2017年07月23日

ジョブ・キャリアの分割と、高度プロフェッショナル制度

先日、「ジョブなのか、キャリアなのか、それが問題だ」というエントリーの中で、ジョブとキャリアを明確に分けないから、日本人はホワイトカラー・イグゼンプションを理解できないと書いたのだが、ちょうど今日、こんな記事を見かけた。

<労働時間実態調査>時間減らしたくても仕事が終わらず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170722-00000086-mai-soci

これは、ジョブとキャリアを分けて考えていないから出てくるひどい考え方の典型である。日本で言われている「高度プロフェッショナル」(高プロ)というのは、キャリア職の中で、さらに自分の裁量で業務量を調節できる立場の人間である。そして、その高プロ制度の導入に対して、ジョブ職の人間たちが反対を唱えているのである。おかげで、高プロの待遇も、その他のキャリアの待遇も、もちろんジョブの待遇も、ほとんど変わらない。

終身雇用と年功序列ゆえ、日本ではジョブ職として入社して、ジョブ職を続けていても、給料はアップしていく。しかも、クビにもならない。コピーを取り続けるしかできない人材でも、定年まで働き続け、勤続年数に応じて高い給料をもらうことが可能だ。実際にはこんなことを全員がやっていては会社は倒産してしまうので、多くのジョブ人材は、徐々にキャリアカラーの濃い仕事を担当するようになっていく。そのためには長い残業が必要だったり、社内研修が必要になったりする。

日本ではキャリア人材とジョブ人材を十把一絡げにして扱う。終身雇用と年功序列の中で、少しずつその配分が変わっていくようなキャリア・パスを用意する。仕事の性格(ジョブなのか、キャリアなのか)と、それを担当する人間の権利をそれぞれに分けて考えないから、日本の労働環境は全く改善されない。

それでもなお、日本でキャリアとジョブをわけて考えないのはなぜか。それはおそらく労働者サイドの事情による。「あなたは、ジョブを続けている限り、収入は増えません」とされてしまっては、困るのは労働者だ。終身雇用と年功序列は会社にとってよりもむしろ労働者にメリットが大きい。能力が低くても、勤勉な姿勢であればそこそこの人生を送れることは、農耕民族として一億総中流社会を構築してきた日本人にはとても都合が良かったのである。日本が、国内だけで完結していられるならこれでも良かった。しかし、今の世界は鎖国が可能な状態ではない。そうして、年功序列と終身雇用、換言すればキャリアとジョブの明確な分離をしないことによって、さまざまな部分で軋轢を生みつつある。

その最大のものが、同一労働同一賃金が実現しないことだ。ここまで書いてきて初めてこの言葉が登場したのだが、今の日本が絶対に実現しなくてはならないのが、この同一労働同一賃金である。

しかし、同一労働同一賃金は、単独で実現できることではない。終身雇用の解消も、年功序列の解消も、キャリアとジョブの明確な分離も、労働力の流動化も、全てが協調して作用しなくては実現しない。これは非常に簡単な話で、たとえば同一労働同一賃金の会社では、コピーしか取ることのできない社員は、賃金がアップする理由がない。これは、同一労働同一賃金と年功序列が共存し得ないことを意味する。安倍晋三は政府の方針として同一労働同一賃金の実現を単独で掲げているようだが、これは彼が馬鹿であることの証左である。彼は、ことの困難さをさっぱり理解していない。特に、この問題を正規、非正規の問題に落としているところが馬鹿である。(正規、非正規という言葉も法律的にはかなり疑問がある表現で、無期雇用、有期雇用で考えるべきだが)両者は第一にでてくるのではなく、キャリアとジョブの権利を考えるフェイズで登場するべきである。

ここで話を戻すが、日本社会の労働環境は、多岐にわたり、かつ複雑に相関している問題を抱えている。この中でもっとも簡単に実現できそうなのが、ジョブとキャリアの分離である。これは、実は労働者にとってもメリットが大きいし、単独でも考えやすい。

まず、ジョブとキャリアを分離しないことの問題点をはっきりさせておきたいのだが、それは、労働者が、両者を一体化して、その権利を主張してしまうことに尽きる。キャリア人材とジョブ人材は置かれている立場が全く異なるので、求めるものも異なってくるはずだ。ところが、ジョブ人材が求めている権利を、キャリア人材までが享受してしまうから、おかしなことになってくる。

