2017年07月16日

政治家を育てるのは有権者である

(1)民主主義に参加する手法
突然だが、「民主主義において、市民が政治に参加する手法としてどんなものがあるか?」と聞かれたら、なんと答えるだろうか。できるだけ多く考えて欲しい。








多くの日本人がすぐに思いつくのが「選挙で投票する」だろう。もちろん、正解だ。だが、正解はひとつではない。投票は一番普通で、ある意味行儀が良いやり方だ。そして、ここで終了して、「他にもあるの?」と考え込んでしまう人が少なくないかもしれない。では、他にどんなことがあるのか。

まず、「知り合いと話し合う」といった、他の住民たちとの意見交換が考えられる。

次に、「デモに参加する」などの、意思表示が考えられる。

ここまでで、「あぁ、そんなのも民主主義の手法なんだ」とわかれば、他にも色々思いつくかもしれない。「ブログやSNSで自分の意見を表明する」も、立派な民主主義の手法のひとつである。要は意思表示の手法なので、「誰に表明するのか」と考えていくと、さらにいくつかの手法を思いつく。

役所に意思表示するなら、「役人に意見を言いに行く」のもひとつだし、「パブリック・コメントに投書する」のもひとつだ。上に書いた「デモ」は不特定多数に意思表示する手法だが、不特定多数に対して意思表示するならマスコミを利用するのも有効な手段である。たとえば「新聞に投書する」などである。

さて、意思表示する先として、知人、不特定多数、役所と挙げてきたのだが、大事なところが抜けている。それが何だかわかるだろうか。

「政治家」である。その手法としては、古くからあるものなら「政治家の事務所に電話する」「政治家の選挙事務所に行く」などが挙げられるし、今なら「政治家のFacebookに書き込む」「政治家のTwitterアカウントに書き込む」といった手法もありうる。


(2)政治家とは
日本人は、選挙で投票することの大切さすら理解していない人が多いのだが、投票以外の行動を起こす人はもっと少ないのではないか。投票に行く人であっても、選挙の後で政治家にダイレクトに意見を言う人は少ないと想像する。しかし、たとえ自分が支持していた政治家が選挙で落選したとしても、選挙が終われば、当選した政治家は自分たちの代表として行政にあたる人物なのだ。

安倍晋三氏が秋葉原で「こんな人」と国民を二分して顰蹙を買ったのは記憶に新しいところだが、安倍晋三氏が馬鹿なところは、自分は「こんな人」たちの代表でもあることを忘れている点だ。ひとたび総理大臣になったからには、すべての国民の代表でなくてはならない。一年ほど前、彼は「私は立法府の長ですよ」と発言して馬鹿っぷりを全世界に披露したのだが、その程度のおつむなので、自分が国民の代表という認識は持ち合わせていないのだろう。しかし、総理大臣は国民の代表だし、各選挙区の議員はその選挙区の有権者の代表のはずだ。

#僕は、日本の政府が国連の核兵器禁止条約に対して反対票を投じたことについては全く同意できない。国民の過半数が反対票に同意するなら仕方ないと思うのだが、果たして本当に国民の過半数が核兵器禁止条約に対して反対のスタンスなのだろうか。

話をもとに戻すが、投票が終われば国民の政治参加は終了ということではない。むしろ、選挙のあとの方がずっと大事なのである。政治家は、中央官僚たちに対して「俺は住民の代表だ」という立場で役人に対応し、指示を出す。その人間に対しては、選挙後も一貫して、意見を言う権利を私たちは保有しているのである。それは、与党の支持者だけではなく、野党の支持者でも同じである。

僕は日の出テレビという政治家が運営しているテレビ局の運営に参画したことがあって、その際に、現在の神奈川県選出の衆院議員および当時から現職だった数名の市会議員と一緒に仕事をしていたことがある。おかげで、それらの政治家の質というものを間近で見て来た。正直に評価するなら、飛び抜けて優秀な頭脳の持ち主はひとりもいなかった。知識も、思考力も、僕がこれまで三菱総研や経済産業省で見てきた人たちと比較すると、かなり劣っていたと思う。頑張っても、彼らの半分ぐらいがまぁまともかな、というレベルだった。もちろん、日本中を見渡せば、優秀な政治家もいるのだろうが、少なくとも、日の出テレビ界隈では、イマイチに感じた。しかし、頭脳明晰ではないし、知識も足りないけれど、性格の悪い人はいなかったと思う。普通に真剣に政治を考えていたし、普通に「良い人たち」だった。

