2017年08月11日

記憶にないとか、記録にないとか

加計学園問題にしても、森友学園問題にしても、築地移転問題にしても、全部同じなんだけれど、行政判断において「記憶にない」とか、「記録にない」とか、こんな言い訳を許してはいけない。今はテキストデータならほぼ無尽蔵に保存できる世の中である。PDF化したところで、それほど大きな負担になるとも思えない。行政判断が正しかったのか、間違っていたのか、いつでも、誰でも検証できるようにしておく必要があるし、現在の技術でそれは可能なのだ。それをやっていないというのは、作為的な証拠隠滅である。

多くの日本人が、これを許しているのが不思議でならない。記憶にないはともかく、記録にないはそれだけで重罪だろう。

ちなみに、僕は経産省時代、三菱総研の研究者から内々に協力要請を受けて、「特定の会社に特別な便宜を図ることは公務員としてできない」と断ったことがあるのだが、その際、三菱総研研究者から三菱総研人事部を経由して、「君は三菱総研OBなんだから協力して当たり前だろう」と恫喝されたことがある。もちろん断ったし、その際にやりとりされた全文書を保存してある。

#後日、人事部担当者からは「不適切だったので忘れて欲しい」という連絡があったが、もちろん忘れない。

個人でもこのくらいは可能なのだから、国や自治体でできないわけがない。書面、画像、音声データなどは現代では廃棄する理由がない。それにも関わらず、わざわざ廃棄するのには当然理由があるはずだ。ドリルを使ってハードディスクドライブを破壊して証拠隠滅を図った小渕優子が自民党組織運動本部長代理に就いたようだが、これなども信じられない話である。役職に就くのはもちろん、今でも選挙で当選していることが信じられない。

政治家の記憶や文書の記録は失われても、幸いにして自分の記憶は失われない。多くの日本人は忘れてしまうのかもしれないが、自分は死ぬまで忘れないようにしたいし、忘れそうなことは備忘録としてこのブログに書き残しておこうと思う。