2015年04月21日

ブログでバイオ 「科学的知識がないとコロッと騙される!新・三大インチキ健康食品」

まず有権者に訴えたいことは、健康食品のほとんどは、効かないから健康食品なのであって、もし本当に効果があるなら、薬として販売されているということなのです。効果のある成分が単離されているにも関わらず、それが薬品として販売されていないということは、すなわち、効果が認められないということにほかならないのであります。

(1)コラーゲン
こんなもの、食べてもなんの役にも立たない。というか、普通に食事していれば嫌でも口に入ってくるもので、むしろ食べないでいることの方が難しいくらいにありふれたタンパク質である。「コラーゲンが豊富」と言っているのは「塩分が豊富」とか、「水分が豊富」とアピールしているのと何ら変わりがないと書けば、馬鹿さ具合がわかっていただけるだろうか?料理評論家や飲食店がコラーゲンに言及していたら、馬鹿か無知か悪意があるかのどれかで、どれにしても三流の証拠である。詳細は拙著「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ」参照のこと。


(2)ウコン
良く二日酔い対策として使用されるウコンだが、ウコンの有効性が確認されているのは消化不良に対する効果のみ*1で、二日酔いの予防や改善に関する科学的根拠は皆無である。二日酔いの防止・対応方法は1.空腹時の飲酒を避ける、2.飲酒前だけでなく、食べながら飲む、3.飲み過ぎない、4.二日酔いになったらスポーツドリンクで水分を補給する、の4つで、空腹を避けたり、水分を補給するといった二次的(空腹ではない状態にする)、三次的目的(ウコンを飲むのに水を使う)でウコンを服用することはあり得るものの、わざわざウコンを摂取する積極的根拠は見当たらない。それが証拠に、みなさんが二日酔いで病院に行っても、ブドウ糖、あるいはそれにミネラルやビタミンを配合した点滴をして、水分を補給、代謝を促進してくれるだけ。間違っても、ウコンを処方されることはない。

(3)コンドロイチン
コンドロイチン硫酸は軟骨のクッション性に重要な役割を果たしている物質で、関節痛に効果があると誤解することを期待したインチキコマーシャルが散見される。しかし、コンドロイチンを経口摂取しても何の効果も見込めない。なぜなら、関節軟骨には血管が存在しないため、消化管から吸収されたコンドロイチンが関節内に移行できないからである。また、変形性関節症に対するコンドロイチン硫酸の効果についてのランダム化比較試験の報告はポジティブ・ネガティブ両方が存在し*2,*3,*4、結論は出ていない。

*1 Randomized double blind study of Curcuma domestica Val. for dyspepsia.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/2699615?dopt=Abstract

*2 Long-term effects of chondroitins 4 and 6 sulfate on knee osteoarthritis: the study on osteoarthritis progression prevention, a two-year, randomized, double-blind, placebo-controlled trial.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19180484?dopt=Abstract

*3 Effect of a dietary supplement containing glucosamine hydrochloride, chondroitin sulfate and quercetin glycosides on symptomatic knee osteoarthritis: a randomized, double-blind, placebo-controlled study.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21969261?dopt=Abstract

*4 Glucosamine, chondroitin sulfate, and the two in combination for painful knee osteoarthritis.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16495392?dopt=Abstract


おまけ 微妙な健康食品 グルコサミン
動物の皮膚や軟骨、カニやエビの甲羅に含まれる。経口摂取の場合、効果はポジティブ、ネガティブ、両方の論文が存在し、効果についての結論は出ていない。  

2013年10月23日

ブログでバイオ 第82回 「科学の価値は?」

70点の原稿を書くのと、70点の原稿を90点にするのと、90点を95点にするのには同じくらいの労力を要する。95点を100点にするのはほぼ絶望的な作業になる。頑張って97、8点になったぐらいで、「もうこの辺だろ」と思って出版してしまうが、なぜか本になってみるとまた「こうすれば良かった」などという点を見つけてしまう。しかし、その改善点を出版前に見つけることはとても難しい。なぜなら、その作業が本質的につまらないからだ。本を書く際、一番楽しいのは最初の70点の原稿を書くときである。

これは、本の執筆に留まらず、色々な創作活動について言えることだと思う。そして、科学技術の研究についても同じことが言えると思う。分子生物学が物凄くエキサイティングだったのは、恐らくワトソン・クリックの時代から、PCR法が開発された頃だったと思う。また、数学や物理学はそれよりもかなり早い時期に頂点を迎えていたと思う。分子生物学が大きく遅れてしまった理由は、対象が顕微鏡でも確認できないほど微小だったからだろう。

#DNAの構造を目で見ることができるようになって、分子生物学はようやくビッグバンを迎えたんだと思う。

しかし、そうやって遅れてきた分子生物学も、もうすでに70点の原稿書きの時代は終了してしまった。僕がそう感じたのは1990年頃で、研究者達がシーラカンスのゲノム配列を嬉々として調べ始めた時代である。それは、主要な動植物のDNA配列が決定され、だんだんとやることがなくなってきて、日本固有のサクラマスとか、線虫といった珍しい動物のDNA配列を調べて論文化し始めた時代で、高いお金をかけて捕まえてきたシーラカンスを対象としたあたりで行き着くところまで行き着いたと感じた。

もうちょっとターゲットを絞って、医薬品について俯瞰してみる。比較的早い時代から開発されていた低分子医薬品の割合は、ここ10年ほど、低下し続けている。2005年に84.4%だった低分子医薬品比率は、2011年に66.0%まで低下している。しかし、低分子医薬の売り上げが低下したわけではない。低分子医薬品の売上高は、むしろ増加している(2005年:13220800万ドル、2011年:15196100万ドル)。バイオ医薬品の売り上げが、それを上回るスピードで伸びているだけなのである(2005年:2452600万ドル、2011年:7830100万ドル)。世界で売れている医薬品は高脂血症薬、抗血栓症薬、リウマチ薬などで、普段僕たちが使うような薬ではない。そういう薬が不要だとはもちろん言わないが、僕たちがありがたいと思うのはロキソプロフェン(1986年発売)だったり、ジクロフェナク(1974年発売)だったり、アセチルサリチル酸(1897年開発)だったりする。こういう、ほとんどの人の生活の質を向上させるような薬は、もうあらかた開発されていて、研究の対象はニッチに向かっている。
(以上、数値データは厚生労働省「医薬品産業ビジョン2013資料編」http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/shinkou/dl/vision_2013b.pdfより)

今、ほとんどの人は「新しい薬剤を開発し続けるために、科学技術の推進が必要である」という主張に対して、そのとおりだと思うだろう。しかし、本当に必要なのだろうか。ましてや、そこに税金を投入していく必要はあるのだろうか。今、アステラスや武田が新薬を開発する必要に迫られている理由は、単に「既存社員の食い扶持を確保するため」である。

僕が学生だった頃から、がんをテーマにしている研究室はお金が潤沢で、最新の実験機材を購入できた。当時だと堅田研(現在東京大学大学院薬学系研究科生理科学教室教授の堅田利明さん、ちなみに同教室准教授の紺谷君は大学時代の同級生)などは、使っている機材がどれもこれも最新で、僕たちが洗って使っていたピペットマンのチップなどもディスポでどんどん捨てていた。別にそれが悪いことだとは言わないし、きちんと予算を取ってくることができる堅田さんが有能だというだけのことなのだが、当時も今も、がんをテーマにしていると研究費が大きくなる傾向は強いと思う。研究費が潤沢なら、論文もたくさん出すことができる。ただ、論文と、新薬の間には大きな溝があって、論文がたくさん出たからといって、画期的な薬が開発されるとは限らない。

では、そういった創薬に向けた研究が全部無駄なのか、といえば、決してそうではない。例えば僕の親戚は乳がんから胸膜播種に至り、抗癌剤治療も効かず、余命いくばくもないと診断されたことがある。ところが、そのあとに服用したホルモン剤が大きな効果をあげて、今ではがんが完全に消えてしまい、普通に生活している。彼女を救ったのは、間違いなく先端技術による新薬(ファイザーのアロマシン、2002年発売)である。がんの研究がなければ、今頃彼女はお墓で眠っていたはずだ。

問題は、費用対効果である。日本の場合、がん研究費はここ5年ほど、約400億円にのぼる。
#ちなみに、米国NIHの研究費は約8000億円程度である。

お金を投入すれば論文が増えるのは至極当たり前の話だが、がんに関して基礎研究論文数と臨床研究論文数を調べてみると、日本は基礎研究論文数で世界3位にも関わらず、臨床研究論文数では18位と、ほとんどの主要な先進国に負けている。
(以上、がん研究に関する数値データはライフサイエンス委員会がん研究戦略作業部会「がん研究の現状と今後のあり方について」http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n683_00.pdfより)

日本がおかれている状況を数字だけから分析すれば、

1.臨床に至らない、レベルの低い研究にお金をかけている
2.米国など、他国に基礎研究の成果を供与している

のふたつぐらいしか可能性が考えられない。良く役人は「基礎はあるのだが、それを臨床につなげる仕組みがない」というけれど、そんなことは多分ない。基礎研究の成果は論文化されるし、研究者自身も売り込みをかけるはずで、ちゃんとした成果なら、そうそう埋もれたままになど、なるものではない。新薬が欲しい大手製薬会社は、何かめぼしいものがないかと、目を皿にしてシーズを探している。また、もし埋もれてしまったとしても、今はそれを再評価する会社も現れてきている。創薬に限るなら、今の日本の研究は論文のための研究だったり、せいぜい論文になるぐらいしか成果が期待できない研究だったりする可能性が高い。

もちろん、そうした、大した成果もあげることができない日本の研究の中でも、時々iPSのようなびっくりするような成果があがることもある。しかし、じゃぁ次のiPSはいつ出てくるのか、といえば、10年後か、50年後か、下手をしたら、もう二度と出ないかも知れない。

しかし、もし成果が出なかったとして、誰が困るのだろう???

前述の、ファイザーのアロマシンも、あるいはアスピリンでも、ロキソニンでも、ボルタレンでも、どれもこれも日本オリジナルの薬ではない。でも、僕たちは普通にそれを使うことができる。自国で開発されていなくても、全然困っていないのだ。

さて、ここで全然話は変わるのだが、先日、僕の実家の近所で、踏切事故があった。一昨日も、家の近所の駅で人身事故があって、長い時間、ダイヤが乱れていた。こうした事故は、踏切に監視員を配置したり、駅のホームに柵(ホームドア)を作ったりするだけで、かなり減らすことができると思う。踏切に人を配置するのは、時間あたり2,000円の費用として、18時間営業なら三交代36,000円/日である。一ヶ月で約100万円、年間約1300万円だ。ホームドアの場合、設置費用は約3億円/駅とのことなので、がんの研究費を全部廃止すれば、全国の2000の踏切を有人監視にして、50駅にホームドアを設置できる。踏切は毎年固定費になるが、ホームドアは毎年50駅ずつ設置していける計算だ。

実際には、「がんの研究費を全部やめちゃいましょう」という提案の実現性はゼロに近い。なぜなら、がんの研究でメシを食っている研究者達が悲鳴をあげるからだ。悲鳴をあげるのは、がん患者ではない。なぜなら、もうがんになっている人たちが、この手の基礎研究の成果の恩恵に預かることができる可能性は、ほとんどゼロだからだ(あくまでも、時間的に、である)。僕たち生活者は、これまで当然のように投入されてきたがん関係の研究費が、実生活にはほとんど役に立っていないことをきちんと認識すべきである。一方で、もっと直接的に役に立つお金の使い方があるのだ。

何十億年後に、宇宙が膨張するのか、あるいは膨張をやめるのか、そんなことは知ったことではない。重力が何に起因するのかがわかったところで、メタボと診断された体が軽くなるわけではない。「ゲノムを解析すれば、優秀なヒトをデザインできる」としても、それを許してもらえるのか。

そんなことよりも、僕たちは、今日の晩ご飯のおかずが何なのかとかの方に興味があるし、約束の時間にちゃんと到着できるように、電車が人身事故で止まらないことの方がずっと大事なのである。僕たちが跡形も無い数十億年後のことよりも、笑っていいともの後番組が何になるのかとか、ごちそうさんのめ以子と西門さんがどうなるのかとかの方がずっと気になる。

科学なんか、全然大事じゃない。

ただ、昔から、科学に価値がなかったわけではない。昔は、科学には大きな価値があった。科学のおかげで、自動車は速くなり、テレビは高細密になり、誰でも携帯を持つことができ、食べ物を低温貯蔵できるようになり、いつも清潔でいい匂いのする衣服を身にまとうことができ、大きな地震が来てもそうそう建物の下敷きになることもない。しかし、もうそろそろ、十分なんじゃないだろうか?もっと速い自動車に乗りたいのか?もっと大きなテレビでくだらないバラエティを観たいのか?もっと高機能な携帯電話を使いたいのか?栄養満点なミドリムシを食べて生きていきたいのか?

これから先、科学によって生活が大きく変わる可能性があるんだろうか?あるいは、大きく変わって欲しいんだろうか?もうそろそろ、科学は行き着くところに行き着いたんじゃないだろうか。今いるのは90点の世界かも知れないけれど、それを95点にするためには、凄く大きなコストを支払わなければならない時にきているような気がする。

科学の価値は一定ではない。多くの人々は、その価値が不変だと思ってはいないだろうか?しかし、そんなことはない。科学は生活を豊かにする手段である。その価値が過去において高かったとしても、今も高いとは限らない。そして、その価値が大きく下がっていく局面に、僕たちはそろそろさしかかっているんじゃないだろうか?  

2013年07月11日

ブログでバイオ 第81回「適切な科学報道に必要なもの」

バイオに限定した話ではないのだけれど、ブログでバイオ枠で書きます。

すげぇ昔のものなんだけど、こんなまとめを発見した。

科学報道を殺さないために−研究機関へお願い
http://togetter.com/li/391591

Twitterというフロー文化圏の話なのでもう解決しているかも知れないし、そもそも議論にもならなかったのかも知れないけれど、念のため(今更だが)、理研の横浜研究所の広報担当、その後に理研和光本所広報室にいた僕が簡単に意見を書いておく。




「科学報道は死にます」という意見には、即座には、同意できない。大学や研究機関の広報室の機能がきちんとしていれば、科学報道が死ぬことはない。僕は東工大で分子生物学の修士を修了して三菱総研に入社、バイオの専門家として理研に出向し、ゲノムセンター(後の横浜研究所)の立ち上げを手伝い、理研のバイオ研究全般の広報を担当していたけれど、研究者と報道関係者のパイプ役はきちんと務めたし、その時の活動の一部は拙著「親と子のゲノム教室」という書籍にまとめた。何が言いたいかといえば、きちんとしたパイプ役が存在すれば、広報室は窓口として機能するということだ。ただ、僕がバイオ以外のこともきちんとフォローできていたかといえばさにあらず。僕はスーパーマンではないので、わかるのはバイオ領域のみだった。分野ごとに人材は確保しておく必要があるだろうし、じゃぁ当時の理研広報室にバイオ以外の分野の広報専門家がいたかとなると、それはちょっと疑問である。つまり、「科学報道は死にます」という言葉は、現状の各大学・研究機関の広報体制を前提とするなら、正しいのかも知れない。




これをやっていれば、ライターは育つかも知れない。でも、研究者の仕事はライターの育成ではない。一方で、研究者たちは研究費の確保に四苦八苦していて、そのためには自分の研究の有用性をきちんとアピールする必要があることを、自分で研究費を確保するレベルの研究者(理研なら主任研究員クラス)なら理解している。これがポスドクレベルになってくるとわかっていない人もいるようだけど、良いライターに、研究内容について魅力的に書いてもらうことは、研究者にとっては間違いなく有用だ。良いライターは、研究者にとっては間違いなく武器なのである。良い流れは、研究がライターを育てライターが研究を後押しするような「共存関係」なのだが、その仕組みを後押しするだけの余裕が日本の社会にはない。例えば一昨年僕が出した「遺伝子組み換え食品との付き合いかた」という本はサイエンスライターとしての立ち位置から出した本だが、同時期に出した「総統閣下はお怒りです」というサイエンスコミュニケーターとしての立ち位置から出した本に比較して、大分売れ行きが悪い。日本の生活者たちは、まだ科学にそれほど期待していないというのが僕の実感である。そして、生活者の理解こそが科学の推進力だし、それがあれば研究者とライターの良好な関係も構築されていく。残念ながら、今の日本にはサッカーや野球を楽しむ余裕はあっても、科学を楽しむ余裕はないというのが僕の認識だ。その中で、どうしたら良いのかを考えなくてはならない。




これは、広報室の機能が不十分だから。きちんと機能していれば、発表からだってわかるはず。




そもそも、研究の妥当性を検証するのは広報室の役割ではない。あと、繰り返しだけど、記者を鍛えるのは研究者の役割ではない。例えば僕は研究者から鍛えられた覚えは全くない。なぜなら、僕は三菱総研時代、全部一人で情報収集し、それをまとめていたからだ(まとめは三菱総研の所報に「研究ノート」として発表したりしたけれど、今では多分見ることができない)。研究者にアクセスしたことは、大学時代の研究室周辺を除けば、一度もなかった。




気持ちはわかるけど、これは違うでしょう。ただ、一流のライターが、個人的なつながりを形成していくのは勝手。バイオ領域で言えば、例えば宮田満さんはそこそこのレベルまでこれができると思うし、僕だってある領域については可能だったりする。パイプを持っていることは、すなわちライターとしての能力に他ならないわけで、表向き「広報室を通してください」というのは当たり前だし、一方で個人的なつながりがあるなら、「こっそり教えてよ」とダイレクトにアクセスするのも勝手。研究者サイドから、「ちょっと、これを書いてくれない?」とオーダーが来たりもするわけで、要はライターの能力次第である。能力が不十分で、研究者へのパイプが何もないなら、それは広報室を通すのが当たり前。




それを何度も、ライターごとにやらされたら、研究者はたまりませんよねぇ。




議論は学会でやれば良いのでは?




全然関係ないけれど、「やらずぼったくり」としないところは好感。




応じるのは面倒くさいなぁ、という意見が研究者サイドから出てきたから、取材を一元管理せよ、という話が出てきているんだと思う。僕が理研にいたときも「研究室に直接問い合わせが来ると迷惑」という話は良くあったから。

大学や研究機関で、きちんと科学がわかる広報担当者を雇えば良いだけのことだと思うんだよね。ポスドクが余って仕方がないというのなら、広報をやる人材ぐらいはいるんじゃないのかなぁ。もちろん、誰でもできる仕事ではないけれど。

って、僕はこういうことをやりたいと思って理研の理事に立候補して書類審査で落ちたことがあるんだけどね(笑)

参考:ブログでバイオ 第69回「理研の理事の公募に応募したら、書類選考で落ちた」
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/50996943.html

僕は、「研究者と接する機会を奪わないで」とお願いするんじゃなくて、「一元化するなら、ちゃんとした窓口を作ってください」ってお願いするのが筋だと思う。

こちらもよろしくお願い致します。
    

2013年07月05日

ブログでバイオ 第80回「効果効能とイメージの分業」

最近、知人の間でまことしやかに「膝痛に効く」と言われている商品がDHCの「らくらく」という奴である。パッケージにはグルコサミン+コンドロイチン+況織灰蕁璽殴鵑箸任く書いてある。そして、それよりもかなり小さい文字でCBP、MSM(メチルスルフォニルメタン)、コラーゲンペプチド、ヒドロキシチロソールが配合成分として列挙してある。

さて、裏返して「栄養成分」を調べてみると、グルコサミン塩酸塩、メチルスルフォニルメタン、コンドロイチン硫酸、況織灰蕁璽殴鵝▲灰蕁璽殴鵐撻廛船鼻▲リーブエキス末(ヒドロキシチロソール20%)、CBP(濃縮乳清活性たんぱく)と書かれている。それぞれ、経口摂取した際の膝痛への効果についてまとめると、

グルコサミン:分子量179.17、塩酸グルコサミンは経口摂取で骨関節炎に対する有効性が示唆されている

メチルスルフォニルメタン:分子量94.13、ヒトに対する有効性については信頼できる十分なデータが見当たらない。

コンドロイチン硫酸:分子量2〜5万、点眼での白内障の術後処置としておそらく有効と思われているが、経口摂取による有効性については信頼できる十分なデータが見当たらない。

況織灰蕁璽殴鵝分子量10万程度、経口摂取による有効性については信頼できる十分なデータが見当たらない。

コラーゲンペプチド:コラーゲンの分解物で、有効性については況織灰蕁璽殴鵑汎韻検

ヒドロキシチロソール:分子量154.165、経口摂取による有効性についてはデータが見当たらない。

CBP:牛乳の乳清を濃縮したもので、経口摂取による有効性についてはデータが見当たらない。

といった感じである(ヒドロキシチロソール、CBP以外については(独)国立健康・栄養研究所の「「健康食品」の安全性・有効性情報」より抜粋。ヒドロキシチロソール、CBPについては同サイトにデータが見当たらない)。

さて、この中で、常識的に言って効果がある可能性があるものは、グルコサミンのみ、可能性は低いものの、完全に否定できないものはメチルスルフォニルメタンとヒドロキシチロソールで、他の物質はほとんど効く可能性がない。では、なぜコンドロイチンやコラーゲンが配合されているのかといえば、イメージを良くするためである。「あーーー、コラーゲンが入ってるんだー。なんか、効きそうだねー」という感情を喚起するのが目的である。

こうした、効果効能パートとイメージパートの分業というのは比較的良くある手段だが、本来効果効能パート部分だけで売れば良いものを、なぜイメージパートを追加するのかというと、商品の価格をアップさせるためとか、他社製品との差別化が目的だ。

たとえば、ロキソプロフェンという、非常に一般的に利用され、しかもきちんと効果のある鎮痛医薬品がある。これは黙っていても間違いなく効果がある薬品だが、ミドリムシの抽出成分と配合し、「『ユーイタクナイナ』(ユーグレナ抽出物、ロキソプロフェン配合、医薬品)」などとして商品化すると、新しい薬効成分が開発されたかのように感じるわけだ。ミドリムシの抽出成分は鎮痛作用とは全く関係ないのだが、ロキソプロフェンが配合されているので、きちんと鎮痛効果がある。これを買って飲んだ人は、「ミドリムシって、効くなー」と勘違いするわけである。そして、ただのロキソニン錠よりも高い価格で売れてしまったりする。

このロキソプロフェンの事例はあくまでも仮想事例だが、「らくらく」がやっていることはこれとあまり変わりがない。

別に嘘をついているわけではないし、何の問題があるわけでもないのだが、ミドリムシが歯痛に効くと勘違いされるのは困るのと同じく、コラーゲンが膝痛に効くと勘違いされても困る。ミドリムシは所詮鞭毛虫に過ぎずそんなものを食べて嬉しい人は勝手に食べれば良いし、コラーゲンは単なるたんぱく質なのでそんなものを飲んで嬉しい人は勝手に飲めば良いのだが、消費者はきちんと知識だけは持っておく必要がある。

#「らくらく」が効かないと言っているわけではないですよ。効くという人が数名いたので、面白いなー、と思って調べてみたわけです。

#現在「小学校高学年からの食育」という本を執筆中である。健康食品の規制が緩和される方向のようなので、効きもしない食品で騙されないように、最低限の知識だけはもっておいてもらおう、というのが本書執筆の狙いである。

  

2013年06月14日

ブログでバイオ 第79回 遺伝子の特許性に関して

サッカーのスカウトがいたとする。彼の仕事は、将来性のありそうな子供を見つけてきて、プロサッカーチームの下部組織に紹介することだ。彼は紹介料としてサッカーチームから報酬をもらう。その選手が大成して日本代表などになれば、別途ボーナスが支給される。

サッカーの才能がある選手はそのスカウトが作り上げたのではない。ただそこに存在しているだけだ。スカウトには何の権利も存在しないけれど、プロでも通用する選手を見つけ出した場合、契約によって報酬を得るスキームが確立されている。スカウトという職業が成立しているおかげで、サッカーが得意な子供はサッカーの強豪校やユースチームに入ることができるし、努力と才能次第では日の丸をつけてワールドカップで活躍するかも知れない。

さて、昨日、米国の最高裁が、「遺伝子は特許の対象にならない」という判断を出した。

米最高裁 遺伝子の特許認めず
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130614/k10015293151000.html

上に書いたサッカーの例で言うなら、「遺伝子」とは子供で、その中で有用な遺伝子は、サッカーが得意な子供に該当する。有用な遺伝子はそこにあって、誰でも見つけることができる。一度論文化されてしまえば、その遺伝子が有用だということも公知になってしまう。こうなると、その遺伝子をマーカー(目印)とした商売に、誰もが参入できるようになる。「この遺伝子を持っていると、40歳までにがんになる可能性が80%です」といった診断を誰もが簡単に下せるようになる。そこに知的財産性を認めないとなると、「この遺伝子はがんのマーカーとして利用できる」という事実を発見した研究者には、何の報酬も支払われないことになる。となれば、普通に考えれば疾病遺伝子を発見するモチベーションが低下してしまう。

疾病遺伝子の発見には、

1.遺伝子はそこに最初から存在している
2.ある遺伝子が特定の疾病に関与していることをみつけるには、相応の投資が必要である
3.その遺伝子の有無を調べることはそれほど難しくない


という3つの特性がある。したがって、後発部隊が容易に市場に参入できる。発見者の権利が担保されないのであれば、発見者に対して相応の支払いが為されない可能性が高い。では、発見者たちはどうしたら良いのか。自らに支払われるべき報酬を確保するための手段はないのか。

そんなことはない。その遺伝子がどんな病気のマーカーとなるのか、誰にも言わなければ良いのである。外から見れば、「理屈はわからないけれど、あの会社はがんの発症リスクが高いクラスターをスクリーニング(抽出)する技術を持っている」ということになる。発見した遺伝子の情報は特定企業内だけで保有され、外部には漏れないことになる。こうなった時、誰が得をして、誰が損をするのか。得をするのはもちろん発見者と、その契約企業である。損をするのは、その他の全ての人々である。情報が共有されないため、市場競争が失われる。技術開発も推進されない。結果として、大勢の人間が損をする。

このニュースでは、「連邦最高裁判所の判断は、これまでユタ州の企業が独占してきた乳がんの遺伝子検査の料金を下げることにつながり、乳がんの遺伝子を持つ可能性のある患者にとって、大きな意味がある」というコメントを紹介しているが、『大きな意味がある』のは「すでに公表されているデータに関するもの」だけで、「これから発表されるはずだったデータに関するもの」は、そのほとんどが失われてしまうかも知れない。利益を独占してきた企業は当然のことながら先行投資をしているわけで、その投資が回収できなくなるのなら、今後は一切の情報を発信しなくなるだろう。公表したところで、メリットは何もないのだから。

では、今回の米国最高裁の判断が不当だったのか、となるのだが、最高裁の判断はおそらく「現行法に照らせば、こういう判断になる」という性格のものだったんだと思う。正直、米国の裁判制度は良く知らないのだが、裁判所の仕事が「法律に照らして判断する」という作業なのは、日本も米国もほぼ同じだと推測する。もしそうであれば、米国の裁判所が出した判断は妥当なものだろう。妥当でないのは、法律の方である。

「遺伝子」は、玉石混交の子供たちのようなものだ。その中からサッカーが得意な子供を選び出す目利き能力は、誰もが持ち合わせているわけではない。しかし、もしその目利き客観的データによって実施できるようになったらどうなのか。身長、体重、足のサイズ、100メートル走と1500メートル走のタイム、両親の運動歴、兄弟の運動能力・・・といった様々なデータを入力することによって、機械的に有望選手を絞り込むことはできるはずだ。そのやり方を公表するだろうか。もちろんしない。誰かに真似されたら、自分の知識が失われ、競争力が損なわれるからだ。特許などの知的財産としてではなく、個人的なノウハウとして利用されていくだろう。

今のままでは、疾病に関する遺伝子の情報も、同じような位置づけになってしまう可能性が高い。特許性がない、ということには反対しないのだが、発見者に何らかの利益がまわるような仕組みを考えないと、世界中のみんなが損をすることになりかねない。「保険に加入していない女性でも検査を受け、命が助かるようになるだろう」という意見はあまりにも近視眼的である。

もともとそこにあるのだから、マーカーさえわかってしまえばそれを見つけ出すのは簡単だから、といって、マーカーを見つけ出す手法を確立した人間のメリットを奪ってしまうのは文明的ではない。特許とは異なる方法で、発見者に対して報酬が支払われる必要がある。

(20130615 一部加筆修正)  
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2012年10月17日

ブログでバイオ 第78回 小学生から「食育」として教えておくべきこと(メモ書き、随時加筆・修正)

教育とは、普通の暮らしをしていくために最低限必要な知識や考え方を与えることのはず。ところが、「食」に関する教育は水準が低く、大人でも間違った知識で判断していることが多い。

先日、電化製品について「イオン発生」に関するマーケティング手法の問題性について指摘されたが、食周りのマーケティングはもっと酷い状況と言える。これは、生活者の知識水準が低いことに起因していると考えられる。効きもしない健康食品に人が集まり、きちんと作られた食品が売れないのでは、マーケットは正常化しない。正直者が馬鹿をみないようにするためにも、小学生からの「食育」が必要だろう。

今回は、小学生から教えておきたい「食」に関する情報をメモ書きとしてまとめておく。

なお、本メモ書きの作成にあたっては、「ほんとうの「食の安全」を考える」(畝山智香子、化学同人)、「科学的とはどういう意味か」(森博嗣、幻冬舎新書)を参考にした。

1.コラーゲンを食べても肌はプリプリにならない
◯コラーゲンはタンパク質である
◯コラーゲンは体のどこにあるのか>非常に一般的な、ありふれたタンパク質である
◯タンパク質とアミノ酸
◯タンパク質の吸収>タンパク質は巨大分子で、そのままでは吸収されない
◯タンパク質の合成>タンパク質合成の仕組み
◯遺伝子>遺伝子とは何か
◯必須アミノ酸>必須アミノ酸を摂らなくてはならない理由
◯バランスの良い食事>なぜバランスが大切なのか
◯不適切なマーケティング>生活者の無知につけこんだ「コラーゲン」商法と関連事例(ウコン、ブルーベリー等)

課題:身の回りの不適切なマーケティング事例を調べてみよう


2.身の回りの危険な食べ物
◯醤油は飲み過ぎると死ぬ
◯塩分は必要だが、摂り過ぎは危険>適量でなければ毒になる
◯玉ねぎはウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギ、ネコ、イヌにとって毒>生物種によって感受性が異なる
◯ジャガイモにはソラニンやチャコニンという毒が含まれている>普段食べているものにも毒が含まれている
◯残留農薬の基準を当てはめると、ジャガイモは毒物となって販売できなくなる>農薬の基準はどの程度厳格か
◯食習慣をもとにした判断>ジャガイモはなぜ普通に販売できるのか
◯サプリも毒になることがある>ビタミンA、鉄
◯天然物と人工物>天然だから安全、人工だから危険ではない

課題:冷蔵庫の中の食べ物の致死量を調べてみよう


3.農薬と無農薬
◯農薬の種類>農薬の考え方、どんなリスクと化学物質(主に)とをトレードオフしているのか
◯農薬の規制
◯農薬の安全性
◯無農薬野菜の害虫>無農薬野菜に付着する害虫たち
◯農薬の利用状況と平均寿命>世界における日本の平均寿命
◯相関関係と因果関係>相関関係と因果関係の違い

課題:農薬と害虫、どちらが嫌か、議論してみよう


4.食品添加物
◯食品添加物の種類>主要な食品添加物
◯食品添加物の規制
◯カビの危険性>カビ毒の危険性について
◯食品添加物とカビ毒の比較>リスクを比較すること
◯食品添加物の利用状況と平均寿命>3.と同じ
◯相関関係と因果関係2>3.と同じ

課題:いつも食べているお菓子に含まれている添加物を調べてみよう


5.遺伝子組換え
◯農薬が届きにくいトウモロコシ
◯イモムシに食べられてしまうトウモロコシ
◯遺伝子とは、タンパク質とは>1.と連携
◯ヒトでは毒にならないタンパク質>2.と連携
◯アレルギーの危険性>「食べたことがない食べ物」と「遺伝子組換え食品」のアレルギーリスク
◯生態系への影響>自然界ではほぼ雑草化できない農作物
◯タンパク質と核酸の消化>1.と連携
◯遺伝子組換え食品の種類
◯遺伝子組換え食品の規制

課題:身の回りの食品にどのくらい遺伝子組換え食品が含まれているか、調べてみよう


6.バランスの良い食生活
◯必要な栄養素>1.と連携
◯サプリメントとは>普通に暮らしていれば、ほとんど不要なサプリメント
◯トクホとは
◯トクホの存在意義>なぜほとんど効かないトクホを国が認めるのか(医療費を削減したい財務省、天下り先を作りたい厚労省)
◯アレルギーと食生活>食べることができなくて崩れる食のバランス
◯日本の食糧事情・栄養事情
◯「主食」とは>主食とは偏食である
◯バランスの良い献立作り>どういう食事が「バランスが良い」のか

課題:昨日の夜ご飯のバランスを検証してみよう


7.食事による健康リスク
◯食べ過ぎ>肥満
◯偏った食事
◯アルコール>アルコール中毒、がん
◯脂肪酸の摂り過ぎ
◯カンピロバクター
◯アレルギー
◯アクリルアミド
◯病原性大腸菌>なぜ「ユッケ」や「レバ刺し」が禁止されたのか
◯BSE>プリオン説と、「わかっていること」「わかっていないこと」
◯放射性物質による体内被曝>低線量被曝に関する「わかっていること」「わかっていないこと」

課題:米国産牛肉、茨城県産きのこ、豚のレバ刺しのリスクについて議論してみよう


8.科学と感情
◯科学的であるということ>科学的とはどういうことか
◯塩酸と水酸化ナトリウムから作られる食塩水>科学的に作られた食品の例
◯科学と感情
◯正確な科学的知識と、感情をもとにした選択>生活の中で、知識を活用して選択していくことの必要性

課題:科学と感情のどちらを優先するのか、アンケートをとってみよう


    

2011年10月17日

ブログでバイオ 第77回 来月発売!「遺伝子組み換え食品との付き合い方」

第76回で簡単に告知しましたが、「遺伝子組み換え食品との付き合い方」の発売が決定しました。11月中旬になります。もろもろ、正式に決まり次第、また告知させて頂きます。内容は

◯科学的に考えることの意味
◯GMOの種類と現状
◯GMOのメリット、デメリット
◯GMOとの共存

といったものになっています。GMOを推進する、GMOに反対する、どちらの立場も取らず、GMOを推進する理由は何か、GMOに反対する理由は何か、推進・反対のスタンスを決めるときに何を考えたら良いか(科学的であることは常に正義なのか、といった問題提起を含む)、といった内容になります。

単に「GMOを食べたいですか?食べたくないですか?」と聞くのでもなく、嫌ならどうしたら良いのか(ただし、本当に嫌なら、食用油とか、ジュースとか、お菓子とか、パンとか、食べられないものがたくさんできてきます)、あるいは「GMOだから安い」製品はどこで手に入るのか、などについても突っ込んで書いてみました。

なお、この本をきっかけにして、遺伝子組み換え食品とどうやって付き合っていくのか、意見交換ができるようなフェイスブックページも作ってみました。まだ作ったばかりで誰もいませんが、お気軽にご参加ください。

  

2011年09月07日

ブログでバイオ 第76回 アンチGMOにかけているくだらないコスト

先日、ちょっと興味があって「遺伝子組換え不分別」の商品をスーパーで探してみました。すると、これが全然ないんですね。以前、カロリーメイトのような、栄養補助食品のようなもので「不分別」って書いてあるのを見つけてちょっと嬉しくなったんですが、それもなくなってしまった様子。消費者圧力に負けちゃったのかな?ということで、納豆やら、コーンフレークやら、醤油やらは軒並み「遺伝子組換えでない」と記載されています。ところで、この、「遺伝子組換えでない」っていう表記、誰でもやっていいわけじゃないことはわかりますよね?もちろん、勝手にはできません。

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納豆、味噌、醤油といった製品のための日本向け農作物は、農場で栽培、収穫してから加工工場までの流通の全ての過程において、特別な管理をする必要が生じます。そして、農作物の生産者、流通業者、輸出入業者、加工業者の全てのフェイズで、きちんと管理されていることを証明する証明書が揃って初めて、「遺伝子組換えでない」と表示することが可能になります。

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ダイズの場合、日本の自給率は6%です(ちなみにトウモロコシの自給率は0%)。残りの94%を輸入しているわけですが、総量3390千トンのうち、米国から2412千トン、ブラジルから570千トン、カナダから353千トン、中国から51千トンを輸入しています。もちろん、4カ国ともにGMO大国です(世界のトップ6は米国、ブラジル、アルゼンチン、インド、カナダ、中国の順番)。米国の場合、ダイズの遺伝子組換え率は92%なので、放っておくと日本に入ってくるものはほとんど全部遺伝子組換えになるわけです。

ということで、多分、日本の皆さんは米国の農家にプレミアムなお金を払って、面倒くさい非組換えのダイズを栽培してもらって、それを輸入していることになります。そうしないと、「遺伝子組換えでない」とは表示できませんから。もちろん、そのコストはダイズ関連製品に上乗せされているはず。

ダイズの場合、遺伝子組換えはラウンドアップレディ(若い女性っぽいですが、ladyじゃなくてreadyです。ラウンドアップに備えてますよ、という意味かな?)がメインですが、これはラウンドアップという農薬に対して耐性を持つたんぱく質の遺伝子を導入してあります。ラウンドアップという農薬はレディじゃない植物を根こそぎ枯らすことができるので、非常に効果的。かつ、分解が早くて人体への影響もあまりないため、物凄い勢いで利用が増えてきています。残留農薬が少なくて、農地にも優しいんだから当たり前といえば当たり前です。ただ、気になるのはダイズに組み込まれた遺伝子や、その産物であるたんぱく質が悪さをしないのか、ということです。

ここで、身の周りに生物学で大学や大学院を出ている人間に聞いてみて欲しいのは、「特別なたんぱく質をコードした遺伝子や、そのたんぱく質を食べたらどうなるの?」ということです。おそらく、彼らの回答は「どうせ消化されちゃうから、関係ない」というもののはずです。中にはアレルギーを起こすような人もいるかも知れないけれど、そんなのは蕎麦や卵でアレルギーを起こす人がいるのと一緒です。なんといっても、もう米国じゃほぼ全員がラウンドアップのダイズやトウモロコシを食っていて、ピンピンしているわけです。日本人だけ具合が悪くなったら、それはそれでびっくりです。

にも関わらず、なぜか日本のスーパーでは、ダイズやトウモロコシ関連の商品はほとんどに「遺伝子組換えでない」と表記されているわけです。僕としては、遺伝子組換えで良いから、もうちょっと安い納豆や豆腐があったらいいのになぁ、と思うのに、そういう消費者は全く無視されて、組換え、非組換えの商品の選択の自由すらないわけです。これって、ちょっと異常だよな、と思います。

そこで、遺伝子組換え作物の本を書くことにしました。目標は年内、できれば11月ぐらいに。「あなたの身の周り、こんなに遺伝子組換わってますよ」というもの。目で見てわかる、わかりやすいところばかりを非組換えにして、わかりにくいところはぜーんぶ組換え、みたいな現状をきちんと指摘しつつ、大事なことは消費者が選択できること、そのための情報がきちんと提供されることですよ、という本にしたいです。別に遺伝子組換えを推進したいわけじゃないんだけど、今のままじゃ、得するのは米国のジャパン・プレミアムを作る農家だけなんだもの。もうちょっと、みんなに正確な知識を持ってもらって、正常な市場原理が働くようにしたいわけです。

#いや、遺伝子組換えフリーが食べたい人はそのまま食べていれば良いんだと思うんですよ。繰り返しですが、大事なのは、選択できること。

出版時期など、決まり次第、ブログで連絡したいと思います。  

2011年07月22日

ブログでバイオ 第75回 博士が「えらいもの」であったのは1世紀以上も前の話

馬鹿共が「博士号を有効活用しよう」とか、「博士が就職できないのは損失」とかほざいているけれど、もうずーーーっと昔に寺田寅彦さんがこんなことを書いております。

学位について

曰く、

 学位に関するあらゆる不祥事を無くする唯一の方法は、惜しまず遠慮なく学位を授与することである。一日何人以上はいけないなどという理窟はどこにもない。百人でも千人でも相当なものであれば残らず博士にすればよい。それほど目出度いことはないのである。そうすれば学位に対する世間の迷信も自然に消滅すると同時に学位というものの本当の価値が却って正常に認識されるであろうと思われる。


 大学でも卒業した人間なら取ろうと思えばおそらく誰でも取れる学位である。取るまでの辛抱をつづけるかつづけないかの相違で博士と学士の区別が生じる。それだからこそ恐ろしく頭の悪い博士もあれば、図抜けて頭のいいよく出来るただの学士も捜せばいくらでも居るであろう。本来博士号は一つことを数年根気よく勉強したという身元保証書の一行である。人殺しをしようが詐偽をしようがそんなことは最初から誰も引受人はないのである。


 博士がえらいものであったのは何十年前の話である。弊衣破帽の学生さんが、学士の免状を貰った日に馬車が迎えに来た時代の灰色の昔の夢物語に過ぎない。そのお伽噺(とぎばなし)のような時代が今日までつづいているという錯覚がすべての間違いの舞台の旋転する軸となっている。社会の先覚者をもって任じているはずの新聞雑誌の編輯者(へんしゅうしゃ)達がどうして今日唯今でもまだ学位濫授を問題にし、売買事件などを重大問題であるかのごとく取扱うかがちょっと不思議に思われるのである。学位記というものは、云わば商売志願の若者が三年か五年の間ある商店で実務の習練を無事に勤め上げたという考査状と同等なものに過ぎない。学者の仕事は、それに終るのではなくて、実はそれから始まるのである。学位を取った日から勉強をやめてしまうような現金な学者が幾人かはあるとしても、それは大局の上から見ればそう重大な問題ではないであろう。少なくもその日まで勉強したことはまるで何もしなかったよりはやはりそれだけの貢献にはなっており、その日から止めたことは結局その人自身の損失に過ぎないであろう。


 繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶(たま)にはいいものも出るであろうと思われる。


これが書かれたの、昭和9年です。2009年じゃないよ(笑)?1934年。77年も経って、まだこのことがわからないって、相当なお馬鹿さんたちだよね。昭和9年から見ても「博士がえらいものであったのは何十年前の話」だっていうのに。つまり、一世紀も前のこと。いい加減に気がつけよ、と思う。  

2011年02月11日

ブログでバイオ 第74回 バイオインフォマティクス技術者認定試験の検証の必要性

昨日、飲み会で「バイオインフォマティクス技術者認定試験」(以下、バイオインフォ認定試験)という資格の是非について話した。この資格は社団法人バイオ産業情報化コンソーシアム(JBiC)という経産省管轄の社団法人が持っている資格で、その大本は僕が経産省時代に取ってきた「起業・創業促進型人材育成システム開発等事業(バイオ人材育成システム開発)」の予算である。

そもそも、JBiCという組織には、その成り立ちやバイオインダストリー協会(JBA)との役割分担などについて設立時の担当者(現在は主担当だったY氏、およびその補佐役だったF氏ともに退職)の中でも「単に天下り先を増やしただけではないか」といった議論があったのだが、その後はJBAよりもアクティビティが高かったりするところもあるので、組織の是非については棚上げしておく。

さて、そのバイオインフォ認定試験である。この資格がなんのためにあるか、であるけれど、建前は制度に関する紹介ウェブサイトに記載されている。対象者は「専門学校生、大学生程度」となっており、このことから読み取れるのは次のようなことである。

「一般に、就職にあたっての個人の能力評価は、大学入試の成績、つまり出身大学によって為される。一方で、個人の能力は出口段階ではほとんど評価されない現状がある。それは、大学、大学院の卒業時における能力評価システムが存在しないことによる。こうした中においては、三流大学、および大学に進学していない人たちの能力アピールの場が存在しない。しかし、大学受験時には能力が低かったとしても、その後、特殊な場面における能力を磨くことによって、一流大学卒の学生よりも高い専門能力を身につけることも可能である。バイオインフォマティクス分野においても、専門学校でこうした技術を身につけることによって就職することが可能であるため、その一般的指標、到達目標として、認定試験を実施する」

要するに、高校まで勉強しなかったクラスターに対して一発逆転のシステムを提供しているわけだ。僕はこうしたシステム自体は決して悪くないと思っている。ある個人が、特定の場面においては相応のスキルを保有していることによって活躍できる、ということは大事なことだし、学歴社会におけるセーフティネット機能のひとつであって、その重要性に疑問を呈する人は多くないと思う。

ただ、ここで問題になるのは、その資格が本当に就職に役立つような指標、目標となっているのか、ということである。その検討方法はそれほど難しいものではない。例えばどこかのシンクタンクが、いくつかのバイオインフォ認定試験に合格した卒業生を有する専門学校の就職先にヒアリングを実施し、その採用に当たって重視したポイントを聞き出せば良い。「技術力が高い」「上昇志向がある」「バイオに関する知識がしっかりしている」「まじめな人柄」といった回答がすぐに予想されるが、その中に「バイオインフォ認定試験に合格している」という回答が含まれているかどうかを調べれば良い。この際、「経済産業省生物化学産業課」などと、原課の名称を出してしまうのは良くない。これをやってしまうと、経産省に配慮された歪んだヒアリング結果になりかねない。あくまでも、第三者がフラットにヒアリングすることが大事なのだ。

