2018年06月24日

太田啓子弁護士の主張と長谷川豊の主張の相同性

太田啓子弁護士が、下記の記事で誘拐肯定映画の放送について解説しているのだが、

『幸色のワンルーム』放送中止に批判の嵐……弁護士・太田啓子氏が「誘拐肯定」の意味を語る
http://www.cyzowoman.com/2018/06/post_190588_1.html

この記事を読んで、すぐに僕が感じたことはこれである。




太田氏の主張のどこが受け入れにくいかといえば、この部分に尽きる。

『誘拐ドラマがダメなら、殺人ドラマも強盗ドラマもダメってこと?』と言う人がいますが、ここには決定的な違いがあると思います。殺人や強盗は『悪いこと』という共通認識、不動の前提がある一方、誘拐に関しては『悪いこと』と認識しない人がいるのです。


殺人は悪いことと共通認識があるが、誘拐はそうではない、という感覚はあくまでも太田氏個人のもので、万人に共通とは思えない。それを以って「決定的」と言ってしまうところ、理解に苦しむ。殺人を悪いと思っていない人もいるだろうし、それ以上に誘拐が悪いことだと感じている人は非常に多いはずだ。くだんの、朝霞市の誘拐だって、犯人は社会に隠れて誘拐、監禁していたわけで、自分が悪いことをやっている、社会から容認されないことをやっているという自覚はあったはずだ。

なお、これは余談だが、僕は朝霞の事件では朝霞市立第三中学校と誘拐現場(朝霞市三原)のすぐそばにずっと住んでいて(朝霞市東弁財)、事件の始まりから終わりまで、すごく身近な事件として受け止めていた。結果的には、誘拐までのすべてのことが当時の僕の14階の自宅から一望できる場所で起きたことだった。

誘拐が悪いことと認識しない人がいるというなら、窃盗はどうなのか、万引きはどうなのか、大麻はどうなのか、未成年者の喫煙はどうなのか、違法駐車はどうなのかといった具合にグレーなことは山ほど出てくる。太田氏はわかりやすくするつもりで殺人や強盗を例に出したつもりかもしれないが、極端な例を出すことで正当性を担保することはできない。

また、犯罪を肯定的に描いた名作も、過去にはある。「スティング」(詐欺)などは代表例だが、「ゴッドファーザー」(殺人を中心になんでもあり)シリーズにとどまらず、北野武監督や園子温監督などの作品にも、必ずしも絶対悪として殺人を描いていないものがいくつも存在する。監督という切り口をはずせば「白夜行」(小説、映画、ドラマ)なども例としてあげられるし、逆に誘拐に限定したとしても、名作かどうかはともかく、「コレクター」とか、「完全なる飼育」などの作品がある。最近なら「八日目の蝉」という、映画のみならずNHKでドラマ化された作品も存在する。こうした反例として、破壊屋さんはこんな例を挙げている。




何が良くて、何が悪いのか、判断は「個人の感覚」に立脚する。一つをダメとすれば、「じゃぁ、これは?」「あれはどうなの?」という疑問が次から次へと湧いてくる。

また、この手の議論では時々「被害者が見たらどう思うか」という主張が見られるのだが、それを言うなら交通事故の被害者は事故のシーンを見たくないだろうし、小売店を経営している人は万引きのシーンを見たくないだろうし、薬物中毒者も、家族に自殺者がいる人も、見たくない場面はあるはずだ。

ざっとまとめてみると、次のような項目について、「それって、個人の感覚だよね」という部分がある。

◯その犯罪が、どの程度「悪いこと」として社会に認識されているか
◯どの犯罪までが作品の表現として許されて、どこからが許されないのか
◯作品の中で、犯罪をどう表現すれば良いのか、どう描けば肯定的で、どう描けば否定的なのか
◯描かれている犯罪を見る側がどう受け止めるか

これらは、全て心理主義による判断に委ねられてしまう。それゆえ、太田氏の主張をすんなりと受け入れることができないのだ。そして、その心理主義的な判断による規制の正当化は、2年前に長谷川豊という馬鹿が展開した論法と同じ危険性を孕んでいる。詳細はこちらを見てもらうと良いのだが、

長谷川豊というキチガイ
http://buu.blog.jp/archives/51532632.html

僕の主張の要点は、「どこからどこまでが個人の責任と断定できないことについて、全て個人の責任と断定することは不当である」ということだ。長谷川豊は「そのまま殺せ」とまで表現したのでキチガイ認定したのだが、境界が不鮮明なところに個人の感覚で線を引くという点では、長谷川豊と今回の太田氏の主張は同質である。

太田氏の主張が正当かどうか判断しようと思うなら、太田氏が記事の中で書いている「法律を作れと言っているのではない」をあえて想定し、立法化を考えてみると良い。「文芸作品、映像作品などで誘拐を肯定的に描いてはいけない」と法規制するとどうなるのか。誘拐とは何か、肯定的とは何か、誘拐はダメで殺人や大麻吸引は良いのか、そもそもなぜダメなのか、色々な疑問が生じてくる。

僕は理化学研究所の組織規程を作ったり、あるいは経産省の役人として法律を作る立場にいたことがあるのだが、その時にもっとも重視したことは、「誰が読んでも同じ受け止め方をする書き方、内容にする必要がある」という点である。今回の太田氏の主張は、様々な疑問に一切答えず、「私が不愉快だから、ダメなものはダメ」と言っているように感じられるのである。

その上で、太田氏は法制化を主張していない点を長所として書いているのだが、

私も含め、放映を批判した人たちは、例えば法律をつくって、女児誘拐を肯定的に描くことを禁止しましょうなどということは言っていないのに、『表現の自由への弾圧』などというのは、議論の次元を誤解した的はずれな反応です。表現物や表現者のスタンスへの批判や論評も、表現の自由の行使ですしね。そうではなく、公共空間のあり方や、社会規範の作り方の話をしているのですが


このように法制化を避けて、現場の判断に丸投げする姿勢は僕は支持しない。こういう姿勢の典型例が日本での喫煙規制で、明確な規制がないことによって、目に見えない「マナー」「常識」の問題に帰着されてしまい、現場にコンフリクトを発生させている。実際、このブログで何度も書いているのだが、僕は三菱総研時代、禁煙の執務室での喫煙の容認を許容できず、転職するに至った(1996ー1998年ごろ)。現在の飲食店でも、時々隣のテーブルの客から「タバコを吸っても良いですか?」と聞かれて微妙な空気になることがある。現場での衝突を生まないように、わかりやすく法規制するのが一番正しいのである。そして、法規制が違憲だというなら、そもそもその圧力が筋悪ということになる。

放送したことによって放送局を批判したり、作品を批評することは一向に構わないと思うのだが、放送前に、放送の是非について視聴者サイドが「これはダメ」「これはオッケー」と意見を言って圧力をかけることには、大きな違和感を持つ。

なお、僕は太田啓子という弁護士のこれまでの主張、情報発信、活動、略歴等について何も知らない。