#一部の主義主張で全く相容れない部分もあったのだが。

日本人にとっての政治家像は「非常に頭脳明晰で知識、経験ともに豊富な人材で、全てを任せておけば安心」というものかもしれないのだが、実際は全くそんなことはない。個人的には、そんな政治家は後にも先にも、後藤田正晴ぐらいしか知らない。あとは、元芸能人だったり、スポーツ選手だったりする人を代表例として、あらゆることに秀でた人などいないのだ。その背後にいる支持者の方がよっぽど優秀なことだって当然ある。だからこそ、選挙が終わったらそれでおしまい、ではないのである。ところが日本人は選挙の結果に一喜一憂して、自分の支持者が当選したらそれで終了、あとは政治家にお任せ、落選したらがっかりして、やっぱりそれで終了である。つまり、無関心というやつだ。中には自分の活動領域で政権批判を繰り広げるといった情報発信をする人もいるだろうが、そうして不特定多数に意見を投げかけても、同じ考えの有権者以外には、その声は届かないものだ。結局、そういう活動は自己満足の域を出ない。


(3)選挙後に有権者がやるべきこと
大事なことは、自分の選挙区の代表である政治家に働きかけることだ。もともと情報を持ち合わせていないのが政治家なのだから、自分が持っている情報を提供するのでも良い。知恵が足りないと感じたら知恵袋を買って出ても良い。もちろん、活動は肯定(=応援)である必要はなく、批判だって構わない。その政治家が各種SNSを運用しているなら、ダイレクトに書き込むのでも良い。僕はFacebookというシステムはあまり評価していないのだが、そこでの書き込みを他の大勢の有権者が見ることができるという点で、有権者が政治家に意見を述べるツールとしてはとても有効だと感じている。そして、その政治家がまともな感覚を持ち合わせているなら、たとえどんなことを書かれたとしても、その内容が法的に問題がない限り、有権者の書き込みを削除したり、ブロックしたりすることはできないのである。それが政治家の宿命でもある。

日本の民主主義、特に都市部の民主主義は、有権者は選挙で投票したら終了だし、政治家は時々駅でマイクを持って演説したり、支持者の集会に出たりする以外は特に目立った活動をしない。ほとんどの国民が、選挙と、いわゆる「街頭演説」や「辻立ち」以外で政治家を見かけることはないのではないか。少なくとも、僕の周りの人に聞いてみた限りでは、政治家と個人的に知り合いという人以外は、政治家との接触はほとんどなかった。ごくわずかにあったとしても、飲み会に参加者の一人の知り合いとして顔を出したとか、結婚式でスピーチしていたという程度である。自分から政治家の選挙事務所に行ったり、電話したりしたことがある人は誰もいなかった。多分、そういう行動が民主主義の手段だと知らないのだと思う。

しかし、相手は驚くほど有能ということではないし、万能でもない。どこにでもいる普通の人間にすぎないのである。有権者は、上から目線で「教育してやる」「情報提供してやる」でも構わないのだ。政治家は、公務員に対しては大きく出ることができても、有権者に対してはそれができない。有権者からしてみれば、相手は、有権者の代表を買って出て、たまたま当選しただけの人間である。そして選挙のあと、立派に役目を果たすかどうかは、選挙後の有権者の行動次第でもある。

もちろん、様々な働きかけをしても、一向に反応がないかもしれない。しかし、それでも、何もしないよりは良いし、ブログやFacebookで意見を書くよりもずっとマシだ。日本人はおとなしすぎるし、直接ものを言うのは行儀が悪いと考えている節がある。でも、米国の民主主義を見ていると、政治家にものをいうのは全く行儀の悪いことではないとわかる。反トランプ政策のデモには大人から子供まで参加するし、デモの終着地は議会で、シュプレヒコールは「お前ら、ちゃんと仕事しろ」である。小学生のテキストには、民主主義への参加の手段として、「政治家の事務所に電話する」と書かれている。むしろ、不満に感じて何もしないことの方が悪なのだ。

少なくない反安倍内閣の人たちは、東京新聞社会部の望月衣塑子記者がしつこく菅官房長官に食い下がっているのを見て「よくやっている」と評価していると思うのだが、結局、そこまでで他人任せにしているのではないか。記者ではなくても、一般の有権者でも、政治家に対して直接働きかけることができるにも関わらず。


(4)民主主義に対するプライド
最近、米国人と議論していて強く感じるのは、彼らの民主主義に対するプライドの高さである。米国人は、大きな内戦や公民権運動を通じて、血を流しながら自由と平等を獲得してきた。だから、自分たちの理想としている民主主義が機能不全を起こしそうになると、やっきになって抵抗する。戦争に負けて棚ぼた式に民主主義が落ちてきた日本とは大きく違うのだろう。