僕の個人的な感覚では、今のバイオインフォ関連は就職が物凄く厳しい印象がある。そうした中で、このバイオインフォ認定試験はどの程度役に立っているのか、非常に興味がある。役に立っていれば、僕が予算を取ってきたことも無駄ではなかったことになる。一方で、全然役に立っていないのであれば、何らかの形で風呂敷をたたむ必要がある。

以下、余談なのだけれど、この予算、僕が取ってきたのは良いのだけれど、その分配を決める手法には相当に疑問が残った。覚えている限りで書くと、まず僕と、同じく経産省生物化学産業課(バイオ課)のN君(当時3年生ぐらいだったか)の二人を中心として、応募組織について応募内容を精査し、評価付けをした。この評価はかなり時間を割いてきちんとやった記憶がある。全ての応募書類に目を通し、いくつかの指標から評価し、総合成績をつけた。その資料はバイオ課の濱田課長(当時)へ手持ち資料として渡した。課長は選定委員会を組織し(誰が委員を選定したかは不明、僕は関わった記憶がない)、外部有識者(確か、外部有識者は4人だったと思う)とともに選定委員会を開催した。このときの事務局は三菱総合研究所で、担当者はT主任研究員。ただ、事務局の仕事は議事録をまとめたりする作業で、委員会において何か発言するような立場ではなかった。この委員会に、僕とN君はオブザーバーという形で参加した。僕達も事務局と同様、委員会では一切の発言をしなかった。さて、会議が開始され、どうやって企業を選定するのか、という話になったとき、課長がそのやり方を提案した。それは、「まず、各委員が一件、これが良い、というものを推薦しましょう。そして、その一件は無条件に決定ということにしましょう。これで5件が決まります。残りについては、各委員による議論で決めることにしましょう。いかがですか?」という内容だった。この提案は満場一致で賛成され、選択方法が決まった。何か変な決め方だな、と感じたけれど、オブザーバーの立場なので、何も言う権利はない。それよりも、僕としては僕が推薦した案件がきちんと通ることが大事だったので、会議の推移を見守っていた。課長は続いて、「では、私から推薦します」と発言し、そしてある案件を推薦したのだけれど、びっくりしたのは、僕から課長にあげた資料では、その案件は全く評価が高くなかったことである。N君と二人で、「え?」という感じで顔を見合わせたのを今でも憶えている。そして、その委員会にはJBiCの関係者が委員として含まれていた。彼は、その委員会においては、「フェアでなくなるので、討議には参加しない」というスタンスだったし、また自らJBiCの案を推薦することはなかったのだが、議論に参加する、しないに関わらず、委員会に当事者が含まれているのは全くフェアではないし、結果としてJBiCの案が採択されていては、それがフェアであったとは誰も言えないと思う。また、課長がどういう意図を以て僕達担当者が全く評価していなかった案件を推薦したのか、今になっても良くわからない。ただ、誰から聞いたのかは忘れたが、「そういえば、昨日の夜(委員会の前夜)、○○(課長が推薦した案件を応募した組織)の担当者が課長のところに来て、みんなで飲みに行ったみたいですよ」という話があった(僕は実際に見ていないので、真偽の程は不明)。そういう背景があるなら、全てのことには説明がつく。課長の提案した手法は、「誰が何と言おうと、自分の裁量でひとつだけは確実に採択できる」やり方なのだ。確実な証拠があるわけではないので軽々には言えないが、背後に何らかの不透明なやりとりがあったと考えるほうが自然である。僕は、そんなこんなで違和感がありまくりの委員会だったので、当時バイオ課の総括補佐だった須藤補佐に経緯を説明しつつ「違和感を感じるが、これで良いと思うか」というメールを送ったのだが、彼からは「特に違和感はない」という返事だったので、これが役所上層部の考え方なのかな、と思いつつ、その後は公式には特にアクションを起こさなかった(もちろん、当時の同僚たちとはそういう話をしたし、今でも時々飲み会ではその話になることがある。また、当時のメール等は全て保管してあるはずだ)。

こんな感じで、僕はこの予算の執行に当たってはいくつか疑問を持っていた。その後すぐに僕は経産省を退職したので、それ以後、この委員会で採択された案件がどうなったのか、きちんとサーベイはできていない。数少ない、ウォッチできる案件が年末来調査しているリバネスと、このバイオインフォ認定試験なのである。現時点で、両案件共に本当に上手に活用されたのか微妙な状態になってきていて、あの税金は無駄金になっているのかも知れないと危惧している。ちなみにこちらに事業の最終報告に関するページがあるのだけれど、

経済産業省の取り組む高度専門人材育成事業について【最終報告】
(創業・起業促進型人材育成システム開発等事業)


「(報告書)【4月頃掲載予定】」となっていて、掲載されていないようだ。連休明けにでもバイオ課に電話をして、どこで見ることができるのか問い合せてみたいと思う。そういえば、だいぶ前に「2010年にはどうなっていることやら」と疑問を呈したバイオ市場25兆円の話も、昨日の情報交換ではどうやら3兆円ぐらいの市場規模で終結したらしい。

2010年のバイオ市場規模の持つ意味(2年前に書いて忘れてた)(2005.7.31)

ブログでバイオ 第39回「第1回BT戦略推進官民会議(笑)」(2008.4.13)

「バイオ市場25兆円」という目標を設定して旗を振り、その結果が3兆円というのであれば、その責任は誰が取るのだろう。25兆円という数字を背景にして財務省に説明し、取ってきた予算も少なくないのではないか。

ちょっと話が脇道に行ってしまったけれど、要は、このバイオインフォ認定試験、その成り立ちの部分から色々と不透明なところがあって、そのあたりを良しとするとしても、「じゃぁ、本当に役に立っているのですか?」という疑問があるのだ。役に立っているのか、いないのか、この点は物凄く重要で、もし仮に役に立っていないのであれば、当然のことながら様々なことを再検証していく必要がある。なぜなら、こういった専門学校生向けの資格というのは、冒頭に書いたように敗者復活戦の色彩が濃いからである。学歴社会における敗者が復活をかけて臨むものなのに、実際にはそれが何の役にも立たないというのであれば、これはただの弱い者いじめである。ありもしない望みをあるように見せ、そこにお金を投入させるのは、情報弱者を騙してお金を巻き上げるオレオレ詐欺となんら違いがない。違いは単に、法律に違反しているかいないか、だけである。この違いは決して小さくはないが、弱い者いじめは人間としていかがなものか、と思う。

経済産業省生物化学産業課には、上で書いた報告書についてとともに、バイオインフォ認定試験についても一度問い合せてみる必要がありそうだ。

もちろん、多数の民間企業が「バイオインフォ認定試験は素晴らしいですね。出身大学なんかよりもずっと参考になります」と言っていたり、専門学校の卒業生が「この資格のおかげで凄くいい会社に就職できました」と言っていたりするなら、そんな喜ばしいことはないし、そうであって欲しい。  

2010年12月12日

習作 魔人ブウ*のラーメンデータベースMT

ということで、勉強を続けていたMT5ですが、一応このくらいのサイトは作れるようになった。

魔人ブウ*のラーメンデータベースMT

あくまでもサイト構築の練習のためにやったので、データの移管とかは全然やっていないけれど、せっかく作ったのでこっちのサイトへ本格的にデータを移管していこうと思う。面倒くさいけど。

このサイトの場合、ブログ4つ、ウェブサイト2つと、それを統合するページの合計7つのサイトでできてます。統合サイトのトップページっていうのがちょっと他と性格が違うので、最初は戸惑いましたが、慣れてしまえばそれほど難しいことはなかったですね。まぁ、大したことやってないんだけど。

あとは、都道府県別のカテゴリと五十音別のカテゴリを別のサイドバーにして、3カラム型の表示にしたいのだけれど、それはまた時間のあるときにやろうかな。今のところ、このサイトを完成させるのがメインじゃないので。  

2010年10月20日

ブログでバイオ 第73回 iPS細胞に根差す新産業にお勧めは日本以外に進出すること

こんな記事があったので、

万能細胞による新しいバイオ産業が始まった
―わが国の課題と成功するための条件とは―


現在はITベンチャーの社長とはいえ、バイオベンチャーの経営という部分では知識も経験も日本では相当上のほうに来るはずの僕なので(笑)、ちょっとコメントしてみる。

まず、標準化という部分について。標準化で思い出すのは、僕が経産省にいたときに某国内超大企業がバイオ課に来て、「このDNAチップを国内の標準にしてくれ」と頭を下げたこと。「はぁ」と、乗り気のしない受け答えに終始していると、「日本はそうやって護送船団でやってきたんです。これもよろしくお願いします」と某社役員殿が言い放ったのが今でも印象に残っている。そういう、トップダウン型の標準化というのも確かに昔は存在しただろうし、それが日本を牽引した部分もあったんだと思う。でも、もうそういう時代じゃない。いくつかのフォーマットが提案され、淘汰され、良いものが残る、という時代のはずだ。ある程度の事前スクリーニングはあっても良いかも知れないが、少なくとも経産省が旗を振って標準化を進める、というものではない。この記事を書いている人も、そこまでは求めていないのだが。それともうひとつ思い出されるのが、理研のシーケンサーについて。僕が理研にいたとき、理研の主任研究員だった林崎さんが島津と組んで、「RISA」というシーケンサーを開発していた。ところが、同じセンター内でヒトゲノムを読んでいた榊さんは、RISAを使っていなかった。榊さんがRISAを使わなかった理由は「国際グループが全部他社(ABIだったかなぁ)を使っているから」というもの。標準化争いに負けていたわけで、それはそれでありだとは思うけれど、何も同じ組織の、同じセンターの中で、片やシーケンサーを開発していて、片やそれとは別の会社のシーケンサーを何台も導入しているというのは、日産が自動車を開発するにあたって、自社にもエンジン開発部門があるのに、トヨタのエンジンを積んでいるようなもので、一体どういうことなんだろうなぁ、と思ったことがある。トヨタのエンジンを積むならエンジンの開発なんてやめちまえ、ってことだし、エンジンの開発をするなら、トヨタよりたとえ劣っていたとしても、自社のエンジンを積むのが普通だよなぁ、と思ったものである。標準化は確かに大事だが、どうやって標準化するのかが重要で、それは、国がトップダウンで決めてしまうのもまずいし、だからといって協力すべき人たちが協力しないのも問題だ。誰がどうやるのか、このあたりをきちんと決めておく必要がある。でも、そういうのが大の苦手なんだよね、日本人は。それで、とりあえず「国が」「国が」って連呼する

次にオープンイノベーションについて。僕はバイオクラスターの勉強もそれなりにやったんだけれど、最終的な結論は、ドイツとかに存在するようなバイオクラスターは、日本には必要ないんじゃないかってこと。日本は物流がしっかりしているし、人の移動も簡単。一日あればほとんどどこにだって行けちゃう。加えて、たとえ近所にいても仲良くするわけじゃなく、逆に足を引っ張りたがったりする。どうせ仲良くできないなら、近所にいる必要はないし、逆にちょっと離れていたほうが仲良くやっていけたりする。官公庁、大学、企業などの垣根を越えたワンストップ型の体制というのは確かに理想的だけれど、文科省と経産省で予算の取り合いをしていて、その調整機能を果たすはずの総合科学技術会議も何の役にも立たず、ノーベル賞を取ったって言えばすかさず役所が擦り寄って「もっとお金をつけなくちゃ」とか発言させて役所の援護射撃をやらせるような社会には無理。ここで書かれていることは確かに理想論ではあるけれど、同時に空論でもある。

最後に金融システムについて。日本はバブルでお金がたくさん余っていたときに、それを都市インフラに投入してしまった。だから、道路は非常に良く整備されているし、交通システムも首都圏を中心に行き届いている。建物はでっかくて丈夫で立派。東京湾に橋までできていて、木更津くんだりまでそんなに急いでどこへ行くんだよ、おい、という感じではあるけれど、まぁ、そういうこと。お金をそっちにつぎ込んでしまったんだから、後の祭りである。そういう意思決定をした人たちをつるし上げるぐらいしかやることがないが、それすらやらない、やったらやりっぱなしが日本のやり方。今お金がないのは、今が悪いのではないのだけれど。それと、公的助成うんぬんも書いてあるけれど、役人が成功報酬を取れないシステム、役人が責任を取らないシステムにおいては、投資をやっても成功しない。投資した金額に見合うだけの成果をあげたかどうか、しっかりと検証して、その成果に見合った処遇を施すということができないなら、結局税金の無駄遣いに終わる可能性が極めて高い。自分の生活をかけて、死ぬ気でやんなきゃ。

まとめで「標準化」「オープンイノベーション」「金融システム」の3要素について諸外国に比較して日本が遅れていると書いているけれど、それはその通り。そこまでは正しいと思うんだけれど、この著者がちょっとずれているなーと思うのは、「iPS細胞に根差す新産業を育成する土壌は、まだ日本に十分あると信じたい」としているところ。そんなもの、ないでしょ。さっさとシンガポールとかに会社を移したほうが良い。それによって、みんなが幸せになれると思う。日本では無理だよ、多分。

いや、他の、のんびりやっていても良い分野なら、日本でやっていても良いよ。この分野はだめでしょ。日本が変わるのなんて、待っていられないもん。

#色々物議をかもしそうなこと書いてみたから、たまには誰かブログでバイオに参入してきて(笑)。最近、僕しか書かないからなぁ。  

2010年09月22日

ブログでバイオ番外編 答え一発、ひと目でわかる、ネットでのロンダーの見分け方

昨日の某所における会話をまとめてみました。ちなみにお酒は入っていません。僕は伏字は嫌いなんだけれど、相手に迷惑がかかるかも知れないので今回は伏字で失礼。


相手:元木さんのロンダーの記事、読みましたよ。でも、我々のような会社の人事にとってはロンダーって別に何の問題もないんです。だって、履歴書でちゃんと全部チェックしますから。

元木:そりゃそうですね。

相手:問題になるとすれば、業務提携をしたりするときの相手のチェックですね。でも、それも実は全然問題にならない。どうしてだかわかりますか?

元木:ほう。問題というと?

相手:相手がロンダーかどうか、簡単に見分けられるんです。

元木:あんまり考えたことがなかったけれど、改まって言われてみると、すぐに察しがつきますよ(笑)

相手:お、そうですか?どうしてだと思いますか?

元木:それは、コンサルタントとか、ベンチャーとか、そういう相手と話をするときに、相手のことをどうやってチェックするか、ということですよね?

相手:はい。

元木:そんなの簡単ですよ。だって、相手の経歴を見れば良いんだから。

相手:というと?

元木:だって、ロンダーはほぼ100%出身大学を書かず、大学院名だけ書きますから。一方、ロンダーじゃない院卒はほぼ100%経歴に大学名も書きます。

相手:さすがですね。

元木:この話はブログに書いたと思いますよ(笑)。

相手:ネットなどで大学院名だけを経歴に書いている人は、ほぼ100%ロンダーです。すぐにバレちゃう。でも、本人たちはそれに気がついていないんです。

元木:気がつかないからロンダーなんでしょう(笑)?

相手:そうですね、ちょっと頭が働く人間ならわかるんですが。

元木:お気の毒な話です。でも、うちの会社とか、そもそも採用の時に履歴書取らないし、別にどうでも良いって言えばどうでも良いんですが。

相手:でも、ロンダーは嫌でしょう?

元木:嫌ですね(笑)。これからは、大学とか、大学院名とかはチェックしないけれど、大学院名だけ書いている奴ははじくことにします。

相手:そうなんです。消極的ではあるけれど、身分詐称ですからね。

元木:身分詐称になるんですか(笑)!まぁ、詐称してもそれで何か経済的損失が発生しないなら、別にどうでも良いけど。

相手:でも、現実問題として、日本は韓国ほどではないにしても、良くも悪くも高度に学歴社会ですからね。そして、人間をスクリーニングするシステムとしては確かに大学受験はある程度機能していますから。

元木:大学院受験は機能していないものね。

相手:そうなんですよ。学歴ロンダリングが可能なのは、実は大学院に問題があるのです。

元木:○○さんみたいな会社からしたら、大学なんて、その大学に合格するだけの学力の持ち主かどうかを見るだけのものですからね。

相手:はっきり言ってしまえばそのとおりです。身も蓋もないですが。昨日だったか、池田信夫さんが学歴について書いたのは読まれましたか?

元木:大学合格をシグナルにして、さっさと中退して就職してしまえ、という奴ですか?

相手:はい。実際のところ、あの通りだと思います。

元木:そうかなぁ。それは僕はちょっと疑問です。少なくとも、僕は大学で相当勉強したし、あの大学の環境に感謝していますよ。

相手:そういう人もごくごくまれに存在するんですよね。

元木:東工大っていうのは結構勉強できる大学だと思います。

相手:私のところはダメでしたね。

元木:東大でしたっけ?

相手:ええ。ただ遊んで、卒業しただけです。

元木:文系ですよね?

相手:そうです。

元木:東大の文系でも、勉強している人は勉強しているんじゃないですか?

相手:勉強はしていますが、大学で勉強しているのではなく、自分で勉強しています。

元木:あぁ、それで、弁護士やら会計士やら公務員やらになるわけですね。

相手:はい。それで、残りは遊んでいるだけです。

元木:でも、弁護士や会計士になるなら、別に東大に行く必要ないですね。

相手:人脈は役に立つんです。

元木:なるほどねぇ。人脈が役に立つし、東大に受かるぐらいの基礎的な学力があるから、じゃぁ、ついでに、みたいな感じですか。

相手:そうでしょうね。勉強には自信がある人が多いし。

元木:だから、会社としても大学受験の成果というのはチェックするわけですね。

相手:それだけと言っても過言じゃないですね。大事なのは最終学歴じゃないんです。大学なんですよ。

元木:そういえば、僕が以前いた会社も東大、京大、東工大の人間がやたら多い会社だったな。

相手:唯一と言っても良いくらいの目印ですから。

元木:会社としても、東大に受かるだけの学力があれば良いやということですよね。

相手:そうそう。あとは、普通に会話ができれば問題ない。

元木:結果として、大学名だけ見るんですね。

相手:そう。だから、ロンダーって滑稽ですよ。履歴書に大学名を書かずに大学院名だけを書くなんてあり得ないじゃないですか。ところが、ネットの怪しいベンチャーの役員とか、コンサルタントとか、平気で大学院名だけを書く。これって、健康食品を宣伝している白衣のおじさんが「医学博士」とか書いているのと一緒です。肩書きは嘘じゃないけれど、見る人が見ればすぐに「こいつ、駄目だな」ってわかりますから。

元木:なるほど。僕もこれから相手の経歴を見るときは、大学名が書いてあるかどうかをチェックします。

相手:そういう視点で見ていると、世の中怪しい経歴がたくさんありますよ。面白いですよ。

元木:確かに凄く面白そうだ。とりあえず、まずは知り合いの経歴からチェックしてみよう(笑)。

相手:人間関係を壊さない程度にね。元木さんだと、平気で「こいつもロンダー、こいつもロンダー」ってブログに書きそうだから。

元木:いや、ロンダーとは書かないけれど、「こいつ、出身大学不明だな」とは書くかも。

相手:本当にやりそうだからな(笑)。

元木:いやー、どうかなー。こっそりウィキで「ロンダーリストWIKI」とかを作ったりする可能性はあるけれど。

相手:一層たちが悪い(笑)

元木:いや、でも、ちゃんと実績を出せば、嫌でも出身大学なんて表に出てきますよね。

相手:そうですね。

元木:だから、ロンダーって、コンプレックスを抱えた小物ってことでしょ。それじゃリストとか作ってもあんまり面白くない。

相手:そうなんです。でも、ロンダーを面白く思わない人もたくさんいますよ。元木さんもブログで書いていたけど。

元木:あぁ、○○君ね。当時学歴ロンダリングっていう言葉はなかったけれど、例えば僕たちの研究室だと、ひとつ上は理科大二人、東大ひとり、あともうひとりはどこだったのかなぁ。北大だったかな。全員外部の人でした。僕たちが学部一期生だったから、院生は全員外様。僕たちの代は、内部からが2人で、横浜国大からがひとり、理科大からひとりだったかな?理科大がすごく多くて、彼らに聞くと、大学時代に受験に向けて結構勉強した、と。

相手:大学が大学院の予備校みたいになってるんでしょうね。

元木:そういう勉強をさせてくれるのかどうかはわかりませんが。それで、その理科大卒の先輩の結婚式で、彼の紹介で理科大の理の字もでなかったので、○○君はすげぇ怒っていて、「あの人、全然東工大じゃないじゃないですか。東工大卒とかインチキですよね」って言っていたのを良く覚えてます。僕とかはそういうのどうでも良くて、能力が高ければ良いんじゃないの?って思っていたんだけれど。

相手:実際のところ、日本では学歴って凄く大事だから。だって、東工大の学部に受かっている人なんて、ほぼ100%理科大程度なら受かっているでしょう?

元木:そうですねぇ。僕の周りはほぼ全員受かってましたね。

相手:それで、理科大の学生はほぼ100%東大や東工大に落ちているんですよ。

元木:(笑)それはそうだ。東工大受かっていて理科大に行く奴は100万%ぐらいいないでしょうね。

相手:そんな状況で、理科大卒の人間が東工大の大学院に行って、「俺は東工大卒だ」っていうのはおかしいですよね。だって、一度負けているんだもの。

元木:そうですねぇ。確かひとりだけ、スキー部の4、5年下の後輩で、早慶理科大全部落ちて東工大だけ受かったっていう奴がいて、いつもからかわれていましたけど。普通理科大は落ちないですね。

相手:東大だって同じですよ。東大受かって、早慶理科大全部落ちた奴なんてほとんどいないはず。

元木:それはそうでしょうね。

相手:だから、内部の人間には快く思わないのがたくさんいるんです。

元木:一度勝ち負けはっきりしてますからね。でも、高校時代は勉強以外の何か他のことをやりたくて、大学に入ってから勉強を始めた人もいますよね。

相手:もちろん。だから、二流大学から一流大学の大学院に進学することを全否定するわけではないです。

元木:それを隠すな、負けた実績を隠すな、と。

相手:そういうことです。

元木:どこでも良いけど、経歴を書くということは、「私はこういう人間です」って見せているわけで、そこに大学院の名前を書くなら、大学の名前も書けるだろう。それなのにどうして書かないのか、ということか。

相手:そうです。スペースの都合で、どうしても大学院の名前だけしか書けなかった、というのなら話はわかりますが。

元木:それはないな(笑)。当然、わざと書かないことを選択しているはずです。

相手:そうでしょう?自分にとって都合の良い情報だけを取捨選択して、自分の都合の良い方向へリードしているんです。だから、身分詐称なんですよ。

元木:詐称っていうのはちょっと言い過ぎだと思うけれど、非常に格好悪いですね。

相手:本当に。良く恥ずかしくないな、と思いますよ。三流大学出身です、と表明するよりもずっと恥ずかしいと思うのだけれど。

元木:非常にごもっともです。ただ、実際、仕方ないケースもあると思うんですよ。私大って学部の人数が凄く多いし、お金ないから、どうしたって理系の学生の環境って悪くなる。でも、理系で院卒じゃないと少なくとも理系の会社では全く評価されない。となると、環境が良くて、学費も安い国立大学の大学院に進学しよう、っていうのは至って普通の話だから。そういう人って結構いるはずです。

相手:それはそうなんです。でも、そこまで熱心に勉強したいなら、学部から国立大学に行っておけ、ということです。

元木:それは確かに。しかし、例えば早慶と筑波大あたりだと、どっちを選びますかね?阪大、東北大、名古屋大、九大あたりだったら、僕なら間違いなく国立大学だけれど、地方の駅弁大学よりは早慶だし、筑波大あたりでもかなり悩みそうじゃないですか。

相手:難しいところですね。横浜国大、農工大、首都大、千葉大・・

元木:難しいですよ(笑)。

相手:旧帝なら早慶より上じゃないですかね。

元木:住んでいる場所にもよりますね。

相手:そうですね。理科大なら悩みませんけどね。

元木:でも、理科大卒でも優秀な奴は結構いますよ。

相手:もちろん。

元木:要は、濃度とか確率の問題だから。

相手:??

元木:いや、東大卒だって優秀な奴もいれば優秀じゃない奴もいる。ただ、東大卒の方が、東工大卒よりも、優秀な人間である確率が高い。優秀な人間の濃度が高いんです。

相手:なるほど。

元木:あと、ハイエンドの高さも違います。

相手:それは?

元木:東大で一番優秀な奴と、東工大で一番優秀な奴だと、東大で一番の方がレベルが上なんです。

相手:東工大のトップは今の総理だからなぁ。

元木:そうそう、あれが限界なんですよ(笑)。残念ながら。

相手:残念です(笑)。  

2010年08月14日

ブログでバイオ第72回 遺伝子検査の信頼性診断

またしばらくお休みしているから、ちょっと「ブログでバイオ」ねた。70回はまだ草稿のまま(汗)。71回は番外編ってことで書いたので、一応これは72回ってことで。

遺伝子検査が色々とできるようになってきて、ビジネス展開も色々と図られている様子。皆さんには頑張って欲しいところだけれど、こんなニュースも。

遺伝子ビジネス野放し、根拠不明確な例も…規制求める声

記事を読んだけれど、明確な「規制を求める声」が掲載されていない不思議な記事。「公的機関の監督」っていうのが規制なのかな。

こんなの、貧乏人を相手にしている商売じゃなし、信者につぼを売るのとあんまり変わらないんだから、好き勝手にやらせておけば良いんじゃないの、とりあえず、というのが僕の考え方ではあるのだけれど、情報提供というのはきちんとやられるべきで、消費者はそういう情報を取捨選択すれば良いだけの話。問題は、こういう話が出てきたときに「科学的に絶対ないとは言えない」という立場から専門家が黙ってしまうこと。

ということで、僕は専門家じゃないけれど、この記事に「遺伝子検査ビジネスの具体例」として紹介されているものについて個人的な見解を書いてみる。

薄毛や脱毛についてのリスク判定や、育毛剤の効果予測
「専門家じゃない」と書いたけれど、元育毛剤の会社の社長の僕ですが(笑)、薄毛や脱毛についてのリスク判定についてはかなりの確度で当たるんじゃないかと思う。ただ、それに対して適切な育毛剤、となるとどうなんだろう。医薬品、医薬部外品、化粧品と、色々なランクの育毛剤があるけれど、それらの効果効能に対しては僕はかなり懐疑的だし、それが遺伝子レベルの個体差別に使い分けられるとなれば、その内容についてはもっと懐疑的だ。余談だけれど、ハゲのリスクについては自分の体毛の濃さとか、身の回りの親戚一同のハゲ具合などを見ておけばいちいち遺伝子検査なんかしなくても済んでしまうケースも多々あると思う。
リスク判定◎ 育毛剤の効果予測×(予測内容が「全部効かない」なら◎(笑))

糖尿病や高血圧など生活習慣病のリスク判定と、運動や栄養のアドバイス
このリスク判定はある程度信用できると思う。あくまでもリスクだけれど。確率予報みたいなもので、絶対に高血圧になるわけじゃなく、高血圧になる可能性が高いですよ、と。例えば僕は両親ともに高血圧で、僕自身も30代後半から血圧が高くなった。多分、遺伝子検査をすれば高血圧のリスクは非常に高いと判定されると思う。それで、この検査はある程度高い信頼性があると思うのだけれど、それと運動や栄養のアドバイスについてはどうなんだろう。僕の場合、自分が現役のスポーツ選手だということもあって、血圧が高いと診断される前から一定の運動をしていたし、診断されて以後は運動量を増やし、体重を減らした。今もそういう生活を続けているけれど、それだけでは血圧はほとんど下がらなくて、2年ほど前からカルシウム拮抗剤、アンジオテンシン受容体拮抗薬、利尿剤などを複合して服用している。おかげで今の血圧は125−80程度になっているけれど、食生活と生活習慣のコントロールだけのときは平均で150−100ぐらい、高いときは上が190、下が120なんていう数字もあった(2008年7月ごろ)。生活習慣の改善というのは血圧に関しては良く言われるけれど、リスク判定で高いと判定されるようなクラスターに対しては、ちょっとやそっとの運動や栄養のアドバイスは役に立たないと思っている。あくまでもN=1での感想だけれど。
リスク判定◎ アドバイスの効果△

遺伝性がん以外のがんやアルツハイマー病にかかりやすいかどうかの判定
アルツハイマー病のリスクはできるんじゃないのかなぁ。値段によっては判定してもらいたい。遺伝性がん『以外』のがんっていうのはどうなんだろう。遺伝性がん『以外』って言っている時点で遺伝子検査の可能性を否定しているような気がするんだけれど(笑)。これは遺伝性がん以外のがんの定義とか、それをどういう根拠で診断するのか、その方法があまりにもあいまいなので判断ができない。
アルツハイマーのリスク予測◎ 遺伝性がん以外のがんリスク△?

肥満のタイプや骨粗しょう症、脳血管、心疾患などのリスクを調べ、エステメニューを提案
リスクはある程度判定可能だと思う。でも、それにあわせたエステメニューとなるとやや疑問。遺伝子のタイプ別に運動方法を変えるの?あなたにはこの運動は向いてません、とか?この手の運動というのは継続性が最も大切で、じゃぁ継続性は何によって規定されるかって、その人に向いているかどうか。楽しければ続けるし、辛いだけなら続かない。あと、運動じゃないのかも知れないけれど、運動以外のメニューとなると僕はさらに懐疑的。
肥満のタイプなどのリスク判定○ エステメニューの信頼性△

肥満のタイプを判定し、運動プログラムや食事指導を提供。サプリメントや健康食品を販売
上のサービスとダブっているけれど、こちらはサプリや健康食品を売るわけね。サプリは、効くものは効くし、効かないものは効かない。僕が効くと思っているサプリはプロテイン、アミノ酸、クレアチンあたり。最近はどれも飲んでないけれど、体を大きくしようと思ってトレーニングをするなら、これらのサプリは効果があると思っている。一方で効果がないと思っているのはグルコサミン、コラーゲン、コエンザイムQ10、カプサイシンなど。マルチビタミンやマルチミネラルあたりは個人的には効くと思っていて、極度に疲労しているときや風邪気味の時には必ず飲む。ただ、他人に勧めるほどではない。あと、クレアチンは非常に効くイメージがあるけれど、僕はこれを飲んでいて肝機能障害を起こしたので、これまた他人には勧めない。それで、肥満のタイプに連動してこうしたサプリや健食を勧める、という部分については非常に懐疑的。あなたは内臓脂肪型だから糖分を特に控えてね、こっちのあなたは皮下脂肪型だから脂肪分を控えてね、みたいな?うーーーーん、肥満のタイプ別に食生活を指導するのはある程度効果があると思うのだけれど、そのアドバイスにぴったりフィットするサプリや健食となるとどうなのかなぁ。サプリだけで生活していくならともかく、普通の食事から得ている栄養が95、サプリが5、ぐらいの配分なら、それほど高い効果は得られないと思う。
肥満のタイプの判定○ 肥満のタイプ別食事指導○ サプリ、健食のアドバイス△

「肉食系」か「草食系」かを判定
なんだこりゃ(笑)。そんなの、判定してもらわなくても自分でわかるだろ。
肉食・草食の判定の必要性×

将来の健康や才能を判定して、相手にアピールするための婚活キット
将来の健康判定というのは、ある程度信頼性が高いと思う。才能はどうなんだろう。将来に影響を及ぼすほどの才能ってことだと、「パパは皆川健太郎、ママは上村愛子だから、冬季五輪出場の可能性大」みたいなのは当たっていると思う。でも、そんなのは遺伝子検査してもらうまでもない。誰でもわかるような才能なら検査は不要だし、検査しなくちゃわからない程度の才能じゃぁ、相手へのアピールにも使えないでしょ。少なくとも、僕の場合だったら相手からこんなデータを提供された時点でさようなら、です。
将来の健康の判定○ 才能の判定× キットの有効性◎(ただし、「こんなのを持ってくる奴はダメ、という、ネガティブな利用方法ですが)

他にも何か判定して欲しいものがあったらコメント欄でお問い合わせください。可能な範囲でお答えします。  

2010年05月23日

ブログでバイオ番外編 種牛49頭を処分しないことにはどういう意味があるか

口蹄疫に関しては、食べたって人間には害がないんだから食っちゃったらどうか、とか妙な意見がTwitter内では飛び交っていて、かなりやれやれな感じですが、こんなニュースもあったので、ちょっとブログでバイオの番外編。

種牛49頭も殺処分回避を=宮崎知事、国と協議へ―口蹄疫問題

なぜ殺処分にしなくてはならないかって、それは感染拡大を防止するため。畜産業を守るために最も効果的かつ合理的な手段だと国際的に合意されているから日本でも採用されている。

まず口蹄疫について簡単に確認。

1.人には基本的に感染しない(キャリアになる場合はある)。
2.家畜に感染しても致死率は高くない。ただし、家畜としての価値は下がる。
3.感染力は非常に強い。
4.発症していなくても感染源となりうる。
5.感染力が非常に強いため、国際的に「治療」という選択肢はない。
6.放置した場合、日本は国際的に「口蹄疫輸出国」「口蹄疫インキュベーション国」と認識され、国際的信用が著しく低下することは間違いない。また、成畜に比較して幼畜の致死率が高いため、継続的畜産業が成立しなくなる。

#今でも口蹄疫ウイルスには複数のタイプがあるが、RNAウイルスは変異が容易なため、国内で蔓延した場合には様々な変異体が発生する可能性がある。少なくとも、「もう良いよ、人間で言えばはしかや水疱瘡みたいなもんだから、みんな感染させちゃえ」なんていう選択肢はあり得ない。

次に、今回の49頭の殺処分について考えておくべきことは次の4つ。

考えるべきこと その1
殺したことによるダメージ→東国原知事は「日本の畜産に壊滅的な打撃」と主張済み

考えるべきこと その2
生かしたときに感染が拡大する可能性→不明だが、0ではない。

考えるべきこと その3
生かしたことによってもし口蹄疫が拡大した時のダメージ
「生かす」との意思決定をした人間の責任の取り方
「生かす」ことを要請した人間の責任の取り方
その他、関係者の責任のとり方

考えるべきこと その4
公平性
→どの畜産農家も、自分の農場の未発症家畜を殺処分したくはない。なぜ49頭を特別扱いするのか、論理的に提示する必要がある。

東国原知事が国に要請を出すのは構わないが、セットで「生かしたことによってもし口蹄疫がさらに拡大した時の自身、および宮崎県の責任のとり方」を明示する必要があるはず。感情論をベースにした一方的な主張を繰り広げるのは首長の役割ではない。でも、残念ながら、今のところ東国原知事の発言からは論理的な主張やそれを支える理論、そしてその判断が間違っていた場合の責任の取り方が伝わってこない。少なくとも、「まだ生かしている」という話を聞いた近隣県の畜産農家達は心穏やかではないはずだ。

もし被害がさらに拡大して、九州全域、あるいは日本全国の畜産業が壊滅した場合のリスクを考えたら、今回の要望は簡単には出せないものだと思うのだが、東国原知事はそこまで考えているんだろうか。  

2010年04月06日

ちょっと時間がないので

下書きでゴメンナサイ。ブログでバイオに投稿するネタなんだけれど、ちゃんと書き起こす時間がない。年度初めは色々と忙しくて(汗)ということで、まだメモ書きなんだけれど、とりあえず載せておく。あとでちゃんと書き直します。いや、下書きにして置いておいても良いんだけれど、とりあえず、出すだけ出しておこうかと。何かあればコメントしていただくのは歓迎。その場合、アイデアを勝手に取り込んじゃうかも知れないけれど、怒らないでね(笑)。で、この下書きは本稿が出来上がったら、削除しちゃうかも。そうしたら、コメントもなくなっちゃうけど、それもゴメンナサイ(笑)。つまりは、そこまでのリスクを背負ってでもコメントしたかったら、いくらでもどうぞ、という話です(笑)。

#こういう下書きをオープンにしちゃうと、どうやって文章を作っているのか、そのあたりがバレちゃいそうでなんか恥ずかしいね。


タイトル未定


理想的な政治主導とは?
政治家は大枠を決める。
それにしたがって、官僚が働く。
例えば、「科学技術予算は30%減」と政治家が決める。
官僚はそれに合わせて予算を組む。

ところが、現在は政治家が細かいところを事業仕分けして、それを積み上げている。
これでは政治家がオーバーフローする。
そもそも、政治家は素人。
官僚も素人だが、政治家よりはかなりマシ。

政治家が「役人は信用できない」というのなら、局長、課長クラスをどんどん民間から登用して役所に送り込めば良い。

民主党は公務員に厳しいが、一方で身内には甘い。

公務員を援護する政治家はほとんど存在しない。しかし、役人が全て無能というわけではない。というか、優秀な官僚は山ほどいる。必要なら、官僚の仕分けをするのでも良い。政治家の仕事として、個別の事業について仕分けをするくらいなら、官僚の仕分けをした方がずっと効率的。

バイオに限れば、今のところ現在のプレイヤーのアライアンスが重要。
最も効果があることではない。現状を鑑みて、最もやりやすいこと。
ただし、成果が出るには時間がかかるのがこの分野。
武田薬品を筆頭に、特許切れが目前にある製薬企業達は焦ってきている。
すでに手遅れ感があるものの、動かなければオシマイ。

今の日本の製薬企業は、物凄い勢いで崖に向かって突っ走っている。運動量がでかい(高給の社員を大量に抱えている)ので、このままでは止まりきれず、崖から落ちる。

昨年で見ると、日本から海外へ、バイオ系のM&Aで3兆円が流出している(JBA調べ)。
国内で留保したお金が海外へ流出している。
これでは、ポスドクや博士の給料が払えないのは当たり前。
日本の企業はこれまで日本のベンチャーとアライアンスを組む気がなかった。
ようやく、多少はやる気が見えてきた。
ただ、まだ本気とは言えない。
大学も全然駄目だ。
イノベーションを起こして行く気がないなら、企業も、大学も、バイオからは手を引くべき。

良く「空洞化」が言われるが、仮に空洞化したとしても、米国の一国独裁にはならない。
結局価格競争になるので、経済的にはそれほど心配はない。
ただし、科学技術力は低下し、回復させるのは難しくなる。
ただ、それも不可能ではない(シンガポールなどはキャッチアップしている)
一番の問題は、子ども手当てまでして育てようとしている次代を担う子どもたちの活躍する「場」がなくなること。

実際、ファイザー、メルク、イーライリリーなどはすでに軒並み日本から撤退している。
すでに日本はバイオの戦場ではなくなっている。

いくら子供を育てても、彼らは結局頑張る場所がない。
夢のない子どもたち。
子ども手当ては子供のためのものではない。親のためのもの。
必要なのは長期的視野。しかし、民主党の政策は近視眼的。

大事なのは、ターゲッティングによるバラマキではない。成長戦略である。

ただし、バイオの成長戦略は非常に難しい面がある。
全てを海外に任せて、バイオからは手をひくのか。
それとも、一定のお金を投資して、成長を考えるのか。
あるいは、現有戦力を組み合わせてなんとかつないでいくのか。
まずは、この方針について国民的な合意を形成する必要がある。

その上で、どうするのか。
これを決めるにはどうしても時間がかかる。
座して死を待つのか。

ということで、まずはアライアンス。
そのためには、情報共有が必要。
情報共有のためのプラットフォームをどうするのか。
民間主導でできないのか。

まずは人材レベルでの情報共有から?
間に合うのか?
何もやらないよりはマシ。  

2010年03月05日

ブログでバイオ 第69回「理研の理事の公募に応募したら、書類選考で落ちた」

最近のブログでバイオのネタはポスドク問題から科学と社会のコミュニケーションというところにシフトしつつあるのだけれど、この延長線上で、思うところあって理研の理事の公募に応募してみた。一次審査は書類のみだったのだが、昨日、不採用の連絡があった。折角なので、まず僕が出した応募書類の全文をここに掲載する(機種依存文字を使用していたので、そこはウェブ用にリプレースしてある)。

氏名 元木一朗
応募動機ならびに理事として実現したい事項

1.現在の科学の問題点
昨年の「事業仕分け」において、厳しい裁定が「科学」全般に対して下されたのは記憶に新しい。最近、特に若手の科学者の中から、その原因を「仕分け人の理解不足」や「担当官僚の説明不足」に求めるのではなく、「科学者自らが科学の価値を世に示してこなかった努力不足」にあるという意見が示されている。科学ならびにバイオ産業界における長年の経験から、私はこの意見に強く賛同する。
これまで、メディアを通じた科学知識の周知や、博物館での科学体験活動等は実施されてきている。しかし、一人ひとりの科学者が、日常の生活の中で、科学の面白さ、不思議さをアピールしていく意識が必要だと感じる。例えば、科学者であれば「ふろふき大根を作るときになぜ米のとぎ汁を入れるのか」という疑問に対して、即答ではなくとも、明快な科学的回答を与えられるはずだ。身の回りのいたるところに科学は常に存在しているにも関わらず、その有用性や面白さをアピールする努力を、多くの科学者達は怠ってきたと思う。その結果、科学に国家資金を投じることの必要性が多くの国民の理解を得にくくなり、最終的に「国民の代表」による「仕分け」によって予算が削減されるという事態になったと考えられる。
研究は、多くの関係者それぞれが自分の役割を果たして初めてゴールに辿り着くことができる。研究者はもちろん、技術者、広報担当者、下支えする組織、研究資金提供者、さらには研究成果を事業化する者まで、すなわち上流から下流までトータルにコーディネートされた体制が必要である。今の日本の科学は、上記の中で特に広報、事業化といった部分が非常に弱く、結果として研究成果が社会に発信、還元、蓄積されにくい状態である。このままでは国民に科学の重要性が理解されず、これまで築き上げた日本の科学技術分野での優位性が損なわれることを危惧している。

2.私の経験
私は1998年から約3年間、株式会社三菱総合研究所から理化学研究所(以下、理研)に出向し、ゲノム科学総合研究センター(のちの横浜研究所)および広報室において、規程作成、広報活動、展示プロデュース、科学技術館運営サポート等を担当した。理研への出向期間満了後、官民交流法を利用し、経済産業省生物化学産業課において事業化支援の課長補佐となった。就任直後から全国のバイオベンチャー約70社を実際に現地訪問し、そののち、主担当者としてベンチャー人材育成のための事業を実現した。その活動の中でバイオ専門ベンチャーキャピタルより招聘され、産総研ベンチャー株式会社アドバンジェンの社長に就任し、創薬系バイオベンチャーの経営経験を積んだ。同社退職後、主としてIT技術を活用した広報活動支援を行う株式会社ライブログを設立、現在5期目となる。現在はその他2社の役員も兼務している。
また、吉備国際大学で2006年より「バイオベンチャー」の講座を持ち、文系学生にバイオ、ベンチャーについて講義を実施している。加えて経済産業省系のバイオベンチャー育成関連委員会の委員を務めるなど、バイオ産業・人材育成の最前線に立ってきた。
科学に対する一般理解の増進をライフワークとして、「親と子のゲノム教室」(ラトルズ、2003年)の出版や、科学技術館インストラクターへのレクチャー活動を実施してきている。

3.私の強み
(1)理研での勤務経験がある、(2)民間(大手シンクタンク、ベンチャー企業)と公務員の両方の業務に幅広く精通していることから、客観的に情勢を判断、意思決定できる、(3)創薬系およびITベンチャーの社長経験があり、理研ベンチャーを始めとする既存ベンチャーの活動支援および新たなベンチャー設立に対して、社長経験者、会社設立経験者として実務的なアドバイスができる、(4)複数の会社の社長、役員を経験し、責任を負った経営判断を瞬時に下す経験を長年にわたり積んできている、(5)ネットを中心とした活動の専門家であり、ボーダーレスな社会におけるグローバルなコミュニケーション関連ツールに精通している、(6)近年「サイエンス・コミュニケーション」と言われている種類の活動に早くから着目するとともに、レポート、著作を発表するなどアウトプットを出してきている、などが挙げられる。

4.応募の動機
これまでの経歴を活かし、科学の価値に関して一般生活者の理解を得るための包括的かつ効果的な活動を理研で実施したい。それにより、私が理研および経済産業省で学んだことを社会に還元することができると考える。
理研在職当時から、「理研って何をやっているのかよくわからない」という声を聞いてきた。私は理研において、研究者と国民との相互理解が高度に進んだ「理研モデル」を実現、提示したい。そのためには理研職員全員が、納税者である国民を含めた全ての人の協力なしには研究は行えないことをきちんと意識し、お互いに敬意を払い、理解を求める姿勢を持つ必要がある。理研の職員にその意識を植え付けると同時に、グローバルな情報発信、生活者とのコミュニケーション形成を理事という立場から総合的に指揮していきたい。

5.新しく挑戦したい事業
新しい試みの一つとして、近年選挙の議席数予想などで成果を上げている「予測市場」というIT技術を応用し、科学技術の将来予測を行うことを考えている。ハイレベルな研究者達の頭脳と感覚を使い、明確な答を出しにくいが社会的な関心が高い事柄に対して、一定の科学的信頼度を持つ見解を示そうというものである。
また、ブログ、SNS、Twitterといった既存ITシステムを利用し、理研と多くの生活者との国境を超えた双方向コミュニケーションの基礎を確立したい。
これらは、理研と社会との接点を増やし、理研の研究活動に対する一般の関心を惹起するきっかけとなるだろう。

6.まとめ
以下、理事となったときに中心となって実施したい活動を箇条書する。これらを実現することによって、理研がこれまで以上に国民に存在意義を認められる組織に成長すると確信している。
(1)ITによるグローバルな情報発信(一般ウェブサイト、ブログ、SNS、Twitter等)
(2)研究成果の事業化支援(ベンチャー支援、ベンチャー設立支援)
(3)コミュニケーションの促進(サイエンスカフェ開催、科学系博物館への協力等)
(4)理研の知恵の転用(予測市場による科学技術予測等)


理事の公募にあたって送付できるものは履歴書以外ではこの自己アピール文書だけ、しかもA4二枚以内ということだったので、これが分量的には精一杯だった。正直に言えば、書類選考ぐらいは通るだろうと踏んでいたので、そこで落ちたのにはちょっと驚いたのだけれど、要は自信過剰というやつだったのだと思う。この内容がイケテなかったのか、内容は良いけれど実行能力に疑問符がついたのか、あるいは全く別の理由なのか、そのあたりはわからない。

応募にあたっては、現在も理研で中堅やかなり上の方のポジションにいる方々、大学の先生や名誉教授などからも応援の言葉をいただいていたのだけれど、期待にそえるだけの実力がなかったということで、大変申し訳なく思っている。それぞれの方々にはまた別途ご挨拶するとして、ちょっとだけブログでバイオ的な補足というか、説明だけしておきたいと思う。本当はこういったことも書いておきたかったのだけれど、そのあたりは二次選考の面接で述べれば良いか、と思っていたら、残念ながらその機会はなかった。

僕が今回応募するにあたって考えたのは、「科学者の楽園たる理化学研究所をどうやったら再生出来るのか」ということである。応募書類にはここまでストレートに書かなかったが、内部の人たちと話をしていても、「理研というブランドは明らかに東大に劣っており、またそれに続く大学と比較しても、とても『楽園』という表現がフィットする場所ではない。東大と理研を兼務している研究者は、テレビに出ると東大の肩書きを前面にだしたりして、理研は認識度が低い」という声が聞こえてくる。そもそも、「理研」と言っても、日本全体で見れば知らない人の方が多いのが実情だろう。そんな状況にあって、どうやったら、大学とも、企業の研究所とも異なる、理化学研究所を作り出していけるのか、ということを考えた。そして、そこで出てきた結論は、上の文書を読んでもらえればわかるとは思うけれど、「科学と社会の橋渡しができる組織」であり、また、「社会とコミュニケーションを取れる研究者のインキュベート」だった。もちろん、全ての研究者が社会とコミュニケーションする必要はないと思う。ただ、コミュニケーションを希望している研究者は決して少なくないと思う一方で、そういう人たちをサポートしたり、活躍の場を与えてあげたり、さらにはそうした活動に対して責任を取ったりすることがあまり見受けられない。理研が国の方を向いているのは仕方ないとしても、理事の一人ぐらいは社会を向いて、また、社会の方を向きたいと考えている研究者や、それを支援したいと思っている事務方を支援するとともに、旗を振ることができたら、と考えたわけである。そして、僕が作った場で活躍した人たちは、理研を卒業して他の組織に出ていったときにも、「さすがに理研から来た人は違う」と思ってもらえるとも思ったわけだ。

ブログでバイオの連載をずっと読んでくれている人なら、僕のこうした考えは首尾一貫したもので、応募書類の中身についても昨日、今日で突然思いついたものではないことはすぐにわかると思う。

世の中はようやく「科学についての理解をきちんと深めていきましょう」という雰囲気ができつつある。しかし、その一方で、「そんな悠長なことをやっていたら間に合わない」という考え方もある。ノーベル賞科学者があわてふためいて(?)国に圧力をかけたりするのはその一例だったりもする。ブログでバイオの68回で僕が書いたことは、「そんな状態であったとしても、やはり僕たちはきちんと基礎体力をつけていかなくてはならないのではないですか?」ということ。別に圧力をかける人がいても構わないけれど、僕は圧力をかける側にはまわりたくないし、ノーベル賞科学者達が圧力をかけている最中にも、別のことをやった方が日本の科学のためだと思う。

国に圧力をかけるべき存在は、有識者ではなく、国民だと、僕は思っている。

僕自身はその信念のもと、色々動いてきたわけだけれど、理研が理事を公募しているという話を理研の内部の人から聞いて、「いっそのこと、理研の中に入って旗を振ってしまえば早いんじゃないか」と考えたわけである。そして、冒頭にも書いた通り、自らの実力不足ゆえ、その活動は実現しなかった。やはり、今まで通り、地道にゆっくりやっていくしかないようだ。

ちょうど今日、朝日新聞に「科学への信頼回復問う」という記事が掲載された。日本よりもずっと透明性が高く、科学と社会のコミュニケーションが密に見える欧米の研究者でさえ、「私たちは一般大衆との間でのコミュニケーションやデータの公開の面では課題を抱えている」と述べているようだ。しかし、日本において、企業の研究所でこうした活動を展開するのは非常に難しい。では、大学では可能なんだろうか?日本人が誰でも知っている「東大」が旗を振ることが可能なんだろうか?

