2004年09月22日

赤鬼タイバージョン

まぁ、ロンドンバージョンも見たことだし(感想はこちら)タイバージョンも、と思いつつ、ロンドンバージョンの出来の悪さにあまり期待もせず観にいったわけだが、これが思いのほか出来が良かった。まぁ、野田・段田のコンビにはかなうわけはないのだが、それでもかなりのレベルだったと思う。

#野田、段田、大竹でやったらすごいことになるんだろうけど・・・・
まず、この劇の特徴は演じる人数が第一だと思っていたので、当然一番少ない日本バージョンが最も質が高く、人数が増えると徐々に雑味が増え、ロンドンバージョン、タイバージョンとなるにしたがって質が落ちていくと思ったのだが、これは誤解だったようだ。日本バージョンには当然大吟醸の風味があるのだが、タイバージョンにはタイバージョンでどぶろくのような美味しさがあった。この美味しさを支えていたのはやはり主役格の3人の演技力だろう。同じ東洋人ということもあってか、ちょっと抜けてるトンビの表情とか、抜け目のない、そして生命力のある水銀の立ち居振る舞い、そして疎外感と絶望感を持ちながらも生きて行こうとするフクがきちんと表現されていた。

こうしてみると、ロンドンバージョンの出来が悪かったのは、何よりもロンドンバージョンの役者のレベルが低かった、ということかもしれない。彼らは声は出ていたが動けなかった。ロンドンバージョンの役者は野田の動きを横目で確認しながら動き、野田は野田で指揮者のごとく全体の動きを確認しながらリードしていた。タイバージョンではきちんとそれぞれの役者が自律的に動き、それでいて統率が取れていた。

また、野田の演じる赤鬼が、赤鬼というよりは完全な異物として扱われていたのも良かったと思う。衣装からして赤ではなかったのだが、なにやらちっちゃくて変な生き物として描かれていたため、「☆◎△■×○」みたいに喋ってもなんら違和感がない。野田が「馬鹿でかくて毛むくじゃらな赤鬼」を演じるにはかなり無理があるのだが、これなら大丈夫だ。ただし、これでこの舞台はほぼ「赤鬼」ではなくなっている。結果として、日本バージョンにもともと存在したはずの「違う文化を持った同じ人間の交流」という根幹がかなり揺らいでいるのも事実。
#赤鬼じゃなくて、「未知との遭遇」ぐらいかなぁ。

右入口から入って最前列のエリア指定、最も出入り口よりで見ていたのだが、ラストシーン、そこの座席からは徐々に落ちていくピンライトとフクの後姿が完全に1つのラインとなり、最後の最後に特等席となった。これまで観た演劇の中でも指折りの印象的なシーンだった。あの角度からの舞台は、テレビでも見ることが出来ないかもしれない。

と、ここまでかなり前向きに評価してきているのだが、この劇はどうなんだろう。やはりタイ人のタイ人によるタイ人のための(ただし日本人が作った)演劇で、それを異人としてこっそり見るのが筋だったような気がする。つまりはタイの劇場で、多くのタイ人の中で。みんなの笑いから1テンポ遅れて笑う自分に特有の疎外感を感じつつ、であれば、もっと楽しめた気がするのである。

あと、この7500円という値段。高すぎ。これはロンドンバージョンのときにも書いたけど、価格はロンドン3000円、タイ4000円ぐらいがいいところだろう。次のメルスはS席で9000円。文化村と野田地図プロデューサーの北村氏がこのままの路線で突き進むなら、野田秀樹の演劇を支持する層は激変するに違いない。楽日でも最前列を含め、あちらこちらに空席があったのがせめてもの救い。特に北村氏には考え方を改めて欲しいと強く思うのである。芝居は、儲けることももちろん必要だが、見てもらってなんぼのものである。ロンドンバージョン、タイバージョンの赤字を日本バージョンで埋め合わせるつもりなのか、日本バージョンでは席を追加した様子。テレビのCMなども慌てて流しているようだが、観客不在の最近の北村氏の姿勢は、ファン不在のプロ野球にダブる。このままでは観客はもちろんだが、舞台に立っている役者も可哀想だ。

余談だが、客の荷物を投げていたけどあれは仕込みかなぁ。もし僕の荷物を投げていたら大変なことになっていた。パソコン、書籍数冊、水泳の道具、その他もろもろで重さは10キロ近かったから(^^;(って書いておいたんだけど、そのあとネットをふらふらしていたら仕込みであったことがこちらで判明)

☆2つ半。今日まで(つまり、もうおしまい(^^;)

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「赤鬼」タイバージョンを観てきました。 「いやぁー、よかったぁー!」というのが最
「赤鬼」タイバージョン【りゃまのお芝居レビュー】at 2004年09月23日 16:05
この記事へのコメント
早速のコメントありがとうございます!
 さて、集団劇のスタイルと少人数でかなりの数の配役をこなすタスタイルの比較でいえば、野田秀樹の良さは、後者であるでしょう。「タブー」とか「農業少女」とか。タイバージョンでも、それらは随所に生かされていて、その「変形」(メタフォルモーゼとかいうのかな、間違っていたらごめんなさい)のしかたがとてもすばらしかったと思います。
 但し、最近は、商業演劇的芝居にに傾斜する傾向が強く、初期のころの「夢の遊眠社」的コンセプトをあえて脱却しようと、野田自身がイギリス体験を経過した中で、かえって悪戦苦闘している感じがします。その結果、客を呼べる、いわゆる有名タレントの多用になってしまっているのではないでしょうか。
 そのギャップが最近の主張の強い芝居となっているのではないか。結果として、野田の脚本の中に、現代的課題・原爆とか天皇とか国家とか対する強烈なメッセージ性をかもしだしているのかもしれませんね。演じている役者が理解しているかどうかは、ホント、分かりませんよ。
 そうはいっても、おやじとしては、天才・野田の芝居を観たいがために、また懲りずに「走れメルス」を観に行きます。
 昨日(最終日)は、舞台側の3列目中央で観ていてました。またどこかでお会いするかも知れませんね。
Posted by おやじ at 2004年09月23日 14:26
僕が思うには、帰国後の野田氏は観客の期待にこたえるための公演と自分のやりたい公演を明確に区別していて、前者は野田地図、後者は番外公演という形をとっていたと思います。ところが、最近それに加えて劇場プロデュース公演が増えてきています。新国立劇場、Bunkamuraがそれですが、これらの公演は必ずしも成功しているとは思えません。劇場プロデュースは当然ながら劇場の利益が絡むので、観客側から見ると「なんだかなぁ」というケースが多い。

個人的には、遊眠社解散後の野田は、地図公演のキル、番外の赤鬼、農業少女と、傑作を送り出しているとは思うのですが、折角「遊眠社」という枠を自ら外したのに、今度は「商業」という枠をはめられてしまっていると思います。

走れメルスも観には行きますが、あれも2ヶ月というロングランで合計65公演。それでS席が9000円。これはBunkamuraでやるといっても地図公演です。地図公演も商業化してしまうということなのかな、と感じています。まぁ、「野田秀樹」という才能を利用してお金儲けをしたい人がいて、「野田秀樹」ならなんでも面白いと思う人がいるのであれば、それが成立してしまうわけで、仕方ないかな、と。少なくとも透明人間の蒸気とか、赤鬼ロンドンとかはとてもチケット代に見合うようなものではなかったと思うのですけどね。野田なら何でもオッケーという人達の存在が野田の魅力を失わせてしまうことになるのではと危惧しています。
Posted by buu* at 2004年09月23日 15:39