日本はといえば、安倍晋三氏が圧倒的多数の議席を背景にやりたい放題好き勝手にやっても、飲み屋でクダを巻くか、せいぜいデモに参加したり、ブログに記事を書いたりする程度である。これらが全く無意味だとは思わないし、こうやって書いている僕もブログで安倍晋三氏の批判を続けている一人だが、やはり、もっとダイレクトに政治家に働きかけるべきだと思う。

日本の政治家の質が低いのは、彼らを選ぶ国民の質が低いからだ。馬鹿の代表は、馬鹿にしかなりえない。「でも、立候補するのが馬鹿ばかりで、投票する先がないんだからどうしようもない」という意見が聞こえてきそうだが、実際には、まだ手段が残されている。選挙で馬鹿な政治家が選ばれてしまったとしても、有権者には、まだ彼らを教育することができる。きちんとした情報提供や議論を通じて、ちゃんとした政治家へと成長させれば良い。いくら意見を述べても政治家が全く聞く耳を持たず、かつ、その意見が正しいなら、遅かれ早かれ、その政治家は選挙で落選するだろう。

#その意味で、「こんな人」として国民を二分して、その片方に対して聞く耳を持たない安倍晋三氏は総理大臣である前に政治家としても相応しくない。より多くの人の意見に耳を傾ける謙虚さがない。こういう人物は「無知の知」という言葉を知らず、未来永劫馬鹿であり続ける。なぜ多くの日本人が彼を支持しているのか不思議でならない。

選挙で投票したかどうかに関わらず、政治家にものをいう権利を僕たちは保有している。そして、そういう行動によって、政治家をランクアップさせることができるかもしれない。

安倍内閣に河野太郎氏が入閣する際、それまで反原発など、自民党の党議拘束からは外れているようなことまで書いていたブログを閉鎖してしまった。この時、僕はかなり腹が立ったし、失望もした。どんな政党から出馬しようとも盤石の基盤を持つ河野太郎氏が、自身のブログを閉鎖してまで入閣した姿を見て、「あれだけの支持者の支援をもってしても、細田派の意向には歯向かえないのか」と驚いた。そして同時に、神奈川15区の有権者たちが「安倍晋三にそっぽを向いても、俺たちが支援し続けるから大丈夫だ」とアピールできなかったことにも失望した。僕にとっては、河野太郎氏がブログを閉鎖したのは、河野太郎という政治家個人の話ではなく、河野太郎と、神奈川15区の有権者が安倍晋三氏の軍門に下った瞬間でもあった。

僕は神奈川15区の人間ではないので、河野太郎氏のブログ閉鎖の一件については所詮傍観者の一人に過ぎないのだが、自分が住んでいる選挙区から選出されている政治家に同じ行動を取って欲しくないと強く感じた。そのためには、有権者ひとりひとりが、もっと政治家に対してダイレクトに働きかけていくべきなのだ。幸いにして、インターネット時代になって、政治家への働きかけは容易になってきた。年齢も、性別も、肩書きも、コネもカネも関係ない。日本人はインターネット時代の民主主義へと踏み出すべきなのだ。それは、投票以外の手段、具体的には、政治家への直接的な働きかけである。

投票したい政治家がいないのは、誰でもない、投票したい政治家を作ってこなかった自分たちの責任なのだ。

(5)事例紹介
僕が最後に日本にいたのは横浜市緑区なので、神奈川8区選出に該当する。そこで、今は8区選出で日の出テレビでも関係のあった福田峰之氏に働きかけている。画面をキャプチャーしてあるので、どういうコメントを書いているのか紹介しておく。日本人の感覚としては行儀が悪くうつるかもしれないが、これらによって僕は政治家を育てているつもりだし、民主主義を実践してもいるつもりだ。

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もちろん、不幸にして、住んでいる選挙区の政治家がFacebookなどのSNSを運用していないケースも少なくないだろう。その場合は、電話や手紙、ファックスなど、手段は限られてくるし、その主張を多くの人に知ってもらうためには一工夫必要になってくる。だからこそ、運良く自分の選挙区の政治家がFacebookなり、Twitterなりをやっているのなら、もっと直接働きかけていくべきなのだ。そうすれば、政治家も成長するし、世の中は「今時SNSもやらないなんで、遅れている」と考えるようになる。広く聞く耳を持ち合わせている政治家を増やすためにも、どんどん行動を起こしていかなくてはならない。

一人でも多くの有権者が、同じように、何らかの形で政治家に働きかけるようになってほしい。そうした、個々人の行動が、日本の民主主義の成熟にはとても大切なのだ。「政治家が馬鹿だから」とか、「投票しても何も変わらないから」と諦めていたり、評論しているだけでは、いつまで経っても日本の民主主義は他人から譲り受けただけのものである。