今回、応募にあたっては少なくない方々に期待をさせてしまいました。ご期待にそえることができず、大変申し訳ありません。引き続き、科学、特にバイオテクノロジーの国民理解の増進に向けては微力ながら努力を続けていきたいと思っておりますので、これに懲りずに今後ともご支援をよろしくお願いいたします。  

2009年12月16日

ブログでバイオ 第68回「ドーピングに反対」

僕は実際に文科省や経産省の、ナショプロにお金をつけている現場を見てきている人間なので、そこで展開されていることの意義も、アホらしさも知っているし、また、そこに取り込まれている人達の大変さも良く知っている。

例えば、このところ、良く槍玉にあげられることが多いのが横山茂之さん。僕は、前にも書いたけれど、彼は十分に尊敬されるべき人だと思っているし、彼には彼なりの苦悩があるんだと思っている。予算が取れなくなって、それまで使っていた人達を一挙に切らなくてはならなくなるのは仕方のない話であって、逆に考えれば、それまでの期間、研究者達が働ける場所を用意したのである。それだけでも大したものだと思うのだが、「研究者達が職を失ってもあいつは平気だ。冷酷だ」という批判があったりするようだ。じゃぁ、一度雇った研究者達を未来永劫面倒を見なくちゃいけないのだろうか。あるいは、面倒を見れなくなった研究者達の就職の世話をしてやらなくちゃいけないのだろうか。今のご時世、そんなことまで要求するのはあり得ないと僕は思う。そこから先はどうしたって自己責任だろう。ところが、一昔前の家族経営的な研究室運営を見てきた人達は、そういう対応を要求するところがあるようだ。これではたまったものではない。また、横山さんのように一度行政の波に乗ってしまったら、あとはもう乗り続けるしかない。その時点で、研究者として何か一本の筋を通すことが重要なのではなく、バランスを取り続けることが重要になる。「NMRこそすべてを解決する」と言っておいて、しばらくすると「やっぱりX線も大事」となるし、「完全長cDNAだ」と言っておきながら、いつの間にかRNAを主戦場にしていたり、そういった波乗り技術が要求されるようになってくる。つまり、研究者としてというより、政治家として身を振っていかなくてはならなくなるのだ。日本の場合、結局のところ研究者というのは役所の下に配属されているので、どうしようもないところがある。

世の中は目に見えるものの中で、一番わかりやすいところを叩く。だから、横山さんが叩かれる。そりゃ、確かに大金をつぎ込んだタンパク3000プロジェクトは失敗だったかも知れない。でも、これもこのブログで何度か書いているけれど、もし、タンパク3000の結果は投入した予算に見合わないものだったとしても、それ自体は横山さんの責任ではない。横山さんを担いだ理研や文科省、そしてその説明を受け入れた財務省の責任である。ところが、タンパク3000が失敗だったかどうかという議論とセットで語られるべき、理研の責任、文科省ライフ課の責任、そして財務省の責任を問うている場面にはほとんど出くわさない。横山さん個人を批判するだけだ。横山さんはもうこういうことにすっかり慣れてしまっているのかも知れないが、本当なら、横山さんはまず第一にタンパク3000が失敗だと指摘する人達を相手に直接面と向かって反論する機会を持ててしかるべきだし、また失敗だという結論になった場合には、責任を取るべきは横山さんではなく別のところだと主張するべきだ(それぞれがそれぞれの場所で批判、反論はしているようだが、物凄い金額が投入されているのである。もっとオープンに、それこそ仕分け作業と同じように、誰もが見ることができる形でやれば良い)。それがきちんと行われないところに、日本の科学技術行政の未熟なところがある。

ところで、先日の仕分け作業で科学技術関連の予算の大幅見直しが決まって以降、いくつかの動きがあった。最も目立ったのはこのブログでも取り上げた、ノーベル賞科学者達の馬鹿会見だ。あれを見ているとノーベル賞科学者っていうのは本当にアホだな、と思うわけだけれど、少なくない人達が、彼らが会見をやったことによって溜飲を下げたようで、それはそれで悲しい気分になる。それからもうひとつの動きが、馬鹿研究者達が集まって署名活動を繰り広げたことだ。これはこれで頭が悪い。そのどちらも、どこが筋が悪いかって、向かっている先が行政だからだ。やっていることは街宣車で霞が関に乗り付けることと何ら変わりがないのだけれど、おそらくは当事者たちはそんなことは露程も思っていないに違いない。

日本人の多くは、何か困ったことがあるとすぐに政治家や役人にすがろうとする。それがそのまま、彼らの権利を拡大することになる。結果的に、科学はいつまで経っても行政に隷属することになるのだ。そういうことに全く気がつかないということが、馬鹿の馬鹿たる所以でもある。もともと日本人というのは官僚に隷属することに対して非常に鈍感な種族だと思うのだけれど、中でも理科系の人間というのは特にそういうところがある。なぜなら、興味の対象が物だから、社会の成り立ちとか、人間関係とか、コミュニケーションといったところへの注意力が不足してしまうのだと思う。これは例えば役所の内部などを見ても一目瞭然であって、それは事務官の技官に対する絶対的優位となって具現化している。

さて、多分科学者という人達の多くは次の文章を読んだことはあっても、理解はしていないと思うので、参考までに書いておく。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
(出典:日本国憲法)

これを読めば、科学者達がアピールすべき先は政治家や役人ではなく、国民だというのがはっきりするはずだ。残念なことに、理科系の人間はこういう文章に触れる機会が全然ないのだろう。だから、頓珍漢な行動にでて、失笑を買うのだ。

そんなことを思っていたら、このブログでも時々取り上げる中村桂子さんが生命誌研究館のサイトでこんなことを書いていた。

科学と社会とかサイエンス・コミュニケーションと称する活動の浅薄さを見た気がします。
(出典:中村桂子の「ちょっと一言」:「ちょっと疲れました」

あぁ、なんだ、やっぱりこういう考えを持つ人もいるんだなぁ、と思った次第。前にも書いたけれど、僕からすると中村さんは生命誌研究館とか、三菱総研社外取締役といった看板が僕から見ると邪魔であって、もっとフリーな立場になればすっきりするのになぁ、と思う。

科学者達は、「このままじゃ手遅れになる。すぐに動かなくちゃ。まず出来ることは政治家に圧力をかけることだ」とか、「何はともあれ署名活動をしよう」などとなるわけだけれど、それは完全に筋違い。今まで何もやってこなかったことを棚上げして、手っ取り早く、というのは、いわばドーピングである。

僕は仕事において、主に二つの場面で「ドーピング」という言葉を使う。

一つは、SEO対策をやりたがるウェブ運営者に対して、「SEOとは一種のドーピングです」という場合。そしてもう一つが、何か困ったことが起きたときに政治家や官僚にお願いしようとしている人を見た場合。

前者については、僕は「検索エンジンというのは、検索する人間に対して最適化されるべきであって、検索されるサイトに対して最適化されるべきではない。それぞれの検索エンジンは少しでも検索者に対して最適化されるように知恵を絞っており、もしそれに逆らった形で検索結果に対して圧力をかけるのであれば、それはフェアなことではない。ウェブサイトの運営者がやるべきは、検索者が閲覧したいと思うサイトを創り上げて行くことで、これは一朝一夕にできることではない。また、努力だけでは不可能かも知れない。それでも、日々の努力で少しずつ、閲覧者のニーズに適合したサイトにして行く必要がある。そうした日々の努力、いわばトレーニングを怠り、安易に検索結果を都合の良いように変えてしまうことは、ドーピングのようなものだ」と説明している。

後者については上にも書いたけれど、今回のケースで言えば、「時間がないから政治家に訴えよう」といった行動。本来、科学技術の重要性というのは政治家に理解してもらう筋のものではない。主権者である、国民に理解してもらうべきものだ。国民が「スパコンは世界一である必要がある」「SPring-8には十分な予算を与えるべきだ」「科学者の卵達にはきちんと投資しなくてはならない」と感じているなら、そもそも仕分けで減額しようなどという話にはならない。そうなってしまうのは、科学者達が主権者たる国民に対してきちんと科学の重要性をアピールしてこなかったことによる。科学者の本音は「国民は馬鹿だから理解できない。官僚が理解してくれれば十分だ」というものに違いない。

例えば、僕は10年近く前に、「親と子のゲノム教室」という、バイオの入門書を出版したことがある。僕がこの本でやろうとしたことは、家庭の中で、一冊の本を共有し、親から子供までそれぞれのレベルでバイオについて理解を深めてもらい、場合によっては親子で一緒に工作をしたり、実験をしたりして、今まで気がつかなかった生活の中の「不思議」に気がついてもらうこと、興味を持ってもらうことだった。今読んでみると、内容的には確かにちょっと古い部分もあるし、至らないところもあると思う。でも、自画自賛しておくなら、ストライヤーかコーン・スタンプかレーニンジャーはどれか一冊あれば十分だけれど、この本の代替書はどこにも見当たらない。普通の主婦と小学生が一緒になって読める、ちょっとした試薬を使ってもしかしたらDNAを目で見ることができる、簡易なDNAのモデルをペーパークラフトで作ることができる。そんな本がどこにあるのか、ということだ。

この本は大した数が売れたわけではない。良く憶えてないけれど、せいぜい5000部程度だったはずだ(ただ、韓国人の目に留まったようで、韓国語に翻訳されて出版されている)。それで、別にこの本を買えというわけでもない。でも、科学者が、こういう活動を怠ってきたからこそ、今があるんだということは肝に銘じて欲しいと思う。その上で、今からでも遅くはないのだから、地道にひとつずつ、積み重ねて行って欲しいと思う。僕の本がイマイチだというのなら、その延長線上にもっと良い本を出せば良いだけのことだ。

安易に政治家に頼ると言うのは、この瞬間だけは状況を改善するかも知れない。しかし、簡単に改善すればするほど、長いスパンで見れば状況は悪化することになる。ノーベル賞科学者が集まって意見を言うとか、あるいは仕分けの結果に異議を唱える署名活動を繰り広げるなんていうのは間違いなくこの手の領域の活動である。

非常に残念なのは、サイエンス・コミュニケーションといった活動を繰り広げている人達の中の少なくない人が、平気でこの手の馬鹿署名活動に参加していることでもある。「出来ることは何でもやろう」というのは確実に間違いだ。きちんとやるべきことを精査して、その上で的確に行動すべきなのである。本来科学者というのは冷静に事実を見極めようと努力する人、その事実を尊重する人、事実に対して誠実で謙虚である人達のはずだ。目の前にある現象をきちんと把握し、それを理解しようとするためには、最低限、それが必要なはずである。ところが、その人達が、事実を目の前にしてパニックに陥り、その事実をねじ曲げようとしている。ここにこそ、日本の科学者達の質の低さが露呈しているのである。今目の前にある事実は、「国民は科学技術の重要性をきちんと理解していない」ということである。そのための努力を怠ってきて、その結果困ったことになったとたん、「官僚の皆さん、助けてください」では都合が良すぎる。きっとこういう人達は平気で実験結果を捏造する人達だと思う。

もうひとつ、僕はBT戦略会議がバイオテクノロジー戦略大綱をまとめたとき、経産省のバイオ課にいて、その作成の一部を手伝った。その際、僕が最もこだわったのが、大綱の3本の柱のひとつ、「国民理解の徹底的浸透」である。僕はこの部分について、是非とも数値的目標を設定すべきだと主張したのだが、結局それを実現することはできなかった。バイオ予算の○○%を国民理解の浸透のために使う、という形にしたかったのだが。もちろん、ただお金を使えば良い、というわけではないのだが、やはり数値目標は必要だったと思う。大綱ができたのが平成14年。それから7年経って、国民の理解が進んだかといえば全然そんなことはない。遺伝子組換え作物に対する理解も全然だし、BSE対策の何が良くて何がダメなのかもわかってない。もちろんコラーゲンを飲めばお肌がプリプリになると真剣に信じている人が山ほどいて、それを良いことに国民を騙し続けている大企業がある。こんな状態で、科学が国民に受け入れられるわけがない。まぁ、大綱に数値目標を入れられなかったことは僕にも責任があるので、一方的に非難はできないのだけれど。

ということで、長々と書いてみたけれど、僕が言いたいことは、今必要なのは、地道なトレーニングである、ということ。決してドーピングをしてはならない。僕自身、すでにITの分野に軸足を移してしまい、バイオの領域についてはダイレクターではなく、評論家的な立ち位置にいることは間違いない。ただ、もし僕がトレーニングの一部を手助けした方が良ければ、その時間を作ることは可能である。僕が常々言っていることは「理研や経産省において、税金から給料をいただいて勉強させてもらったことは、きちんと国にフィードバックしなくてはいけないと考えている」ということだ。

そろそろ何かやった方が良いですかね?

#これは全く余談なんだけれど、文科省が取ってきた予算は理研で執行できない、経産省が取ってきた予算は産総研で執行できない、というルールにしたら面白いだろうなぁ(笑)。  

2009年11月10日

ブログでバイオ 第67回「植物工場って、名前が悪い?」

今日、四谷三丁目の「ウシカイ」というレストランで、植物工場で作られた野菜の試食会に参加してきた。

最初に書いておくけれど、このウシカイさんは僕がときどき言及するリバネスの子会社「ライナ」が11月24日に四谷三丁目にオープンする、同社3店目の飲食店(他に、カフェ・ド・リバネスとル・バード)。ライブログはリバネスとはいくつか共同事業を展開しているから、完全な部外者とは言えない。特にバイアスをかける気はないけれど、そこは人間だから、完全にフェアではないかも知れず、そのあたりは各自修正して読んで欲しい。

さて、植物工場。「工場」という名称だけれど、どんなものかと言えば温室みたいな感じのよう。小型で都市部の店舗内に設置できるような施設。光、温度、湿度、二酸化炭素、養分、水などを完全にコントロールし、野菜を中心とした植物を計画的に生産する施設。

それで、その施設で作った野菜を食べてきた。食べた感じは、普通に美味しい。何か特別に美味しいという感じではなかったけれど、逆に言えば普通のところが凄い。葉物はどれもちょっと柔らかめで、しゃきしゃきした食感を求める向きにはちょっと物足りないと思うのだけれど、逆に歯が弱ってきている人とかにはかなり優しい食感だと思う。あと、加熱してしまったら天然だろうが工場製だろうが、全然変わらないと思う。何しろ、「これは工場生産だからダメ」なんていうことはない。ま、世の中のほとんどの人たちは雪国まいたけの工場産まいたけを食べているのだから、別に工場で作られた野菜を毛嫌いする必要性はないはずだ。

では、この植物工場で野菜をつくるのは、どこが良いのか。

まず、完全な閉鎖系での栽培だから、虫が入ってくることがない。病害虫にさらされることがないから、農薬の必要性がない。すなわち、無農薬野菜。

続いて、供給の安定性。「今年は日照が少ないから」とか、「雨が少なくて」みたいなことがない。過剰に生産することも、不作に悩むこともない。安定して供給されるから、価格も安定する(はず)。いや、電気代とかが上下すれば植物工場製の野菜の価格はアップダウンするんだろうけれど、まぁ、基本的には安定するはず。少なくとも、気候の年変化に起因する価格変動よりはおだやかな変動になるはずだ。

日照時間を制御できるので、ある程度まで成長スピードも制御できるはず。つまりは必要とされている時期に必要とされている量だけを供給できる。それも、数日とか、もしくは一日レベルで制御が可能なのかも知れない。

室内での栽培だから、オールシーズン希望の野菜が希望の量だけ供給される。「旬」という概念がなくなってしまうことになる。日本人は季節感とかを物凄く大事にする人種なので、それはそれでメリット、デメリット、両方が生まれてくると思うのだけれど、少なくとも都市部に生活している人々にとっては、ポジティブなインパクトの方が大きいと思う。

それから、異物混入も頻度が減るはず。というか、理論的にはほとんどゼロにできるはず。なので、野菜を供給する側の負担やリスクは大きく軽減されるはずだ。また、当然のことながら洗浄もほとんど必要ないはず。この手間がなくなるのも飲食店にとってはありがたいはず。

業態によっては、いつでも取れたての野菜を楽しめる、なんていうことも実現する。畑から直送ではない。目の前で栽培されている野菜を摘み取って、その場で調理するとか、あるいはその場でそのままサラダにして食べることができる。イチゴ狩りみたいなのりで、飲食店の中で野菜を手で摘み取って、そのまま食べることができる。今でもハーブなどを自宅で栽培して楽しんでいる人はいると思うのだけれど、そののりで野菜サラダが作れたりすることになる。

逆に、デメリット。

まず、ちょっと高いらしい。でも、これは技術導入初期は仕方ない。上に列挙したようなメリットがたくさんあるのだから、工場産の野菜を投入しても、最終的には競争力も期待できる気がする。それに、一般の家庭ならともかく、レストランとかなら、最初から割高なのは承知の上のはず。だって、家でカレー作ったら一皿200円ぐらいで作れるとわかっているのに、ココイチみたいに美味しくもないカレーに普通に400円とかお金を払うわけで、中村屋なら1000円以上。だから、レストランの内部に植物工場を置いておいて、そこから食材を供給するなんていうのは十分にありうる話だろう。外食産業は植物工場導入のもっともわかりやすい現場となるはずだ。

続いて生産できる品目。このあたりは今日のプレゼンではあまり詳しく触れられなかったけれど、葉物が中心になるのは当然。葉物の中でも作りやすいものと作りにくいものはあるはず。作りにくいものについては価格も高くなってしまうだろう。品目の拡大は今後の課題になっていくと思うのだが、実際のところはそれほど難しいことではないと思う。

あとは・・・・停電とかがあると一網打尽になる可能性があるとか、いくつかの問題はあるんだろうと思うのだけれど、今日は美味しい料理を食べながらだったから考えが及ばなかった(笑)。

ところで、このブログの「ブログでバイオ」で取り上げるんだから、このくらいの話で終わってしまうのでは面白くない。僕が注目するのは遺伝子組換えによる高機能野菜の植物工場による生産である。植物工場は当たり前の話だけれど、閉鎖系である。つまりは昆虫によって花粉がよそに飛んでいってしまうとか、そういう事態があまり想定されない。もちろん皆無ではないし、人為的に外部に持ち出されてしまうリスクも存在はするものの、基本的に閉鎖系である。今、日本で閉鎖系が期待されているのは言うまでもなく遺伝子組換え作物の栽培シーンである。遺伝子組換え作物の栽培にとって、植物工場は大きな影響を及ぼすに違いない。栽培の可能性が広がるなら、新しい品種の創出モチベーションもアップするに違いない。一方で、遺伝子組換え技術が植物工場の発展に大きく寄与する可能性もある。つまりは、工場で生産しやすい植物のデザインが活発化するだろう、ということだ。遺伝子組換え作物の発展・普及と植物工場の普及は相補的というか、シナジー効果が大きいと予想される。

一見小さな一歩に見えるけれど、都市型植物工場の飲食店への導入というのは、実は非常に大きな可能性を秘めていると思う。飲食店に続いてデパート、集合住宅、そして最終的には一般の家庭へ。これまでは期待に反してなかなか一般化が進まなかった植物工場だが、いよいよ新しい展開が視野に入ってきた気がする。

ただ、植物工場って、ちょっとネーミングがどうかと。もうちょっと何とかならないんですかね(笑)?

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まぁ、このあたりもバイオだよな・・・・

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ウシカイ
東京都新宿区四谷2−2 第22相信ビル4F

ライナ株式会社の告知↓
〜経済産業省 先進的植物工場推進事業〜  

2009年10月15日

ブログでバイオ 第66回「役所の人材育成には将来に向けたパースペクティブなどない」

普通のテーマで書いたつもりだけど、ブログでバイオにしちゃえ(笑)。

僕は経産省時代に人材育成の予算を獲ってきたことがある。バイオのベンチャー人材を育成しましょう、というようなお金だったわけだけれど、これはどんなお金かって、「将来活躍して、産業を支えてくれるような人材を育成しましょう」というもの。じゃぁ、そのお金を使って人を育成できるかといえば、それは可能性の問題であって、どうなるかなんかわからない。結果的にそのお金を使って育成された人や会社は出てきたので、それはそれで喜ばしいことだけれど、「これなら絶対」なんていう自信があったわけじゃない。要は、一種の投資だったということ。

さっき、Twitterでサイエンス・コミュニケーターの話があったんだけれど、こういうのも一緒。「科学技術の専門家と市民との間を橋渡しする人材が求められている」とか言っても、これは国のお金を獲るための作文であって、本当に求められているかどうかなんてわかったもんじゃない。もちろん、企業からすれば「せっかく最先端の技術を使っているのだから、それを理解して活用して欲しい」という建前はあるだろう(実際は、トクホみたいに本当のことを言えば大して効果が見込めないものを、科学を知らないおかげで勘違いして買ってくれる状態は企業にとってありがたいはず)し、大学などの人材供給サイドとしては「失業されたら困るから、社会に出たときに活躍できる可能性を確保しておきたい」というのがあるだろう。双方に利益があるので、「よーし、じゃぁ、この予算を獲りにいくぞ」ということになる。

正直に言うけれど、僕が人材育成の予算を獲りに行ったのだって、「今まで人材育成の分野は厚労省と文科省のテリトリーだったけれど、経産省もこの分野を開拓したい。これまで散々バイオベンチャーを見てきている人間から見て、何か玉は出せないのか」という上の意向があったから実現したわけであって、「どうしても絶対何が何でも人材が必要」というわけではなかった。役所(の上層部)が考えることは「どういう文脈で予算を確保するか」である。

これらの予算獲得スキームの中で、育成される側の当事者の意向なんていうのはどこにも存在しない。また、当たり前だけれど、彼らの将来に対する保障もない。重要なのは、人材育成のテストが行われ、ある程度の方法論が確立され、それが一般化することなのだ(それが可能かどうかというのはかなり疑わしいが)。もちろん、そのテストを通じて育成された人材が大活躍してくれれば、そんなに望ましいことはない。「ほらみろ、うまく行ったじゃないか。俺たちは政策立案能力が高いんだぞ。次はこれだ」みたいなことになるわけだから。だけど、別に育成した人たちの将来がどうなるのかなんてわかったものじゃない。バイオベンチャーの人材だって、2000年前後はブームだったからニーズがあったけれど、今はどうなのかわかったものじゃない。結局、最終的には仕事があるかどうかは周辺環境と本人の努力次第、能力次第ということになる。

そして、「さぁ、育成したのは良いけれど、どうにも仕事がありませんね」という事態はそう珍しいことではない。その場に至って、役所は「僕たちは財務省に行って予算を獲ってきただけ」というし、その予算で動いた組織は「僕たちはお金を使って人材を育成して、マニュアルを作っただけ」というし、社会は「別にそんな人材は必要ないですよ」というので、人材が宙ぶらりんになるわけだ。こういう場面で、優しい人たちは「このかわいそうな人たちをなんとかしてあげてください。国のお金で育成したんだから、国が面倒を見てあげてくださいよ」とか言うわけだけど、もう筋違いも甚だしい。

仕事が仕事として成立することの難易度は、その仕事が対象とするマーケットの大きさと、マーケットまでの距離によって規定される。そして、成立するからといって、その仕事ができるかといえば、これはこれでまた別の、本人の能力とか、努力とか、運とかが関わってきて、誰もがそれをできるわけではない。

ためしに、サイエンス・コミュニケーターっていう仕事が成立するのか、という個別具体的な事例について考えてみる。

まず、マーケットサイズ。「科学技術について、お金を払ってでも知りたい」という人がどの程度いるのかということ。僕は北の丸の科学技術館の一部の展示とか、つくばのエキスポセンターの一部の展示とかのプロデュースをやってきているので、お金を払って科学についての知識を得たいと思う人たちを実際に見てきている。しかし、そのパイがどの程度なのかというと、おそらくそれほど多くないと思っている。また、そのパイを一箇所に集めるというのもそれなりに難しい。となると、マーケットのサイズ自体はそれほど大きいとは言えないのではないか。

次にマーケットまでの距離。これは個人でやる場合と、会社でやる場合とが考えられるのだけれど、まずは個人でやる場合で考えてみる。元木一朗というサイエンス・コミュニケーターがいたとして、こいつに誰がどういう目的で仕事を出すのか。製薬会社にしろ、食品会社にしろ、「元木さん、ぜひ当社の技術を生活者の皆さんにわかりやすく伝えてください」などとオーダーを出すのか、ということなのだが、ちょっと考えにくい。「そんなの、広告・宣伝の部署のやつにやらせておけ」ということになるはず。じゃぁ、学校?「うちの高校生たちにサイエンスを教えてやってください」というオーダーを出すのか、ということ。うーーーん、これもちょっと簡単には思い浮かばない。コミュニケーターが元木一朗じゃなくて、ノーベル賞受賞者とか、あるいはトップアイドルとかなら話は別(たとえばキムタクが女子高に行ってトクホについて説明する、なんていうのならニーズは必ずあるはず)なのだけれど、それはサイエンス・コミュニケーターという仕事自体へのニーズではない。将来的にカリスマ・サイエンス・コミュニケーターが誕生して、引く手あまたになる可能性は否定できないのだけれど、じゃぁ、安定してオファーがあるの?とか、誰でもオファーがあるの?となると、常識的に言って答えはノーだと思う。じゃぁ、元木一朗サイエンス・コミュニケーターは個人としてはやっていけそうにない。じゃぁ、会社の中の人間としてならどうなのか。たとえば味の素にサイエンス・コミュニケーター。うーーーーーん、なくはないかな。味の素に一人ぐらい、プロのサイエンス・コミュニケーター。なんかありな気がする。でも、二人は要らない。あと、内部で育成可能なので、わざわざ育成されたサイエンス・コミュニケーターを採用する必要はない。となると、企業の場合は会社自体がマーケットになるけれど、そのポストに就くのが大変だってことで、それはサイエンス・コミュニケーターを目指す人から見れば、マーケットまでの距離が遠いことに他ならない。もうひとつ、会社のパターンとして考えられるのが、サイエンス・コミュニケーターをある程度プールしておいて、必要に応じてそれを派遣するようなスタイルの会社に所属すること。これになると上にあげたパターンよりも大分先が見えやすい。そういう会社があるのかどうか知らないけれど、リバネスあたりがやっていても不思議ではない。

個人でやるにしても、組織でやるにしても、やっぱりマーケットまでの距離はかなりあるようだけれど、会社組織としてコミュニケーターを抱えて、そのプロデュースをしていく、というのなら、ありなのかも知れない。と考えていくと、「可能性はゼロではないけれど、これは結構難しくない?」ということになる。マーケットサイズは小さいし、マーケットまでの距離は離れているのだから。難しいということは、本人の才能も、努力も、運も必要ということである。加えて、マーケットを顕在化させるだけの何らかの仕組みが必要だ。あと、忘れてはいけないこととして、サイエンス・コミュニケーターなどという名前を使っていないけれど、似たようなアクティビティを発揮している人はいくらでもいるということがある。たとえば僕は「親と子のゲノム教室」というバイオの入門書を書いていて、時々科学技術館のインストラクターに対してバイオをレクしに行ったりしている。そういう人間はすでに山ほどいるわけだ。

もちろん、「絶対無理」というわけではない。おそらく、最初の数人は大丈夫。でも、そこから先は難易度が格段にアップする。パイオニアは偉いので、先行者利益を得られるわけだけれど、追従者は「柳の下にどじょうはそう何匹もいませんよ」という現実を目の当たりにすることになる。まぁ、ニュース番組でちょっと能力不足を露呈させてしまった菊川怜あたりなら行けるかもな、と思うけれど。あ、これも純粋なコミュニケーターとしての能力じゃなくて、本人自体のアイドル性に依存しているか。

閑話休題。と、いうことで、結論としては、サイエンス・コミュニケーターっていうのは基本、難しいよね、ということになる。ケーススタディ、終了。

ある種の分野において、国のお金でスキルアップできることがあるのは間違いない。でも、将来は全然保障されていない。その手の人材育成のテスト生募集では、お題目として、「これこれこんな人材が必要とされている」などと書かれているけれど、そんなものは何だって書けるのである。「ラーメンのおいしさを網羅的に調査し、今一番おいしい店を紹介してくれる人間が求められている」「映画を年100本観て、面白い映画を紹介してくれる人間が求められている」「競馬に精通し、購入すると当たる可能性の高い馬券を紹介してくれる人間が求められている」って、全部嘘ではない。たまたま、誰も予算要求しないから(あるいはしたけれど、財務省にはねられた)実現しないだけで、「こういう人がいたら良いのにな」なんていうのは山ほどある。そして、たまたま財務省が「そのとおりだね」と思ってくれたとしても、ただ、それだけということ。じゃぁ、そういう人間が輩出されたからといって、本当に必要とされているのか、その点については、役人は何のパースペクティブも持ち合わせていない。財務省は予算を要求されたから予算をつけたのだし、各省は予算が欲しいから作文しただけなのだ。

役所のお金というのは基本的に単年度。政権が交代してしまえば継続性なんていうものはあっという間に失われる。そうした中で配られるお金は、どうしたって散発的なものになる。人材育成だって、あくまでも最初の背中を押すだけのこと。そこから先は、当事者たちの努力と、周囲の理解と、そして社会のニーズが必要なのだ。ここでひとつ重要なことは、社会のニーズとは常に変化しているということだ。今必要とされていても、5年後に必要とされているとは限らない。

それからもうひとつ、忘れてはならないこと。この手の人材育成がうまく回り始めると、それなりの数の人間が輩出されることになる。そして、人数が増えたとき、何が起こるのか。一人当たりの価値が下落する。つまりは、収入が減るということ。弁護士や医者のように、規制によって人数が制限されている職業とは違うということを覚えておく必要がある。今皆が生活が成り立っているからといって、人数が増えたときに相変わらず成り立つのかどうかは非常に疑わしい。このあたりは、規制がない限りは市場原理に従うのだ。能力の高い人間は能力の低い人間より収入が多くなるし、総数が増えれば平均収入は少なくなる。

#念のために書いておくけれど、僕は役所が無責任だとか言いたいのではない。当たり前の話。要は、政策的に何か人材を育成しようという制度があったとき、それをうまく使ってスキルアップするのは良いけれど、それは別に将来を何も保障しないんだから、何をするにしても色々努力する必要がありますよ、ということ。  

2009年09月30日

ブログでバイオ 第65回「博士の就職難に関する今の個人的かつ現実論的考え」

まず最初に書いておくけれど、仕事がらみで精神的に参っている人は以下の文章を読んではだめです。

「キチガイ」という言葉は放送禁止になっているけれど、まことしやかにささやかれているその理由は、

1980年代に回復治療期に、テレビ・ラジオでこの語を聞いた精神障害者がショックを受けることにより、治癒を妨げる恐れが指摘されたことから、指摘を受けた関西の準キー局である毎日放送が使用の自粛を呼びかけた。

(出典:ウィキペディア「きちがい」

といったもの。テレビや新聞などのご立派なメディアが自己規制するのは勝手なのだけれど、その基準に合わせる気は全然なくて、僕はこのブログでも普通に「キチガイ」という言葉を使っている。回復治療期にある精神障害者の方々がどの程度の数いるのか僕は知らないけれど、そういう人はこのブログは読まない方が良い。同じように、仕事に関して悩みを抱えていて参っている人にとっては僕の文章は毒になるのかも知れないので、危ないな、と思うなら、これまたお勧めしない。

さて、ここまでが注意書き。続いて、前書き。

正直、僕はTwitterがそれほど面白いとも思わないし、メディアとしての長足の成長というのも微妙だと思っているのだけれど、情報消費社会の中において情報のハブとしてはそこそこに機能すると思っているし、ある特定の場面ではビジネスユースも可能だと思っている。また、RSSを使ってきっちりフォローし続けるブログと違い、要は電車で隣に座ったサラリーマン二人組の愚痴みたいなもので、聞こえてくれば面白いこともあるけれど、わざわざメモするようなことでもない、そんな情報の塊なので、スルー力さえあれば時間つぶしには格好の素材でもある。僕にとっては、少なくとも、ミクシィなんかよりはずっと使えるツールなので、ミクシィはすっかりアクセス頻度が落ちてしまった。渋谷のハチ公前交差点で信号待ちをしている人たちが何を考えているのかわかっちゃう、みたいなものだから、デスノートの余命が見えちゃうのよりもずっと混沌としているわけだけれど、「今、スペイン坂のスタジオで堀北真希がラジオ生出演しているらしいよ」なんていう情報はあっという間に伝達するわけで、ボーダーがあいまいな緩やかなクラスターの中でのムーブメントみたいなものは結構把握できる。僕はTwitterを始めたばかり(というのは正確ではないか、ずいぶん前(2007年6月(笑))にアカウントだけは取っていた。利用方法が思いつかなかったので、その後長い間放置してあって、まじめに使い始めたのが8月ぐらいから?)なので、適当に知らない人をどんどんフォロー(つぶやきをウォッチしておくリストに入れること)しているのだけれど、中にはリアルな知り合いなどもいて、どうしてもコミュニケーションの密度はそちらの方が高くなる。そんなTwitterをつらつら流し読みしつつ、ちょこっとかわしたやり取りなんかを通じて、博士の就職難については新しく見えてきたものがないわけでもない。ほとんどは以前から書いていることの繰り返しなんだけれど、整理も含め、考えをざっと書いてみる(本当はTwitterで書くべきなのかも知れないけれど、つぶやくにしては長すぎる(笑))。要は、改訂版という奴だ。

以下、理系の博士について。ここからが本論。

もう、僕は博士やポスドクの就職難問題にはあまり興味がないのだけれど、世の中の一握りの人たちはそうでもないみたいで、まだ博士の就職がどうのこうのとやっている。それで、そんな議論を見ていたら、「東大には博士の就職問題なんて存在しない」とか、「東工大には博士の就職問題は存在しない」という話があって、ほらね、という感じである。要は、就職できる、就職できないというのは、博士なのか、博士じゃないのか、というところがポイントなんじゃなくて、そいつが使えるのか、使えないのか、ということ。僕個人としては東大や東工大の博士であっても無条件に評価する気はさらさらないけれど、社会全体では評価するという方向でコンセンサスが形成されているならそれで良し。で、「優秀な博士」は、普通に就職できるわけだ。これは、博士じゃなくても一緒。東大とか東工大の学部卒や院卒はその他の大学に比較して就職しやすいという現実は、必ずあるはず。でね、東大の大学院とかは、学位取得後の就職はそれほど困らないみたいなのに、定員確保には四苦八苦しているらしい。要は、東大の博士は十分な席があり、東大は受け入れたいと思っているにも関わらず、入学するためのハードルを越えられる人が少なくて、定員が確保できないということですよね?ものすごく正論を言えば、博士課程なんてやりたい研究の内容で進学先を選ぶべきだとは思うけれど、就職のことを考えての選択も、まぁ、ありと言えばありなのだろう。というか、日本の社会の一員として生きていくことを考えるなら、将来をきちんと設計した上で進学すべきであって、現在の日本では「研究の内容で進学先を選ぶ」なんていうのは空論だということになる。

そんなことを考えていて書き始めたのがブログでバイオの65回目である。

大学院進学は乱暴に次の4つに分類することができる。

1.やりたい研究テーマで東大の大学院
2.看板を考えて東大の大学院
3.やりたい研究テーマで東大以外の大学院
4.学力がなくて仕方なく東大以外の大学院

2や4が存在することに対して、おそらく社会の受け止め方は2に対しては嫌悪感を表明し、4については仕方ないと考えることが一般的だと思う。正直に言って、2に対して眉をひそめるような人を僕はあまり好きではない。いや、研究者としては2は駄目なんだろうけれど、人生を設計し、そのひとつの道具として「東大院卒」という看板を捉えるなら、そりゃそれでありだよな、と考えるのが僕のスタンス。僕はどちらかというと4のような存在について疑問に思う。やりたいことがあるのに学力が不足して東大に行けないなら、さっさとあきらめてしまった方が良いと思う。

東大がやっていることは、要は優秀だとわかっている人間を連れてきて、普通に教育して、社会に出しているだけ。これは、普通に考えれば当たり前のこと。難しいのは、「大して優秀じゃない奴をきちんと教育して社会に出すこと」だ。でも、東大の大学院はそういう能力(人的にも、カリキュラム的にも)がないから、優秀な人間しか取らない。このあたり、東大も「教育能力」という面ではまだまだ能力不足なのだろう。本当に「日本一の大学」と称するなら、色々人を連れてきて、凄い人間に教育してみろと思う(笑)。でも、やっぱ、難しいものは難しいよなぁ。それはもちろん僕もわかっている。能力はあるのだけれど、ちょっとしたハードルが越えられずに困っている人に、ちょこっと手助けして大きく飛躍させる、これは比較的簡単で、成果も出やすく、教える側の自己満足も得られる作業なので、僕なんかも大好きだ。一方、全然能力的に足りない人を、手取り足取りして一から教育して、最終的に一人前に仕立てることのなんと大変なことか。僕もできればそういう作業はやりたくない。

ちょっと話がそれたので戻すけれど、4つのパターンの中で、正直、困るのは3の存在。一般論的に言えばこのクラスターが一番まっとうなクラスターではある。でも、このクラスターは失業博士になる可能性が4同様非常に高いわけだ。「研究が好きなんです」という理由で進学するのはもちろん構わないし、ある意味理想的でもあるのだけれど、理想で飯は食えないという現実もある。お金持ちなら趣味で研究を続けるのも良いだろう。ただ、日本の社会で生きていくのは非常に難しい。研究で食っていこうと思うなら、現状では3は避けた方が良い。また、その現状はそう簡単には変わらない。ストレートに言えば、能力が高い人間が就職しやすいのは間違いがない。また、能力を見分けるための「人間のラベル」として、日本人は学歴を重視する。この傾向はアカデミアに近くなれば近くなるほど強くなると思う。たとえばうちの会社などは履歴書すら要求しないし、学歴などは何の参考にもしないが、大学の先生になるとかいうと当然のごとく履歴書を要求してくる。だから、将来苦労したくないならやりたい研究より東大というラベルが重要だ。世の中には「やりたいことがあるなら、それができる大学に行け」という人が大勢いそうだけれど、そういう人たちは将来仕事がなくなったときに仕事の面倒を見てくれるわけではない。無責任に理想論を提示しているだけだ。理想論は述べるのも聞くのも気持ちが良いのだが、それを唱え続けるだけで幸せになれると思ったら大間違いである。

ところで、人の能力というのはかなりの部分までが、相当に子供の頃に決まってしまっているような気もする。小学生のときに成績が良ければ、良い私立中学に入れる。良い私立中学は高校もエスカレーターで、東大、京大といった一流大学にも入れる可能性が高くなる。東大に行けば、東大卒という看板がもらえて、就職にも困らない。ちょっと外れてしまっているところからこのレールに乗るのは、かなり大変だと思う。少なくとも、最初からレールの上にいた方がずっと楽だ。

ただ、ひとつ例外があって、それは大学院からの東大デビュー。東工大、早大、理科大といった超一流じゃない大学を卒業してから大学院で東大に行く手段で、学歴ロンダリングとも言われる。でも、これだってどんどんやれば良い話。東大に入ろうと思えば、大学から入るより大学院から入る方が楽だというのなら、それで良いじゃないか。僕は東工大で学部から大学院に進学したけれど、研究室には理科大からの大学院生が相当数いた。また、東大からの大学院生も相当数いた。彼らは別にどちらが優秀というわけでもなく、一律にみんなそれなりに優秀だったと思う。一番見劣りしたのが僕も含めた内部の人間だった気もしないではない。何しろ、人生は長いのだから、大学受験という非常に短い期間に行われる単発的なイベントでその後の人生が完璧に決まってしまう必要はないはずだ。実際、日本社会はある程度まで最終学歴で見てくれるところがあるのだと思う(実際は最終学歴じゃなくて、大学入学実績で見ているところが多いかも知れない(笑))。だから、大学院から東大デビューというのはお勧めの作戦でもある。