たとえば、ジョブ人材はそのままでは自身のスキルがアップしないので、給料は据え置きになる。その給与で一生を終える可能性もあるので、給与水準は一定の高さが要求されるし、雇用もなるべくたくさん確保される必要がある。つまり、最低賃金のアップや、雇用の維持が、もっとも大切になってくる。場合によってはキャリアアップにつながる勉強も必要になってくるが、それは業務外の時間を当てなくてはならないから、残業もほぼない状態にすべきだ。そもそも、ジョブ職は自身の時間を提供する職なので、残業は時間の不当な搾取となる。かように、ジョブ職は就業環境面で十分に配慮される必要がある。また、仕事の安定性も重要なので、無期雇用についても検討される必要がある。ジョブ職の人間が勉強して他の仕事にキャリア・アップすると、自主的に退職することになるから、ジョブ職に長い雇用期間が割り当てられたとしても、労働市場の硬直化にストレートにつながるわけではない。米国では最低賃金が15〜18ドル(約1650〜2000円程度)と、日本の倍程度だが、それでも労働力が流動的なのは、こういった事情がある。

一方で、キャリア職は、仕事を通じて自身のスキルがアップするので、スキルが低いうちは給料が低くて当たり前だ。勉強する時間もジョブ職ほど必要とされないので、残業があっても大きな問題とはならない。それ以前に、多くの場合、キャリア職は時間で仕事をしないので、時間給という考え方が適用困難で、能力給となる。ただし、初期のキャリア職は、自分の裁量で仕事を調節できることは稀なので、冒頭で紹介した高プロにはほとんどの場合で該当しない。初期のキャリア人材については、残業量などについてきちんと守られる必要はあるだろう。このように、高プロについては、その中で別途いくつかの詳しい条件設定が必要になってくるはずだ。

ともあれ、キャリアとジョブを分割してしまえば、キャリアの待遇を規定する「高度プロフェッショナル制度」について、ジョブ人材が口を出してくることはなくなるだろう。ジョブ人材は、高プロなどよりも最低賃金のアップに向けて権利主張した方が、ずっと生産的だ。

現在は、ジョブ職の人間が賃金アップや雇用の安定といった権利を主張し、その成果をキャリアまでもが享受している。結局、一番得をしているのがキャリア職なのだ。こうした背景から、日本では良い大学に行って、良い会社に入ることが最大のステータスとなっている。そして、そういう立場の人間が、職業の安定と、高賃金という、二兎を得ているのである。社会はハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンとなるべきところ、日本社会はローリスクハイリターンのキャリア職と、ハイリスク・ローリターンのジョブ職に分離している。これがいわゆる「格差拡大」や「格差の固定化」の実態である。

実数的にはおそらくキャリア職の方がジョブ職より少ないので、普通の民主主義なら、人数が多いジョブ職が自身の権利を主張し、社会が変わっていくはずだ。ところが、日本社会はそうならない。どういうカラクリがあるのか。狡猾なキャリアたちは、「頑張れば、あなたたちも勝ち組になれるかもしれませんよ」と、ジョブ人材に対してキャリア職の待遇というニンジンをちらつかせるのである。すなわち、「非正規社員の正規化」である。こうした、勝ち組が負け組に対してニンジンを見せるやり方は、ポスドクが大量に余った時にも顕在化した。

しかし、ジョブ人材は、仕事内容が変化しないなら、スキルアップが難しい。単に有期雇用を無期雇用に変更しただけなら、よっぽどのことがない限り、描いた将来像はどこかで破綻する。今、高プロのような制度が社会から要請されていることからも、それは明らかだ。

#なお、高プロ制度とは、突き詰めれば「あなたの仕事は時間ではなく内容で評価するので、良い成果を出せるよう、自己の裁量で好き勝手にやってください。そのかわり、成果が出なければクビですよ」ということであるべきだ。

ここまで、高プロ制度とジョブ・キャリアの分離について、その関係について書いてきた。かなり長くなってしまったが、要すれば、「高プロ制度はキャリア人材のための制度なので、ジョブ人材が口出ししても何も良いことがない。まず、キャリアとジョブを明確に分割し、それぞれに必要な権利を主張しろ」ということである。この二つを分割して考えないということは、ラーメン屋と寿司屋で同じように経営を考えるような無理がある。やってできないことはないが、手間がかかるし、100点の回答も得られない。そして、この分割ができないなら、つまり、労働者の意識改革と、それに派生する労働市場の流動化を実現できないなら、日本はいつまで経っても再浮上のきっかけをつかめないだろう。これは、僕が当初からアベノミクスに対して否定的な理由である。