きな会議で「このままでは絶対に無理」と指摘して、会場全体を凍りつかせたことがある。結局、2010年のバイオ市場は3兆円程度にとどまったのだが、この見込違いについて内閣府や経産省が言及しているところを見たことがない。言ったら言いっぱなしなのだから、楽な商売である。

さて、話を戻すが、大学の立ち位置も曖昧である。研究をやりたい人間と教育をやりたい人間をわけて考えず、さらにマネージメントまで担当させる始末だ。どれか一つでもきちんとやり遂げるのは難しいのに、3つもやらせてうまくできるわけがない。

大学はこういう構造的な問題を抱えている上に、文科省も、政治家も、一部の大学関係者ですら、大学を職業訓練のための施設と捉えているところがあって、学校教育法の理念や大学の定義を理解していない。以下に学校教育法に書かれている「大学」を抜粋してみる。

第八十三条  大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
○2  大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。


成果は文字どおり結果であって、大学の目的は職業訓練とは違う。大学とは、周囲の環境とは無関係に自由に好きなことを研究し、それを通じて科学的に考察する能力を醸成していかなくてはならない。今は、ほとんどの大学でそれができない状態に陥っている。法律を読んでも明らかだが、産業界のニーズに合わせた職業訓練をするのは大学ではなく専修学校の役割である。今は、多くの大学が専修学校化しつつある。たとえば次の資料は日本経済再生本部の第八回会議に文部科学大臣が提出した資料である。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai8/siryou6.pdf

ここにも、「大学等における未来の産業構造・社会変革に対応 した人材育成の推進 」などという文字が踊っている。大学がこれから何に注力して行くべきか、こんなことは、無責任な政治家や有識者が決めるべき話ではない。大学が産業界のニーズにあわせてカリキュラムを作るなら、その大学は大学の看板を下ろすべきだ。

今の大学をとりまく状況は、おそらく今後大きく変わることはない。大学の体質一つ取っても、既得権者達がパーマネント職として居座っている限り、改善されない。したがって、若い研究者達は日本にとどまって不平不満を述べることで時間を費やすべきではない。それを通じて得られるのは、せいぜい「既得権者の椅子」にとどまる。それよりは、米国、ドイツ、シンガポール、あるいは中東の産油国などへ活躍の場を求めた方がいい。また、既得権者達も、そこで船が沈んで行くのを黙って見ているよりは、何か他のことを見つけた方が、より有意義な余生となるだろう。

もはや、日本には、本当の大学は存在しなくなりつつある。

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