東大は定員に足りてないらしいから、博士になって活躍したい人は、みんな東大に行けば良い。簡単な話だ。東大の博士なら食いっぱぐれる心配もないらしい(ただし、Twitterで聞いたレベルだから、本当かどうかは知らない。ま、中には就職できずに困っている人もいるかも知れない。でも、多分それはマイノリティっぽい)。将来失業したり、就職で困ったりしたくないなら、悪いことを言わないから、東大に行っておけ、と、そういうこと。東大の博士課程の定員がどのくらいなのか知らないけれど、ま、1500人ぐらい?石を投げれば理一に当たるとか言われていた僕の時代でも理一だけで1000人定員があったんだから、このくらいはあると思うのだけれど、何しろ、現状定員割れしているなら、どんどん東大行けば良い。それで、「いやー、学力がなくて、東大はちょっと」という感じの人は、将来、就職で苦労するのは当たり前ってこと。そういう人は、博士課程なんか行かずに、さっさと就職すれば良い。能力ないのに無駄に時間を費やして、博士なんていう何の役にも立たない看板を手に入れても全くの逆効果。みんなが東大に行って、東大にいけない人は就職ってことになると、地方の大学が困るって?そんなの知ったことではない。

ここからはちょっと学生サイドじゃなくて大学サイドの話だけれど、「就職は難しいけれど、人は欲しい」って、それは教育の対象として学生を見ているんじゃなくて、労働力として見ているってこと。地方の大学は、「どうしてうちの学生たちは就職で苦労するんだろう」って、真剣に考えるべき。でも、簡単に思いつく解決策はある。それは、「入試を難しくしろ。定員割れでも何でも良いから、とにかく難易度を上げろ」という回答。少なくとも東大並みに難易度を上げれば、社会の評価は必ず高くなる。ただ、そういう学生のレベルに見合っただけの研究環境を提供できるのか、という問題はある。あ、あと、本当に合格者がゼロになってしまう可能性は非常に高い。でも、仕方なし。「そんなことできるわけない」という意見も当然出てくるだろうが、「それなら、大学が必死に努力して自分の大学の博士たちが就職に困らないようにしろ」ということになる。博士の就職難というのは、当然ながら大学にも責任はあるのだ。念のために書いておくけれど、努力とは、就職の世話をすることではない。「民間企業が採用したくなるような人材に育てる」努力である。

さて、大学の立場からの話は適当に終わらせて、再び大学院生の話。将来の人生設計を考えつつ、大学院への進学を考えるなら、選択肢は次の2つしかない(かなり乱暴なのは承知の上)。

1.やりたい研究テーマで東大の大学院
2.看板を考えて東大の大学院

ちなみに人生設計を考えない選択肢としては、こんなのもある。

3.モラトリアム、あるいは趣味、遊びとして大学院に進学(ただし、もちろん就職は難しくなる)

そして、どれも無理、という場合は4つめ。

4.それ以外はないから、研究職はあきらめる

注釈:実際には東大だけじゃなくて、京大、阪大、九大、東工大あたりも該当するのかも知れないけれど、ボーダーがどこにあるのかは、僕は専門家じゃないので知らない。

社会は、生産できる人間、付加価値を作り出せる人間を必要としているわけで、それは研究分野でも一緒。それができないなら、研究分野は難しいってことで、さっさとあきらめないと。

こういう話をしていると、「それじゃぁ、すそ野が育たない」とか言い出す人がいるのだけれど、そういう人たちが失業した博士の面倒を見てくれるわけじゃない。その人たちは、「この可哀想な人たちを何とかしてください」とかお願いするだけ。頑張っても、せいぜい国にお願いするレベル。でも、この国にはもっと可哀想な人たちが山ほどいる。

それでも、「死屍累々の脱落博士達の向こうにこそ科学の発展はある。だから、そういう失業博士が生じてしまうのは我々が支払うべきコストだ」という考え方もあるとは思う。ただ、今の日本ではまだそういうコンセンサスは形成されてない。どちらかといえば、社会的なコンセンサスは「裾野は広い方が望ましい、ただし、予算に限りがあるから、大学院の入り口は狭く」だと思う。そうした中、文科省が「ポスドク1万人」とか言い出したのは確かにおかしいのだけれど、上にも書いたように、博士という看板を背負った人の人数が多いのが問題ではなく、博士という看板を背負った人たちの付加価値生産者としてのレベルが低いことが問題なのだ。それは教育の質の問題かも知れず、よくよく検討する必要はあるのだけれど、目の前にいる失業博士達については「もう仕方ないですね。食っていくために何かしないとね。あなた、何ができるの?」ということになる。少なくとも、試験管やピペットマンを持つような仕事はあきらめた方が良い。それから、東大以外の大学院に行くということは、そういう失業博士生産のレールに乗っているという意味でもある。これから進学する人たちは当然そのことを理解したうえで進学すべきだ。結局のところ、日本においては東大以外の大学院は、一部のエリート研究者を生産する過程の中でこぼれ落ちた人たちを一時的にプールしておくだけの存在、ということである。問題は先送りされ、重症化するだけなので、可能ならさっさとレールを降りた方が良い。

前にもこのブログで書いたけれど、大学としては学生がいた方が収入が増える。教授とすれば労働力が多いに越したことはない。文科省も予算が取りやすくなる。学生は好きな研究ができる。誰も損しないんだから、この中には「博士を量産しましょう」という考えにストップをかける人はいない。それから、もともとのところで、ポスドク1万人計画とか言ったって、1万人全員が使えるなんて、文科省だって思ってない。文科省、および研究のリーダーの考え方は、それだけいれば、使える奴も増えるはず、というだけのこと。使えない奴をどうするかなんていうのは、その存在自体は認識しているものの、処遇については念頭にない。人数増やせば、どうしたって使える奴よりも使えない奴の方が増えるのは当たり前。だって、基本は正規分布なんだもの。上のほうを切り出せば、使える奴が1人増えるなら、使えない奴は3人、4人増える。公言しなくたって、そのくらいのことは誰でもわかる。そうまでしても、優秀な人間を確保したかったということで、まぁ、それはそれで良いんじゃないかと思う(好き嫌いは別にして)。問題は使える奴1人を生み出すために生産されてしまった数名の使えない奴ということになる。文科省的な考えは、世の中は人材不足だから、働く場所はいろいろある、というぼんやりとしたものだったのかも知れない。中の人じゃないからわからないけれど。まぁ、実際のところ、今の社会には仕事はたくさんある。僕の会社でも人材は絶賛募集中だ。ただ、研究とは無縁なだけ。そりゃ、能力がないと判断されちゃったら仕方がない。研究で飯を食っていくのは絶望的だろう。以前ならともかく、今は「優秀な研究者をどんどん輩出しましょう」という政策方針なんだから、あとからあとから優秀な奴が出てきて、いつまで経っても優秀じゃない人間のスペースは生まれない。それでもどうしても研究がしたいなら、あとはもう自分で会社を作って、自分で何とかするぐらいしかないだろう。実際にそうやって会社を作った人だっているわけだし、ドクター中松なんていうのもそういう種類の人なんじゃないだろうか。詳しくは知らないけれど。

野球だけやって生きていきたい、マージャンだけやって生きていきたい、将棋だけやって生きていきたい、ラーメン食べるだけで生きていきたい、どれもこれも僕の周りにいた人たちだけれど、研究をやって生きていきたいというのもそれと全く同じレベルの話。それで生きていける人ももちろん存在するけれど、そんなの国が保障するものでもないし、それが実現しなかったからと言って誰かが面倒を見てくれるわけでもない。結局は、その人の能力次第。

ところで、中盤でちょっと触れた個人の能力について。みんなあんまり口に出さないけれど、人間の能力というのは生まれつき決まっていることってかなりあって、もちろん努力をすれば生まれつきの部分はかなりのところまでカバーできるものの、同じ努力をした場合にはやはり到達点はどうしたって違うと思う。また、同じ到達点に行くために必要な努力の量というのも、人によって違うし、その違いは生まれつきの部分がかなりあると思う。人の能力を大雑把に分けてみるとたとえば下のようになるかと思うのだけれど、その多くは子供のときに規定されてしまっているケースが多いと思う。

頭の良し悪し
ベースになるのは並行処理能力。複数の作業を同時並行でできる人は、能力の分配を適切にできる。これがいわゆる「頭の良い人」。

物覚えの良し悪し
基本的な要領の良さ。同時に過去の経験の応用力も反映される。新しい作業にあたったとき、それをすぐに身に着けること、および、過去の経験で身に着けている能力を引き出しから引っ張り出してきて、応用する。

努力できるかどうか
そのまま。性格的な問題なので、3歳ぐらいまでに決まるのかも。生まれつきの部分も少なくないはず。ただ、「飽きっぽい」というのは「固執しない」ということでもあり、どちらが良いかというのは微妙。

記憶力の良し悪し
そのまま。文系、語学系に影響力大。理系でも化学、生物などは影響を受ける。「好奇心」が記憶力に影響を及ぼすこともあり、また子供の頃のトレーニングも効果がある可能性あり。

語学力の有無
比較的基本的能力だが、幼少時に教育を受けているかどうかによって影響大。

計算能力
先天的なのか、後天的なのか、不明。ただ、そろばんやインドの子供の計算力などからも明らかなように、トレーニングでかなりのところまで到達できる。

論理的思考力
将棋などを見ていると子供の頃からのトレーニングでレベルアップ可能。しかし、大勢の将棋の棋士を見ていると、トレーニングで到達できる場所には限界がある。

調整能力の有無(微妙な手加減とか)
物覚えの良し悪しと重複する部分あり。脳みそが命令したとおりに指先や体を動かせるかどうか。「器用」「不器用」という言葉で表現される。

運動能力
ホルモンの影響が大きいか?人種間でも大きいが、どれもこれも生まれつき。ただ、その生まれつきの能力を活かすためには当然トレーニングが必要。


「人間は努力次第」という言葉は良く聞くけれど、「能力なんて、ほとんど生まれつきか、子供のときに決まっている」という話はあまり聞かない。なぜこういうことをみんな大っぴらに言わないかって、そりゃ、言ったところでどうにもならないから。「そりゃぁ、生まれつきだよ」で済ませたら、何の生産性もない。それよりは、「努力すればなんとかなる」の方が、ずっと生産的。そういうわけで、99%の汗なんていう話がいきわたる。それで、当然努力したって駄目なケースは多々あるわけだけれど、そういう場面になったとき、米国人は「運がなかったね」となる。一方で、日本人は「努力が足りないからだ」となってしまう。実際、努力が足りないケースも多々あるとは思うのだけれど、精神論じゃどうにも越えられないものもあるわけで、「運がなかったとあきらめなさい」という考え方も多くの場面で必要だと思う。今の時代は、「駄目なものは駄目。あきらめたらそこでおしまいだから、気力が続くならしがみつきなさい。でも、あきらめるのももちろんあり。能力的に足りない部分は、努力だけじゃどうにもならないところもある。自分でできる範囲で頑張って、駄目なら別の生き方をしたらどうですか?」の方が良い気もする。涓滴岩を穿つなんて頑張らせるから、うつ病になっちゃうんじゃないのかなぁ、とも思う。突き詰めて言えば、努力なんていうのは人に言われてするものじゃない。自分で必要だと思うからやるもの。そして、その見返りは過程から得られるものと結果の両方。それから、成功するには才能も運も必要。努力だけじゃどうにもならないこともある。負けたときは負けたときなりに、潔く撤退し、次に備える必要がある。このあたりで合意できるような教育を子供の頃からしておく必要がある。

#僕は生まれつき語学の才能がないので、語学はあきらめてます。

ということで、そろそろ結論。失業博士になりたくないなら、東大の大学院以外は行っちゃだめ(もちろん、家が資産家だったり、金持ちの玉の輿に乗る予定があるなら話は別)。東大の大学院に行くだけの能力がないなら、それは生まれつきだから、もう研究者はあきらめろ。間違って博士になっちゃった失業博士は、多分一生研究者としてのポジションはまわってこない。さっさとあきらめて、別の方法で食べていくことを考えろ。

念のために書いておくけれど、僕は「努力なんかしなくて良い」と言っているわけではない。少しでも良い暮らしをしたい、少しでも裕福な家庭を築きたい、少しでも会社を大きくしたい、少しでも社会貢献したい・・・・・、モチベーションは色々でも、それを実現するための努力はものすごく尊重されるべきだし、そうやって努力をしていく人たちと一緒に仕事をしていきたいと思っている。言いたいことは、「研究者」という座席は誰でも座れるように十分な数が確保されているわけではなく、そこにつくためにはかなりの部分の才能と、努力と、運が必要だということ。才能がない、努力し続けることができない、運がない、それぞれの事情はあるだろうけれど、駄目なら駄目で、どこかであきらめることも必要だ。そして、別の道に向けた努力を開始した方が、ずっと生産的だということ。そして、「俺って、研究者として通用するのかな?」というひとつのわかりやすい目安は、東大の大学院に行けるかどうか、ということだ。  

2009年05月21日

ブログでバイオ 第64回「マスクは文化だ」

新型インフルエンザで右往左往している日本国民ですが、ま、病気に感染しない方が良いのは間違いがないので、「外出を控えれば?」という感じなのだけれど、横浜では開港150周年なんていうイベント大好きな中田市長の鶴の一声大規模イベントなどもあって、「困ったもんだなぁー」というところだろう。イベントには来てね、インフルエンザは拾わないでね、ということで。

さて、そんな中、「マスク」である。この手の買占めで思い出すのはオイルショックのときのトイレットペーパー(経験したわけではない)、最近ではこんにゃくゼリーなんかがあるわけだけど、マスクも馬鹿売れだそうで、そちらの方角だけは景気回復して結構喜んでいるのかも知れず、そうでもないのかも知れないのだけれど、とにかく日本人はマスクが大好きだ。でも、本当にマスクって、効果あるのかなー。そこがちょっと個人的に疑問。いや、インフルエンザに感染している人がマスクをするのは効果があると思うんだよね。噴水にふたをすれば水は飛び散らない。しかし、空気感染のウイルスを予防するという部分ではどうなんだろう。マスクをしても酸素を吸えるのと一緒で、マスクをしていてもインフルエンザのウイルスは吸い込んじゃう気もする。

果たしてどれだけ効果があるんだろう、と思ってはいるものの、たとえばこんなニュースも配信されてしまうわけで、

マスク着用を呼び掛け=首都圏の鉄道各社

効果があるかどうかもさっぱりわからない状態でオールジャパンに対してマスク着用を呼びかけちゃうのも凄いよなぁ、と思わないでもない。でもまぁ、毒にも薬にもならないかもしれないマスクでも、少なくとも「マスクをした結果、インフルエンザになった」ということはあまり考えられないわけだから、どうしたって「マスクなんか意味ねぇよ」とは言えないような気もする。マスクしないで感染した人に「お前が関係ないっていうからマスクしなかったら、感染したじゃないか!」と問い詰められて、「いや、それはマスクしていても感染しましたから」と言ったところで簡単には納得してもらえない。「マスクなんか効果ねぇよ」と断言するのにはやっぱりかなりの勇気が必要だ。

そんな中、こんなニュースもあって、

高城氏 ブログでマスクマンを批判

これは正直言ってかなり素晴らしい。それを「沢尻の芸能活動復帰に向けてマイナスの影響が出る可能性もありそう」って書くあたり、内外タイムスは沢尻が嫌いなのかなー、などと思わないでもないのだが、この発言と「別に」だったら、やっぱ、後者の方がダメージは大きいと思う。ま、それはそれとして、やはり「人が言えないことを言う」というこのスタンス。ロックだね。こういう賛否両論を巻き起こすような発言をすることが一億総ブロガー時代には重要。

折角だから、本家のブログを見てみよう。

メディア・パンデミック。

このターミナルを見渡す限り、マスクしている人は、ほとんど見ない。


ふむ。こういう一次情報はとても参考になる。「ほとんどの人がマスクをしていない」という状況が正しいのか、というとそれはまた別問題(正しさは多数決ではないので)なのだが、とにかく「マスクをしている人がほとんどいない」という情報には価値がある。

そのマスクをしている人は、日本人だけ!!!!
中国人や韓国人かと思って、わざわざそばに行って確認したので、間違いない。


この調査もなかなか価値がある。やっぱり、足で稼いだ情報には勝てないからね。

日本は、今後も素晴らしい可能性があるいい国だが、いまは精神的に不安定で弱い、と。


この考察はちょっと微妙かなぁ。精神的な弱さとはちょっと違うような。マスク神話というのは、単に文化なんだよね。夜に風呂に入るのか、朝にシャワーを浴びるのか、みたいな。「日本人は精神的に弱いから夜、寝る前に風呂に入る」というような感じに展開できちゃう。

その光景は、国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。


うーーーーーん、国際道徳もあんまり関係ないかな?でも、滑稽というのは、欧米の文化圏からすればそうなのかも。まぁ、カメラをぶら下げているのもそうだし、めがねしているのもそうだし、背が小さくて顔がでかいのもそうだし、色が黄色いのもそうかも知れない。だからまぁ、「滑稽と思われる?あると思います」程度のことかなぁ。

つけてる人が患者のようで、周囲に不安を捲いているのを気がつかないのだろうか?


あぁ、これはそうかもなぁ。僕も、マスクをしている人がいたら「具合が悪いのかな」とは思う。でもまぁ、ふらふら出歩くことが出来るくらいの具合の悪さなんだろうな、と考えるから、不安になるというよりは、席を譲るとか、配慮の対象という感じ。

きっとメディアが、日々恐ろしいことを繰り返し、人々の恐怖をあおり、時には誰かを血祭りにし、
その直後にお笑いなどのエンターテイメントを放送しているのだろう。


あはは、これは全くその通り。似たようなことをここでも書いたけどね。

新型インフルエンザ

しかしまぁ、今回の場合、マスクを一所懸命装着している日本人と、その他の国の人と、大規模なマスクの効用に関する社会実験をやっているようなもの。マスク大好きな日本人でもやっぱりインフルエンザは大流行しましたよ、ということなら、「やっぱり、マスクなんか関係ないじゃん」ってことになりそうで、今後の成り行きについてはユニチャームとか、どきどきしながら見守っているんじゃないだろうか。

花粉症を長いこと患ってきた立場からすると、花粉症に対しては確かにマスクは効くような気もする。しかし、正直、花粉症だったときは必ず薬を飲んでいて、マスクより薬の方が効いていた。薬を飲んでいるときはマスクとかしてなかったし。本当に花粉が飛んでいるときはマスクだけで対応ってありえなかったわけで、箱買いした花粉症用マスクは今でも箱のまま残っている。でもまぁ、花粉症には効果がありそうな気がする。花粉って、かなり大きな分子っぽいしね。でも、やっぱ、ウイルスに対する防御効果ってことだと、マスク・・・・正直微妙だ。ウイルスって、凄く小さいからね。で、ときどき「ウイルス対応」とかのマスクがあったりするけれど、そんなにめの細かいマスクだったら、マスクを通してじゃなくて、顔とマスクの隙間から空気を吸っちゃうと思う。

僕の場合、「マスクなんか効果ねぇよ」と断言することはできない。コラーゲンが効果ないとは断言できるんだけどね。個人的にはマスクというのは他人にうつさないためのツールだと思っているから、自分が具合が悪くなればマスクをするし、そもそも外出を控えると思う。予防の手段としては、食事の前にはきちんと手を洗うとか、人が集まるところに行かないとか、そんなことなんじゃないかなぁ。どうなんですかね?実際のところ。ま、欧米に比較して日本の感染者はあまり増加しませんでした、ということなら、マスクの効果も証明されるかも知れず、でも、実際にそういう結果になっても「日本が感染者が増えなかったのはマスクのせいではなく、単に衛生状態が良かったからだ」という反論が出そうな気もするから、結局わかんねぇんだろうなぁ、ということで、最終的には「マスクは文化だ」ということになるんだろう。

え?マスクをするか?今は別に具合が悪くないんだから、マスクなんかするわけないじゃん(笑)あ、でも、装着するかどうかの判断は自己責任でお願いします。

全く余談ですが、今、国会中継をテレビでやってますね。補正予算、いい加減に色々決めやがって、という文句を言いたいわけではなく、国会議員、誰一人としてマスクしてねぇなぁ、と(笑)。一人インフルエンザがいたら、再来週あたり、全滅だぞ、と。マスクしなくて良いのか?と。あ、マスクはやっぱり予防効果、ないんですかね(笑)?  

2009年04月21日

ブログでバイオ 第63回「みなさん、遺伝子組換え食べてますけど」

68285ff6.gif将棋の大会がひと段落して、他の契約事項も無事解決。心の荷物が色々と片付きつつあるので、久しぶりにブログでバイオである。今回のテーマは遺伝子組換え。第62回はこちら。
ブログでバイオ 第62回「美味しいクローン牛が食べたい」

情報の受け手のレベルを分析して、それに対してどういう情報を提供するか、あるいはどういうサービスを提供するかを考えてみた。ここで、情報の質の評価軸として「情報のもっともらしさ」というを設定してみたい。「もっともらしさ」とは、「正しさ」ではない。あくまでも、「それらしく聞こえる」ということである。

現在の社会でもっとも一般的なのは、情報の受け手の知識レベルが低く、そこに対してもっともらしい情報を提供するケース(図ではAの部分)。この典型的な例が血液型占い(厳密には血液型はトンデモの領域に踏み込んでいるが)である。血液型というのは高度にサイエンティフィックなもので、それに依存したデータというのは「もっともらしい」ものだ。ところが、一般の人の知識レベルは「血液型というものが存在し、それによって人間は数種類に分類することができる」ということと、「自分の血液型が何か」というところまでである。実際には血液型の分類方法は他にも色々あるし、また最も一般的な血液型の分類方法であるABO型による相性診断や性格分析などは全く科学的根拠がない。その中でABO型による分類だけを強度に妄信する人が多いのは、情報の受け手の知識レベルが低いことに起因すると考えられる。何しろ、人間は「科学的」ということが好きで、その一方で本気で科学を勉強するのは面倒くさくて仕方がない。結局「大学の先生が言っているから」とか、「テレビでやっていたから」とか、「新聞に載っていたから」とか、「得意先の人が説明してくれたから」などの理由で安易に(あるいは自分に都合の良いように)情報を信頼してしまう。そして、そういった不正確な情報を語るのが大好きなのだ。この領域は「半可通」あたりの言葉で表現できると思う。

一方、占星術になると、現在は血液型ほど信頼性が高くないようで、それは「血液型」という科学的な一要素と、「生まれた日」という単なる暦上の一事実とが、潜在意識的に優劣をつけているのかもしれない。そうした中においては「占星術」というのは比較的もっともらしさが低く、単なるエンターテイメントとして受け取られている節がある(図ではBの部分)。最近はすっかり聞かなくなったが、「どうぶつ占い」なんていうものがこの領域の性質を最も的確に表現している。もともとほとんど全ての事象は実はこの領域からスタートしているはずで、看板の設置や権威化などによって情報のもっともらしさが向上するとAの領域に移動することになる。

日本人の知的レベルは比較的高いと思われているのかもしれないが、血液型占いなどが非常に信頼性が高いと受け止められている時点で実際はレベルが低いのかもしれない。ただ、あるピンポイントのものごとについては、部分的にレベルが高いケースもある。先日毎日新聞が永久機関に関する記事を掲載して大恥をかいたケースなどがその例だが、「永久機関?そんなものあるわけないだろ」というところについてはかなりの範囲で合意事項となっているようだ(それでも新聞記事にはなってしまうわけで、必ずしも浸透しているわけではないのだが)。他にも、トンデモ水など、この領域に属するものは決して少なくない。これらの情報はもともとエンターテイメントの領域にあったものなのだが、情報の受け手のレベルがアップしたために、「トンデモ」に評価がシフトしたことになる。

さて、情報の受け手のレベルが高い中における、もっともらしい情報の提供という、Cのエリアにはどんなものがあるのか。たとえば、今日放送されている将棋の名人戦の衛星放送などはこれに該当する。この番組を楽しみにしている人は基本的にそれなりに将棋のレベルが高い人で、興味のない人、将棋のレベルが低い人(たとえば駒の動かし方を知っている程度)は対象としてあまり想定されていない。そうした中、将棋の専門家がやる解説というのは非常に信頼性が高く、図ではCの部分に想定される。

と、血液型、占星術、永久機関、将棋解説と雑多なターゲットを一つの図の中に無理やり載せてみたわけだが、ここで考えてみたいのが「遺伝子組換え作物」である。現在、遺伝子組換え作物が所属する領域はAである。遺伝子組換え作物に関する一般生活者の知識レベルは非常に低く、それでいて「遺伝子組換え作物は危ないらしい」という雰囲気だけが出来上がっている。ほとんどの消費者が「遺伝子組換えでない」という表示があると安心するようだが、その理由はといえば、「テレビでやっていたから」とか、「色々な食品に記載されているから」とか、原因は全くサイエンティフィックではない。そもそも、大学できちんと分子生物学を勉強した人間で、「遺伝子組換え作物は危険だから食べたくない」などと言う人が一体どの程度いるのか疑問である。僕が知る限りにおいて、血液型による相性診断を非常に強く信頼する生化学専門の大学教授は見たことがあるが、遺伝子組換え作物の危険性を真剣に危惧している人は全く見たことがない。もちろんそういう人もゼロではないと思うが、僕の個人的な経験を基にして言えば、その頻度は非常に低い。

さて、現在Bに所属する事象をA、あるいはトンデモの領域に移動させることは可能なのだが、Aの領域に所属するものをトンデモの領域に移すことは非常に難しく、その事例はほとんど見当たらない。もちろん、Bの領域に移すことも難しい。Aの領域にあるものをどこかに移すとすれば、それはCの領域以外にないのである。とすれば、このままAの領域に存在させるか、あるいはCの領域に移すべきか、ということになる。もし、現状で何も問題がないのであれば、そのまま放置していても特に不都合はない。本当に問題がないのか、ということになるのだが、そのあたりは日本の食料自給率、海外の遺伝子組換え作物栽培動向、産業としての農業・畜産業のあり方、生活コストなどが複雑に絡んでくることになる。それらを一つ一つ検証していくのはそれなりに大変で、それこそどこかの大学の先生とか、あるいは研究者にお任せしておきたいところだが、サイエンスと社会学の境界領域に生息する人たちの意見としては、「今後は遺伝子組換え作物にシフトしていかざるを得ない現状がある」というのが主流だと思う。そして、そのためにはAからCへの移動は必須だと思う。

ここでちょっと視点を変えて、「では、どうやってCに移すのか」を考えてみる。手法は大きく分けて二つある。

一つ目は、言わずと知れた「教育」である。これは全くの王道であって、一番望ましい手段であることに間違いがない。理想的ではあるのだが、問題はいくつかあって、その一つは遺伝子組換えについてきちんと教育するためにはそれなりの時間とお金を投入しなくてはならないということである。こうした教育は理科はもちろん、社会、家庭科あたりでも必要になってくるだろうが、それらの教育を担当すべき教員が正確な知識を得る機会があるのかどうか、あるいは今後そういう機会を作っていけるのかという問題もある。また、そういう教育活動に対して反発するデリケートな社会集団が存在する可能性もあって、非常にぼんやりとではあるが、「なかなか大変だろうな」というのが僕の個人的認識だ。

さて、もう一つの手法。これは比較的簡単だと思うのだが、現状をきちんと認識してもらう、というものである。「遺伝子組換え作物は怖いから食べたくない」と考えている人は比較的多いと思うのだが、そういう人たちがすでに日常、遺伝子組換え作物を食べてきているという事実を提示してあげるのである。今の日本では遺伝子組換え作物へのアレルギーが不当に強いので、メーカー各社はそのあたりを非常にぼかしている現状がある。たとえばこんなデータなどがあるわけだが、

米国の遺伝子組み換え農作物の栽培状況(2008年度)(バイテク情報普及会)

米国産ダイズの92%、米国産トウモロコシの80%が遺伝子組換えである。

では、日本の輸入はどうなっているか、ということだが、

輸入量
トウモロコシ 16460000トン(うち、米国からが98.7%)
ダイズ 3711000トン(うち、米国からが72.3%)
農林水産省「農林水産物輸出入概況(2008年)


国内生産量(平成20年)
トウモロコシ ---トン(ほとんどゼロのため、統計データなし)
ダイズ 261700トン(農水省のサイトより)

という状態だ。輸入されているトウモロコシ、ダイズがそのまま加工されずに食卓に載るとは限らないし、飼料にまわされるケースも決して少なくないのだが、現実問題として「遺伝子組換え作物フリー」などとは口が裂けても言えないような状況がある。この手の統計データは入手可能な限りで集めていってもそこそこにインパクトがあるものになるはずで、これに加えて農水省などが持っている非公開のデータ、あるいは公開されていても、なかなか目に付かないような場所に存在するようなものまで引っ張り出してくれば、「ええーーーー?これまで散々遺伝子組換え食べてきているじゃん」ということになるのは間違いがない。

僕は、ある農水大臣が「消費者が自分でも気が付かないうちに食べていました、という状況になっているのが望ましい」と発言していたのを知って憤慨したことがあるのだけれど、現状はすでにそんな状態である。知らないのは生活者ばかり、ということだ。しかし、確かにこの農水大臣の言っていたことも今となっては一理あったのかな、と思う。知識のない生活者たちがただただ感情的に批判し、それに対して情報を提供しても全く聞く耳を持たない、という状態にあって、代替策が皆無ということであれば、最終的には「もうあなたたち、食べてますよ」という状態を作ってしまうというのも一つの手である(もちろん望ましくはないし、僕は今でもこの手法は不適切だと思っている)。

やや長くなったが、つまり、「教育が難しいのであれば、情報を開示するのはどうだ」というのが二つ目の手段である。

実際にこうした情報公開をやってしまうと、「どうしても遺伝子組換えは厭だ」という人は、日本においては食べられるものが非常に制限される。「完全に排除したい」と思ったら、もうほとんど選択の余地がなくなるし、外食などは実質的に不可能になると思う。たとえばコーンフレークなどはもうほとんど完全に遺伝子組換えのトウモロコシから作られていると思って間違いないと思うのだけれど(ただし主観)、加工の過程で組換えDNAおよびそれによって生成されたたんぱく質が分解されているという判断のもと、表示が義務付けられていない。こういったものには醤油だとか、食用油だとかがあるわけで、「遺伝子組換えでない」と表示されていないものはほとんど全て遺伝子組換えだと思っても良いくらいだろう。何しろ、そういう情報を全部正確に、しかも大々的に広報してしまえば「ええええええええ」という状態になるのは想像に難くなく、そういうこともあって、情報を持っている側は今のところその情報の開示に積極的ではないようだ。要は、「もうちょっと自然に情報の受け手のレベルが上がるのを待ちましょう。その前にやってしまうとインパクトが大きすぎます」ということなのだろう。

それで、「まだ早い」というのは情報を持っている人々の主観なわけだけれど、個人的にはもうそろそろやっちゃっても良いんじゃないかと思っている。もう後戻りができない場所に来ているのは間違いがない。そんな状況において、「遺伝子組換え作物は絶対食べません」というのは、前述の図でAからトンデモへのシフトに他ならない。ただ、その可能性も全くゼロではない。Aの領域にあるものをトンデモの領域に移すのは非常に難しく、その前例も見当たらない、と書いたのだが、もしかしたらそういう事例の代表例になるかも知れない。そのためには、「絶対、どうしても、死んでも遺伝子組換えは厭だ」という強い意思が働く必要があるのだが。

さて、次回以降、もうちょっと遺伝子組換えについて突っ込んで書いていきたい気もするし、今回で随分書いちゃったなぁ、とも思う。もともとは「うちの新しいサービス、半可通のエリアに投入しましょうか、それともエンターテイメントのエリアに投入しましょうか」「一般の人はいい加減な知識しかないけれど、正確なサービスを求めている。一方、元木は正確な知識を持ちつつ、エンターテイメントなサービスを提供しようとしている。その両者は全く方向性が違う」という議論が発端だったんだけれど、個人的な問題意識があった遺伝子組換えに転換させてみた次第(笑)。  

2009年01月06日

ブログでバイオ 第62回「美味しいクローン牛が食べたい」

第61回はこちら

【ブログでバイオ】第61回 ブログでバイオも60回:人材養成プログラムの情報はディスクローズされているか


大変便利なバックナンバー集になっているので、「ブログでバイオって何?」という人はこちらをどうぞ。

さて、第62回。第59回で、「ポスドク問題も十分議論したので、そろそろ食の問題でも論じてみませんか?」としておいたのだけれど、その後ちょっと休憩していた。そうしたら、今日、Yahoo!でこんな記事を発見。

クローン牛が食卓へ 内閣府委「ゴーサイン」の方針

おおよそ、まともに生化学を勉強したことのある人間であれば、「何を今更こんな議論してんだ。安全に決まってるだろ。それより問題なのはどんな育て方をしているかじゃん」という感想を持つはずなのだけれど、そこはまともな教育を受けていない人間の集合体である日本社会。「クローンとGMOって何が違うの?」とか寝ぼけた話を持ち出したりするのが目に見えているわけで、「そんな人はまずこの本でも読んでみましょう」という感じである。こうした、実生活に必要なきちんとした教育がなされていないというのは、民主主義社会においては大きな損失というか、大前提を崩されているわけで、結局専門家が「これは安全ですよ」と言ってしまって全体の流れが決まってしまう社会というのはいかがなものかとも思うのだけれど、そうした状態に何の疑問も持たない社会を作り上げたところが日本の官僚の優秀なところということかも知れない。

何しろ、農薬耐性遺伝子を導入した植物に対してその安全性を懸念するのに比較したら、クローン牛の安全性を懸念するのは遥かに知識レベルが低いわけだけれど(受精卵クローンはオッケーだけど、体細胞クローンはいや、ぐらいなら「なるほど」と思う。というか、その程度の違いがわかるレベルなら、「いや」という意見にも耳を傾ける価値がある。あくまでも主観ですが)、義務教育でこのあたりをきちんと教えていないのなら仕方がない。これは無知な国民が悪いのではなく、きちんと教えないカリキュラムを組んでいる文科省の責任である。僕自身は中学生の教育プログラムの内容については全然知らないので、もしかしたらクローンとは何か、みたいなこともきちんと教えているのかも知れないのだけれど、社会全体を俯瞰してみてみると「多分教えてないんだろうなぁ」と推測するに至るわけで、学校が教えない(ただし推測)んだから、リバネスさん、今年も頑張ってくださいね、という感じである。まぁ、もし本当に教えてないのならそのあたり、きちんと教育してくれないと農水省あたりも困るだろうし、経産省や外務省とかも困る可能性があるわけで、文科省には再考を強くお願いしたいところであるけれど、蒟蒻ゼリーを販売中止に追い込むような頭の悪い政治家が消費者行政推進担当大臣なんかをやっているくらいだから当分は無理なのかな、と思う次第。

さて、そんなこんなで国策によって勘違いさせられまくっている人が山ほどいる日本においては、「クローン生物を食べる件についてはどうしましょうか」などということについても一定の議論をしたふりをして(結論なんか決まってるじゃないか。それが否定されちゃうなら今の科学なんていうものは必要がない)、ゴーサインを出すという手順も仕方がないところだと思う。だって、国民の多数はGMOとクローンの関係もわかっていなければ、受精卵クローンと体細胞クローンの違いもわからないわけで、そういう人たちに判断しろというのも無理な話だし、勝手に決めるな、と騒ぎ立てる人たちに対して「じゃぁ、クローンについて勉強しましょう。時間を作ってください」というと今度は「私は生物のことなんて全然わからない。勉強は偉い人に任せます。嫌なものは嫌なんだし勉強は必要ない」とかトンチンカンなことを言い出す有様なので(いや、あくまでも僕の頭の中での話です。実例があるわけではありません。きっとこんな感じなんだろうな、と。ある有名な公的研究機関で広報をやっていた経験からして)、結局無知な人たちの文句を「はいはい」と受け流しながらも基本方針を決めていかなくてはならないのだろう。このあたり、意思決定のシステムとしてはBSEの問題と非常に近いように見えるのだが、実際はBSEとクローンは凄く遠くて(BSEは「危ないとわかっている飼料を使わない」という危機管理と、それを目で見て区別しようという制度運用の問題であるのに対し、クローンは科学をベースにした安全性の評価の問題。GMOも後者)、だから僕は米国産牛肉は食べないけれど、クローン牛は食べるわけである。

まぁ、何しろ、クローン牛については一応「安全」というお墨付きが付いたわけだけれど、ここで重要なのはクローン牛を食用にまわすメリットというのが生産者だけではなく、消費者にも還元されるべき、というところである。クローンという最新技術を使うことによって、生産は効率化されるわけだ。特に体細胞クローンを使うのであれば、同じ飼育方法を採用するのであればほとんど同じような肉質の牛になることが期待されるわけで、「育ってみないとどうなるかわからない」という状態が緩和されることは間違いがない。その緩和具合がどの程度なのかというのは僕は育牛の専門家ではないのでわからないけれど、とにかく効率が向上するはずだし、向上しないならクローン技術を導入する意味がない。そして、もし飼育が効率化されるのであれば、当然のことながらそのメリットは消費者にも与えられるべきである。

どんな人だろうと「私はクローン牛を食べたくありません」と考えるのは勝手なので、そこで提供されているのがクローンなのか、クローンじゃないのかというのはきちんと明示されるべきだし、明示されている上で、消費者にはなんらかのメリットが必要なはず。それは「クローンだから美味しい」でも良いし、「クローンだから安い」でも良いし、その両方でも良いし、あるいは「このクローンは病気になりにくい丈夫な牛なので、これまで抗生物質の類を全く飼料に加えていません」みたいな付加価値でも良いはずだ。とにかく、クローンを導入したことによって何らかのメリットが生じているはずで、それを消費者側に還元することが重要だと思う。この点は遺伝子組み換え作物において失敗した点でもあり、何らかの手法を考えないと、結局生産者側が損をする羽目になると思う。

一番最悪なのはクローンと非クローンがまぜこぜになった状態において、クローンを使ったメリットが一方的に生産者のみに与えられるという状態である。「遺伝子組み換えではない納豆」とか言って遺伝子組み換えの大豆が混じっている納豆が普通に売られている日本(混入率が5%未満なら表記可能)だし、遺伝子組み換えのとうもろこしやら大豆やらを使った加工品が普通にスーパーで売られていて、消費者はそのことに全然気が付いていないというような笑っちゃうような状況の日本だけれど、クローン牛については情報のディスクローズだけはきちんとやって欲しいと思う次第。

以下、余談。僕の高校のときの同級生で大学時代も結構仲良しだった山内啓太郎さんというのが東大の農学部で先生をやっているのだけれど(スパイシーで見ても全然僕と関係が出てこないね。頑張れ!スパイシー!)、以前彼の研究室に遊びに行ったとき、「何をやっているの?」と聞いたら、サシの入った豚をつくる研究をしているってことだった。なんでも、サシの入った牛肉を作るというのは物凄いノウハウで、膨大な試行錯誤の成果だと。それで、サシの入った豚肉を生産できるようになれば大きな革新になるはず、みたいなことを言っていた。そのときは確かにサシの入った豚肉って存在していなかったわけで、その話を聞いて「へーーーー」と思ったわけだけれど、その後、どうなんでしょうね。僕はサシの入った牛肉も悪くないけど、安価な豚肉や鶏肉が好きだったりするので、まぁ豚肉にサシが入っていてもいなくてもどちらでも良いといえば良いんだけれど、面白い研究をしているんだなぁ、と感心した次第。うまくいけば儲かりそうだしね。

競馬タロー君、儲かってますか?  

