2013年10月01日

Twitter後のネット社会番外編 その17 「あまちゃん」はテレビとネットの融合に成功した事例

あまちゃんはTwitterにフィットしたドラマだった。というか、Twitter世代を意識して、ああいう作りにしたのだろう。どこがといえば、コネタを大量に盛り込んだ点だ。この手法自体は別に珍しくもなく、例えばつい先日電子書籍化された僕の「総統閣下はお怒りです」などもこの類のコンテンツである(ステマ)。



この本、Amazonのレビューを読むと「ただガンダムが好きなだけ」と評されていたりするのだけれど、実際にはガンダム以外にも、エヴァやら、銀英伝やら、AKIRAやら、スター・ウォーズやウルトラマンシリーズまで、様々な作品のパロディを盛り込んでいるのだけれど、読む人がガンダムしか知らなければ、それらはそのままスルーされてしまう。結果として、ガンダムだけが残るので、「ガンダムのパロディ本」などというトンチンカンな評価を下されてしまう。

ネタバレの事例はこちら参照:総統閣下はお怒りです 「500円で突っ走れ!」 のネタバレ
http://buu.blog.jp/archives/51349760.html

あまちゃんも、作りとしては同じだ。しかし、同時に大勢の人間が視聴しているという点で、圧倒的に特徴的だった。おかげで、大勢の人間が、自分が気が付いた小ネタについてつぶやくという現象が生まれた。何の説明もなく、額ににげんこつをあてて「どうもすいません」と小泉今日子が喋ったりするので、それを見てネタに気が付いた人が「あーーーっ」などと書くわけである。ドラマに興味がなかった人も、なんだ、なんだ、ということになる。そして、その環に入りたいと思う人も少なくなかったはずだ。

この様子を見ていて、あぁ、日本人のマインドと、Twitterという仕組みを上手に利用しているなぁ、と思っていた。日本人のマインドとは、他者と同化したがる、というアレである。僕などはあまのじゃくなので、他人と同じ感想を持つというのはどちらかと言えば恥ずかしく感じるし、誰かが同じ意見を表明していたら、「そうだ、そうだ」と同調するのも個性がなくていかがなものかと思ってしまうのだが、大多数の日本人はそうではない。だから、自分と同じ意見を見つけては喜び、同感するとそれを一人でも多くの人と共有したいと考えて、公式RT(他人のコメントを自分のフォロワーにそのまま転送すること)する。

「テレビとネットの融合」というのは古くから言われているのだが、テレビとネットでの議論は成立しない。「どうやったらテレビとネットを上手に融合し、相乗効果を生み出すことができますか?」という問に対しては、「ネットに対してテレビがネタを提供すること」が、模範解答なのだろう。そして、その答にいち早く気がついたという点で、「あまちゃん」は見事だったと思う。

ただ、僕はやはりラスト一ヶ月はあまり好きになれなかった。明日、地震が起きる、という時点で終了していたら、と思う。

関連エントリー
その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

その2「自分ができることをやる」

その3「ポジティブ情報も生き残れないTwitter」

その4 ツイッターでの議論はソーシャルリンチにつながります(草稿)

その5 自分にとってのカリスマ

その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」

その9 自治体までFacebook

その10 芦田宏直氏の講義の事例

その11 Twitter微分論について

その12 地獄への道は善意で敷き詰められている

その13 来る前に終わったFacebookの時代

その14 Facebookの行政利用って、本当にうまくいくの?

その15 Facebookの怖い話

その16 Facebookは馬鹿のインキュベーターである


  

Posted by buu2 at 20:11Comments(0)TrackBack(0)テレビ番組

編集

2013年08月15日

Twitter後のネット社会番外編 その16 Facebookは馬鹿のインキュベーターである

先日、ある飲み会で友人から「KはどうしてFacebookであんな馬鹿なことばかり書いているのだろう」と言われた。Kは私たちの共通の知り合いだが、この話がでる数か月前に、私はKからFacebook上の「友達」から外されていたので、最近のKの書き込み内容を知らない。ただ、おおよその内容は察しがついたので、その理由を説明してみた。この文章はそのときの概要をまとめたものである。