2008年12月08日

ブログでバイオ 第60回「社長はやっぱり営業力」

第59回で「そろそろポスドク問題の話はやめにして、食品の話でもどうですか」と書いたのだけれど、また人材絡みに戻ります(笑)。

ちょっとその事情を説明しますと、僕は数年前から「知的財産マネジメント研究会」というところに所属していて、そこで何をやっているかって何もやっていなくて、ただMLを受信しているだけなのですが(^^;、このMLには大学関係者やら、企業関係者やら、役人やら、まぁ雑多な人たちが所属しているわけです。

知的財産マネジメント研究会

これをオーガナイズしている隅蔵康一さんとは役人時代からの知り合いで何度も意見交換をしていますし、西村由希子さんには一時期経産省系の委員会に参加してもらい、文科省と経産省の垣根を取り除くことができないものかと(勝手に)画策したこともあります。こちらについては結局経産省の方がしり込みするような形になっておじゃんになりましたが、僕はあんまり文科省に人脈がなかったため(理研を通してならあるんですが)、文科省の役人の懐の深さが垣間見えてなかなか興味深かったりしました(役所単位で経産省がどう、文科省がどう、というよりは、あくまでも個人の問題なんでしょうが)。で、まぁ知的財産マネジメント研究会っていうのがどんなもんかは上記のリンクを見てもらえばと思うわけですが、ボトムアップ形式で何かやっていけないかと考えているお手本のような組織で、個人的には非常に期待しているわけです。で、そこのMLで昨日、レクメドの松本正さんがメールを一本投げたわけです。

#ここでまたちょっと注釈をつけておくと、レクメドの松本さんは、僕が役人としてバイオベンチャーの網羅的調査を始めた一番最初の時点で、町田にある事務所にヒアリングをさせていただいた方で、この分野においては僕なんかよりもずっと大先輩です。当時松本さんに紹介していただいたバイオベンチャーはキャンバスを筆頭に、個性的な会社が多く、色々と勉強させていただきました。

さて、本題。内部的なメールなので松本さんのメールをこちらに転載するわけには行かないのですが、要は、「第1回インターカレッジ・バイオリーダーズっていうのをやるから、みんな応募してくれ」という内容でした。

第1回インターカレッジ・バイオリーダーズ

それで、僕はこのメールを読んで、次のような返事を書いたわけです。

#長いから、かなり端折ります。

僕も実地で色々と人材育成をやってきていますが、机上のトレーニ
ングにしても、バーチャルなトレーニングにしても、どれもこれも実効のないものばかりで、人材が悪いのか、カリキュラムが悪いのか、それとももっと根源的なところが駄目なのか、そこのところが見極められずにいます。

是非お願いしたいのは、このイベントの成果なり、報告なりを包み隠さずディスクローズしていただきたいということです。できれば事業が終わって1年ぐらい経ってからではなく、リアルタイムでどんどん報告してもらえたらと思います。どういう人が集まって、どういうシラバスのもと、どういったことをやって、結果、どうなったのか、可能であればさらに5年ぐらい継続的に追跡調査などもやっていただけたらと思います。

ちなみに僕自身、この手のお金を財務省から取ってきた人間ですが、追跡調査をきちんとやっているとは言えないと思っています。まぁ、報告書はここにあるわけですが。

http://www.meti.go.jp/policy/bio/jinzai/mitubishisoken.pdf

この報告書を今読んでみても、ほとんど役に立ちません。報告書が駄目なんじゃないんです。書かれていることは至極ごもっとも。しかし、それを実現できないんです。少なくともリーダーというのは教育して育成できるものではない、と考えています。どちらかといえば、たくさんいる候補の中から一番筋の良い人材を選び出すような作業だと思います。ということで、個人的には期待はほとんどしていないのですが(笑)、でも、正面から無駄だと断じる気もありません。そこで、是非、きちんとした実のある報告をお願いしたいと思います。僕達のグループはバイオネタで起業シーズをいくつか持っていて、社長人材、幹部人材を常に探しています。もしこのイベントに優秀な人材が参加するようなことがあれば、是非紹介していただきたいと思います。


まぁ、僕が言いたいことはほとんどこの中に織り込まれているわけですが、ストレートに言ってしまえば「リーダーなんて、育成するものじゃなくて、自然に出てくるものなんじゃないの?」ということです。さらに言えば「でも、それが出てきにくい土壌があるだろうから、出てきやすいようにしてやったらどうか」というのも余計なお世話なような気もするなぁ、と思うのです。打たれて出てこなくなってしまうような杭なら、将来も叩かれて駄目になるでしょう、という感じです。しかしまぁ、今はまだ試行錯誤の段階。「そんなの無駄」と否定してしまっては何も生まれませんから、国に多少なりとも予算があるうちに色々やってみるのは決して無駄ではないと思います。

さて、上のメールに対して松本さんは朝早くからお礼のメールを書いてくれたわけですが(これも内部情報なので出せませんが)、その中で「情報はどんどんディスクローズしていくつもり」と書いていました。そこで、MLの中で返事をしても良いのだけれど、折角だからブログでバイオの記事にしちゃおうかな、と思って、勝手にこちらに引っ張り出してみたわけです。ま、そうすればもしかしたら「第1回インターカレッジ・バイオリーダーズ」の宣伝にもなるかもしれないですし。

ここから以後が松本さんの早朝メールに対する返信になります。長くてスイマセン。いや、MLに入っている人には必要がないのですが、このブログを読んでいる人はそういう人ばかりでもないので、一応誤解のないように背景を説明したらこんなにながくなっちゃいました。さて、松本さんのメールによると、「今回のイベントは、その成果を他の大学などでも利用できるような手法の確立も求められている」、とのことでした。

正直に、かつストレートに言ってしまうと、この部分が一番駄目なところだと思います。僕はリーダーの育成というのはマニュアルが作れるようなものではなく、「レクメドの松本だからできる」という質のものだと確信しています。他の大学でも、他の誰でもできるようなことなら、もうとっくに出来ているはずです。それがなぜ出来ないのか、そんなことはみんなわかっているはず。ところが、国の予算が絡むとそういうことになりません。このあたりがトップダウン形式の限界でもあり、いつまで経っても日本の競争力がアップしてこない原因だとも思っています。僕は役所やその周辺でトップダウン形式のやり方を散々やってみて、「これでは駄目だな」と思ったので、そういったやり方を一切辞めてしまいました。では、ボトムアップならいけるのか、ということになるのですが、それはそれでなかなか難しいというのが現状です。

ただ、僕もひとつ勘違いしていたことがあって、それはお金の出所を上に求めていた点です。要は、「企画はボトムアップだが、お金がないからお金は国が出してよ」というものです。これをやっていると、自然に目線が上にばかり向いてしまい、結果としてボトムアップの手段ではなくなり、トップダウンの手先になってしまいます。そういうわけで、今はトップからのお金もあてにせず、純粋にボトムアップでやっていくことを試行錯誤中です。

#もちろんそこに勝手に上からお金が降ってくるのは構わないわけですが(笑)

##あと、お金ではなく、仕組みは利用させてもらったほうが良いと思っています。仕組みとは、大学とか、そういうものです。

さて、そんな状況にあって、僕のこれまでの経験からひとつ言えると思っていることを書かせてもらいますと、それは「社長に必要なのは営業能力である」ということです。リーダーシップとか、専門分野に関する知識とか、株主に対する説明能力とか、人材を育成する能力とか、求められるものは色々あるのかもしれません。でも、何を差し置いても、結局のところどれだけお金を稼げるのか、これに尽きてしまいます。

今まで僕は何人かの社長人材をOJTの形で育成しようと試みました。そして、失敗しています。それぞれのケースで色々なところに問題が発生しました。

振り返ってみると、その中で共通するのは、「社長がまず形から入りたがる」ということです。形とは、「会社のロゴを作る」とか、「名刺を作る」とか、「事務所を設置する」といったことです。実はこうした作業は会社の営業にあたっては全く不要で、それでいてお金さえかければ誰でもできてしまうことだったりします。これをやることによって何ができるかといえば「俺が社長だ」「ここが会社だ」ということをアピールすることです。社長であることが嬉しいわけですね。もちろん、こういう形から入るのも一概に否定は出来ません。スキーをやるにしても、まず一流の道具から揃えるタイプの人というのは少なくないですから。ただ、好ましくないのも間違いないでしょう。何しろ、小さな会社の社長なら、出費を最小限に抑えることが重要になります。

さて、一般論として社長は形から入りたがるわけですが、一方で、何ができないか。もちろん「ビジネスプランを全く作れない」とか、「経理が全くわからない」なんていうこともあったわけですが、これは実は周囲がフォローできます。致命的だったのは、「お金を稼ぐことができなかった」んです。「名刺を作るのは良いけど、そのお金はどうするの?」、「事務所を置いたら固定費が発生するけど、そのお金はどうするの?」というところに対して何の回答も出せなかったわけです。思いつきで一瞬お金を稼ぐことは出来ても、継続してお金を集めることができなければ、会社は早晩つぶれてしまいます。そのときに何が必要なのかって、結局は営業力です。

ものを売るのでも良いし、サービスを提供するのでも良いし、借金をするのでも良いし、資本金を集めてくるのでも良い(いや、本当は良くないですけど。安易な増資ほど会社を迷走させるものはないので。でも、何もないなら仕方ない)わけです。何しろ社長はお金を稼がなくちゃならない。

ところが、研究をやっていたり、学生だったりするとこの能力が決定的に欠落しています。「どうやって食べていくんですか?」ということを自己解決できず、結果として逃げ出さざるを得なくなってしまいます。そして、これまた一般論ですが、多くの日本人は営業が非常に苦手です。

だから、僕は今、経営人材を育てるときは必ず営業から入ることにしています。営業をやってきた人なら無条件でひとつめのハードルを越えているわけですが、そうじゃない人とはまず営業に行きます。

営業ができない人に経営は無理です。これが今の僕のひとつの結論です。逆に言えば、「社長はやっぱり営業力」です。  

2008年11月27日

ブログでバイオ 第59回「そろそろ食について考えてみようか」

先日、バイオインダストリー協会の塚本専務と話す機会があった。というか、こちらから挨拶に行ったんだけど。塚本専務は僕が経産省にいたときの上司で、当時生物化学産業課の課長。その後四国の経済産業局長などを経て、去年の秋ぐらいからバイオインダストリー協会の専務である。去年から就任しているんだから去年のうちに挨拶に行けよ、という感じだが(笑)、まぁ、色々ごたごたしていることもあるだろうし、僕はバイオインダストリー協会の下っ端(だけではなく、上層部とも(笑))とは仲が悪いので、「そのうち」と思っているうちに一年経ってしまった。

塚本さんとかも、世の中で言う「天下り」になるわけだけれど、こういう事例を見ていると天下りというのも必要な場面は間違いなく存在するよなぁ、と思う。塚本さんの前任の地崎専務も天下りだったわけだけど、このバイオインダストリー協会という組織は以前は地崎さんひとりでもっているような組織だった。地崎さんは地崎さんで精力的に動く人だったけれど、いかんせん、在位期間が長すぎたようで、また地崎さん自身体調を崩していたこともあり、ここ数年は協会もかなり怪しい状態になってきてしまっていたようだ。折からの財団法人改革もあり、組織としてはかなり地盤が緩んでしまっていた印象が強い。そんな中、天下ってきた塚本さんだけれど、協会の財務状況は非常に悪く、それをどうやって再構築していくのかという重い課題をいきなり突きつけられたはずである。でも一年経って、まだ特にこれといった不協和音は聞こえてこない。

塚本さんは役人時代、どちらかというと風呂敷をたたむ側の人で、役人としては珍しいタイプだった。世の中の役人と言うのは基本的に風呂敷を広げる側である。それで、風呂敷をたたむ側の人というのは役所ではあまり評価されない。役人には3タイプいて、それは風呂敷を広げて成功する人、風呂敷を広げすぎて失敗する人、広げすぎた風呂敷をたたむ人である。それで、塚本さんは三番目。そんな塚本さんが、広げすぎた風呂敷をたたみつつ、必要な場面では風呂敷を広げなくてはならない立場になったわけで、今後の活躍を楽しみにするとともに、色々と情報交換をしていきたいと思っている。

さて、そんな塚本さんとポスドクの話をしてみたのだけれど、塚本さんの見解はあまり芳しいものではなかった。塚本さんの了解を得ずにここに色々書いてしまうのはまずいと思うので、ごくごく簡単に書いてしまうと、「折角機会を与えても、ポスドクの側からの踏み出しが全くないので、やりようがない」というもの。この意見には基本的に僕も同感だ。たとえば僕の周りにはポスドクが活躍できそうなバイオ関係の採用案件がいくつもある。しかし、僕のところにアプローチがあった件数と言うのはほとんどゼロである。たまに何かあったと思うと全責任を放り出して逃げ出してしまったりする(笑)。その話も塚本さんとしたのだけれど、「基本的に社会人経験をしていないポスドクは使い物にならないケースが多い」というところで意見が一致してしまった。ま、そんなこんなで色々話はしたのだけれど、無許可で書くわけにもいかないので詳細はスルー。何しろ、「ポスドク問題に対して我々ができることは「仕事」を提供すること。それをやりたくないというのなら、こちらとしては手助けのしようがない」というのが結論である。

ということで、このブログでも長い間色々書いてきたけれど、ポスドク問題についてはこの辺で一区切りつけたらどうかな、と思う次第。では次のテーマは、ということになるのだけれど、個人的に関心があるのは「食」である。最終的には「GMOにどう取り組んでいくのか」という話になると思うのだけれど、GMO問題も含め、バイオと食の関係領域は非常に多岐にわたる。たとえばさっき、こんな記事を見つけた。

寒さ本番でコンビニの“コラーゲンめし”が人気

大分前に「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ(笑)」というエントリーを書いたけれど、まーだこんな記事が出たりするところがこの日本と言う国の教育レベルの低さを示している。たんぱく質とは何か、アミノ酸とは何か、人間は食べ物をどうやって吸収しているのか、このあたりの基本的な知識があれば、みのもんたがどう言おうが、またそこに出てきている良くわからん大学教授が何と言おうが、「そんなのカンケーねー」ということになるはずなのだけれど、そうならない。国民が馬鹿だというのではない。国民にきちんとした知識が与えられていないのである。これは文科省の責任でもあるのだが、ちゃんとした知識を国が教育で与えないのであれば、民間できちんとした情報提供をしていく必要がある。

多くの場合、この手の情報は疑似科学という分野になるんだろうけれど、特に食周辺についてはこうした情報が凄く多いと思う。中には検証が非常に難しい情報もあって、「これは嘘」と断定するのが難しいものも含まれるわけだけど、コラーゲンネタなどは大分初歩的なところに分類されるものだと思う。こうした問題が山積みなのが今の日本の食関連の情報事情なので、そのあたり、ブログでバイオで色々と検証していけないかなぁ、と思っている。

ということで、軸足をポスドクから食に移そうかなーと思っている第59回でした。
  

2008年09月19日

ブログでバイオ 第58回「57回へのコメント(笑)」

ブログでバイオ 第57回はこちら。
第57回ブログでバイオのオフ会に参加

以下、57回から引用して書いて行きます。

次回からは、若手の会のネットワークを使って宣伝に協力して差し上げたいと思います。


よろしくお願いします(^^

即刻研究をやめて転職活動をすぐにでもすべき


そうですね。僕も似たようなことを思います。ただ、一刀両断、というわけにもいかないと思っています。大事なのは、「自分は何ができるんだろう?」と考えることです。オフ会でも一部の人にちょっと話しましたが、「別に食べていこうと思えばアルバイトはいくらでもある。吉野家でも、マクドナルドでも、アルバイトを募集しているじゃないか」ということです。これは極論でもなんでもありません。今、居酒屋とかラーメン屋とかに行くと、中国や東南アジア系の人たちが沢山働いています。彼らがその仕事で就労ビザを取ることは結構難しいと思うので、彼らを雇っている人たちはそれなりに人材確保で苦労しているはずです。つまり、仕事はあるわけです。給料は安いでしょうが。

一人の人間がそこに存在して、「お金がありません」ということなら、「じゃぁ、あなたは何ができるんですか?」ということになります。ただ、ここで「最適化」という概念が出てきます。「バイオで博士までとっておいて、ファストフードでバイトですか?」ということですね。でも、「バイオの博士」であることを利用して何もできないなら、それは仕方がないです。研究機関でのアルバイトでも、ファストフードでのアルバイトでも、とにかく仕事を見つけることが重要なわけで、仕事があれば食べていくことはできるわけです。本当に何もなければハローワークに行けば良いわけですが、「そこまで苦しいのかなぁ」と、個人的に疑問です。だって、僕の会社にしても、僕の知り合いが社長をやっている会社にしても、慢性的に人材不足ですよ。能力がある人ならすぐにでも雇いたいし、いつでも門戸を開いています。

参考資料↓
新入社員募集

では、ちょっとここで仮想面接をしてみましょう。
-----------以下、フィクションです------------
面接者「あなたは当社に何を提供できますか?」
応募者「バイオで博士をとりました」
面接者「なるほど、博士という肩書きがあると、何ができるんですか?」
応募者「研究ができます」
面接者「なんの研究ですか?」
応募者「言われれば、何でもできます」
面接者「いや、こちらはバイオの最新知識がないのです。では、質問を変えましょう。なんの研究がやりたいですか?」
応募者「RNAの研究をしていましたから、その周辺、例えばRNAiの研究などをやってみたいです」
面接者「その研究をすると、どんな利益があるんですか?」
応募者「ネイチャーには載ると思います」
面接者「ネイチャーに載っても別にうちの会社の利益にはならないですよね?」
応募者「でも、それをベースに特許をとって、事業開発ができるかもしれません」
面接者「どんな特許をとって、どんな事業をするんですか?」
応募者「医薬品が作れると思います」
面接者「その可能性はどのくらいですか?」
応募者「実験してみないとわかりません」
面接者「ということは、それは賭けですね?」
応募者「そうです」
面接者「賭け金はどのくらいになりますか?」
応募者「賭け金?」
面接者「言葉を変えましょう。その研究にかかる費用はどのくらいですか?」
応募者「3年分ぐらいの研究費になります。私の人件費を加えると1億円ぐらいでしょうか」
面接者「そんなお金はないですねぇ。どこかからそのお金を調達できますか?」
応募者「できると思います」
面接者「じゃぁ、そのための説得資料を作ってもらえませんか?」
応募者「研究計画書ですか?」
面接者「いえいえ、基礎研究をして、特許をとって、事業化して、薬になって、その薬がいくらで売れるのか、みたいなものですね」
応募者「今の時点ではどんな薬ができるのかはわかりません」
面接者「じゃぁ、売れるかどうかもわからないし、そもそも市場規模もわからないですよね?」
応募者「市場規模はすごく大きいと思いますよ」
面接者「なぜそう思うのですか?」
応募者「いえ、根拠はありませんが、なんとなくです」
面接者「私達はビジネスの話をしていますから、「多分売れる」とか、そういう話はやめましょう。あなたが3年間基礎研究をやってみたいことはわかりました。では、他に何ができますか?」
応募者「他に、ですか?」
面接者「他に、です」
応募者「うーーーーん、思い浮かびません」
面接者「研究しかできない?」
応募者「はい」
面接者「残念ですが、それではうちの会社ではやることがありません。本当に何もできないのですか?」
応募者「すいません、考えたことがありません」
面接者「でも、あなたは食べていかなくちゃならないわけですよね?」
応募者「はい」
面接者「では、何かしらの方法で社会に貢献して、その対価としてお金を得ることを考えなくてはなりませんよね?」
応募者「はい」
面接者「その方法を考えなくてはならないんじゃないですか?」
応募者「でも、研究しかやってきてないんですよ」
面接者「でも、研究ではお金がもらえないんでしょう?」
応募者「もらっている人もいます」
面接者「でも、あなたはもらってないわけですよね?」
応募者「はい」
面接者「そして、そういう人は他にも沢山いるということですよね?」
応募者「はい」
面接者「ということは、「研究をやって食べていきたい」と思っている人に割り振るだけの仕事が日本にはないってことじゃないですか?」
応募者「そうかもしれません」
面接者「それは、「オレは野球で食べていきたい」と思っていても、誰もがプロ野球選手になれるわけではないというのと何も変わりませんよね?」
応募者「そうだと思います」
面接者「では、プロ野球選手を目指して頑張ってきた人が途中で挫折したときは、何をしますか?」
応募者「あんまり考えたことがないですが、色々仕事はあると思います」
面接者「その言葉をあなたにそのままお返しします」
応募者「確かに、仕事は色々あるかもしれません」
面接者「では、あなたは何ができるんですか?」
応募者「すいません、考えたことがありませんでした」
面接者「わかりました。では、それをよく考えてみて、その上でもう一度お越しください。うちの会社はいつでも門戸を開いています」
-----------以上、フィクションです------------

なんか、いつでもこんな問答が展開されそうなんですが、何にしても、「自分は何ができるのか」「どうやったらお金をもらうことができるのか」を真剣に考えてみる必要があるわけです。「私はこういう能力を持っている。それを利用して××というサービスを開発すれば、需要がある。実際、△△などがそのサービスの販売先として想定できるし、将来的には○○ぐらいの売上が期待できる。ただ、そのためには■■といった支援と▲▲円の資本が必要だ」ぐらいのプランをまとめられて、それがうまく行きそうだな、と感じる人がいれば、それをビジネス化する手法はいくらでもあります。繰り返しますが、「何ができるのか」をきちんと整理する必要があります。あと、それが整理できたからといって、必ずお金を生むとは限りません。例えば「私は研究ができます」といったからといって、それはお金を生まないわけですし。実際は、「誰にも真似が出来ないような素晴らしい研究が出来ます」ということであれば話は全然違うわけですが、博士を取っている人なら普通できてしまうような研究であれば、それはお金を生まないことがここ数年で判明したわけです。

ということで話を一番最初に戻しますが、転職活動をするのは大事だと僕も思います。加えて、その際には、「何ができるのか」をきちんと整理することが大事だと思います。その上で、その「できること」がお金を生み出すのかどうかを考えれば良いわけです。

現在の有力な産業にフィットさせて、将来の転職の為のスキルアップとしてポスドクを利用すると良いでしょう。


好き勝手に自分のやりたいことをやるんじゃなくて、社会からのニーズがあることをやれ、ということですね。同意。自分のニーズと社会のニーズの接点をきちんと見極めれば良いだけの話です。

ちょっと話が変わるかもしれませんが、大企業とか、公務員とか、こういった組織は非常に社会主義的な組織であって、要は「構成員はパーツとなって働きなさい。あなた達は会社が要求する労働を提供すれば良いんです」というマインドです。そこにはほとんど「社員の希望」というのが入る余地がありません。たまたま組織の方針に人間の方針が合致した場合はそれはそれでラッキーですが、こういうことって実際はあんまりないと思います。で、そういった犠牲、自分の希望を犠牲にするのと引き換えに、安定した立場と安定した給料を得るわけですね。まぁ、中には非常に優良な会社があって、社員の希望をかなりのところまで飲んでくれるところもあるんでしょうが、おおよそ世の中にある会社で「大企業」と思われているところは、社員の希望なんていうのとは全く別のところで意思決定が為されています。だから、「研究者」みたいな、自分の希望を強く押し出したい種類の人種にとっては、「大企業」とか「公務員」なんていうのは、本来一番最初のところで候補から外すべき就職先だと思います。私見ですが。

製薬にいけなかったから博士にいっちゃえ、はやめましょう。


全くその通りだと思います。

受験勉強を頑張って、大学院はパソコンか化学を専門にするところに進学するのが良いでしょう。


うーーーーん、これはどうかな。僕は高校、大学教養課程では物理が大好きで、将来は理論物理をやりたいと思っていました。でも、ちょっとしたきっかけで聞いた分子生物学の授業が物凄く面白かったので、さっさと宗旨替えして生物の分野に進んでしまいました。別にそのことは今でも後悔していません。大学とか、大学院は、就職のことを考えるよりも、自分が勉強したいことをやるべきだと思います。大学は就職のための予備校ではないし、就職した後に役に立つようなことを教えてくれることも滅多にないと「僕は」思っています。

#ただし、僕の授業は別(笑)
##僕の授業についてはここにちょこっと書いてあります
###余談ですが、今年のこの授業は受講希望者少数により中止になりました(爆)。年末年始、暇になりましたので、誰か授業をやって欲しい人がいれば呼んでください(笑)。

ということで、僕は「修士課程までは」という限定付きで、自分の知的好奇心を満たせるような大学・学科に進学すれば良いと思います。

そんな道、日本には無いんじゃないの、が僕の私見。


今の社会制度の中では「無い」とは思わないけれど、「プロ野球選手、Jリーグ選手になるくらいに難しい」とは僕も思います。

ポスドクのための監査法人を作りたいと考えています。監査法人の業務は伝票チェックするだけの地味な仕事ですが、独占業務なので、食いっぱぐれることはない。


うーーーん、これもどうなんですかね?弁護士と一緒で、そのうち公認会計士だからって食べていけるわけではない、という状況になると思います。将来的に「食いっぱぐれることはない」という状態が続くとは思えません。ただ、以前僕が役人をやっていたとき、東京駅の八重洲ブックセンターの向かいにある素晴らしく立派なビルの中にある監査法人に行ったところ、「修士」という肩書きを名刺に書いた公認会計士の人が出てきました。後にも先にも、名刺に「修士」という文字を書いていた人はこの人しか知らないんですが、まぁ、そういう世界なので、活躍できる可能性は少なからずあると思います。何しろ、「ダブルメジャー」というのはそれなりにバリューがあると思います。ただ、「公認会計士」「博士」という肩書きだけじゃだめで、その肩書きが要求するだけのスキルを実際に持っていなくては意味がないのですが。

#当時は「修士」という肩書きだけでもバリューがあったわけですが(^^;  

2008年09月12日

ブログでバイオ 第56回 「あれ?ポスドクいないの?(笑)」

昨日はブログでバイオのオフ会。幹事をやってくれたバイオクオリの水野社長、お疲れ様でした。また、参加していただいた皆さん、ありがとうございました。知らない人が沢山いたので、もともと面識がある人たちとはほとんど話ができませんでしたが、みんな普通に元気そうだったので、つもる話はまた次回に。

さて、昨日の感想なんですが、「仕事がなくて困ってます」というポスドクが何人くるのかなー、と思って、仕事とかまで用意してあったんですが、一人も来ませんでした。みんなそれなりに頑張っている人ばかりで、ちょっと拍子抜け。なぁんだ、ポスドク問題が深刻、とか言ってるけど、困っている人なんか全然いないんじゃん」と即決してしまうのはそれはそれで危険だけれど、「頑張ろうとしているのに、色々ハードルがあって難しい」という人のハードルを下げてあげることはできても、何もせずに呆然としている人を頑張るようにエンカレッジするところから始めるほど暇人ではないわけで。ま、平日の夜ということで飲み会どころではなかったのかも知れないけれど、本当に困っているなら、出てくるよなぁ、と思わないでもないわけです。そのあたり、どうなんでしょうね?

僕以外の参加者の皆さんは凄く親切なので、「どうしてだろうねぇ」と議論していましたが、僕とかは目の前にある事実だけで十分で、いないならいないでいっかなー、と思っていました。

バイオの研究はとにかくマンパワーが必要で、しかも、その多くは時間の経過とともにどんどん機械化されます。ちょっと前、僕がピペットマンを持って実験していた頃は、シーケンス作業は電気泳動のゲルを作るところから全部手作業でした。しばらくして自動的に読み取る機械が出来たけれど、最初のうちはそういう機械も「でも、まだちょっと読み間違いとかあるよね。ペーパーにするなら、きちんと手作業でやらないと」なんていうレベルだったわけですが、そこらへん、技術の進歩は素晴らしいわけで、あっという間に「人間が手作業なんてありえねぇ」みたいな状態になったわけです。じゃぁ、それまで手作業で頑張ってきた人たちはどうなるの、って、基本的には使い捨てですよね。これはもうバイオの構造的な性質。たんぱく質の立体構造を調べましょう、みたいな話だって一緒だし、病気の遺伝子を見つけましょう、みたいな話だって一緒だし、iPS細胞を作りましょう、という話だって一緒でしょう、多分。トップに偉い人がいて、予算を取ってきて作業を割り振る。下っ端はその指示に従って土方作業をする。土方作業をやっている人たちのスキルはどんどん上がるけれど、やがてその作業自体が不要になってしまい、アップしたスキルはそのままどこかに捨て去られる。これはもう、僕が学生だった頃から全然変わってないわけで、それでもこの分野で仕事をしたい、研究をしたい、と思う人は、当然そういう「性質」を理解していなくちゃいけない。それを知らないでポスドクになって初めて「あれ?」って思うのは相当のオッチョコチョイ。今は博士余りがマスコミで報道されていてその問題を誰でも知ってますけど、今から20年近く前でも、「博士に行ったらつぶしが利かなくなるから、就職するなら修士修了のとき」という話が常識でした。

#ただ、そういう使い捨て体質の中でも作業をやらなくちゃいけない人たちはいるわけで、それはそれで大きなストレスを抱えているわけです。だから、普通に考えればこうしたテクニシャン達の待遇は、パーマネントでふんぞり返っている研究者よりも金銭的に優遇されて当たり前。ところが、そのあたりの周辺事情は全く考慮されず、「それなりにトレーニングすれば誰でもできることなんだから、給料は安くて当たり前」みたいに考えられてしまうところは問題だと思いますけどね。でも、これはこれで需要と供給の問題であって、「安くても良い」と思う人が大多数なら、テクニシャンたちの就労環境は改善されませんよね。「高学歴なんだから給料が高いのが当たり前」「研究者なんだから給料が高いのが当たり前」という、看板社会の日本ではトップダウンでの改革は難しいんでしょうね。どこかの会社が、「うちはテクニシャンを物凄く優遇しますよ。ただし、腕の良い人限定。しかもプロジェクトごとの任期制。さぁお待ちしております!」とかやり始めれば、ボトムアップで変わっていくかも。

でも、昨日、そういう話をしたら、「いや、でも、学生は惰性で大学に入って、惰性で修士に行って、惰性で博士課程に進んじゃうんですよ」なんていう意見があったわけです。この、「惰性で博士」っていうところが、相当ヤバイわけですね。学校としては定員を確保してあるし、労働力は欲しいから、進学してくれる学生は多ければ多いほど助かるわけです。奨学金をもらうことができるなら、金銭的なハードルも低い。おまけに好きな実験もできる。なるほど、そういう構図ですか。ポスドクになって仕事がない、という現実に直面するまでは皆が皆、都合良くまわっていたわけです。そして、最後の最後で、ポスドクだけ「あれ?」みたいな。そして、他の人たちは知らん顔。自分の居場所だけは確保しつつ、「国がなんとかしないと」とか言ってガス抜きするのが関の山です。

ま、何にしても、目の前に実際に困っている人がいて、個別具体的な問題を提示して貰って、「さて、どうしましょうか」という相談には乗ることができる(かもしれない)わけですが、目の前に誰もいない状態で、一般論として「こうするべきだ」みたいなつまらない議論をすることには、少なくとも僕は全く興味がなく、また、黙っていても、そんなことは暇な大学の先生とか、文科省の役人とか、そのあたりがやってくれることでしょう。そんな議論の延長線上には生産的なものは何も存在しない(単なる問題の先送りか、オッチョコチョイを益々駄目人間にしてしまうか、せいぜいその程度だと思います)と思っていますが、ま、それはそれ。やりたい人がいるんならご自由に、という感じです。

ということで、そろそろ「ポスドク問題をどうしようか」みたいな話からは卒業して、新しい方向にドリブルを始めようかなぁ、なんて思った次第です。いや、前からそう思ってるんだけど、そうするといつの間にかトラップにかかって、元に戻っていたりするんですがね(^^; どうなんでしょうね、参加者の皆さんとか、あるいはこのシリーズを読んでいる皆さん。まだやっぱりポスドク問題ですか?

あぁ、あと、やっぱり姿が見えるというのは大事だなぁ、と思った次第。普通にシリーズ化しても先細りになりそうな気がしないでもないですが、逆に上手にコントロールしていけば、このブログでバイオのオフ会もそれなりに盛り上がるかも知れないなぁ、と思った次第。次は忘年会ですかね?

第55回はこちら。バックナンバー集もあります。ありがたや、ありがたや。
【ブログでバイオ】第55回 ブログでバイオのオフ会(9/11)まだ参加枠があるそうです
  

2008年08月29日

ブログでバイオ 第54回 事務連絡(笑)

amazonのアフィリエイトの売上レポートによると、ブログでバイオ第51回に関連して下記の売上がありました。

Banker to the Poor: Micro-Lending and the Battle Against World Poverty
\46

ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家
\39

ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家
\300(5冊分)

最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?
\66

小額ではありますが、全額ブログでバイオのオフラインミーティングに寄付します。  

2008年08月26日

ブログでバイオ 第53回「東洋経済の記事を見て思うこと」

東洋経済2008.8.16−23号の166ページに城繁幸さんの「だから若者は幸せになれない」という連載で、「行き場失う博士 企業は目を覚ませ」という記事が掲載されている。さすがにPDFにして全部ここに掲載してしまうのはまずいと思うので、心ある人はこれを買って欲しいし(もう売ってないかも知れないけれど)、買わないまでも立ち読みするとかして欲しいし(もう店頭に置いてないかも知れないけれど)、まぁ、そのあたりは皆さんにお任せするとして、要約はこんな感じ(笑)。

社会学で大学院に進学するのは就職を諦めるくらいの覚悟が必要
修士・博士といった学歴が必ずしもキャリアに結びつかないことは関係者の間では公知
この傾向は1990年代末に文科省が大学院の拡充を図ったことで顕著になった
博士課程の25%は定職に就けない状態だが、これは就職先がないことによる
日本は先進国であるにも関わらず、企業が専門教育を生かすすべを知らない
企業が彼らを必要としない理由は年功序列制度が健在だからだ
大学院修了者の社会経験は新卒と何ら変わりがない
終身雇用を希望する者が増えているが、それは人間性だけの問題ではない
今のままでは学問が自由に発展できない
抜本的な対策は、企業が職務給に移行するしかない
博士も職務給なら学部卒業生並みの給料からスタートできる
大学院生は年齢給ではなく、職務年俸制の企業を目指せば良い
年功序列のレールなど、今後はあってもたかが知れている
アウトサイダーはレールのない世界を目指せ


全くおっしゃるとおりで、ごもっとも。というか、「ブログでバイオ」を通じて僕が言って来たことのほとんどがここにあるわけです。

で、ここまではその通りで、しかも、多くの人がそれに賛同はしているわけです。それでも状況が変わらない。なぜか。博士の多くは、年功序列制度が健在で終身雇用の会社が好きなんじゃないかなぁ(笑)。城さんは「年功序列のレールなど、今後はあってもたかが知れている」と書いているけれど、研究の現場って、年功序列のレールがびっちり敷かれてますからね(笑)。単年契約とか、任期制にしようとか言うと、研究者はこぞって大反対します。「安定していてこそ良い研究ができる」って(笑)。良い研究をする人は、安定していてもしていなくても関係なく、できちゃうものだと思うんですけどね。

パーマネントなポストがなくなれば雇用は物凄く流動化しますから、勝ち組と負け組は固定化しなくなると思うんですけどね。いや、もちろん「すげぇデキる奴」と「すげぇデキない奴」の雇用は固定化しますけれど。  

2008年08月18日

ブログでバイオ 第51回「オフ会に向けて」

ブログでバイオの50回でオフ会の告知があった(詳細はこちら)わけですが、テーマは「今博士がすべきこと、できること」だそうで。

それで、他の参加者、例えばリバネスの丸さんがどういうつもりでいるのかは全然わかんないんだけれど、僕なりのこのオフ会へのスタンスというのは明確にしておきたいと思う。

このブログを読んでいる人なら誰でもわかっていると思うけれど、僕のスタンスは「文科省さんにお願いしましょうよ」なんていう物乞いスタンスではない。

なぁんて書くと刺激的過ぎるのかもしれないけど。僕自身、経産省でバイオ系ベンチャーに補助金を配っていたこともあるし、現在も仲良く付き合っている元同僚達の中にはそういう仕事をやっている人もいる。だから、別にその手のお金を全否定する気はない。しかし、目線を上に向けている人とは恐らく最初から話が合わないと思う。また、そういう人たちの手助けをする気もさらさらない。時間が無駄だから、そういう人は僕のそばには近づかないで欲しい(笑)。だって、僕は自分の考えをそう簡単に変える気はないんだもの。

僕はあくまでも、「何をしたいのか」に興味があって、「そのために何が障害になっているのか」を知りたくて、さらには「その障害を除去するために僕は何かできるのか、あるいは何かアドバイスできるのか」を考えたいんです。あぁ、その「何をしたいのか」も、「大学の助手になりたいんですけど」とか、「理研で働きたいんですけど」とか、「研究したいんですけど」とかの抽象的なのは駄目ね。「あなたを大学の助手にしたら、大学にはどんなメリットがあるんですか?」「あなたの研究を実施したら、どんな経済的メリットが発生するんですか?」ぐらいのキャッチボールは出来るかもしれないけれど、話はそこでオシマイだから(笑)。

それから、タイトルに「博士がすべきこと」とか書いてあるけれど、抽象論をする気はさらさらない。「すべきこと」って、そりゃ金を稼ぐことでしょう。僕の興味は、博士研究員に対しては「じゃぁ、どうやって食べていこうと考えているのですか?」だし、その周辺の人に対しては、「僕は今、こんなプログラムを考えていますけど、それに賛同しそうな博士はあなたの周りにはいますか?」ということである。あーでもない、こーでもないと議論したいんじゃない。議論は評論家や大学関係者たちのマスターベーションでしかないということは散々書いてきたこと。議論したことによって博士研究者の状況が変わったというなら、その現場を見せて欲しい。前から書いているけれど、本当に困っているなら、そろそろ「何をするのか」を考えなくちゃいけない。

例えば年収600万円が欲しいというのなら、最低でも「毎月50万円の生産をしなくちゃいけない、50万円の付加価値を作り出さなくちゃいけない」ということ。じゃぁ、博士研究者(自分自身かも知れないし、それを何らかの形で支援している人かも知れないけれど)はどうやってそういう活動をしていくのですか?という問いかけに、何らかの具体的な回答を用意してきて欲しいわけです。

#ちなみに僕なりに一つ、二つ、そういった手段を用意はしてあります。それを博士研究者がやりたくなるかどうかは知りませんが。

ちょうど良い機会だから、ここで一冊の本を紹介しておく。アマゾンのアフィリエイトプログラムを経由したバナーを貼っておくから、少なくともこのオフ会に参加するつもりの人で、まだこの本を読んでいない人がいるなら、全員このバナーからこの本を注文して、オフ会までに読んで、できれば「これは!」と思ったところにラインマーカーで線を引いて持ってきて欲しい。

ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家
ムハマド ユヌス アラン ジョリ
早川書房
売り上げランキング: 8207
おすすめ度の平均: 5.0
5 貧困のメカニズムを理解する
5 強く推薦できる、素晴らしい本。働く人、これから働く人、みんなに読んで欲しい。
5 静かなる情熱の人
5 貧困の世界がわかります
5 お勧めです


この本は、バングラデシュの貧困層を対象にして小額無担保融資を実施し、それらの経済的自立を支援してきた経済学者の自伝である。この本を読めば、僕が「アフィリエイトになっているから、ここから買ってください」と書いた理由もわかるかもしれないし、わからないかもしれない。

折角だから、いくつか僕がラインを引いた場所を紹介するとこんな感じ。

理論を振り回すのではなく、少なくとも一人の生きている人間に対して、ごく小さなことであれ、心からの手助けをしてやろう。

もし、誠実に問題を解決したいと思うなら、まず自ら問題に関わり、歩みを始めるべきである。

物事は、私たちが思っているほどには複雑にはできていない、ということも学んだ。単純な答えを複雑なものにしているのは、私たちの傲慢さだけなのだ。

本当に必死で頑張れる人だけをグラミンのメンバーとして選別する

私は、政府がいかに権力を握りたがり、それを離そうとしないかということを学んだ。

もしあなたが生活保護の受給者だったら、それは、すべてのドアと窓が固く閉ざされた部屋の中に押し込められ、ドアを開けたり、外に出ようと考えることさえできない状態におかえれているようなものだ。

官僚システムは利益を目的にしているわけではないので、能率を高めようという意欲など持てるはずがないのだ。

施しをすることは、彼らの抱えている問題を無視し、ただ彼らを堕落させるだけだ。

なぜ自分からものごとを変えようとしないのか、自らも市場に加わって、ものごとをよりよくしていこうとしないのか

本当の問題は、あらゆる人に平等な活動の場をどうやって作り、どうやってあらゆる人間に公平で平等な機会を与えるかなのだ。


ちょっと抜粋してみただけだけど、僕がブログでバイオで主張してきたこととはずれる部分はほとんどないと思う。

この本は博士研究者をどうしたら良いのかということについて直接的に記述されているものではもちろんない。重要なのはムハマド・ユヌスが考えたコンセプトを理解することである。そのコンセプトはこの本を読むだけできちんと伝わってくる。そのコンセプトを博士研究者問題に適応できるかどうかは、その問題に対峙している当事者の資質次第だ。

何しろ、僕はこの本に書かれているコンセプトをほぼ全面的に支持している。だから、博士研究者問題について具体的な話を僕としたいなら、最低限、この本を読んでおいてもらう必要があると思う。僕の考えを一から説明するには、オフ会の時間は短すぎるので。

#もちろん、オフ会に来ない人も、上のアフィリエイトから本を買ってくれるのは大歓迎ですよ(笑)。2100円だから、配送料も無料。日本ではあんまり売れてないみたいだけれど、絶対に読んでおいた方が良いです。  

2008年08月03日

ブログでバイオ 第49回「ラベル考」

前にもこんな話を書いたと思うけれど、もう一度確認の意味も含めて書いてみる。

一ヶ月ほど前に、「四万十鰻の偽装から見えてくるもの」というエントリーを書いた。

これまた今北産業で説明すると、

「お前ら、鰻食べてないで、ラベル見て喜んでるんだろ。でもまぁ、そんな社会でラベルを偽装するのは罪が重いよな」

ということ。ラベルの意味は日本では凄く大きいわけだけど、別にそれを肯定しているわけじゃない。で、そんなラベル重視の社会だからこそ発生するのがポスドク問題だったりもする。

世の中、人間につけるラベルは色々あるのだけれど、それはあくまでも最低限のレベルを保証するもので、「優れている」ことを保証するケースと言うのは実はあんまりなかったりする。ラベルというのは多くの場合、「資格」と翻訳して間違いがないのだけれど、国家資格にしても、民間資格にしても、ある程度の知識、技能を持っていることを認めるようなもの。わかりやすいところで言えば医者とか弁護士とかがこのラベルの一種だけれど、じゃぁ、そのラベルがあるからって良い医者なのか、良い弁護士なのか、ということになれば話は別。「まぁ迷惑かけない程度にできるはずです」ぐらいの意味しかないわけだ。大体、医者なんて医学部に行けば普通になれるものだし、じゃぁ医学部は難しいんですか?って、これまたそんなことはない。国立大学や一部の有名私立医学部に行くのはそれなりに大変だけど、三流私立大学経由で医者になることはお金さえあればそんなに難しくない。これに比べると弁護士はある程度ハードルが高いと思うのだけれど、弁護士の知り合いと言うのがあまりいないので、弁護士のクオリティがどの程度コントロールされているのかはさっぱりわからない。ただ、司法試験の合格者を増やすということに対してあちこちの弁護士会が反対意見を表明しているのを見ると「大したことねぇなぁ」と思ってしまう。ま、幸いにして僕は医者にしても弁護士にしても信用がおける人を見つけているので全然困ることはないのだけれど、少なくとも医者だから、とか、弁護士だから、とか、ラベルだけで人を評価することは危険なんじゃないの?と思っている。

で、医者とか弁護士とかは、そういうラベルの中では実は比較的筋が良い部類のもので、アタリの頻度はわりと高いものだと思っている。

さて、そこで博士ですよ。博士って、なるの難しいと思いますか?全然難しくないですよ。博士になるためにはまず大学に受かる必要があります。大学は、難しい大学に受かるのはそこそこ大変なんだと思います。でも、難しくない大学だって山ほどあります。大学入学のハードルをクリアしたら次は大学院ですが、こちらも別にそれほど難しくないです。僕は修士課程に進学するとき、試験を受けました。でも、勉強らしい勉強は全然しませんでした。普通に実験して、普通に輪講出て、普通に遊んでいるだけで問題なく合格です。大体、研究室に配属されるのが大学4年。それで、その年の夏休み明けに大学院の試験があるんだから、大した勉強ができるわけがない。うちの大学の場合、理科大とかから大量に大学院受験生が来ていて、彼らはかなりまじめに勉強していたようですが、少なくとも東工大の人間が東工大の大学院を受験するのに、そんなにまじめに勉強しているのをみたことがないです。まぁ、確かに落ちた奴もいましたけど、それはレアケース。で、修士課程の途中で今度は博士課程に進む試験・・・・って、試験なんかあるの?記憶にありません。研究室の先生に気に入られていて、修士論文が普通に認められて修士課程を修了していれば、誰でもいけるんじゃないのかなぁ。まぁ、博士課程に進学するための試験みたいなのがあっても不思議じゃないけれど、博士課程に行けなくて浪人、なんて話は聞いたことがありません。それで、博士課程ですが、これはもう教授の手下として実験に励むわけですが、僕が自分の研究室の先輩達を思い返してみると、彼らは別に決して悲惨な状況ではありませんでした。だって、ちょこっとお金を払って、あとは教授や助手の言いなりになっていれば、好きなときに人のお金で実験して、暇なときはテニスや水泳、あとは麻雀。研究室に外研に来た女子大の女の子と遊びに行ったりもするし、まぁ僕が学生のときはインターネットなんかなかったからネットサーフしている人は皆無だったけれど、マックでお絵かきして遊んだりというのは良く見かけたし、それで本を書いてバイトしている人もいました。基本的にほとんど好き勝手。好きな実験をやって、それなりに結果が出ていればもう何も問題はないわけです。こりゃ楽しいですよね。修士課程修了後に僕は普通に就職しましたけど、そのあとにやってきた色々な仕事の中で、博士課程の学生よりも楽だったのは9ヶ月ほどやった無職(って、これは仕事じゃないけど(笑))のときぐらいですよ。もちろん、博士については横で見ていただけですけどね。基本的に修士課程と何ら変わりはないというのが僕の認識。ま、それが全てではないでしょうけど。

「じゃぁ、そんな楽しい博士をお前はなぜやらなかったんだ」ということになるわけですが、僕はそういう博士達を見ていて、「これは僕がやりたいことじゃないな」と思ったわけです。だって、教授、助手の言いなりになって、彼らのための成果をあげていくだけのポジションなんだもの。たまたま自分がやりたいことと、上司が要求している成果とが一致しているだけのこと。じゃぁ、その3年間が果たして自分にとって有意義なのかといえば、それはまた別問題。まぁ、じっと三年間我慢して、博士になって、そのあと成果を出して助手になって、運が良ければ准教授になって、というパスだってもちろんあるし、実際僕の高校の同級生は東大で准教授、大学のクラブの同期は東工大で准教授やってるし、研究室の後輩はやっぱり東大で准教授といった具合で事例もたくさんある。ただ、僕の場合は研究室で研究するよりも、社会に出た方が自分のスキルがアップすると思ったから、さっさと出て行った。

って、ちょっと話がそれましたね。とにかく、僕から見ると、博士って言うのはまず「大した生産もせずに(というか、どちらかというと研究費の消費をしている)好きな研究をやっている人たち」って感じなんですね。だから、博士だからなんなの?という感じになる。当然「博士」というラベルには特別な意味を見出せない。いや、厳密には、「3年間教授や助手の言いなりになっても我慢した偉い人たち」という切り口はある。でも、それだけ。なぜそんな博士が成立するかって、保有する側(大学研究室)からすれば貴重な労働力を確保できる。保有される側からすれば、比較的自由な環境で好きな研究を続けられるわけです。相互のメリットが成立しているんだから、誰もストップをかける理由はないですよね。

でも、考えてみてくださいよ。「○○さん、どうも優秀だと思ったら、博士らしいよ」なんてこと、実生活でないでしょ? つまり、「四万十産」とか、「医者」とか、「弁護士」とかのラベルにはそれなりの意味があるんだけれど、「博士」っていうラベルには全然意味がないわけです。そんな、全く意味のないものを掲げて、「博士が余っている」という話をされても、生活者レベルではまったくピンとこないわけです。だって、「博士」というラベルにそもそも何の意味もないんだもの。それをカテゴライズして論じることにも意味がない。「就職に困っている人」というクラスターにはもちろん含まれるわけですが、そのクラスターは今の日本では非常に大きいので、「だから何?」ってことになっちゃう。そういう状況においては、「博士」っていうラベルを強調することには意味がないのはもちろん、逆効果かもしれない。失業者が一杯いる中においては、優秀であるはずの博士は後回しで、みたいな。結局、「ポスドク余り問題」なんて、「ポスドク」を強調するから「はぁ?」ってことになっちゃうわけです。ときどき、「折角高度な教育を受けているのに」とか書かれていたりするけど、ホントに(笑)? 「優秀な人材を有効利用しないのは社会にとってマイナス」って、誰が「優秀」って評価したの(笑)? 優秀な人間を放っておくほど、今の日本は人材が余っていたりはしませんよ。優秀じゃないから余ってるんじゃん。

博士っていうラベルには価値も意味もない、ということになれば、そこに存在するのは「後期博士課程で3年間好きな研究をやっただけ」の人ってことになる。一般企業が「その3年をうちでトレーニングしていればねぇ」って思っても全然不思議じゃない。結局そこに存在している人間が何ができるのかが問題なのであって、もし片方が24歳で、もう片方が27歳で、能力的に大した差がないなら、そりゃほとんどの企業が24歳を採用しますよね。

「博士をもっと採用してください」とか言っている人には逆に質問したい。「博士になるために何をしたんですか。何を身に付けたんですか。修士とは具体的に何が違うんですか。それは会社の3年間では身に付けられないものなんですか。博士であるというだけで何か会社の役に立つんですか。」

僕の考えでは、「博士」になるのは全然大変じゃない。「博士」だからって優秀とは限らない。「博士」なんていうラベルには全然意味がない。この考え方は、世間の考え方とそれほどずれてないと思う。だから、まずはこのあたりを共通認識として持たなくちゃいけないんじゃないだろうか。これができないなら、いつまで経っても博士と社会との間の溝は埋まらないと思う。もしポスドク問題を考えている人が、「博士の有用性を社会に理解してもらう必要がある」なんて考えているとしたら、未来永劫解決しないんじゃないだろうか(笑)。博士が余っているのは社会のせいじゃない。「博士」というラベルを使って社会から離れたところに立ってしまっている博士自身のせいだと思う。以前、「修士」という肩書きを書いた名刺をよこした公認会計士がいて大笑いしたけれど、それと一緒。「博士」なんて肩書きを忘れた方がずっと解決に近づけると思う。

#いやね、もちろん、「博士になれば将来はばら色ですよ。就職は引く手あまた。売り手市場で困っちゃいます。だから是非博士後期課程へ進学してください。将来は保証します」みたいなことを大学から説明されていたんなら話は別ですよ。責任者出て来い、という話です。でも、そんな話はあんまり聞いたことがないんですが、どうなんでしょうね?

##博士の中にはもちろん優秀な人がたくさんいますよ。でも、そういう人のほとんどは博士というラベルがあることに意味があるんじゃない。そういう人たちは、ラベルがなくても優秀なんです。

###優秀な人がプラスアルファの価値を求めて博士というラベルを手にするのは決して筋悪じゃないです。  

2008年07月29日

ブログでバイオ第47回(かな?)「今日の私の視点を読んで」

内容的にバイオ限定ではないので、ブログでバイオの47回にしてしまうのはどうかと思うのだけれど、ま、いっか(笑)。

今日の朝日新聞の私の視点に榎木英介氏の「就職難が招く科学技術の危機」というコラムが掲載された。

#以前、僕もコラムを載せたんだけれど、このコーナー、無料サイトでは全文閲覧ができない。「自主的に書き起こして載せちゃって良いですか?」と朝日新聞に問い合わせたこともあるのだけれど、あまり乗り気ではない返事だった記憶がある。ということで、僕もテキストベースでは掲載せず、GIFにして載せた記憶がある。しかし、こういう文章こそきちんとテキストデータで発信すべきだと思う。

閑話休題。

さて、この文章、ストレートに言ってしまうと「現状をそのまま書いただけ」なので、本当なら「そうだよね」でオシマイになってしまう性質の話。なのだが、それがわざわざ私の視点に掲載されるあたり、日本の科学技術政策がうまく行っていないことを象徴していると思う。そういう状況においては当たり前のことであってもそれをきちんと文章化することは非常に意義のあることだ。

この文章の中では、「そうだね」と言える部分と、「それは違うんじゃないの?」という部分が混在している。ざっと要約してみると、

1.理工系博士の就職が厳しい
2.博士号取得者の4人に1人は任期付き研究員で契約社員のように働く
3.任期付き契約を繰り返すものが増え、そのうち10%は40代
4.博士号取得者を毎年採用している企業は1%
5.公的機関の博士研究員は博士取得から5年以内になる
6.博士を取得しても役に立たないなら、博士になる人は減る
7.すでに東大では博士課程が定員割れ
8.高度人材が必要とされているはず
9.みんなで博士人材の活用法を考えるべき
10.せっかくの博士が活躍できないのはもったいない
11.博士は積極的に活躍の場を求め、状況に適応すべき

ぐらいの感じだろうか。この中で、まず5について著者は「それはないんじゃないの」というスタンスだが、僕もその通りだと思う。とにかくトップダウン方式による規制は極力排除すべきであって、この手の根拠の希薄な規制は役人と既得権者の権限を拡大するだけだ。公的研究機関であればこそ、実力のある人をいつでも誰でも採用できるようにすべきだ。

続いて、全体の論旨としてちょっと「?」と思うのが、「高度人材が必要とされている」のに、「実際には人が余っている」というところ。書いてあることは多分間違いではないのだけれど、ぱっと読むと整合性が取れない。必要なのに、なぜ余るの?と考えるのが普通だろう。実際に起こっていることは「博士を持っていても高度な人材じゃなければ採用されない」ということなのかも知れず(僕自身、そういう事例は色々と見てきている)、あるいは「高度な人材はあまりにもピーキーで、恒久的に使うには勝手が悪すぎる」と言うことなのかもしれない。何しろ、そのアタリのことが故意にか、あるいは無自覚にか、明確にされていないので、ちょっと突っ込みにくい。実際には文字数制限がかなりタイトな欄なので、書きたくても書けなかったのかもしれず、そのあたりはブログなどを通じて補填して貰えると嬉しかったりする。例えばこことか。

SciCom NEWS〜代表理事日誌「朝日新聞私の視点「博士研究員 就職難が招く科学技術の危機」

先日来、各地の弁護士会が「司法試験の合格者を制限せよ」といった頓珍漢な主張を繰り広げているわけだが、弁護士にしても、博士にしても、資格を持っていることが重要なのではなく、何ができるのかが重要であって、弁護士とか博士というのは最低限の目印に過ぎない。そこから先は市場原理に従うだけの話で、弁護士だってある程度過剰に供給された上でそれぞれが切磋琢磨することによってクオリティがアップするし、博士だって過剰に供給されることによってそれぞれが努力すべきだ。そして、その競争に耐えられないなら、弁護士にしても、博士にしても、目指すべきではないと思う。少なくとも「博士」は水戸黄門の印籠とは違うのである。

そのあたりを確認した上で、博士が減っているといっても、じゃぁ、優秀な博士は減っているんですか?ということになってくる。役に立たない博士が減っているだけと言うことなら、それはそれで市場原理が働いているだけである。もちろん、今、余っている博士がすべからく役に立たないとかそういうことを言いたいのではないのだが(役に立たないのにパーマネントの職についてしまった既得権者の影響もあるかもしれない。そもそも、この手の職は全てテンポラリーでも別に問題はないのではないか)、「博士の就職難」という話をするときに、その博士達が画一的にある程度の知識と技能と能力を持ち合わせているという前提で話をしているところがどうにも受け入れにくい部分なのである。何度も書くが、僕は「これで本当に博士なのか?」と疑問に感じざるを得ない人達をたくさん見てきている。

#ちなみに経歴見てもらえばわかるけど、僕は修士です(笑)

さらにこのコラムを読んで思うのは、博士の境遇として「任期付きの研究員にならざるを得ない」というところを問題視しているところである。この考え方もいい加減古いと言わざるを得ない。任期付きで何が悪いのか。本来、博士などは専門性が極度に高く、その高い専門性が一つの組織で永続的に発揮できることなど稀だと思う。自分の高い専門性を売りにして活躍できる場を見つけ、どんどんキャリアアップしていくのが当然ではないのか。こうした就労環境は博士に限らず、日本社会の雇用全般で一般化されるべきで、そうした情勢において博士という人種が「本当に高度に教育された」優秀な人材であるというのなら、そのお手本になるべきである。「パーマネントの職に就くような奴らは落ちこぼれで、本当に能力がある人間は有期雇用で高く買われていくものだ」という状況こそが本来の姿であるはずだ。

ただ、もちろん、日本がまだそういう社会でないことは十分承知している。このブログでも何度もこの手のことは書いているが、今の日本はようやく社会システムが変革しはじめたところである。既得権者と新人類との綱引きが続いている状況においては、どうしようもなく時代の流れに轢かれてしまう被害者が発生する。その部分についてはとても気の毒だと思うが、こればっかりは運がなかったと諦めるしかないだろう。バブルがはじけたあとの就職活動のようなものだ。

榎木さんのような立場では実際にそこに存在する博士の能力を云々言うのははばかれるのかも知れないが、そういう評価は絶対に必要だと思う。その上で、「博士は積極的に活躍の場を求め、状況に適応すべき」という主張は全くその通りだと思う。46回でも次のように書いたが

「こんな状況では困る」と言っても事態は何も変わらないし、「国がなんとかすべきだ」と言ったって、そんな社会主義的思想がうまくワークしないことは現在に至るまでに世界各地で実証されてきている。「何とかなるに違いない」的な誤った希望を与えることは実際に困っている人間達を全く救済しないし、「何とかして貰えるように頼みましょう」という主張も実際には問題の先送りにしか過ぎない。


お上頼みで、博士自身が動かないのであれば、恐らくは何も変わらない。少なくとも企業は博士の活用の重要性などを一義的には考えない。企業が考えるのは当然のことながら企業の利益である。9の部分では具体的に「政府、大学、企業、教委、市民など様々な立場の人が博士研究員の活用を考えるべきだ」と書いているのだが、この部分については首を傾げざるを得ない。日本人はトップダウンでの解決を主張することが多いのだが、それはすなわち社会主義の手法である。もちろんトップダウンの解決策が必要とされるケースもあるが、このケースはそれに該当しないというのが僕の考えである。そもそも、今の博士余りは、そのトップダウン方式のミスリードにも少なからず原因はあるのだ。そろそろ、お上の判断にただただ従い、お上の手助けを待っているのではなく、自分で動くことを考えた方が良い。  

2008年06月13日

ブログでバイオ 第44回 「バイオベンチャーって、最近どう?」

一応バイオベンチャーの専門家でもあるので、それなりに業界をウォッチしてはいるのだけれど、最近は倒産、もしくはそれに近いというネガティブ情報がちょぼちょぼ入ってくる。

まず、このブログでも随分前に取り上げたオキシジェニクス。状況証拠からやばいのかもね、と予想していたら、案の定経営破たんが伝えられた。その後もLTTバイオファーマの子会社のアスクレピオス社が丸紅を巻き込んだスキャンダルを展開したとか、表に出てきていることだけでもいくつかあるわけです。しかしまぁ、僕も色々な会社の内部情報をここでつまびらかにするほどの器量はないので、誰でも見えるところからの情報、ウェブサイトを一緒に眺めていきたいと思います。

まず、上でも取り上げた、LTTバイオファーマです。

株式会社LTTバイオファーマ

さすがは上場企業、なかなか立派なウェブサイトですね。色々みているとあちこちにPDFファイルへのリンクがあって、このあたりは僕の趣味とはちょっと異なるのですが、誰でも閲覧できる、行組が壊れず、誤解を招きにくいということで、公式文書はPDFにするのが流行なのかもしれません。って、それはさておき、ちょっと目を惹かれるのは「08.05.30 当社に対する訴訟の提起に関するお知らせ 」というニュースリリースです。例の詐欺事件の流れで告訴されちゃっているようです。まぁ、このあたりの判断は裁判所がすべきですから外野が口を挟んでも仕方ないですね。

で、告訴している会社が虎ノ門にあるわけですが、虎ノ門周りには色々なバイオベンチャー関係企業が結構あります。オキシジェニクスも虎ノ門パストラルにあったわけですが、そのすぐそばにあったのがロコモジェン。この会社は聖マリアンナ医科大学難病治療研究センターの中島利博部門長の研究成果をもとに、リウマチなどの治療を目指した大学発ベンチャーです。で、どうなっているのかなー、と思ってアクセスしてみると・・・・。

株式会社ロコモジェン

あれ?「事情により当サイトは閉鎖いたしました。」だそうです。事情ってなんだ?っていうか、この会社、まだちゃんと生きてるのか?潰れちゃったの?何が何だかわかりませんね(^^; ということで、ロコモジェンに投資していたはずの、日本のバイオ専門ベンチャーキャピタルの草分け、バイオテック・ヘルスケア・パートナーズのサイトを見てみましょう。

株式会社ビー・エイチ・ピー

あれ?会社名が変わってる。まぁそれは別に良いんですが、本社の場所が虎パスから馬喰町に移動したんですね。まぁ、それも別に良いんですが(笑)。さて、この会社のファンド、二号投資事業の方はデータがないんですが、一号投資事業の方はきちんとリストアップされています。

バイオテック・ヘルスケア一号投資事業有限責任組合

いやぁ、懐かしいですね。アドバンジェンなんていう社名も見えます。が、この会社は僕は利害関係者になりかねないのでノータッチ。あしからずご了承ください。さて、順番に見て行きましょう。メディシノバはもう公開企業ですから、株価を見れば会社の状況は一目瞭然。

メディシノバの株価(Yahoo!ファイナンス)

ほう、なるほど。一番高かったときで1500円で、今は500円ですか。これは別に悪くない数字ですね。もっと暴落しているバイオベンチャーはたくさんありますから。しかも、チャートを見る限り下げ止まってます。ま、本社は米国だし、どうでもいっか(笑)。

続いて、へぇー、上場できちゃうんだ、と結構驚かされた株式会社ジーエヌアイ。こちらも株価で見てみましょう。

株式会社ジーエヌアイの株価(Yahoo!ファイナンス)

なるほど、絶好調のときは160円近かった株価も最近は50円を切っていて、さらに下げ続けている様子。まぁ、こんなものですよね。物理的にこれ以上下げるのは難しいでしょうから、そろそろ下げ止まるんでしょう。時価総額32億円。従業員数25人で平均年収777万円っていうんだから、社員は結構恵まれてますね。どのくらい売上があるのかなー、と思って単独の決算推移を見てみると・・・・

株式会社ジーエヌアイ 単独決算推移(Yahoo!ファイナンス)

おお、売上は過去3期平均で約8,000万円ですね。え?8,000万円かぁ。うーーーん。で、経常損失が毎年拡大しています。まぁ、資本金が30億円近くありますからね。25人の人件費が年間3億円としても、10年はもつ勘定です。これじゃ、研究開発費は出ないけど。

それで、続いてアージェンスなんですが、この会社のことは正直良く知らないんです。

株式会社アージェンス

あれ?色々読んでいくと、ロコモジェンとそっくりですね。こういうときは「アージェンス ロコモジェン」のふたつでぐぐるのが常套手段です。で、検索結果から調べていくと、リウマチファンサイトというのがあって、その中でリウマチ研究の第一人者、聖マリアンナ医科大学難病治療研究センター長西岡久寿樹教授のお話が載っています。そして、その中に次のような記述が。

第1世代の1950年代は痛み止め・鎮痛剤の時代だったわけです。70年代になって第2世代となり、リウマチのある部分を治療する薬が開発されるようになりました。2005年、第3世代のサイトカイン制御の研究が進みました。そして2010年に第4世代として、アージェンスの開発している抗Fas抗体に対する薬剤と、ロコモジェンが開発しているシノビオリンについての薬剤が出ればそれで終わりですよ。双六でいえばアガリです。これらのものは治験の段階が現在進行中ですから、2010年からの10年でリウマチは完全に普通の病気になると思います。


なるほど!アージェンスとロコモジェンはぱっと見同じ事をやっているようで、実際は違うんですね。個人的には薬剤開発のパイプラインは多い方が良いし、こんな感じならわざわざ二つに分ける必要もないんじゃないの?なんで同じ会社で開発しないの?などと思わないでもないですが、裏には色々大人の事情があるのでしょう。何はともあれ、2010年の「アガリ」を楽しみにしましょう。

さて、つづいて株式会社アンクスですね。この会社は筑波大学の大学発ベンチャーだったはずですが・・・あれ?サイトにアクセスできません。こういうときは例によってグーグル先生の出番ですが。

株式会社アンクスは営業を終了致しました。ご愛顧ありがとうございました。

だそうです。すばらしい。いや、これは嫌味でもなんでもなく。日本は駄目な会社をリビングデッド状態で休眠させるのが大好きですが、駄目なものは駄目。そんなものはさっさと潰しちゃった方が良いんです。きちんと整理したのは大したもの。

それで、投資先リスト最後は株式会社アールエフです。

株式会社アールエフ

なるほど、製品自体は面白いかもしれないし、そうでもないかもしれないんだけれど、これって、上場を目指しているベンチャーなのかなぁ?なんか、プライベートでもそこそこに儲かる中小企業って感じがしないでもないんだけど。ウェブサイトはなんか情報が散漫であんまり褒められたものじゃないけど、「これはひどい」っていうほどでもない。まぁ、頑張っていただきたい。

って、ビー・エイチ・ピー絡みの会社を見ていたら結構な分量になっちゃった。とりあえずこのくらいでやめておくけど、上場した会社もそうでない会社も、皆さんいろいろ大変そうです。

ということで、こんな記事に興味がある人にはこんな本もお勧めです。

サイエンス・ビジネスの挑戦 バイオ産業の失敗の本質を検証する
サイエンス・ビジネスの挑戦 バイオ産業の失敗の本質を検証する  

2008年05月26日

ブログでバイオ 第43回「第42回 ブログでバイオ 番外編「じゃぁ、僕が博士課程に行ったのはなぜなのかを書いてみよう」」

「研究とその他の日々」さんが第42回の番外編として

第42回 ブログでバイオ 番外編「じゃぁ、僕が博士課程に行ったのはなぜなのかを書いてみよう」

という記事をアップされています。記事の中でご本人は

先のお二人(「web2.0・・」さんと「幻影随想」さん)と比べると軽い内容なので、トラックバックなどせずに、web上にひっそりと存在させておきます。


と書かれています。「ブログでバイオ」の主旨は内容の軽重など無関係に誰でも参加できる、というものですし、ともすると一方的な主張になりがちな議論において貴重な対論でもありますから、とりあえずリンクだけはっておきます。ご参考まで。  

2008年05月22日

ブログでバイオ 第42回「じゃぁ、僕が博士課程に行かなかったのはなぜなのかを書いてみよう」

「幻影随想」の黒影さんが「私が博士課程に進学しなかった理由」というタイトルでパスを出してくれたので、同じように自分がなぜ博士課程に行かなかったのか、ついでなので、なぜバイオベンチャーではなくITベンチャーの社長をやっているのかを書いてみます。

まず、博士課程に行かなかった理由。

僕は修士課程にいる間に就職活動をしました。実際に動いた先は、博報堂と三菱総研でした。つまり、博士課程に行くよりも博報堂と三菱総研に行った方が面白そうだと思ったわけです。博士課程に対してどういう思いがあったのかはあとで書くこととして、まずは博報堂や三菱総研で何をやりたかったのかを書いてみます。

博報堂は、最終面接で落ちました。それまで一貫して言ってきたことは、「日本の広告会社はこれまで大量生産大量消費を煽ってきた。しかし、そろそろその責任をきちんと認識すべきときに来ている。単純に消費をするだけではなく、消費した後をどうするのかを考え、提示する必要があるし、それを踏まえたマーケティングをする必要があるはずだ。僕は、バイオテクノロジーという専門性を持っていて、それは今後のリサイクル事業に対して大きな力を発揮すると信じている。どうやって作り、どうやって売るかの、その先について、必ず貢献できるはずだ」ということです。実際僕はそういったことを博報堂でやりたいと思っていたのですが、残念ながら博報堂では最後の重役面接で落ちてしまいました(よっぽどのことがなければ落ちないといわれていたのですが、よっぽどのことがあったんでしょう(笑))。僕の第一志望は博報堂だったので、もしそこで受かっていたら、僕の人生は随分と違ったものになっていたと思います。

そして三菱総研。三菱総研では、「これからバイオの時代が必ず来る。バイオの学生は売り手市場なので、みんな製薬会社や化学会社に就職するが、他にもバイオを専攻してきた学生が活躍できる場はあると思う。製薬会社で「バイオをやってきた」、という人間は、全然普通で面白くない。逆に、バイオを専攻している人間がほとんどいない場所で自分の力を発揮したい。これまで自分がやってきた研究はあくまでも「発見」だった。神様が用意した事象を良く観察し、その裏にある真理を「発見」するために頑張ってきた。だが、自分がやりたいのは発見ではなく「発明」である。そうした場として、三菱総研は格好の場である。三菱総研の中にバイオの専門家がいることによって、今までは生み出せなかった「価値」を創出できるはずだ。特に環境問題が大きな課題となっていくこれから、バイオの仕事は必ず増えていくし、そうした社会環境の中で今からバイオの専門家を抱えていくことは重要だ。そういう時代が来たときに慌てて専門家を育成しても遅い。今のうちに僕を雇っておけば、将来必ず役に立つ」ということを言いました。

博報堂に落ちた僕は三菱総研に行ったわけですが、三菱総研においてはバイオが専門と言うのは新しすぎて、仕事がありませんでした。それでも5年ほど我慢をして割引制度の仕事とか、水産業の仕事とか、高速道路の仕事とか、リニアモーターカーの仕事とか、お門違いのことを色々続けた後、当時最も権力を持っていた副社長に直談判して、理化学研究所に出向し、ゲノム科学総合研究センターの設立の手伝いをしました。理研から戻る際、「バイオの仕事はあるのか」という話を人事や上司としたのですが、「三菱総研でバイオは難しい」ということだったので、「バイオの重要性が理解できないような会社のどこが未来派志向なものか。そんなこともわからない会社にいる意味はない」と考えて、三菱総研を退職しました。当初、野村総研への転職を考え、ほぼ本決まりになったのですが、そこであるところから「経済産業省でキャリア官僚としてバイオ政策を担当してみないか」という話をもらいました。そこで野村総研をお断りし(かなり土壇場で断ったので、以後、野村総研の人は全く口を利いてくれなくなりました。この件はこちらに全ての非があり、現在も大変申し訳なかったと思っています)、官民交流法を利用して経済産業省に行きました。経産省では2年間バイオベンチャーの支援を担当し、その後バイオベンチャーの社長を経て今はITベンチャーの社長をやっているわけです。

こういった感じで僕は研究から離れたわけですが、実際のところ、進学か就職か、という決断に際して僕に「博士課程に進んだらどうか」という話がなかったわけではありません。当時の僕の指導教官は現在岐阜大学で教授をされている西川一八先生ですが、西川さんは非常に僕の意思を尊重してくれた方で、僕が試験管を持つところから離れることに対してこっそり遺憾の意を表明することはあっても、表立って「残ったらどうだ」ということを言うことはありませんでした。僕の自由意志で好きなように進路を選んだわけですが、じゃぁ、なぜピペットマンを手放したのかと言うことになります。一言で表現すれば、「バイオの研究の質に失望したから」でしょうか。

そのあたりの話はこのあたりのエントリーで触れているのですが、

分子生物学の閉塞感

要は、「今、自分がやっていることは、土木仕事のようなことで、僕じゃなくても他の誰かがやれること」という思いが強かったんです。当時は、例えば牛の肝臓を毎週品川の屠殺場に買いに行って、それをコールドルームで処理して、そこからミトコンドリアを取り出して、そのDNAの配列を決めていく、といった作業を延々と繰り返していました。徐々にオートラの感度がアップして、作業の効率はアップしていきましたが、とにかく論文は「頑張ったで賞」という印象が強く、人がやってないものをやる、ということがアイデンティティでした。僕はもともと物理がやりたくて大学に行った人間ですが、ちょっとしたきっかけで生物学の面白さに触れて、大学時代は分子生物学を非常に良く勉強しました。分子生物学を全く知らなかった僕にとって、その分野はさまざまな楽しみを提供してくれて、常に自分の好奇心を満たしながら勉強できたんです。ところが、大学院に行ってみてわかったのは、分子生物学がそうした知的好奇心を満たしてくれるような、驚きが満ちている分野ではなくなっていたということです。お金をかけた人が成果を出す、人を投入した組織が成果を出す、時間をかけた人が成果を出す、そういう、力仕事の分野になってしまっていたんです。僕は大学院のとき(1990〜1992年)にそのことに気がついてしまい、そして、教授の道具として働くことが嫌になって(ちなみにこの教授とは西川さんではありません。僕は今でも西川さんを大変尊敬していますし、また西川さんは学生を道具として使うような人ではありませんでした。あくまでも一般論です)、博士課程に進学することを辞めました。「僕じゃない誰かが頑張ってください。僕は自分しかできなことを、別の場所でやります」というのが僕の考えでした。

黒影さんは進学しなかった理由として経済的な理由、バイオ博士の先行きの見えなさ、自分の適性というのを挙げていますが、僕の場合はその3つはどれも関係なくて、単に「バイオが面白くないから」ということになります。

莫大な予算を手に入れて、それを使って人を動かして、大量のデータを産出するということは面白そうだと思います。ただし、それはマネージャーとしてやるなら、です。ディレクターとして、あるいは召使としてそれをやるのは、僕は嫌でした。そんなことに時間を費やすのは馬鹿らしいと思ったから辞めたんです。そういう作業が必要なのもわかっていましたし、それを誰かがやらなくてはならないこともわかっていましたが、自分でそれをやるのは嫌だったんです。言葉を変えれば、おおよそのアウトラインがほとんどわかってしまい、あとはじゅうたん爆撃をするだけ、という分子生物学に対して、理論先行で証明が追いつかない物理学と同じような閉塞感を感じたということにもなります。

そういう理由で、僕は試験管やエッペンドルフチューブを手放して、コンサルティングや行政、さらにはベンチャーの社長という道に進んでいきました。そのことに対しては、現在も全く後悔はありません。バイオ自体はとても面白い分野だと思いますし、今でもときどきボランタリーに科学技術館などに行ってそこのインストラクターにバイオの講義をしたりもしています。「バイオベンチャー」などという題目で大学の講義もやっています。今でもバイオベンチャーの役員もやっています。そういえば、本も書いたりしています。僕自身はバイオが好きなんですが、でも、試験管を持つことは、もうないと思います。

国の施策がどうとか、文科省がどうとか、そういうことは関係ないんですね、僕の場合。分子生物学という学問の本質のところが、僕には合わなかったんです。でも、僕はバイオのアウトラインを理解していますし、人脈もありますし、きちんとした知識は引き出しの中になくても、どこをどう調べたら良いのかということはわかっています。また、バイオが好きだし、理研や経済産業省で勉強させて貰ったことを社会に還元していかなくてはならないとも考えています。そういえば、このリレーエッセイをやっているのもそんな理由からです。本職はITですが、バイオ関連もそこそこに時間を割いて情報発信を続けています。

さて、最後に「なぜ、今バイオベンチャーではなくITベンチャーの社長をやっているのか」ということになります。数年前にある講演会のパネルディスカッションで、バイオベンチャーとITベンチャーの違い、という内容で宮田満さんとやりあったことがあるのですが、宮田さんの主張は「バイオベンチャーは少数の、影響の大きな特許で勝負がつく。ITはそういう特許がない。特許オリエンテッド、それこそがバイオベンチャーの特徴」というものでした。それは非常に教科書的な主張で、決して間違ってはいないと思うのですが、「社長の視点」からはちょっと違う回答になります。そのあたりのことが宮田さんには理解できなかったようで、僕と宮田さんのやり取りは結局ちぐはぐなものになってしまい、有益な結論に到達することができませんでした。

では、バイオベンチャーとITベンチャーの、社長の視点からの違いとは何か。これは、双方の社長の役割を書くとはっきりしてきます。

バイオベンチャーの社長の役割(バイオベンチャーと一口に言っても色々あるので、普通の人が思い描く、医薬品開発とか、再生医療素材といった先進的分野の会社だと思ってください)とは、今あるリザルトを元に、将来の夢を描くことです。リザルトは目の前にありますが、それをベースにした夢は当然のことながらぼんやりしたものです。そのぼんやりした将来像を、なるべく現実的に、そしてなるべく美化してアピールするのがバイオベンチャーの社長の仕事です。「5年後にはこんなことができますよ」などと風呂敷を広げるわけですが、数年経つと、だんだんその像がはっきりしてきます。みんなが「なぁんだ、大したことないじゃんか」と思い始めるわけですが、それを「そうですね」などと受容してしまったら社長失格です。そこで社長がやるべきは、新しい夢を描きなおすことです。そして、株主、社員、社会、さらには自分自身にも、それを信じ込ませるのです。バイオベンチャーの社長の仕事というのは、これに尽きます。

例えば最近経営危機が報じられたオキシジェニクス。ここは人工赤血球を開発している会社です。ところが、開発や原料費に多額の費用が発生して、経営を圧迫してしまいました。治験も南アフリカなどの困窮地や戦争地域などでは可能でしょうが、日本で実施するのは絶望的です。そうこうしているうちに「iPS細胞が有望なら、人工赤血球は再生医療的手法で作ったらどうなんだ」ということになってしまい、「じゃぁ、どうしよう」というところで行き詰ってしまったのではないでしょうか。基礎技術ができあがって、「さぁ、これで人工赤血球を作りましょう」というところまでは良かったのですが、開発に手間取っている間にもっと別の夢を別の人たちが描いてしまったわけです。そして、それがそのまま経営危機につながってしまいました。

では、ITベンチャーの社長の役割はなんなのか。こちらは大きく二つに分けることができます。一つには、社員が食べていくための売上を確保すること。これはバイオベンチャーにはほとんどない視点です。なぜなら、バイオベンチャーはこのお金を直接金融という形で調達するからです。ITベンチャーの場合、売るものが手もとに存在するケースが多いので、それをどうやって売るのか、ということについて知恵を絞ることになります。そして、もう一つは、「新しい技術を開発する旗振り」です。これはバイオベンチャーの社長と似ているのですが、実は全く違います。バイオベンチャーの社長が描くものは「実現するかどうかわからない将来」ですが、ITベンチャーの場合は「実現したら面白そうなこと」です。その実現性について技術的なハードルはそれ程高くなく、問題となるのは、アイデアに対してどのくらい開発資金を投入するのか、ということになります。

バイオベンチャーとITベンチャーの違い。それは、夢を語るのか、現実を語るのか、です。僕は夢を語ることによってお金をもらうことに後ろめたさを感じてしまい、軸足をバイオからITに移しました。  

2008年05月07日

ブログでバイオ 第40回「生活保護を受けている人にジェネリックって、全然普通の話では?」

このシリーズ、決してポスドク問題だけを話し合う場ではないので、ちょっと全然違ったところを取り上げてみます。今回気になったのはこのニュース。

ジェネリック医薬品:生活保護受給者は使用を…厚労省通知

ここで前提になるのは、ジェネリック医薬品(後発医薬品)に関する知識なのだけれど、ジェネリックとは特許が切れた先発医薬品を、特許に記載された製法をもとに製造した薬品のこと。ジェネリックは「安定性試験」と「生物学的同等性試験」の実施が義務付けられていて、これをクリアすれば製造が可能になります。先発医薬品に比較して開発コストが格段に低廉なため、先発医薬品よりも安い価格で供給されます。

厚生労働省の審査に対して全幅の信頼を寄せるのであれば、先発医薬品とジェネリックの間には効果効能の面で一切の差異はない、つまり、機能的にはどちらを選んでも同じ効果が期待できる、ということになります。ここではかなり念を入れて「厚生労働省に対して全幅の信頼を」と書きましたが、もし厚生労働省の薬事を信頼しないのであれば、そもそも先発医薬品ですら信用がおけない、ということになります。よって、ここでは「ジェネリックは基本的に先発医薬品と全く同じ効果効能が期待できる」ということを前提とします。

このように、「どちらを選んでも同じ」という状況にあるにも関わらず、何故か日本でのジェネリックの普及率は欧米諸国と比較して低いレベルで推移しています。その理由は患者サイド、医者サイド、薬局サイドの3つの視点から考えられます。それらを簡単にまとめると、以下のようになると思います。

1.患者サイド
ジェネリックを使うことが不安。

2.医者サイド
ジェネリックを処方した結果何か問題が生じたとき、その責任を取りたくない。とりあえずいつも使っている先発医薬品を使っていれば間違いない。

3.薬局サイド
全てのジェネリックを揃えるのは大変。また、安定的に供給される保障がない。

まず一つ目。これは先発医薬品とジェネリックの間に機能面で差異がないことが理解されていないことが原因です。基本的には製法、成分、薬効などについて先発医薬品と異なるところは何もないことをきちんと周知することが必要でしょう。なぜこうしたことがきちんと為されないのか不思議なのですが、どこかの既得権者から圧力がかかっているのかも知れません。

二つ目は、単に医者が及び腰になっているだけです。もし本当にジェネリックを利用したことによって不都合(先発医薬品では発生しなかった副作用が出たり、あるいは先発医薬品では期待できた効果がジェネリックでは発揮できなかったりといった事態)が生じた場合、その責任は医者ではなく厚生労働省にあるはずです。もちろん、その結果目の前の患者さんが亡くなってしまった、などの事態になってしまえば「責任はない」という以前に、医者としての挫折感を味わうことにはなるでしょう。そういったことがないよう、きちんとした審査を厚生労働省はやっているはずです。

三つ目は単に流通部分での工夫の問題です。あちらの薬局では揃っているけれど、こちらの薬局では欠品です、ということなら、客は揃っている店に行くだけの話です。少なくとも、薬局側の事情によって客の行動が制約されてしまうのはおかしな話です。

さて、このように、三者三様の問題に起因して日本ではジェネリックがなかなか一般化してこないのですが、僕などは花粉症の薬を筆頭に、ほとんど全ての場面でジェネリックがあるならジェネリックを使うようにしています。花粉症の薬は最新のものなら一日一回の服用で済むけれども、古いタイプだと一日二回の服用が必要、といった違いもあるのですが、僕は古いタイプの薬のジェネリックを指定しています。何故かって、生活保護を受けているからではなく、理由は単純でその方が安いからです。

日本人はブランドが大好きですから、「コシヒカリにしようかな、あきたこまちにしようかな、どっちが美味しいかな」とか、「VUITTONのカバンが欲しいな」などと日常的にブランドを選びたがりますが、先発医薬品とジェネリックの間には、「コシヒカリとノーブランド米」どころか、「コシヒカリとあきたこまち」ほどの差異もないはずなのです。ただ、「先発」というブランドがついているだけで、価格が高くなっています。

さて、そこでこの記事です。「全額公費負担で医療を受けている生活保護受給者への投薬には、価格の安いジェネリック(後発)医薬品を使うよう本人に指導することを厚生労働省が都道府県や政令市などに通知している」とのことですが、果たしてこれは本当に悪いことでしょうか?上に挙げた例で言えば、「基本的人権を保障するためにカバンを買うお金を公費から出すのだが、ノーブランドではなくVUITTONのカバンを買えるお金を出さないのは不公平だ」と言っているようなものです。「カバン」という機能さえ満たしていれば、どんなカバンでも良いはずですし、逆にVITTONのカバンを公費から出すとなれば「それはおかしい」と考えるのではないでしょうか。

医事評論家の水野肇さんは

後発薬は先発薬と完全に同じものではなく、服用している薬を変えられれば不安を感じる患者もいるだろう。国が安全性や有効性を十分証明した上で、患者が自由に選べることが重要。生活保護受給者だからといって後発薬を事実上強制するのはおかしい。


と言っているそうですが、まず「先発薬と後発薬は効果効能の面で同等」というのが大前提にあるわけで、その部分は今回の件とは切り離して考える必要があります。もし「効果効能の面で同等ではない」のであればそれは厚生労働省の怠慢であって、その点をきちんと糾弾すべきです。そして、冒頭にも書いたように「先発医薬品とジェネリックが効果効能の面で同等」というスタンスに立つのであれば、生活保護者が後発薬を使うことを事実上強制されてもおかしくないと思います。価格の差は、あくまでも「ブランド」の差でしかないのですから。今、日本は医療費の増大に頭を悩ませています。今後、高齢化が進めばどんどん状況は悪化します。すでに医療費の自己負担も多くの人が3倍になっています。そうした中において、ブランド品を選ばせることにどの程度の正当性があるのか、個人的にはかなり疑問です。

ところで、この件に関してはすでにこんな報道もされています。

生活保護受給者への後発医薬品の使用通知、厚労省が撤回

もしこれが本当であれば、厚生労働省は自ら自分達のジェネリックの評価がいい加減であったと認めることになると思います。舛添厚労相はそのあたりのことをきちんと理解しているのでしょうか。

この話は、「貧乏人は効果の低い薬を使え」という話ではないはずです。ところが、こういう対応を厚生労働省がするのであれば、「やっぱりジェネリックは効果が低いのか」と思われても仕方がありません。厚生労働省は医療費削減の手段としてジェネリックに期待しているはずなのですが、その普及を自ら妨害しているように見えてなりません。「生活保護者にジェネリックを強制するのは人道的見地からいかがなものか」という批判に対してやるべきは、「ジェネリックは先発医薬と何ら違いがない」ということをきちんと説明することのはずです。  

2008年04月13日

ブログでバイオ 第39回「第1回BT戦略推進官民会議(笑)」

第38回の掲載ブログが消えちゃっていたので、38回は欠番ですが、まぁこういうこともあるでしょう。さて、気を取り直して第39回です。

僕自身、最近はITの仕事が忙しくてバイオの方は結構棚上げ状態だったんですが、ふらふらとウェブサイトを見ていたらバイオ関連のエントリーを見つけたのでちょっとコメントしてみます。

コメントしてみますが、今、実は結構忙しいので、推敲とかきちんとできないし、いろいろ穴があるかもしれません。「普段のトーンと違うな」と思ったら、理由はそういうところにあるのであしからず(笑)。

さて、みつけた記事はこれです。

幻影随想「バイオテクノロジー戦略大綱の破綻

僕のブログでも過去に数回、このBT戦略大綱については取り上げていると思うのだけれど、この大綱を作ったとき、僕は経済産業省生物化学産業課で事業化担当の課長補佐をやっていました。メインでこの大綱を作った人間ではないけれど、横目でそれを見ていて、その作業の概要はほとんど把握していたわけです。ちなみに僕もある部分はチェックしているし、一部は実際に書いたりもしています。この大綱、一応内閣府が作るという形になっていたけれども、それを内閣府で取り仕切っていたのは経済産業省生物化学産業課で総括補佐をやっていた人で、大綱の作成時には内閣府に出向して担当していました。各省連携という形にはなっていましたが、恐らく経産省の影響は大きかったはずです。それで、これを実務的に中心になってやっていたのはその人とは別の、生物化学産業課の課長補佐だったのだけれど、彼は僕が一緒に仕事をした経済産業省の人間のなかでは恐らく最も「デキる」人間でした。彼はバイオのスペシャリストではなかったものの、それなりに大学でも生物を勉強している人間で、恐らくはこの作業をやるにあたって日本で一番適任だったと思います。彼の力がなければこれだけのものはできなかったとも思います。

#経産省はバイオ分野に限らずあまり規制を持っていないので、守りに入る必要がありません。この手の作業をやるには適任だったりします。

しかし、この大綱には大きな特性があって、それゆえに、結果的には手放しで評価できるものではなくなっているんです。その大きな特性とは、「バイオ予算を取るための道具」としての性格です。こうした文書がなぜ作られる必要があるのか。それは、役人が関連予算を取ってくるときに、財務省に対して「こういう根拠があるからこの予算が必要なんですよ」とアピールするときのよりどころになるからです。こういう数字を出すこと自体は別に珍しくなくて、記憶に残っているところでは「マルチメディア市場123兆円」なんていうのがあります。なぜこの数字が記憶に残っているかといえば、あるシンクタンクに二つの役所から別々に「マルチメディア市場を試算してくれ」というオーダーが出て、その様子をちょこっと見ていたからです(笑)。「あっちの省がこの数字なら、うちはもっと増やしてくれ」「なんかでかい数字を出してきたから、うちはもうちょっと上乗せしたい」という競争の末に「これもマルチメディア」「あれもマルチメディア」と積算を増大させ、最終的に「これなら1、2、3で覚えやすいね」ということで123兆に落ち着いたわけですが(爆)、市場予想なんて、発注側の意図でなんとでもなるわけです。「日本の」シンクタンクと言うのは、基本的に役所の言いなりであって、役人があらかじめ作った結論に対して整合性が取れる屁理屈を作るのが仕事です。ちなみにバイオ市場25兆円というのも形としてはシンクタンクが試算したということになっていますが、最初から数値があったのは言わずもがなです。財務省以外の役人は財務省に対して「○○総合研究所の試算によると」などと言いながら説明するわけですが、その数字がどうやって決まったのかなんて、多分財務省の側も知っているはずです。

#しかし数字の発表から10年前後が経過しているのにまだ覚えているんだから、「123」という数字にしたことは慧眼です。すばらしい。

閑話休題。したがって、この大綱の周りに配置されている色々な業界団体は、最終的にその予算の受け皿になる組織がほとんどです。例えばバイオ産業人会議

当たり前だけど、バイオ関連の組織がずらっと並んでいます。この組織はバイオ産業が発展しないと困る組織ばかりですが、バイオの予算がついたときに、その受け皿として機能したい組織でもあるわけです。

役所は財務省から予算(=お金)を取ってきて、それを再分配する(=ばら撒く)のが仕事です。ばら撒かれる側は常に役所の顔色をうかがっていて、「こういう施策はどうですか?」などと時々我田引水のアイデアを出したりもします。以前、科学技術の大型プロジェクトの予算の決まり方をこのブログで書いたことがありますが、産業政策だって似たり寄ったりです。それで、そういう仕組みが悪いということではないんですね。役人はジェネラリストでバイオのスペシャリストではないから、当然バックから色々なアイデアをもらわないと身動きが取れません。

そういう、「役所」と「業界」がタイアップして作った大綱だから、当然のことながら「業界」の役に立つことしか書かれていないんです。

以下のエントリーも、このブログでは何回か取り上げたことがあると思うのだけれど、

2010年のバイオ市場規模の持つ意味(2年前に書いて忘れてた)

このエントリーの中でもBT戦略大綱における「国民理解の増進」の比重があまりにも軽いことに触れているんですが、結局のところ、役人や業界の考え方は「臭いものには蓋をする」というものです。たとえば経済産業省が無駄遣いをして作った次のサイトなどを見るとこれも明らかなのだけれど、

みんなのバイオ学園

このサイト、バイオの学校を自称するにはちょっと不適切な表現が目に付くのはともかくとして(例えば「ゲノム」の解説として「生物には全て遺伝子があり、その遺伝子には親から子へ、姿・形や性質、体質などの情報が書き込まれている。そして、生物がもつ遺伝子全体をその生物の設計図、『ゲノム』という。」なんていう記述があるのだけれど、これって本当に正確ですか?遺伝子全体?遺伝情報全体じゃなくて?)、基本的に良いことしか書いてないんですね。素晴らしい夢ばかりが書かれている。ところが、科学技術が両刃の剣だってことは今の時代に生きる人間なら大体本能的に理解しているわけです。だから、褒め言葉ばかりのコンテンツの胡散臭さにだって気がつくわけです。

以前、僕が三菱総研にいたとき、「最新のバイオテクノロジー」についての論文を書いたことがあるのだけれど、そのときも取材した会社から、「うちの製品がバイオ製品だって書かれてしまうと売上に影響が出るのでやめてください」という要望が来たことがあるんですが、これも一例ですね。皆さんが「これは良い」って思って使っている食品にだってバイオ製品は山ほどあるんですよ。例えばエコナとか、どうですか。これ、れっきとしたバイオ製品です。

#そういう意味では、バイオ関連製品を片っ端からリストアップして、「これも組換え」「これも組換え」って全部オープンにしちゃうっていう手もあるかもしれませんね(笑)。関連企業って、できればバイオを使っていることを隠したいところがほとんどなんです。

それで、つい昨日オールアバウトにも似たようなエントリーを書いたんですけど、

青少年ネット規制法案問題をどう見るか(前編)
青少年ネット規制法案問題をどう見るか(後編)

もう既に世界は情報化社会になっていて、誰でも簡単に先進情報にアクセスできるような環境になってきているんです。もちろん日本だって例外じゃない。そんな世の中において、良いところばかりアピールすることがどんなに無駄なことなのか、そろそろ気がついても良い頃です。ところが、役人も、業界も、それに気がつかないんですね。このあたりがKYなところでもあるわけですが、そうした体質こそが、日本社会が抱えている最大の問題点なんです。これは一種の既得権でもあるわけですが、国のかじ取り役たちは「情報がない人間は情報がないままにしておこう。下手に知恵がつくと対策が難しい。国民は適度に馬鹿なのが一番扱いやすい」と考えているんですね。「そんなの、けしからん!」と思うかもしれませんが、こう思っているのは役人というよりは、業界そのものです。

ということで、そのあたりを変えていかなくちゃいけないんでしょうが、これって、ものすごく大変なことです。本当にできるのかな、とも思います。バイオだけの話じゃないし。生活者の側だって、考えなくちゃいけないことになるんですよ。今までは「役人に任せておけば良いや」だったんだから、ある意味、凄く楽だったわけです。でも、世の中が変わったら、自分でちゃんと勉強しなくちゃいけない。裁判員制度と一緒ですね。裁判官に任せていたことをやらされることになったら「面倒だなぁ」って考える人は多いはずです。そういう「面倒な勉強」が増えちゃいます。そうやって考えていくと、今の世の中、義務教育って中学までで良いのかなぁ、などとも思うのですが、これまたちょっと話がずれちゃう感じなので大概にしておきます。

で、何が言いたいのかといえば、このBT戦略大綱の最大のウィークポイントは、それが「業界が財務省からお金を引き出すことが目的」であるからこそ、直接的にお金になりそうなことがら「以外」についての書き込みが薄いというところなんですね。国民のバイオに対する理解、少なくとも、ネガティブな結論に結びつきそうな情報提供なんて、業界は全くやりたくないわけですから。財務省も、役所も、業界もやりたくない。結果として、そういう項目は落とされちゃうわけです。担当する役人がどんなに有能だって関係ないわけですね。

さて、件のサイトで取り上げられている「第1回BT戦略推進官民会議」の、議事次第のウェブサイトでは配布資料が公開されているんですが、これがなかなか興味深いわけです。

第1回BT戦略推進官民会議 議事次第

資料3−1とか、資料3−2とかを見ると、この評価もどうなのかなぁ、というのが正直なところ。まぁ、もともとムラ社会に生きる日本人は、物事を評価するというのが凄く苦手なんですね。「ばーか、こんなわけねぇだろ!」って指摘しちゃうと、将来自分のところにその言葉が返ってきかねない。「天に唾」みたいなことをみんな気にしているから、言いたいことも言えない。僕なんかもうバイオからはすっかり足を洗っちゃっているから(というのは正確ではなくて、昨年度もそこそこの額を調査もので色々な団体から請けているのですが(笑))、こうやって言いたい放題言えちゃうわけですが、そういう身分の人間と言うのは凄く少ないわけです。それから、日本人は同時に「批判されること」にも慣れていないんですね。打たれ弱い。だから、ちょっと批判されると蒼くなって右往左往する。つい先日もそういう噂をちょっと聞いたんですが(すいません、この話はオフレコってことだったのでここには書けないんですが)、みんなが遠慮して批判しないし、批判するとしてもせいぜい2ちゃんねるで書いたりするだけなので、全然表面化しない。で、そういう情報はあくまでもプル情報だから、見たくないと思っていれば見なくて済むことが多いわけです。まぁ、中には新聞とかにばーーーんと批判記事を書く人もいたりしますが(僕はそういう活動はもっと色々やってほしいという立場ですが(笑))、そういうのは稀なわけです。それで、評価がきちんとできないし、責任の所在もはっきりしないし(って、BT戦略大綱を作った責任者が今どのあたりにいるのかは僕はかなりのところまで正確に把握していますが(笑))、ということで、これがまともに機能しないのは仕方がないよなぁ、とも思うわけです。このBT戦略推進官民会議の資料とかを見ていると、「あぁ、コリャ駄目だ」ってことがわかるわけですから、そういう意味では素晴らしい情報公開ですよね。

僕はもう何年も前の第二回ライフサイエンスサミットで「2010年のバイオ市場25兆円なんて絵空事」という発言をしているわけですが、そのときも場の雰囲気はどっちらけなわけです。何故かって、絵空事だろうがなんだろうが、そういう数字をぶち上げたことが重要なんですね、その場にいた人たちにとっては。それが実現するかどうかが問題じゃない。その数値目標に向かって国を挙げて努力することが重要だ、と。そんな中、お金をばら撒いてもらう立場の人たちの前で「今のままじゃ、こんな数字が実現するわけないじゃないか」と正論をぶち上げたところで、「そりゃそうだけど、それを言っちゃぁおしまいでしょ。みんな実現するとは思っていないけれど、その目標のために財務省が努力してくれることが重要なんだよ」って思っているわけです。そんな人たちに冷や水を浴びせかけたところで、「あいつは一体何者なんだ」でおしまいです。

さて、そろそろ結論を書かなくちゃいけない時間です。篤姫が始まるから(笑)。

僕が最近強く思うのは、今の30〜40歳ぐらいのところで大きなギャップがあって、これより若い層の一部には「今のままでは駄目だ」と考えている人がちらほら見えてきているということです。もっと勉強して、もっと知識を身につけて、もっと発言力をつけて、そして世の中を自分の力で変えていかなくちゃならない、と思っている人たちですね。残念ながら、40歳を超えた人たちにはこういう人材を見つけるのは至難の業です。もうすでに、既存のパラダイムの中で生きてきた人たちですから。もちろん、僕もそっちの、役に立たない方に分類されます。それで、思うのは、そういう新しいニュータイプたちをどうやって育て、顕在化させ、そして、日本を変えていったら良いのか、ということなんですね。僕の出番がないのは明らかだけれど、次の人たちが活躍しやすい場を整備していくことは、少しはできるんじゃないかな、と。例えばリスクマネーを集めて、そういった若者に投入するのも一つの手です。馴れ合いじゃない、お互いに切磋琢磨できるような緩い求心力の集団を作っていくのでも良い。そういった人たちが働ける場としてベンチャーを作るのでも良い。とにかく、既存のシステム、既存のお偉いさんに頼らない場を作りたいんです。例えば僕が役人時代に財務省から取ってきた予算にバイオ人材育成というものがあるんですが、このお金をばら撒いた先のベンチャーの一つに「リバネス」があるわけです。この会社は僕が経産省時代にやった数少ない仕事の、数少ない成果のひとつですが、しかし、まだ芽の段階で見つけ出して、肥料をあげた甲斐があって、今は徐々に大きくなりつつあるわけです。この会社が存在しているだけで、「仕事をした甲斐があった」と思うわけです。そして、そういった活動を、今は民間の立場でやっていきたいわけです。若い人を中心にしてね。

#これまでもあちこちで「バイオベンチャーといえども、若者のものだ。年寄りはサポートに回れ」といって年寄りから顰蹙を買いまくっているわけだけれど、これはもう信念ですね。年寄りにベンチャーの社長をやらせてうまくいくわけがない。年齢なんか関係ないって言うかもしれないけれど、年齢が関係ないならなおさら若い奴にやらせろと思うわけです。リバネスの丸さんなんか、この間30歳になったばかりですよ。

##何かっていうと「国が」「国が」っていう人たちにも辟易としてます(笑)。国なんかに頼らないで自分達で何とかしろよ、と。でも、年寄りは仕方ないんです(^^; だって、今までずっと国に頼ってきた人たちですから。大学の先生だって、企業のお偉いさんだって、既存のシステムの中で偉くなった既得権者なんですよ。そして、そういう人たちには世の中を変えるのは無理。

そういったことをつらつら考えてはいるわけですが、ふと気がつくとついつい本業の方に一所懸命になっていて、バイオのことは後回しになっているのです(笑)。でも、やっぱりバイオにも頑張ってほしいんですよね。

中央官庁の原課が予算を取ってくるじゃないですか。すると、まず集まってくるのが「護送船団」を標榜する大企業です。「いや、この予算は大企業のためじゃなくて、ベンチャー企業のためにあるんですよ」と言うと、今度は「社内ベンチャーでバイオベンチャーを作りました!」などと言ってくる会社がうようよあるわけです。まぁ、具体名はどことは書きませんけどね。もちろん誰でも聞いたことのある会社です(考えてみると、本当に一流のところはそういうことを言ってきませんけどね)。国のお金をどうやって引き受けるか、こんなことを考えて作られた会社が将来大成功を収めるわけがないです。そういう、既得権者による枠組みの外で、何かやりたいと思ってます。

#どうでも良いけど、このブログ、理研の人とか経済産業省の人とか、結構読んでるんですよね(笑)。今のバイオインダストリー協会の専務理事はバイオ課時代にとてもお世話になった人だし。いや、皆様、今後とも是非よろしくお願いいたします(^^。  

2008年01月01日

ブログでバイオ37回「大学と、大学の先生は、本当にちゃんとした教育をしているのか?」

先日、「社会の変質に対応できない日本の学生達」という記事を書いたときに少し触れたのだが、「5号館のつぶやき」さんが「もちろん借りたものは返さなければならないのですが」というエントリーで書いていた

日本政府さま、「奨学金」を返してもらうために、「奨学生」だった人にまずワーキングプアにならなくてすむような職を与えてください。


というコメントはどうにも違和感がありまくりだった。その違和感がどこに起因するのか整理がつかないうちにブログで取り上げてみたわけだが、それに対して5号館のつぶやきさんは

まあ、今の学生や大学院生がみんなブウさんのように、賢く強いのであれば何も問題は起こらないなのだとは思いますが、どうしてそうなっていないのかということに関して、彼らを育てている「日本株式会社」の方針が間違っているのではないかというのが、「真逆なスタンス」から見えることなのではあります。


とコメントしてくれた。要するに「今の大学生は賢くありません。(彼らが賢くないのは彼らが悪いのではなく、)彼らを育てている社会が間違っているのだから、社会が彼らを助けなくてはならない」というスタンスである。あまりにも的が外れた意見なので、正直「はぁ?」という感じだったのだが、このコメントのおかげでもやもやしていたものが一気に晴れた。なるほど、「5号館のつぶやき」さんのコメントにことごとく違和感を覚えるのはその立ち位置の違いからではない。違和感の原因は、「5号館のつぶやき」さんが大学、および大学の教育者の責任から完全に乖離しているからである。

#「日本株式会社」の言葉の定義によってはニュアンスが変わる可能性もあります。

「5号館のつぶやき」さんは大学に所属している方であるらしい(伝聞)から、目の前にいる賢くない大学生達をなんとかしたい、と思っているのかもしれないが、僕には賢くない大学生を賢くないまま就職を世話してやることが大学関係者の務めであるとはとても思えない。やるべきことは、学生に「きちんと努力すること、勉強すること」を教え、社会のニーズに適合する人材とすることのはずである。こういう風に書くと大学を就職予備校として位置づけているように取られる危険性も存在するが、もちろん言いたいことはそういうことではない。あくまでも「社会に適合できるだけの基礎的な能力をつけさせる」ということである。そして、これこそが高校や大学における高等教育の役割だと思うのだが、「5号館のつぶやき」さんの主張はその視点が完全に欠落している(故意なのか、過失なのかは不明)。

僕は「5号館のつぶやき」さんがどういう立ち位置で大学にいるのか知らないのでなんともいえないのだけれど、もし事務職員としてではなく教員として大学に所属しているのであれば、「じゃぁ、あなたは何をやっているのですか?馬鹿な大学生をそのまま放置して卒業させ、『この可哀想な人たちを何とかしてあげてください』とブログでアピールするだけなのですか?」と言いたいところである。文科省や政治家に向けて(多分)無駄な意見表明を続けるくらいなら(これは実質的には困った大学生のガス抜きにしかならない)、生徒に向かって何かをした方が生産的ではないですか?とも思う。もちろん八方手を尽くしてその挙句、「もう大学としてやれることはこれで一杯一杯です。あとは国が何とかしてください」ということなのかもしれないのだが、果たして本当にそうだろうか。「5号館のつぶやき」さんは少なくとも努力しているのかもしれないが、ではそれが大学教育者のマジョリティであるかと言えば、決してそんなことはないと思う。

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僕は教職を取ったこともないし、教育の理論もわからない。そんな状態でも一応教壇に立ち、少ないながらも大学で学生達に勉強を教えている。生徒達は偏差値で言えば決して高くないし、やる気のある学生も少ない。そんな中で教えるのはとてもストレスのあることなのだが、それでもやりがいを感じている。どこにやりがいがあるのか。

例えば今年度、僕の「バイオベンチャー」という授業を申告した学生は6人だった。そのうち、授業に来たのはわずかに2人である。そんな中で1コマ90分、15コマの授業をしたわけだが、僕が教えているものは「バイオベンチャー」という非常に難解なものである。この科目は生物学を専門にしている学生に教えるのでも難しいものだが、バイオ(生化学)も知らない、ベンチャーも知らない、という白紙の状態からバイオベンチャーとはいかなるものかを教えなくてはならないわけで、正直、自分でも気が遠くなるような仕事である。しかし、今回の集中講義では、3日間の間に、彼ら2人のうちの1人は見ていて明らかに授業における目つきが変わってきていた。「この授業は面白いな」と感じてもらえていることが、教壇にいてもわかるのである。こうした教育の面白さ、やりがいがあるから、僕は「もう来なくて良いよ」と言われるまでは今の講義を続けるつもりでいるし、どこかから頼まれればそれも引き受けるつもりでいる(まぁ、オファーはないでしょうけど)。

そして、授業の中で同時に一つ感じたことがある。それは今僕が教えている大学に限らず、世の中の多くの大学生、大卒生と話をしていて感じることでもあるのだが、「大学の教師は一体何を教えているのか」という疑問だ。今の大学生達は、ほとんどが「考えるトレーニング」を積んでいない。単に知識を詰め込まれているだけに見える。場合によっては、その知識の詰め込みすらやっていない。要は「何もやっていない」ように見える。

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僕が今回の授業でやったことはたった三つである。

一つ目は、最初に授業の目的を明確化したこと。「あなた達はなぜこの授業を取ったのですか?」と質問して、「単位が取りやすそうだから」「将来BVで働きたいから」「将来BVに投資して儲けたいから」「一般教養として」「なんとなく」「魔が差した」などの選択肢の中から選ばせた。彼らは「単位が欲しかったから」「なんとなく面白そうだったから」と答えたわけだけど、それでは困る。なので、その時点で僕は「大学と言うのは単位を配る場ではない。単位はあくまでも目印である。教師はあなた達に知識を与え、考える能力をつけさせ、社会に出たときにそれを競争する道具として使えるようにする役割を持っている。あなた達の立場はお客さんであり、お金を払ってそうした能力をつけさせてもらう権利を持っている。だから、あなた達はきちんとこの授業を通じて、知識と、考える習慣を身に付けてもらいたい。このうち、知識は今の世の中ならインターネットを探せばどこにでも転がっているものである。だから、どこにその知識が蓄積されているかを知っていて、その情報へのアクセス手段を身に付けていれば問題ない。しかし、「考えること」は違う。これは一度身に付ければ、生きていることそのものが全て訓練につながるが、そういう意識がなければ漫然と生きてしまい、貴重な機会を失うことになる。人生の初期の段階で「考えること」を身に付けた人とそうでない人の間には将来非常に大きな差が生じる。だから、この授業は「考えること」の訓練だと思って欲しい、と伝えた。

二つ目は、実際の授業において、一方的に知識を与えるのではなく、実際に考え、それを表現する機会を頻繁に与えたこと。「バイオって何ですか?」「生物の定義ってなんですか?」「ロボットと生物の違いって何ですか?」「身のまわりでバイオテクノロジーを利用しているものには何がありますか?」「遺伝とは何ですか?」「ゲノムとは何ですか?」「遺伝子とは何ですか?」「株式会社とは何ですか?」「資本金って何ですか?」「株って何ですか?」「会社って誰のものですか?」「会社の価値って何で決まりますか?」「株式会社の社長って何ですか?」。こうした基本的なことについて一つ一つ時間をとって考えさせ、それぞれについて全員に意見を聞き、そしてそれぞれについて回答を評価した。これによって、考える癖をつけさせ、自分の考えを頭でまとめさせ、それを表明する癖をつけさせ、さらに人の意見を聞かせることによって自分の意見との違いを意識させた。

そして三つ目。「遺伝子組換え食品への対応はどうすべきか」「食の安全はどこまで確保されるべきか」「AIDSへの世界的対応は適切か」といった、正解のない問題を与え、これについての意見を表明させた。そして、スタンスを表明させ、その理由を述べさせた上で、「じゃぁ、もしあなたが逆の立場だとしたら、どういう理由でそれを主張しますか?」と課題を出した。これは二の発展であるが、発想を強制的に変換させたのである。これによって、物事を客観的に見るためには何が必要か、人の立場からものをみるということはどういうことか、というのを体感させた。

やっとことはたったのこれだけだが、彼らのうちの一人(三年生)は途中から目を輝かせながら授業を聞き、授業に参加し、そして授業を要求した。

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そして、授業の最後に伝えたのは、次のような趣旨のことである。

「勉強というのはものすごく個人的なものです。また、大学の授業というのは、皆さんお金を払って聞いています。ですから、単位というのは、本来、教師が出すものではなく、生徒の皆さんが納得したときに受け取るものです。「お金を払って、その分の知識を得ることができた」という印みたいなものですね。

僕の授業は、形式的には僕の知識を皆さんに伝えるだけのものです。バイオとは何か、ベンチャーとは何か、そしてバイオベンチャーとは何か、という知識です。15コマの授業では、その全部を伝えることは無理ですが、おおよその地図のようなものは提示しました。これから、もし興味があれば自分で調べることができるはずです。また、何かわからないことがあれば、こんな時代ですから、インターネットで僕に質問してくれればいつでも答えます。

皆さんはバイオについても、ベンチャーについてもまったく白紙でした。だから、途中で一回でも授業を抜けてしまった人は、満足が行くだけの知識を得られなかったと思います。でも、それは最初に言っていますから、自己責任です。知識を得る機会を損失してしまい、そしてこれから先もその機会はないわけですが、これも最初に言ったとおりです。残念でした。抜けちゃった知識は、もし必要なら、友達に聞くなり、自分で調べるなりして補完してください。

そういうわけで、僕としては点数なんてなんでも良いし、興味もありません。たとえば皆さんが勝手に希望の点数を書いてくれればそれでオッケーだったりもするのですが、まぁ、大学の方としてもそれじゃぁ困るでしょうから、基本的に出席点で点数をつけます。テストは面倒だからやりません。僕がしゃべったことは全部大事です。だから、その内容に軽重をつけることもしないし、ピックアップして理解度をはかるようなこともしません。また、授業の内容はもちろん興味がないなら全部不要な話です。生きていくうえで必須のものではないですから、忘れてしまってもかまいません。

課題は、レポートを出しておきます。ただし、レポートは出しても出さなくても点数は一緒です。レポートを出すのは自由。内容は、今回の授業についてサマリーをまとめる、ということにしましょう。話を聞いて、なんとなくわかった気になるのは良くあることです。でも、それを文字にしようと思うと意外と難しかったりします。知識を頭の中で整理して、それを文字にしてみる、という作業は多分皆さんにとって役に立つはずです。だから、もし今回の授業の内容をきちんと自分のものにしたいと思う人がいたら、その作業をやって、提出してみてください。その内容はもちろんチェックしますし、何か間違っていることがあれば、チェックしてお知らせします。

大事なことは、「考える癖をつけること」と、「情報がどこにあるのかを知っていること」です。知識をただ単に与えられ、それを覚えるだけならパソコンで十分。正しいか正しくないかではなく、とにかく自分で「考えること」と、どこにアクセスすれば欲しい情報があるのかを知っていることが大事なわけです。考えることというのは僕の授業でたびたび皆さんに課題として出しましたね。「南アフリカや東南アジアにおいてエイズで死ぬ人がたくさんいる一方で、治療薬関連の特許で大もうけしている人がいる。このことをどう思いますか?」なんていうのはその一例ですが、こんなのに模範解答はありません。ですが、このことについて真剣に考えて、自分の意見をまとめたり、人の意見に耳を傾けてみることはものすごく大事なことです。また、今回の授業では、ネットを使って実際にいろいろな情報を調べました。その調べ方も大きなノウハウです。僕の調査方法を皆さんは実際に目で見ていたわけで、これについても今後の人生で大きなヒントになるかもしれません。ならないかも知れませんが。

まぁ、何はともあれ、今回の授業で何かひとつでも持ち帰っていただければ、僕はそれで満足です」

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勉強、特に高校や大学の勉強と言うのは誰かのためにやるのではなく、本来自分のためにやることである。少なくとも義務教育ではないのだから、「国に言われたからやっている」のではない。ここで、「自分の」目的は人それぞれだろう。就職に有利だからかも知れないし、お金が稼げるからかも知れないし、自分の知的好奇心を満たすためかも知れない。その目的が何であれ、義務教育以降の勉強は人のためにやることではない。そして、大学は、人のためにやる勉強、人に言われたからやる勉強をするために通う場所ではない。こんな簡単なことをなぜか今の大学生の多くは知らない。それは大学、および大学の教師の責任だと思う。

確かに、バブルの頃は違ったと思う。人に言われたから大学に通い、そしてそこを卒業するだけで安泰な人生のレールに乗ることができた。だから、今の学生達は20年前の学生に比較したら気の毒でもある。しかし、30歳を超えてから突然競争社会に放り出されて呆然とするよりはずっと恵まれているとも言える。早く気がついて、早く対応した学生から順番に勝ち組になるチャンスを得られるのが今の学生でもある。

いや、大学生の質がどうとか、今と昔の大学生の比較が主題ではない。言いたいことは、大学と、大学の先生は、本当にちゃんとした教育をしているのか?ということである。教室にいる人数が多ければ教育の密度は変わってしまうから、僕のようなスタイルで授業をできるような科目ばかりではないことは十分承知しているが、一方で知識だけを押し売りするようなスタイル以外でも授業ができる科目もたくさんあるはずである。そもそも、まず最初の段階として「すぐに忘れてしまうような知識を頭に詰め込んで試験で合格点を取り、それを続けて大学を卒業しても何の役にも立たない」ということをきちんと教えないでどうする。

ストライヤーやらセルやらを片手に、付箋を貼ってあるところを順番に学生に読ませて「ここが大事ですよ。試験に出しますからね」なんていう授業をやってんじゃないでしょうね?ということだ。「おいおい、大学でそんな小学校みたいなことから始めなくちゃいけないのか?」という声も聞こえてきそうだが、僕はそこから始めなくちゃいけないと思う。冒頭の「5号館のつぶやき」さんはそのエントリーの中で

「奨学金」を借りてまで高等教育を受けた人


に対して仕事を与えてくれと書いているが、その高等教育を受けた人たちの質が低いから問題なわけで、その質が低いのは直接的には国の責任ではなく、現場における教育の質が低いからでしょう?ということである。

#僕の授業がちゃんとしている保証はもちろんないんですけどね。

##ちなみに僕は稲田祐二さん(元東工大、現桐蔭学園横浜大学)を教師としてとても尊敬しております。稲田さんの授業は僕の人生を変えてくれました。

###文科省が大学の教育について、シラバスはもちろん、実際の授業現場にまで踏み込んで詳細な干渉をしているというのであればまた話は別です。が、僕は今まで大学で講師をやってきて、その種の干渉を受けたことはないです。  

2007年12月04日

ブログでバイオ 第36回「ポスドク、やーめたっ!」

第35回で正解ですか(笑)?あ、36回か。35回はこれってことで。

博士を減らして質を高めるべきだ

誰か書くかなー、と思って様子を見ているうちに忘れちゃうんですよね。もう、がんがんドリブルしちゃおうかな(笑)

さて、そろそろポスドク問題もビジネスとしてのアプローチが可能かな、と思い始めて、具体的に何が出来るのかを考えている。

各所でディスカッションなどもしているのだけれど、バイオ中心の理系の人間だけで考えていると限界があるよな、と思い、またこの手の議論は結局議論のための議論になりがちなので、そういう無駄な時間つぶしはネットに任せることにして、リアルな活動として何が出来るのかを考えてみようと思った。それで、まずは文系の知恵を借りてみることに。何をやってみたかって、まぁ、都内某所で文系の人材会社のトップの方とブレストをしたわけです。そこで出てきた話はさすがに面白かった。僕も色々理系の集まりを見たり、自分で喋ったりしてきていますが、こういう話は聞けないなぁ、とういものでした。誰もが感じていたりすることだけれど、「はっきりものを言う」と言われている僕ですらやっぱり遠慮があって言い切れないところがあるんですね。

まず最初に書いておきますが、話してくれたのは完全にバイオ初心者。そして、人材紹介業で食べている人です。話は、「ポスドクといわれる、アカデミックポスト予備軍の人たちが余って、徐々に社会問題化しつつある。これをどうしたら良いのか。ポスドクとは、20代後半から30代ぐらいの人たちである」という説明をしてからのもの。

あ、あと、袋小路にいるポスドクの人は読まないほうが良いかも知れません。かなりドク入りです。以下、サマリー。

そもそも、大学でも、研究機関でも、企業でもいらない、という人材には社会のニーズがないんですよ。どこからも必要とされていないという現実を受け入れないと。そういう人たちは、ニーズをあわせる方向に頭を切り替えなくちゃ生き残れない。

意識を変える、自分が変わる必要がある。世の中はそう簡単には変わりませんよ。20年後はどうか知らないけれど、5年後に大きく変わっているとは思えない。また大きく変えるのは凄く大変。そんなことをやっている時間はないんじゃないですか?今食べていくことが重要なんですよね。

ニーズがないんだから、今までの自分は捨てなくちゃ仕方がない。これまでの人生の全否定になろうが何しようが、まずはそこから。今の状態では社会に貢献していないことを自覚すべき。きちんと働いて、国以外のところからお金をもらって、納税する。これが社会貢献。税金を使うんじゃなくて、税金を払う側になれ。利潤を生まなければ何の価値もないことを認識すべき。

例えばITの世界は慢性的な人不足。将来はわからないが、ここ数年でこの事態がドラスティックに変わるとも思えない。バイオで食えないなら、ITで食え。理系なんだから、そのくらいの素養はあるだろう。ITの教育ならすぐできる。半年で、普通の人なら年収500万円ぐらいの給料をもらえるスキルを身に付けることができる。

メンタルトレーニングは必要。トレーニングはこれまでの人生を否定されるところからスタートするから、つらいところもある。しかし、これに耐えられなければ未来がない。


→このあたりで、「しかし、精神的に弱い人や、すでに手遅れの人はその現実を前にして立ちすくむだけではないですか?」と質問。

確かに、相手は選ばないとだめ。ただ、今は大量のポスドクが余っているんでしょう?それを全部面倒見るのは不可能。それなら、まず絶対数を減らさないとだめです。そのためには、まず脱出できる人から脱出させないと。駄目な人は絶対数を減らしてから考えれば良いんです。

30代後半になってしまうと、私達でも解決策は思いつかない。それこそ国に頼るしかないんじゃないか。ただ、最初から国に頼るんじゃなくて、その前段階で何とかできるところを何とかするべき。

必要なのは「プライドで飯は食えない」ということをきちんと認識すること。お勧めの分野はIT業界。


なるほど、面白い。正直なところ、話をしていると「それはちょっと違うんじゃないかな」というところもあるんだけど、それは結局枝葉末節。こういう話をそれこそ理系の人間が聞くと、ついつい細かいところに目を奪われて、「こんな奴はわかってないから話にならない」とか決め付けそうなところだけれど、本流ではやっぱり正論じゃないかなと思う。

それにしても特に参考になるのは、「まず大丈夫そうなところから救済して、絶対数を減らせ」という部分。

話してみてわかったのは、やっぱり「ストレートに現実を直視させちゃうと、自殺しちゃうんじゃないの?」といった種類の遠慮が関係者にあって、ついつい問題を先送りしているような。死刑囚の死刑執行の書類に法務相がサインしたがらない、みたいな。そうやって先送りしているうちに、事態はだんだんリカバリーが難しい状態(→30代後半)になってしまったんじゃないかなぁ、ということ。これがわかったといっても「リカバリーがしにくい人たちをどうするか」ということに対する回答は見つからないのだけれど、新規供給分の減量化を図る、という部分にターゲットを絞れば、対応策は何かありそうだ。

一気に解決するんじゃなくて、できるところからのアプローチ。救助しやすいところから救っていくということ。まずはここをビジネス化してみるのが良さそうだ。

#それはそうと、So-netの立花さんのブログ、なくなっちゃったのかな(^^;?  

2007年09月05日

ブログでバイオ 第34回 「研究や研究者の評価」

32回のエントリーに対してUさんからコメントをいただいたので、丸さんから「僕が33回を書くからちょっと待って」と言われていますが、丸さんは西海岸で豪遊しているので、勝手にドリブルすることにします(って言っていたら、タッチの差で33回を丸さんがリリースしたので、こっちは34回ってことで(笑))。

まず、いただいたコメント、若干長いのでこちらにまとめて再掲した上で返答します。対象となっているエントリーはこちらです。

ブログでバイオ 第32回 「変わるべきは、大学と学生(含むポスドク)」

以下、Uさんのコメント全文。

このブログの趣旨とは多少異なるかもしれませんが、少しお伺いしたい事があります。博士と一言で言っても、その能力は人によって大きく異なり、ピンからキリまで様々です。ここでの議論は主に、ピンの部類に入る人達を除いた、その他多数の博士(キリを含めた)を対象にした議論になっているように思います。日本における、能力的には「ピン」に属する博士のキャリアパスについてはどのようにお考えでしょうか?

「研究の場も競争の場になった」とおっしゃられていますが、優劣を決定する客観的なルールと、そのルールに基づいて公正に評価するシステムが、競争の場には必要と思います。アカデミックでの科学研究の場合はどうでしょうか? 例えば、競争的研究費の獲得の場合、客観的なルールと公正な評価システムが存在しているのでしょうか? 研究費を出す側が、科学的なコンテンツを評価する能力を持たず、申請者の「名前」とpublication listで評価するようなシステムであれば、それは競争と言えるのでしょうか? 科学的な能力を磨くよりも、名前の通った大物研究者にすり寄ったり、不正まがいの事をしてでもpublication listの見栄えを良くする事の方が、競争を勝ち抜く上で有効だとしたら、これは公正な評価システムに基づいていると言えるのでしょうか? 科学の進歩を促進するのでしょうか?

企業での研究開発の場合は、「市場主義」というルールに基づいた、比較的公正な評価システムかもしれません。しかし、開発された商品の質よりも、市場を誘導する事の方が、利益に結びつくような状況が存在する場合は、市場主義は開発された商品の質を正しく反映しないかもしれません。巷で「似非科学」といわれているような商品でも、うまく宣伝して売れてしまえば、「勝ち」ということになりかねません。抗腫瘍効果が明らかでない、「似非」抗がん剤が、製薬企業のロビー活動によりヒット商品となったことも、20年ほど前にあったと思います。このようなケースでは、「売れた」=「優れた商品」という図式は当てはまりません。

第30回のコメント欄で少し話題になっていましたが、ノーベル医学生理学賞は、資本主義に役立つ(市場主義で高い評価を得た)研究に与えられるものではなく、医療や生物学の進歩に貢献した研究に与えられるものであり、そのような研究は、結果として市場で評価される商品に反映されるということではないでしょうか?

アカデミックあるいは企業の研究職でキャリアを展開しようとする、「ピン」に属する博士達にとって、彼らを評価するシステムは極めて重要と考えます。日本での研究の場においては、ある程度公正で有効な評価システムの構築が困難なのであれば、そこに競争原理は導入できないのでは、と考えます。「ピン」に属する博士達が、どんどん欧米に流出してしまうのではないかと、少々心配です。

色々な立場でバイオ業界にかかわってこられたbuuさんから見て、何かご意見あれば、伺いたいと思います。

ちなみに、博士の自己責任については、まったくおっしゃられる通りと思います。国益を考えるのであれば、「キリ」の博士ではなく、「ピン」の博士に関して、国は何らかの方策を考えた方がよいように思います。


続いて返答。ちょっと「研究者」と「研究」がコンタミしちゃいそうなんで、なるべく分けて書きますけど、わかりにくかったらすいません。

>優劣を決定する客観的なルールと、そのルールに基づいて公正に評価するシステムが、競争の場には必要と思います。

以下は研究者について。

僕はそうは思いません。すごく卑近な例で申し訳ありませんが、たとえばラーメン屋の評価について、僕が「この店は日本一美味しい」と述べたところで、これは僕の主観的な評価に過ぎません。誰かが、「魔人ブウ*の評価なんかじゃなくて、客観的なルールを設定し、そのルールに基づいて公正に評価するべきだ」と言ったとしても、「じゃあどうするの?」ということになれば、現状の技術をベースにすればそれはほぼ不可能だと思います。なぜかって、その店を美味しいと思うか思わないかはどこまで突き詰めても所詮は一個人の主観、あるいは個人の主観の集合体であって、客観に限りなく近づけることはできても、それが客観になることはありません。

研究者とかの優劣といったものも同様で、何かルールを設定できるのかと言われれば、僕はそれは現状の技術ではなかなか難しいと思うし、また、その設定方法について万人の了解を得ることはほぼ不可能だと思っています。

結局のところ、ラーメン店の良し悪しを決めるのは消費者です。研究者の良し悪しを決めるのは、研究者を雇う組織、人間だと思います。

「このラーメンの味の良さがわからないなんて信じられない」と言っても仕方ありません。ビジネスをやっていると、「これは絶対売れる」と思って市場に投入してみたのに、全然売れない、なんていうことは日常茶飯事です。そのときそのラーメンが売れない理由はいくつかあって、

1.ラーメンが美味しくない
2.ラーメンの告知がうまくいってない
3.美味しいけど高い
4.個性が強くてラーメンが理解されない

ぐらいが考えられると思います。そして、その原因は、店が悪いのかもしれないし、味を理解しない消費者が悪いのかもしれないし、広報を担当している代理店が悪いのかもしれません。

これを研究者に置き換えると、

1.研究者の能力が低い
2.研究者のPRについて、周囲の締め付けがきつい
3.研究者は雇いたいが、費用対効果が見合わない
4.研究者自身の個性が強く、組織がもてあましてしまう

ぐらいになると思うのですが、その根源は研究者のレベルが低いのかもしれないし、研究者を評価する人たちのレベルが低いのかも知れないし、それらをPRする組織(大学等)が悪いのかも知れません。

ただ、どれだとしても「それを買おうとしない客が悪い」という考え方は的外れだと思います。ラーメンも研究者も、それを受け入れる客なり、組織なりがあって初めて評価がされるわけです。「すばらしい研究者は現在は理解されなくても、わが道を進むべきである」という考え方もありでしょうが、現在の日本ではちょっと難しいかな、と思います。ですから、研究者は何らかの形で買い手に理解されるような努力が必要だと思います。

たとえばタンパク3000が終了して、理研ではそれに従事していたポスドクの行き先がなくて大きな問題になっているようです。これは「あとの世話をしてやれない横山が悪い」という考え方もあるでしょうが、どこかにも書きましたけれど、横山さんはそんなに冷淡な人ではなかったと思います。横山さんは「ポスト『タンパク3000』」で予算を確保して、ポスドクを再雇用したいと思っていたんじゃないかな、と思うのですが、予算がつかなかったのなら仕方がないですね。そして、「あのタンパク3000でがんばったポスドク」という看板がどの程度再就職の役に立つのか、ということになってくるわけです。この看板が本当に役に立つのであれば、就職難とかで問題になることはなかったはずで、そのあたりに読み違い(読み違ったのは理研かもしれないし、横山さんかもしれないし、ポスドク本人かもしれないし、あるいは全部かも知れませんが)があったんだと思います。

ものを売るには、売る相手を良く見る必要があります。そして、就職するということは自分という人間を組織に売ることに他なりません。ということは、就職先となる可能性のある組織が何を求めているのか、ということはきちんと分析する必要があるわけです。それをやっていなかったら、就職先が見つからないのも当たり前です。今までは博士という人種の数が少なかったからそれでも良かったかもしれませんが、これからはそういう時代ではない、ということですね。今は医者だって、弁護士だって努力して売り込まなくてはならない時代です。研究者も同じです。以前、このブログでは経済産業省の「産業界ニーズと大学教育カリキュラムのミスマッチ分析」という調査を紹介しましたが、この手のことをきちんとやっておくことも一つの解決策になると思います。

>例えば、競争的研究費の獲得の場合、客観的なルールと公正な評価システムが存在しているのでしょうか? 

これは「研究」について。

僕は公正な評価システムが存在しているのかどうか、知りません。なぜかといえば、文科省やらNEDOやらの評価の場に自分がいたことがないからです。また、その評価過程についての文書を見たこともありません。ネットで検索したことはありますが、その手の資料は見つけることができませんでした。評価システムが公正かどうかは、評価の内容を見なければ判断できません。そのあたりに興味があるのであれば、まずは評価の詳細について情報公開を迫るという手はあると思います。個人的にはこちらにはあまり興味がないので、僕自身はやりませんが。

>うまく宣伝して売れてしまえば、「勝ち」ということになりかねません。

いや、こんな商品は山ほどあるんじゃないでしょうか。

たとえば、医薬部外品では、その効果効能をうたえる成分は色々とあります。実際に個別具体的な製品を想定しているわけではないですが、ではこんな例を考えてみましょう。

設定1
シーチキンに整腸作用の効果効能が確かめられた。

設定2
シーチキンは整腸薬として医薬部外品の許可を受けた。

設定3
シーチキンを整腸薬として利用する特許権は存在しない。

さて、ここで誰かが新しい整腸薬を医薬部外品として販売しようとしたとします。しかし、シーチキンを入れてあるだけでは面白くないので、新規成分を探索しました。しかし、なかなか見つかりません。そのとき、候補物質としてマヨネーズを検査したのですが、整腸作用は見つけられませんでした。ただ、シーチキンマヨネーズはなかなか美味しいので、その組み合わせで売ることにしました。その際の売り文句は「新成分配合の医薬部外品! シーチキンマヨネーズ」でした。

消費者は、マヨネーズが新規成分として配合されたのかと勝手に勘違いします。しかし実際は、既存の整腸成分であるシーチキンに、特に整腸効果はないけれどもシーチキンを美味しく食べることができる新規成分のマヨネーズを添加したに過ぎません。整腸効果のある新規成分が付加されたわけではないのです。マヨネーズの効果は「美味しく食べる」かもしれないし、「日持ちがする」かもしれないし、まぁ色々考えられるところではありますが、そこが重要ではありません。とにかく消費者に錯覚を起こさせることが重要なわけです。別に整腸成分(=シーチキン)が入っていることは嘘ではないですから、医薬部外品として堂々と売ることもできるわけです。

ここに大金をつぎ込んで上手にマーケティングすれば、「そこそこ効く新規整腸剤」の完成です。

この想定事例では、別にメーカー側は犯罪をしているわけではありません。メーカーからすれば、たとえそれが意図的なものだったとしても、「きちんと理解しなかった消費者が悪い」ということになります。コンプライアンスの問題はあるでしょうが、僕はこういったことは社会においては日常茶飯事だと思っています。自分がこういったことをやるかやらないかは別問題ですが、僕のスタンスは「メーカーの意図に誘導されてしまう消費者の方に問題がある」というものです。

ちょっと長くなりましたが、

>「売れた」=「優れた商品」という図式は当てはまりません。

これはまさしくその通りで、だからこそ社会は面白いとも言えると、僕は思います。僕のように商売をやっている人間は、新しい商品やらサービスやらを投入するとき、「これは絶対に売れる」と思っているわけですが、実際はそう甘いものではありません。そういうことを繰り返すのがビジネスであって、そのあたりを理解せず、「良いものは売れるはずだ」「良いものは売れるべきだ」と考えていると、いつまで経ってもビジネスマインドは醸成されません。あくまでも「売れたものが優れた商品」なのがビジネスの世界です。

人にしても、物にしても、「良いものが正当に評価され、売れるべきだ」という考え方はわからないでもありません。ですが、それはあくまでも理想論であって、現実はそうではありません。

>資本主義に役立つ(市場主義で高い評価を得た)研究に与えられるものではなく、医療や生物学の進歩に貢献した研究に与えられるもの

これはその通りだと思います。

>そのような研究は、結果として市場で評価される商品に反映されるということではないでしょうか?

医療や生物学の進歩に貢献することと、市場で評価される商品に反映されることは、全く異なる要素だと思います。ただ、その二つの要素のベクトルが、近年は一致してきているというのが僕の考え方です。それは、鯨と鮫が(たぶん)全く違った進化をしながら、現在の形態が非常に似ているのと同じようなことではないかと思います。

僕が書いたのは「資本主義の役に立つものがノーベル賞を取る」であって、「資本主義の役に立つからノーベル賞を取る」ではありません。ちょっとわかりにくかったかもしれませんが。なので、Uさんの考え方と同じだと思います。

>ある程度公正で有効な評価システムの構築が困難なのであれば、そこに競争原理は導入できないのでは

「公正」という言葉の定義にもよるのですが、それが「何らかの手法による客観的な評価」という意味であれば、上にも書いたと思いますが、それは困難だと思います。あくまでも、評価は市場がすべきであって、市場とはすなわち個人の主観の集合体ですから、客観に近づけることはできても、客観にはならないというのが僕の考え方です。そして、それであっても競争原理は導入できると思います。実際に、資本主義社会ではそうした競争がそこここで導入されています。

また、そういう社会に少しでも近づけようとする努力は尊重されるべきだと思いますが、それを国や社会に求めても、実現はなかなか困難だと思います。特に村社会の日本では難しいと思います。

>「ピン」に属する博士達が、どんどん欧米に流出してしまうのではないかと、少々心配です。

僕は、実は博士にしても、ポスドクにしても、どんどん欧米に出て行けば良いのに、と思っています。日本では活躍できなくて、しかもちゃんと実力があるなら、なんで欧米に出て行かないんだと。国家としては頭脳の海外流出は大きな懸念でしょうが、使いこなせないなら仕方ありません。国内で飼い殺しにするほうが人類として損失です。

>「キリ」の博士ではなく、「ピン」の博士に関して、国は何らかの方策を考えた方がよいように思います。

僕は「別に国が出る幕じゃないよな」と思っています。そもそも国は博士がピンなのかピンじゃないのかすら判断できないのではないでしょうか。だって、役人たちだって、何かすごい研究を見つけたいな、と思ったときは、自分たちで独力で探すんじゃなくて、専門家にヒアリングしまくって、その意見を参考にしているに過ぎないんです。まぁ、ノーベル賞でも取ってくれれば「あぁ、なるほど」などとわかるのでしょうがこれはあくまでも結果論です。理研とか、ノーベル賞を取った人は何人もいますが、理研での研究でノーベル賞を取った人ってどのくらいいるのよ、ということです。じゃぁ理研が駄目なのか、文科省が駄目なのか、というとそういう意見もあるでしょうが、僕はそういった組織の目利き能力を云々する気は特になくて、「別に国が評価しなくたって、市場が評価してくれるんなら別に良いんじゃないの?学問的な評価と市場の評価が一致してきている以上(ノーベル賞を取るような研究が市場でも同様に評価されている、という現状を鑑みて)、わざわざ国がやる必要はないよね」と思うわけです。

この手の議論をしているとすぐに「国が」という意見が出てくるのですが、僕は国の関与は極力減らしていくことこそが日本の発展、国力の強化につながると信じているので、なかなか同意する気になりません。

#多くの人は基本的に公務員が嫌いなくせに、困るとすぐに公務員に頼るんですよね(^^;別に良いんですけど。

僕は公務員は別に嫌いじゃないし、友達もたくさんいますけれど、でも公務員に頼るのは辞めたほうが良いと思うし、国の関与は基本的に小さいほうが良いと思っています。特に国の持っているシンクタンク機能はどんどん民間に移転していったほうが良いと思っています。国と、国の下請けである大手シンクタンクの両方にいた経験から。  

2007年08月20日

ブログでバイオ 第32回 「変わるべきは、大学と学生(含むポスドク)」

31回のJun Seita's Webさんの「ブログでバイオ 第31回 「ポスドク問題はミクロとマクロに分けて考えるべき」」というエントリーでは簡潔に一つの考え方が示されていて、特に反論するところもありません。というか、全くその通りだと思います。

例えば僕だって、大学院出て、それなりのキャリアを積んで、現在にいたるわけだけど、別に今良い暮らしをしているわけじゃありません。だからって、「独立させた社会が悪いんだから、何とかしてください」なんて言いません。全部自己責任ですから。

僕の周りには同じように安定を捨てて苦労している人が山ほどいます。みんな生活がかかっているから、「お上が何とかしてくれるまで待ってます」なんて絶対に言いません。

で、「それはお前の周りにいる奴がデキる奴らばかりだから」と言われてしまったら、もうそこで議論は終了です。僕の周りにいるのはデキる奴らばかりで、それ以外のところにはデキない奴らが沢山いるのかもしれません。でも、そのデキない奴らが何をしているのか、残念ながら僕には見えてこないんですね。だって、デキる奴らはどんどん自分で動くから、目に入ってくるんです。結局のところ、デキるかデキないかは、自分で動けるのか動けないのか、ということではないですか?


5号館のつぶやきさんが「労働問題としてのポスドク問題」というエントリーにおいて次のようなことを書かれていますが、

博士・ポスドク全員が就職するまで、この問題は終わらないと思っています。


これを実現するための一番手っ取り早い方法は、社民党か共産党に票を入れて、日本を名実共に社会主義国家にすることだと思います。そして、かなりの確度で、そんな日本はやってこないと思います。もし職にあぶれているポスドク達が、「もしかしたら国が助けてくれるかもしれない」と思っているとしたら、まずその望みを捨てた方が良いと思います。仮に国がある程度の援助をしたとしても、それは当然ながら、デキない人たちの中にあってもデキる部類の人たちからです。

ストレートに言ってしまうと、博士である以外に何もない、ただ修士課程を修了し、後期博士課程の面接試験に受かっただけの人間かもしれない人の就職の面倒をなぜ公的に見なくてはならないのかがわかりません。もちろん博士課程に進学する際に、「就職は絶対に保障します」という約束が国との間にあったのなら話は別ですが。確かに、「博士になってもろくなことがない」ということが周知され、博士課程に進む人が少なくなる可能性は少なからずあると思います。しかし、その原因はどこにあるかって、役に立たない博士しか作ってこなかった大学に問題があるわけで、そういうところに追い込まれて初めて大学は「役に立つ博士を育成しよう」ということになるはずです。そういった、「正常かつ安定した状態」を生み出すための、今は過渡期にあるのではないですか?

現状の打破のために博士・ポスドクが認識しなくてはいけない点は次の二つだと思います。

1.博士という看板は何の役にも立たない(少なくとも運転免許ほども役には立たない)
2.国は面倒を見てくれない

その上で、自分で何とかしなくてはならないと覚悟を決めないと駄目だと思います。

国が援助すべきかどうか、という部分については、議論しても結論が出ないというか、「援助すべき」という人は一般人にそれを主張しても仕方なくて、文科省や財務省、あるいは政治家に主張すべきだよな、とも思います。もちろん、なんらかの制度的な支援はありだと思いますし(例えば、数ヶ月のインターンシップとか。これも、すでにリバネスなどではやっているわけですが)、すでに文科省は今年度の予算要求でこの手のことを計画しているようです(この手の話はかなり厚労省寄りの話で、文科省としては力を入れたいところでもあるわけです。要は予算の取り合いなので、他省庁の縄張りに入っていくような予算は大好きです。僕は経産省時代、人材育成の予算を取ってきたわけですが、これも厚労省分野の話だったので、経産省は力を入れていました)。

すでにアカデミアにいる人たちは、今の人たちが過去の自分達と同じようなことをやっているにも関わらず、自分達は普通に食べていけているのに、今の人たちは食べていけないということで、後ろめたさがあるのかもしれませんが、こういうのは時代の流れで仕方のない話です。一昔前には炭鉱夫は日本で一番お金を持っている部類の人たちでしたが、今は一番お金に困っている部類の人たちです。他にも繊維産業など、斜陽産業は枚挙に暇がありません。どうしても助けたいと思うなら、自分のポストをポスドクに明け渡せば良いわけですが、もちろん自分が可愛いでしょうからそんなことをする気もないでしょうし、別にそうすべきだとも思いません。

結局のところ、研究の場も競争の場となったわけで、しかもそれは意図的に競争原理を導入したはずです。競争によって、研究の質が高まるという判断ですね。なので、競争に負けた人は、負けたなりの生き方を見つけなくては仕方ないというのが僕の考えです。競争がイヤだ、という人ももちろんいると思いますが、残念ながら中国やロシアも含め、世界中ほとんどの国では競争を肯定する社会になっています。と、突き詰めていくと、小学校の運動会で順位をつけるのは良くないとか言い出すわけのわからない平等主義、平和主義に行き着いてしまうわけですが、残念ながら、競争を否定する考え方は、もう古い、ということだと思います。負けた人にはセーフティネット、ということでしょう。

基本的に産業界は産業界で市場原理のもと、構造改革が進むはずです。意図的に変わらなくてはならないのは、大学と、学生でしょう。  

2007年08月13日

ブログでバイオ 第30回 「今の博士、これからの博士に求められるもの」

お盆ということもあってあんまりやることがないのと、昼間は暑くて全く外出する気にならないので、すばやいパス交換。

5号館のつぶやきさんの「ブログでバイオ 第29回 「博士と自己責任論」」のパスを受けます。

>リレーエッセイというものの「作法」がわからず

あぁ、作法は何もないです。気が向いた人が適当にパスを受けてブログに書く、これだけです。あと、前の記事にトラックバック、くらいでしょうか。一応僕の中でのローカルルールとして、他の人のパスが出難くなるような細かいパスつなぎはやめておく、というのがあるのですが、これもなんとなく、で、今回のように、常に守るわけではないです(^^;

>博士が余っているのは、必要以上に博士を作ったからです。

この部分は僕は微妙に違う認識でいます。必要以上に作ってしまったのは、「役に立たない博士」であるというのが僕の認識です。例えば博士の人たちはちゃんと資本主義の社会というのを理解しているのでしょうか。株式会社における株主と取締役会の関係を理解しているのでしょうか。あるいは公務員の仕事は何なのかを理解しているのでしょうか。予算の仕組みは?衆議院の役割は?中央官庁は何をやるところなのか。

これらは資本主義社会で有権者として生きている限りは知っていて当然のことです。ところが、こんなことですら知らない人が沢山います。少なくとも、僕が見てきた博士は90%、このあたりの知識を持っていませんでした。もちろん知らなくても生きていくことは可能でしょうが、「博士」に期待されているのは研究能力だけではなく、そうした一般常識も含まれているはずです。21年間も勉強しているのですから当たり前、というのが世間的な評価だと思います。

そして、それらをきちんと理解していれば、博士であるということがどういうことなのかというのも自ずからわかってくるはずです。ただ博士なだけでは意味はない、ということも当たり前の話で、人に言われて「え?そうだったの??」というのでは、こちらも「はぁ。あなたは役に立たない博士なのですね」という感じです。

ただ、大学における高等教育のカリキュラムの中でこれらの講義が欠落しているとすれば、それはサービス提供者としての大学の機能不全だと思います。そんな大学に行ってしまう方が悪い、ということかも知れません。僕は大学のカリキュラムを俯瞰的に見たことがないので、現状がどうなのかは知りませんが。

そして、こういったことをきちんと理解している博士達は、僕の周りでもしかるべきところできちんと働いています。博士の全てが余っているわけではありません。逆に、「社会が求めている博士」はまだまだ不足しているのが現状だと思います。例えば僕が理研にいたとき、事務方では常に「博士が欲しい」という話をしていました。それが人事部で現在も考えていることなのかどうかは知りませんが、理研の現在の人事部には部長を含め知り合いが数人いますので、そのうち実情を聞いてみたいと思います。

ちなみに、「社会が求める博士像」とは別に、「社会が求める分野」という切り口もあって、大学側がニーズのない分野に人材を供給してしまっているという現実もあります。これはちょっと古い資料になりますが、2005年に川合塾・三菱総合研究所が実施した「産業界ニーズと大学教育カリキュラムのミスマッチ分析」という調査が参考になると思います(お金を出したのは経済産業省大学連携推進課)。この資料を見ると、大学側がいかに産業界ニーズを踏まえた商品開発(カリキュラム開発)を実施していないかが分かります。

>博士の数が多すぎた場合、その失敗は政策を担当している政府の責任であることは自明だと思います。

政策的に煽った文科省の責任が皆無だとは言いませんし、問題が小さなことだとも思いませんが、じゃぁその解決が日本にとって非常にプライオリティの高い問題かと言われると、僕はやや疑問に思います。また、それを指摘しても、今困っている人たちを救済できる可能性は小さいと思います。

>ポスドクをすることは得か損か、などいうことを正しく判断できるような「スゴイ人」ならば

これって、「スゴイ人」ですか?「正しく」はともかくとして、おおよそのところまで考えられるのは最低限のことだと思います。

>私は、100人に1人もいるかどうかあやしいと思っています。

だとすれば、そちらの教育の方が間違っているということだと思います。100人に1人しかいないという状態は正常ではありません。少なくとも僕が大学生だったとき、僕の周りの大学生達はこの位の能力はほとんどの学生が身につけていたと思います。なぜかと言えば、みんなでこういったことを良く話し合っていたからです。当時の僕のすぐそばにいた人間達は、今は旭硝子、武田薬品、全日空、三井住友銀行、日本ガイシ、東大助教授、東工大助教授、と、みんなそれぞれの場所できちんと活躍しています。まぁ、中には僕のようにあっちでフラフラ、こっちでフラフラ、という人間もいますが、基本的に大学できちんと勉強して、将来を考え、そして今は社会に貢献しています。ただ、この中で博士後期課程まで行った人はほとんどいませんが。僕たちの当時の結論は、「博士になってもそれほど意味がない」というものでした。特にバイオ分野においてはこの性質が強いと考えていました。

>それが今の時代の学生にも適用されるというふうに思っているとしたら、現在の研究環境について無知すぎますし、知っていてそう言っているのなら詐欺的行為と言わざるを得ません。

全くその通りだと思います。

>そのことの必要性に気が付いていた人がほとんどいなかったというべきかもしれません。

しかし、僕が大学院生をやっていたころ(1990年代前半)ですら、「博士はつぶしがきかない」というのは常識でしたし、実際僕の大学(東工大)から博士課程に進む人はあまりいませんでした。それは、教授が「進学したらどうだ」と勧めても、です。僕自身も「博士課程で単に労働力として3年間を潰すのは馬鹿らしい」と考えて別の道に進みました。その後、博士の就職環境が一気に好転した、などという話は聞きません。なので、博士が大量生産されたときにそれが余るということが分からないというのは、それはそれでどうかと思います。まぁ、昔の話をほじくり返しても仕方がないのですが。

>これから博士課程に進学する人に対して「自己責任なのだから注意しなさいね」と言うのは正しいことかもしれないと思います

正しいというより、絶対に必要ですね。

>すでに博士をとってしまった人やポスドクの人に向かって「好きで進学したのだろうから、文句をいうな」という議論は必ずしも適切ではないことも多いことがわかると思います。

僕のスタンスは「文句を言うな」というよりは、「文句を言っても仕方がない」です。文科省に「お前達の責任だ」と言ったところで、政府全体がマイナスシーリングの状態で、さらに博士よりも弱者であると考えられている非正社員やフリーター、ニート対策が問題となっているのであれば、余剰博士対策に大量の資源が投入されるとは思えません(もちろん財務省の考え次第ですから、どうなるかはわかりませんが)。

じゃぁ、どうしたら良いのか。ビジネスサイドに立てば、例えば、それだけ博士が余っている、しかも博士に人脈がある、博士の気持ちも分かる、というのなら、「ドクター・バンク」みたいなものを設立して儲ければどうかと考えるわけですね。この手のヘッドハンティングは就職した人の年収の30%を受け取るのが相場ですから、年間10人も企業に紹介すれば人一人は余裕で食べていけます。「誰かやれば儲かるんじゃないの?」と思いますし、誰かやりたい人がいるなら協力は惜しみませんが、「そんな才覚はない」「協力してもらってもやっていける自信はない」というのでは、「はぁ、そうですか」としか言いようがありません。

>Winnerこそが社会のセーフティネットを作る義務を持ったエリートになってもらいたいと思います。

こういう考え方を否定する気は全然ありませんが、そういう人の登場を待っているのもどうかと思います。役所がなんとかしてくれ、勝者がなんとかしてくれ、じゃなくて、自分でなんとかしなくては、と思います。鳥かごの中の小鳥じゃないんですから、「餌をもらえませんでした。だから餓死しました」なんてことになる前に自分で何とかしなくちゃ、じゃないでしょうか。これって、強者の論理でしょうか?仮にそうだとしても、それが資本主義社会だと僕は思いますし、日本はすでにドイツ、フランス、英国などと同様、米国型の市場原理主義に舵を切りつつありますから、たとえ博士であってもその波からは逃れられないと思います。

もちろん、アイデアを出して、そうやって困っている人をなんとかしていけるような会社を作れないか、というビジネスの話であれば、「じゃぁ、協力しましょうか?」ということになるのですが、「国が何とかしろ」「金持ちが何とかしろ」では、先に弱者が行き倒れてしまうと思います。国も金持ちも、フットワークは決して軽くないですから。

とにもかくにも、日本はこれまで看板とか肩書きが大事で、それがあれば何らかの組織に所属できて、その組織の庇護があれば生活は安泰、という社会でした。何か不都合なことがあれば文句を言う、告発する、それによって組織の居心地を良くする社会で、組織から出て行く、という考え方は一般的ではありませんでした。しかし、これからは違います。何か不満があれば組織から出て行くだけですし、それで困るなら組織の側が引き止めるために対策を考えなくてはいけない。もちろん出て行く側は出て行く側で次の組織を探してくるだけの能力を常に身につけていなくてはいけないことになります。「組織に所属し、所属し続ける社会」から、「組織に参加し、組織から出て行く社会」に変容しつつあるわけです。そうしたパラダイムシフトの中で、博士(だけに限りませんが)に何が求められているかは博士自身が考えなくてはならないし、それが今となっては手遅れ、という人は、博士であることにこだわっている場合ではないと、僕は思います。  

2007年08月12日

ブログでバイオ 第28回「学位の価値を過大評価してないか?」

どこからも第27回のパスの受け手が現れないので、勝手にドリブルしちゃいます(笑)。

なんか、最近の博士・ポスドク余剰問題を見ていると、学位の価値を過大評価してんじゃねぇーの?って思うことが多々あります。東大出身とかと一緒で、博士なんていうのも本質的には「3年間教授の言いなりになって、単なる労働力として我慢しました」ぐらいの意味しかないわけで、だから何なの?ということです。

重要なのは、大学院で何をやって、何を身につけて、何ができるのか、ということです。僕は部下として博士取得者を何人も使ってきていますが、別に修士修了と何か変わるわけでもなく、もっと言えば大学を卒業していない人とも大きな違いはなかったりします。博士なんていう肩書きがなくても社会人として貴重な戦力になる人だってもちろんいます。っていうか、僕が知る限りではこちらの方が多いくらいです。

なぜ博士が余っているかって、それは大量生産したからですが、じゃぁ、なぜ博士を大量生産したかといえば、これは僕の勝手な推測だけど、ひとつには「労働力は沢山あったほうが便利」であり、もうひとつには「沢山博士をつくれば、その中に良い博士が含まれる可能性も高い」ってことだと思います。労働力としての博士は多いに越したことはないし(お金を払って働いてくれるんだから(^^;)、有能な博士は決して量が必要なんじゃなくて、クオリティの面での高さが要求されます。極論すれば、ノーベル賞を取ってくれるような博士が一人いれば十分、みたいなことです。ただ、母数が少なければ質の高い博士を発掘できる可能性も低くなっちゃいますから、「じゃぁ、量産しちゃえ」と。で、この作戦は別に間違ってないんじゃないかと思います。

ただ、「博士になれば将来は安泰」みたいに嘘の情報を流していたなら問題だと思います。そのあたりは僕は良くわかりません。僕たちの世代は、「博士課程なんか行ったらつぶしがきかなくなって就職で苦労する」っていうのが常識でしたが、今はどうなんでしょうか?でもまぁ、僕が卒業したあとぐらいから「博士は夢の商売」みたいな宣伝があったのかもしれませんね。

要は椅子取りゲームであって、椅子の数には限りがあるわけです。それを争う人間を増やせば、当然勝ち残るのは難しくなるわけで、博士が余るのなんて当然の話です。入口を狭めるか、出口を狭めるか、という話だから。ただ、あんまり余らせちゃうとそれはそれで社会問題化しかねないので、余った博士の受け皿としてポスドクを用意してみた、みたいなことでしょう。

でも、博士にしても、ポスドクにしても、使える奴は使えるし、使えない奴は使えない。これは社会の問題じゃなくて、本人の問題です。そもそも高校以上の勉強なんていうのは非常に個人的なもの(中学生までの勉強は、有権者として選挙に一票を投じる人間としてふさわしいだけの知識を与えるための、公的な性質が強い)で、本来人に言われてやるものではありません。じゃぁ、その勉強の目的は何なのかって、それも人それぞれだけど、根源的には「自分が生きていくために必要なことを身につけること」だと思います。その目的に沿った勉強をきちんとしたんなら、普通は食べていけるはずです。食べていけないなら、最初に設定した目的が間違っていたということで、完全に個人の問題です。で、残念ながらその設定を間違っちゃった人は、食べていくためにそれはそれで一所懸命頑張らなくちゃいけないわけで、その時には「博士」なんていう肩書きはないのと一緒です。

「やりたいことをやれる研究者になりたい」という夢はもちろんありだけど、プロ野球選手になりたくてプロになれない人が山ほどいるのと一緒で、当然リスクがあります。やりたい研究をやって食べていくためには、研究のプロとして相応の実力を身につける必要があるわけです。実力不足なら目標を諦めて、他のことをやるしかない。

うちの会社とか、うちの会社のまわりのバイオ系のベンチャーとか、優秀な人間にならいつでも門戸を開いているわけで、「いつでもどうぞ」です。でも、少なくともここ数年は学位を持った就職希望者は一人も来ていません。「博士なんだから、もっとそれにふさわしい仕事をしたい」のかもしれません。でも、「ただ博士なだけ」の人間は、社会から見れば「ただ3年間我慢しただけ」の価値しかないわけです。それは勉強が嫌いな中学生が、「でも、みんなが通っているから」って高校に3年間通うのとあんまり変わりがないです。

まずそのあたりに立ってみないと、つまり、「博士そのもの」の価値をきちんとすり合わせた上で考えてみないと、博士にしてもポスドクにしても、いつまで経っても余剰問題は解決しないんじゃないでしょうか?学位の価値を過小評価していますか?

まぁ、このあたりはリレーエッセイの第一回で取り上げたことなので、半分以上が繰り返しなのですが(^^;  

2007年06月22日

リンク集キター!

作らなくちゃ、と思っていたブログでバイオの過去アーカイブリンク集、作ってくれた方がいました〜 ラッキー。

ということで、過去のエントリーをまとめて読みたい方はこちらからどうぞ!!!

幻影随想さん バイオ リレーエッセイ

ということで、僕は作るのやめておきます(爆)  

2007年06月21日

ブログでバイオ 第27回「バイオ人材のキャリアパスを考えるためのウェブサイト、どうでしょう?」

「ブログでバイオ」に新しい方々が次々と参入してきてくれました。そろそろ僕も書いておかないと、フォローするのが大変になりそうです(笑)。さて、それぞれのパスに応えていきたいと思います。

まず、5号館のつぶやきさんの22回「場外から乱入: 大学院生やポスドクたちは社長になりたいのか?」というエントリーについて。

ほとんどすべての大学院生・ポスドクが研究者指向である


僕はこの現状にこそ問題があると思っています。「研究者」という言葉の定義の問題もあるのですが(たとえばテクニカルスタッフは研究者なのか、といったところについて明確にしておかないと、議論が食い違う可能性があります)、研究者を「実験をやることによって食い扶持を確保する人」ぐらいに、あえて幅広く定義したとしても、この進路はあまりにも狭いと思います。

僕が学生だった頃は理科系の学生の文系就職が盛んで、僕の先輩達の中にも大学院を出て証券会社や都市銀行に就職した人がたくさんいました。その人たちが学生だった頃の知識や考え方をその後の職場で活用できたのかどうかはさっぱりわからないのですが、僕の場合は「大学院までで身につけた専門知識をきちんと活用していきたい」ということを明確にしつつ、三菱総研という文系会社に就職しました。そのときベースにあったことは、「人と同じことはやりたくない」ということでした。人と同じことをやっていれば、競争相手も増えます。自分の個性を打ち出すのも大変です。そんなところで働くよりも、自分の得意なところを活かせて、しかもライバルが少ないところ、と考えて就職活動をしました。

ちなみに三菱総研の他に就職試験を受けたのは博報堂でした。博報堂は「絶対に落ちることはない」と言われていた重役面接で落ちました。理由はわかりませんが、僕が面接で主張したことは、「もうすでに大量生産大量消費の時代は終わった。そして、その時代の負の遺産として公害が残っている。これまで大量生産大量消費を煽ってきた広告代理店は、今後、その負の遺産を回収していく義務があるはずだ。具体的には、環境問題に積極的に携わっていく必要がある。その際、僕のバイオテクノロジーに関する知識は必ず役に立つはずだ」というようなことでした。

仮にそこで博報堂に受かっていれば僕の人生は全く違ったものになっていたと思いますが、それでも何らかの「人と違った生き方」はしていたと思います。

僕が思うのは、まず「自分が思い描いているような研究者になれる可能性は非常に低い」という現実を大学生、大学院生が理解することだと思います。その上で、大学、大学院で何を身につけておかなくてはならないのか、これを考える必要があるのではないでしょうか。僕も大学の講師をしていますので、生の大学生と話をする機会がありますが、彼らを見ていて思うのは、「とても不幸な大学生活を送っている」ということです。自分が置かれている現実を全く理解しておらず、何をしたら良いのかもわかっていません。以前は「大学卒業」という看板だけで生きていける時代でしたが、今は全く違います。そういったことを大学に入学してすぐにでも教え込む必要があると思うのですが、それが実施されている印象は受けません。そして、目先が利くごくわずかの学生だけがそれに気がついて、「勝ち組」になっているわけです。

ここまでは研究者サイドからの問題を考えてみましたが、日本においては同時に人材マーケット的なスタンスからも問題があります。最初にテクニカルスタッフが研究者なのか、ということを書きましたが、僕はテクニカルスタッフというのは研究者ではないと思っています。テクニカルスタッフとはあくまでも技術者です。しかし、その技術者がいなければ研究は成り立ちません。そして、研究者がそれに時間を割いてしまったら、決定的に時間が失われます。いまや研究において一番大事なのは時間ですから、そこにお金を投入するのは当たり前です。喩えていえば「送りバントの川相に大金を払う」ということですが、こうした風土が日本にはありません。その根には「研究者はかくあるべし」というステレオタイプ的固定観念があって、それ以外は負け組、という風に考えてしまう環境があるのだと思います。

理研にいたとき、榊さん(当時プロジェクトディレクター、現在ゲノム科学総合研究センター長)は「テクニシャンがいるからこそ研究が進む」としてテクニカルスタッフを非常に高く評価していました。そして論文には大量のテクニカルスタッフと一緒に撮影した写真を掲載したりもしていました。しかし、金銭的な評価はこれとは別です。どんなに優れたテクニカルスタッフでも、金銭的には明確に研究者よりも評価が下でした。念のために言っておきますが、もちろんこれは榊さんが悪いのではありません。テクニカルスタッフとはこういうもの、という固定観念が日本には存在しているからです。それを作っているのは研究者です。

日本の公務員制度では、中央省庁でも事務官が技官に対して優位です。なぜそうなのかと言えば、ルールを事務官が作っているからです。同じように、日本では研究者が「研究者>テクニカルスタッフ」という偏見をつくりあげていると思います。なぜか。研究者を志望する大学生、大学院生には「研究者になることが勝ち組」という価値観しか与えられていないからじゃないでしょうか。本来、研究者とテクニカルスタッフというのは誰かが上下を決めるのではなく、市場が決めるべきだと思うのですが、日本ではそうなっていません。

キャリアセンターで提示しているオルターナティブは「研究の放棄」であるように思え、そのギャップの大きさが彼らを立ちすくませてしまっている


僕はキャリアセンターの提示内容を見ていないのでなんともいえないのですが、大学、大学院を出た人間の将来は決してオルターナティブなものではないと思っています。ただ、一方でオルターナティブではない選択肢を選ぶことができるのは、そういう目的意識を持って大学、大学院生活を送ってきた人間が中心だと思います。突然「え?そうだったの?」と思ってしまう人には、恐らくたくさんの選択肢は残されていないでしょう。

つづいて丸さんの23回「理系の院生のキャリアの選択肢は狭いのか?」について。

起業家であって経営者でない人はたくさんいます。


僕はバイオベンチャーの社長は二代目の雇われ社長でした。ですから、間違いなくこのときは経営者だったと思うのですが、しかし創業2年目ぐらいの会社でしたから、起業家の要素も多少あったのかな、と思います。一方で今の会社は自分で立ち上げましたから、こちらでは起業家でした。起業家でしたが、もう経営者だよな、とも思います。起業家と経営者の違いが正直僕には良くわかりません(^^;

疑問に思うのは、こういったマインド・考えかたをいつもったのか?ってことでしょう。これは小学校くらいからいろいろ刺激を受けないといけない気がしています。


刺激を受ける、受けないは良くわからないのですが、育った環境などは大きな影響を及ぼすと思います。上にも書きましたが、僕はとにかく子どもの頃から「人と違うことをしたい」と強く思う人間でした。今僕は中日ファンですが、そういう話題になると、大抵の場合、同席者は「なぜ横浜生まれ、横浜育ちの元木さんが中日ファンなんですか?」と質問します。「長くなりますけど、聞きたいですか?」と前置きして説明するのですが、ここでも一つのエピソードとして紹介しておきます。当時川崎がフランチャイズだった大洋ホエールズが横浜に本拠地を移転したとき(僕は小学生でしたが)、学校の非常に多くの人たちが横浜大洋ホエールズのファンになり、青地にWの野球帽をかぶったんです。それまで大洋のファンなんてほとんどいなかったので、担任の先生が驚いて、「みんながどこを応援しているのか、アンケートを取ってみよう」といって調べたんですね。その結果、まぁ読売と横浜大洋のファンが凄く多かったんですが、中日のファンだけが一人もいなかったんです。それで、「じゃぁ、僕が今日から中日ファンになります」と宣言して、それからは中日一筋なわけです。

僕がなぜそういう性格になったのかはわかりませんが、小学校の通信簿には常に「協調性がない」と書かれていました。まぁ、人と一緒であることを嫌がる人間ですから、協調性がないと評価されても仕方ないかも知れません。「和を以って貴しと為す」という日本1400年の基本原則からはちょっと違うベクトルで生きてきていると思います。

#別にみんなと楽しく過ごすのが嫌いというわけではないですが(笑)

僕が想像するに、多くの日本人は人と同じであることに安心するんだと思います。常に周り近所を意識し、他の人と同じ行動を取り、なるべく周囲から浮かないようにして生活しているんじゃないでしょうか。僕はそのあたりが全く逆なんですね。いかに人と違うのか。ここに自分の価値を見出したいと思って生きてきました。僕は6歳のときに父親が死んでいて、以後、母一人子一人という状態で育ってきました。一人で過ごす時間も多かったのですが、家族以外の大人たちに囲まれて暮らす時間もとても多かったのです。そういう大人に混じった生活環境の中で「自分の存在を意識してもらうには、人とは違う自分を見せなくてはならない」という考え方が徐々に形成されていったのかも知れません。

僕が起業したきっかけは「研究をもっと推進したいから」でした。


つまり、「今、目の前にある環境を良しとして、それを受け入れるだけで満足できる」のか、それとも「理想を追求して、その理想の実現のために努力する」のか、というところが、普通の研究者と丸さんの異なる部分なんでしょう。今までの日本人は、「自分で環境を作ってしまう」という選択肢の存在すら知らなかったはずです。それをやってしまった丸さんは素晴らしいと思いますが、一方で現状を見ればすでに丸さんが作った道があるわけですから、「自分で環境を作ってしまう」という選択肢があることは誰もが目にしているわけです。やれるかどうかすらわからない状況から、やってやれないことはないというのが示された状況に変わったわけで、難易度は大幅に下がっているわけです。ですから、「私もやってみよう」と思う人が出てきても良いのにな、と思います。

次に、5号館のつぶやきさんの「maruさん第23回へのコメント」というエントリーについてです。これは23回の傍流ということにしておきます。

そうした「できるヤツ」が起業しようとおもったり、社長になろうと思ったりしにくい「風土」(さまざまな環境)に問題があるのだろう


そもそも社長は会社の数だけしかいませんから、誰でもできるわけではありません。なので、たとえば教室に生徒が100人いて、その中の50人が「社長をやりたい」と言い出してしまうとそれはそれで困るのですが、確かに「社長をやりたい」と思う人は少ないのが現状でしょう。下手をしたら100人の教室で一人も手を挙げないかもしれません。しかし、現状は、自分の今後の選択肢の一つとして「社長」というものが存在していることすら認識していないんだと思います。このあたりは教育の問題でもあると思います。ただ、そういう選択肢があるということは我々がこうやってリレーエッセイを展開している中で多くの学生、研究者に提示できるはずです。また、「今後の選択肢の一つとして起業というのも考えたいのだけれど、じゃぁ、どうしたら良いんだろう」という人たちに対しても、一定の指針を示していけると思います。

大学院にはいったからといって「研究者にしかなれない体」になってしまうのではなく、さまざまなスキルを身につけ、それを活用したたくさんのキャリアがあるのだという実例が入学直後から提示されていればずいぶん状況は違ってくると思っています。


全面的に同意します。

それこそ研究しかできないスタッフが大学には多すぎて、そう簡単ではなさそうです。でも、maruさんたちを始めとした外からの力も借りて「できるヤツ博士」を作っていければいいな、と思っています。


僕もすでに「バイオベンチャー」という講義を吉備国際大学でやっていますから、それを他のところでやるのは全然構いません。テキストらしきものも存在します。まぁ、やって欲しいと考える大学があれば、ですけれど(笑)。僕が大学院などについて強く感じるのは、指導教官が学生を労働力として見ているということです。この傾向は生物学がデータドリブンと言われる学問になって以後、とても強まっていると思います。そういう状況において、貴重な労働力に余計な知恵をつけさせるようなことを大学の先生達が歓迎するのかどうか、少々疑問に思わないでもないです。

さてさて、次は「Science Communication Blog」さんの24回「理系のキャリア再考」です。

研究者としてのポストは限られる中で,研究者以外のキャリアパスとしてどのようなものが考えられるかということでさまざまな方に講演していただきました.


こういう活動は非常に有意義だと思います。できれば大学教育の早い時期にやっておくべきだと思います。僕などは研究者から見れば「途中で研究に挫折した敗北者」かも知れませんが、普通の研究者に比べればずっと楽しい人生を送っていると思います。研究者という成功キャリアパスを目指し、そこから落ちこぼれて挫折感を味わうのではなく、研究者という選択肢を捨てる、という生き方があり、そしてそれは決して不幸なものではないということをきちんと教えるべきです。

続いて、「ハーバード大学医学部留学・独立日記」さんの「理系のキャリアの選択肢が狭いことは悪いことか」というエントリーについて。これは25回にしちゃいましょう(タイトルを変更できる場合は加筆していただければ幸いです)。

理系のキャリアの選択肢が狭いことは本当に悪いことか?


学生(研究者)サイドからは選択肢が狭いことは良いことかもしれませんが(別に同意するわけではありませんが)、現実問題として社会のニーズがある以上、総体としては問題であるというのが僕の考えです。

すでに日本のバイオは「社長人材がいない」「役人に本当の専門家がいない」「弁護士や会計士に生物の専門家がいない」という状態になっていて、機能しなくなりつつあります。社長人材の枯渇は僕自身深刻な問題として頭を悩ませていますし、役人に本当の専門家がいないことについても大分前に朝日新聞に投稿しました。日本(理研)の窓口として理研の保有するマウス完全長cDNAライブラリの利用に関する交渉を行ったとき、相手のNIHは弁護士でかつ工学博士である人材を派遣してきました。日本最大の会計士事務所のある会計士は名刺に「修士」と印刷していて、あとで大笑いしてしまったことがあるのですが(僕の長い人生において、名刺に「修士」と記載している人は後にも先にもその人だけです)、これが日本の現状です。

研究者にとって良い、悪い、ではなく、社会のニーズがあるのに、それに対応できるような体制になっていないことが問題だと思います。

また、上のほうにも書きましたが、大学生、大学院生に対して「研究者になることが唯一無二の到達点である」と誤解させてしまうことによって、日本の研究環境自体が硬直化してしまっているというのが僕の考えです。本当は多様なキャリアパスがあるのに、それを知らされず、かといって研究者として生き残るには当然のように競争があり、その競争に負けてしまったポスドクたちはその夢が破れたところで途方に暮れる、というのでは困ってしまいます。そして、実際にそういう状況になりつつあるのではないでしょうか。

次に「Jun Seita's Web」さんの「ベンチャーはオルタナティブか?」というエントリー。これは26回ということで(25回同様、加筆できる場合は26回としていただければ幸いです)。

日本ではベンチャーの定義が曖昧なのではないだろうか?


役人時代の僕がこのあたりをどう定義したらよいのかを考え、統計をどうしたらいいのかを決めた張本人です。以下、簡単に書くと、日本においての「バイオ」はJISで定義されたバイオ(JIS K 3600:2000)であり、ベンチャーとは「中小企業基本法による中小企業の定義のうち、従業員数に関する条件に当てはまるもので、設立から20年未満のもの、そして研究開発、受託研究サービス、製造、先端科学関連コンサルティング等を主たる業務とするもの」というのが大枠です。欧米におけるBiotech Companies(Start Ups、Small and Medium Enterprises)とは若干異なります。

適切なプロ人材(専門バカ)を投入出来る体制がシリコンバレーの強み。


そして、それが全く出来ないことが日本のバイオの決定的な弱みなんです。

実験の技術に自信のある研究者は、研究員またはテクニシャンとして、どんどん買われて行く。
(一部こちらで改変)

こういうマーケットが日本にはあまり存在しないのではないでしょうか。

僕は経産省時代、バイオベンチャーそのものと同時にバイオクラスターについても調べていました。当時の疑問は、「日本においてはクラスター化が必要なのだろうか」ということでした。日本のような狭い国土で、また住宅供給が十分な状態であれば、例えば長浜からつくばに研究のために引っ越すというのはそれほど負担ではないし、情報交換はネットで行えば良いのだから、必ずしもクラスター化されている必要はないのではないかと考えたのです。そして、当時は僕のこの疑問に対して明確な回答を提示できる専門家はいませんでした。しかし、今になって考えてみると、やはりクラスター化は必要だと思います。なぜ必要なのか。それは、活発な人材の新陳代謝を実現するためです。当時の日本にはこの「活発な人材の新陳代謝」が存在せず、そしてそれを強く希求し、リーダーシップを取って動く人間もいませんでした。そして、そろそろそれは変えて行かなくてはならないと思います。クラスター化が必要なのではなく、クラスター化が必要とされる環境を作っていくところからはじめなくてはいけないということです。凄く大変そうですが、でもこれをやらなければ日本はもう駄目なんじゃないかと思います。

まずは大学の研究室で働くテクニシャンの給料を、そのテクニックに応じて支払える仕組みを確立する必要があると思う。ちなみにスタンフォードでは、腕のいいテクニシャンはバイオベンチャーと取り合いになるので、「好きな研究」をやっている研究者よりも断然給料がいい。


日本においてはテクニカルスタッフの立場はまだまだ低いですね。雇う側はそれで良いと思っているでしょうし、雇われる側もそれで良いと思っていると思います。

さて、レスがようやく終わりました(^^; 一連のレスをつけて感じたのは、

1.大学時代に、きちんと理系(あるいはバイオ)人材のキャリアパスについて教育する
2.特に「研究者」としてやっていける人は非常に少なく、競争が激しいという現実を理解させる
3.多様なキャリアパスを選択できるような知識を身につけられるようなカリキュラムを策定する

ぐらいが必要なんじゃないかということです。1や2については別に大学に頼る必要はないですね。WIKIなどを使ってみんなで作り上げていくという手もあると思います。もし賛同者が数名でもいて、しかも実際に手を動かすことができるということであれば、そういうサイトを作成する方向で動いてみたいと思いますが、いかがですか?

(慌てて書いたため、乱文です。徐々に直します。また、リンクやトラックバックも徐々に対応します。とにかく、どんどんパスが回っているので、さっさとアップしちゃいます(汗)こちらについてもあまりにも混沌とすると大変なので、背後で「○日ぐらいまでに記事をアップしますよー」みたいな情報交換は必要かも知れません。そういった意思表示ができるような仕組みについても考えてみたいと思います)  

2007年06月16日

帰ってきたブログでバイオ 第21回 「社長に求められるもの」

丸さんから最後のパスを出してもらったのが去年の7月13日。ということは、11ヶ月もご無沙汰です。なぜストップしていたかと言うと、20回で一区切りとして打ち切りを決めたからです、というのは嘘で、僕のモチベーションが著しく低下したからです(^^;

なぜ低下したのかというと話せば長いのですが、要は役人とか財団の人間とかが片手間でバイオの支援をやっているなか、我々数名の仲間で一生懸命バイオを盛り上げようとしているのがどうにも道化っぽく見えてしまって、「なんか、馬鹿らしいな」とテンションが落ちていました。

実は21回の文章はすでに書いてあったのですが、そのまま没にしてしまいました。

その後、さらに色々あったのですが、ここ数ヶ月、中村桂子さんの新聞ネタ絡みで色々とバイオ関連のブログを読んだりして、「まだ、もうちょっとやってみるかな?」と思いました。なので、リハビリを兼ねつつ、もう一度ぜんまいを巻いてみようと思います。まぁ、その間充電していたわけではなく、どちらかというと放電していた人間なので、以前のようなテンションはないかもしれませんが、よろしくお願いします。また、丸さんも色々忙しくなっているようですから、新しいリレーメンバーも募集しようと思います。今回の件でコメントしたりトラックバックしたりしたブロガーの皆さん、是非ご参加ください。
#これまで二人でパス交換してきましたが、いつでもインターセプトオッケーですし、過去のエントリーについてでも構いません(^^

なお、我々の全20回のリレーエッセイは全てこちらでチェックできます。

丸編

ブウ編

どこかにアーカイブリンク集を作った方が良さそうですね。あとで作ってみます。とりあえず、第20回はこちらです。
ブログでバイオ リレーエッセイ 第20回「若者がチャレンジできる土壌を!」

さて、前置きはこの辺で、丸さんのパス出しに対して応えたいと思います。

人材育成システムを作るためにはある程度のスキルスタンダードが必要だと思います。ブウさんはどういったものを考えていますか?社長人材のスキルスタンダードとはどういったものでしょうか?教えてください!


社長人材に何が求められるのか。これは大きなことから小さなことまで色々ですが、思いつくままに書いてみます。ちなみにこれはバイオに限ったことではありませんが、学生社長ぐらいの、若い人材を念頭において書いてみます。

1.会社というものに対する常識的な知識がある
2.社長の責任を理解している
3.絶対にやり遂げるという強い意志を持っている
4.精神的に強い
5.頭が良い
6.日本語が書ける
7.社会人として普通
8.仲間、友達が多い

まずはこんなところでしょうか。

会社とは誰のものなのか、株主とはなんなのか、リスクマネーとは何なのか、取締役会の役割はなんなのか、その中で代表取締役がやらなくてはならないことは何なのか・・・・書き始めたらきりがないのですが、会社をやる以上、会社がなんなのか、この位は理解しておく必要があると思います。

次に、社長が何を背負っていかなくてはならないのかを知っていること。これも重要です。このあたりは先日僕が紹介した、木村剛さんの「頭が良い人は親指が太い」という本がなかなか参考になると思います。

当該エントリーはこちら

社長がやるべきことを正確に理解していないと、会社はすぐに潰れてしまいます。潰れてしまうことが社長の責任であると理解し、さらに社長は誰に言い訳することも出来ないという点を肌で感じている必要があると思います。

補足が必要なのは「頭が良い」という部分ですが、これは試験で点数が取れるとか、良い大学を出ているとか、そういうことではありません。はじめて社長をやる場合、当然わからないことばかりのはずです。本で勉強できることももちろんたくさんありますが、同時に経験でしか身につかないことも山ほどあります。日々の活動が全て勉強、という状態の中で、効率的にスキルをアップさせていく必要があります。このときに重要になるのが頭の良さです。一つの事象から10も20の経験値をアップさせることができれば、あっという間に成長することができるはずです。一方で、一つの事象から一つのことしか勉強できない、というのでは成長は亀の歩みになります。例えば、タバコの火の不始末から火事になったとします。これによって、「火全般には注意が必要だ」「同時に燃えやすいものを家の中においておくのも良くない」「万が一のために、近所の人に声かけをしておこう」「消防署は短縮ダイヤルに入れておこう」などと考えられることが必要で、「タバコの火は確実に消すようにしよう」と思うだけの人では駄目、ということです。そのためには何が必要かというと、想像力、応用力だと思います。「頭が良い」という言葉にすると上にあげた木村剛さんの本の内容と一致しないのですが、その本の中では「頭が強い」と表現されていることと方向的には同じではないかと思います。

また、日本語が書けるというのも重要です。今はこうやってどんどん情報を発信できる時代ですが、その手段となるのは当然ながら「言語」です。これが書けない人間が本当に多いんですね。当たり前すぎて見落としがちですが、このあたりはきちんと見ておく必要があります。

さらに、社会人として普通であること。挨拶ができるとか、何か言われたら返事をするとか、時間を守れるとか、そんなことです。これも当たり前の話なんですが、これすらできない人間が多いのが実情だったりします。

そして、一番最後の「友達が多い」。これも恐らくは重要だと思います。社長業は孤独です。最終的には取締役ですら自分を助けてくれないかもしれません。そんな中で孤軍奮闘していくことは精神的に非常にきつい部分があります。そんな苦しい中で、相談に乗ってくれる人間が周囲にいること。これも重要だと思います。

最後に非常に感覚的なことを書きます。ここ数年、色々な人と話をしたり、また就職面接をしたりしていて、「できる奴」と「できない奴」というのは大体顔を合わせて話をするだけで区別がつくようになってきました。その感覚を文字にするのは非常に難しいのですが、無理やり書くと「内面からにじみ出る自信」でしょうか。

どんなもんでしょうか?何か削るべき点、付け加えるべき点などあればご指摘ください(^^  

2006年06月03日

ブログでバイオ リレーエッセイ 第19回「ベンチャーは若者のもの」

このリレーエッセイも大分長くやっているおかげで、そろそろ「読んでますよ」とか「楽しみにしてます」といったメールをもらえるようになってきました。反響があるというのはなかなかうれしいものです。さて、前回のエントリーはこちら。

ブログでバイオ リレーエッセイ 第18回「食品系バイオベンチャーは救世主?!」  続きを読む

2006年05月20日

ブログでバイオ リレーエッセイ 第17回「食品系バイオベンチャー」

前回のエントリーはこちらです。

20代バイオベンチャー社長の会社経営奮闘記「ブログでバイオ リレーエッセイ 第16回「SNSを利用した研究会」

さて、まずはmaruさんのエントリーについて。


僕がやりたいもの
・バイオエネルギー研究会
・微生物農薬研究会
・機能性食品(トクホ)に関する研究会
・バイオテクノロジーを用いた循環型農業に関する研究会
・研究室のハラスメントに関する研究会
・大学の研究者の実態調査研究会
・博士課程のキャリアに関する研究会


なるほど。特に下の2つなどはSNSを使えば簡単だよ、というものですね。ハラスメントみたいなのになるとJapan Bio Netの非匿名性がネックになりそうです。でも、どのアイデアも面白いので、引き続きJBNの中で検討しましょう(^^ トピックスは作っておきました。

首都圏バイオ:研究会「何をやる?次の研究会」(非会員は閲覧できません)

さて、パスだしですが、やはりSNS内で研究会を発足するためには研究会を動かしていく人材の発掘が必要不可欠ですが、ぶうさんはなにか考えている方法はありますでしょうか?あったら教えてください!


JBNが学生さんの間に浸透していけば、自然に人材は発掘されていくんじゃないかな、と思っています。そのためにはまずJBNがそれなりの存在感を示さなくてはならないと思っています。「色々と意見を言えるらしい」「キーパーソンが集まっているらしい」「就職にも役立つらしい」なんていうことになってくれば、自然に人は増えるんじゃないでしょうか。

しかし、その一方できちんと人材発掘する努力も必要なはず。以前、smipsの隅藏さんにsmipsのMLをそのままJBNに移転することを提案したことがあるのですが、当時はまだ時期尚早との返事でした。また多少は状況が変わったかもしれませんね。あるいはトップダウン方式ではなく、ボトムアップ方式でまずsmipsのメンバーにJBNを浸透させていくという手もあるかもしれません。今、誰がいるのかな、と思ってJBNのSmipsコミュニティの人数を見たらたった6人(^^; このあたりから始めるのも手かもしれません。

それから、僕が色々なSNSを運用してみて感じるのは、SNSに対しての感受性が年齢層によって大きく異なるということです。すっと入ってくることができるのは20代まで。もちろん例外はありますが、40以上になってしまうとほとんど絶望的です。ほとんどの人が「MLで十分じゃん」「なんか2ちゃんねるみたいで嫌」「面倒くさい」・・・などなどの反応を示します。これはCDが出てきた頃のアナログ愛聴者の反応に似ている気がしますが、個人の嗜好の問題なのでなかなか口出しし難いところがあります。ということで、若い人を中心にしてまずは裾野を広げていくことが必要かな、と思っています。

さて、かなり長くJBNネタで引っ張ってきましたが、そろそろ違う話にしてみましょう。

5月9日、ファーマフーズという食品系バイオベンチャーが東証マザーズへの上場承認を得ました。正直なところ、僕は今後上場できるバイオベンチャーはほんの一握りの医薬系ベンチャーだけだと思っていましたが、食品系の会社が承認を得たのでかなりびっくりしました。確かに商品もあるし、売り上げも立っているわけですが、この手の会社が継続的に企業拡大を続けていくのは相当に難しく、公開しても株主の期待には応えにくいんじゃないかと思っていたわけです。去年のエフェクター細胞研究所の株式公開以降、完全に冷え切ってしまったバイオベンチャー株式市場の中では逆風も相当強かったはずです。そんな中で頑張っているファーマフーズにはエールを送りたいのですが、ブログはもう2ヶ月以上放ったらかし(^^; しかもfc2をサイトの中に入れちゃってる(^^; って、これはIT屋さんとしての突っ込みですが(^^; ちょっと心配でもあります(^^;

僕は役人時代、「日本には技術はある」と根拠もなく言い続けてきてしまいました。そして、ほとんど誰も、この考えには疑問を呈しませんでした。確かに過去には技術はあったんだと思います。しかし、今、本当にあるのかと聞かれると、かなり疑問です。国際競争力の点でほとんど唯一とも言えるRNAiが捏造疑惑で沈みつつある中、バイオの先行きは苦しいな、というのが個人的な認識です。特に医薬品系は厳しいと思っています(すべてが駄目というわけではありませんが)。そうした中で、ファーマフーズのような食品系の会社がこのレベルまで成長したというのは、久しぶりに明るいニュースだと思います。

しかし、一方で食品系のベンチャーには難しい点もたくさんあります。たとえば機能性食品には特定保健用食品、健康補助食品、栄養機能食品、特別用途食品、そして健康食品と、さまざまな種類があるわけですが、米国制度との整合性問題や、業界団体からの圧力などによって非常に複雑な制度になっています。おかげで消費者には何がなんだかわからないし、昼のワイドショーや「あるある」などでいい加減な内容を放送しているおかげで常に胡散臭さが付きまといます。

こんな状況の中で、本当に力のある食品系ベンチャーが力を発揮していくためには、一体何が必要だと思いますか?

#話は全然変わりますが、もう17回になったこのリレーエッセイですが、ここへの新規参入があっても良いかなぁ、と思います。今の対話形式の方が取り回しは楽ですが、人数が増えてもなんとかやっていけるんじゃないかな、と思います。ブログを持っているということが最低条件ですが、誰か新しい人を誘ってみましょうか(^^  

2006年05月01日

ブログでバイオ リレーエッセイ 第15回「RNA医薬研究会の成果」

丸さんから「Japan Bio Netの研究会のアウトプットはどうするのか?」とパスを受けたが4月10日で、それからもう一ヶ月近く経ってしまいました。なぜこんなに時間が経ってしまったのかというと、どういう形で情報発信をしていくかを検討するのに時間がかかってしまったからです。これにはちょっと前のはやり言葉で言うと「想定外」なことがあったのが原因です。ということで、ようやくパスが出せる状態になりました。関連エントリーは下記になります。

ブログでバイオ リレーエッセイ 第11回「JBNへの期待」
ブログでバイオ リレーエッセイ 第12回「JBNへの期待2」
ブログでバイオ リレーエッセイ 第13回「JBNへの期待3」
ブログでバイオ リレーエッセイ 第14回「JBNへの期待4」

また、Japan Bio Netはこちら。Japan Bio Netの公式ブログはこちら

#入会希望者はこのエントリーにメールアドレスをコメントしてください。コメントは非公開設定になっていますので、僕が操作を間違わない限り一般には公開されません。

ということで、本文は追記に。  続きを読む