Kは私よりも大分年下の男性で、もともとは損保会社に就職していた。同業の彼の父親と私が別件で繋がりがあり、私はその父親との関係がきっかけで彼と知り合った。一度、私の家で開いたホームパーティに彼を招待したことがあったのだが、その席上で彼は「仕事がつまらないので辞めたい」という話を出した。その場にちょうどある独立行政法人△△(当時は特殊法人)の人事部の人間がいたので、私とその知人の二人で、「△△は所詮中央官庁の予算消化組織で、研究者の質は高くても、事務組織はお粗末なものだ。しかし、何か実現したいことがあるとか、野望があるとかではなく、また「税金泥棒」と言われ続けても平気なら、安定性は抜群だし、給料も悪くない。時間にもかなり自由がきく。□□省のわがままが我慢出来るなら、好きな趣味をやって、結婚して子供を育てて、世間一般で言われる「良い家庭」を築くのも悪くない」という話をしてやった。たまたま△△に求人があったので、彼はそれに応募して、採用され、今は△△の事務方である。

さて、このKがなぜ馬鹿を晒しているのか。実は、もともと彼はボンボンで世間知らずなところがあった。転職した直後の飲み会の席で、彼の上司に対する目に余る態度があったので、僕がブチ切れて絶交していた。しかし、その後、結婚したり、子供ができたりしたこともあったのか、随分とまともな人間になってきていた。いつの間にか断絶した関係も修復されていた。彼がFacebookを始めるまでは。

私はTwitterを「馬鹿発見器」と名付けたが、Facebookは「馬鹿インキュベーター(孵卵器)」である。一度はまともになった人間がどのようにして馬鹿に成り下がったのか。その背景には、いくつかの不幸な要素がある。

まず、Kが高校(中学?)から慶應だったということだ。慶應は、創立者の「学問のススメ」の理念がどこかにすっ飛んでしまい、日本においてクラス(階級)の固定化と再生産に最も寄与している学校となっている。私は、Kがこの高校・大学の出身だったというのが非常に大きいと考えている。

ここでちょっと慶應という学校の位置づけについて考えてみる。まず、この学校は大学から入学した人間と、それよりも若い年代(小学校、中学校、高校)から入学した人間との間に大きな溝がある。高校以前から進学した人間たちは行きつけの食堂で仲良しクラブを形成し、その関係はその後の人生においてもずっと継続する。その仲良しクラブは、人生の難しい局面で色々と助けてくれる反面、何かをやらかしてそのクラブからはみ出してしまうと、二度と戻ることができない。ちょうど、テレビドラマ「半沢直樹」で描かれている、銀行員の嫁達の仲良しクラブに非常に良く似た性格を持っている。

高校からエスカレーターで大学に進学しても、そこは決してナンバー1の一流大学ではない。あくまでも、私学のナンバー2で、上には東大、京大といったいくつかの国立大学もある。さらに、高校やそれよりも初等の学校から慶應に通学するためには、相応のカネが必要になる。そのカネを用意したのはもちろん親なので、親にとっては自分の子供を「所詮は慶應」などと言われてしまっては、メンツが丸つぶれになる。つまり、学友同士に加えて家族までを巻き込んだ強固なムラ社会が形成されている。

こうした特殊な社会に、Facebookが登場した。これによって、慶應ムラの村民たちは雁字搦めになってしまったのではないか。何しろ、日常のほとんど全てを、「友達」によって監視されているのである。そこで「個性」を主張して浮いてしまえば、あっという間に村八分にされてしまう。慶應ムラは慶應ムラで、居心地は悪くないものの、何かのきっかけで村八分にされてしまうことにビクビクしている人たちなので、失点はなるべく避けたい。その上で、気の利いたおべっかを発信し続けなくてはならない。

また、Facebook上で、彼の家族と繋がってしまっているというのも大きいだろう。私が把握している限りで、彼の妻と姉がFacebookで繋がっている。加えて、彼には現在500人を超える「友達」がいる。

これらの背景の中で、私がKの書き込みで気持ち悪く感じた場面は二度である。

まず最初は、Kのママ友の子供がお受験で御三家のどこかに合格したときだ。彼は、Facebookで「◯◯くん、おめでとう!」と書いていた。◯◯くんはまだ小学生だから、もちろんFacebookをやっているわけがない。このコメントは、「◯◯くん」と宛名していながら、実際には他の人たち、彼の妻のママ友だったり、職場の友人だったりするのだろうが、に宛てられている。「こんなコメントを書くなんて、俺って気が利いているよな」という思いばかりが伝わってくる。本当に◯◯君におめでとうと伝えたいなら、◯◯君に会って直接伝えるべきなのだ。ところが彼は、◯◯君以外の500人に向けてそれを書いた。これを読まされた私は「こいつはなんて気持ちが悪い奴になったんだろう」と感じた。もちろん私はそれをFacebook上で伝えたのだが、彼にはその行為の気持ち悪さに気づくことはなかったようだ。

もうひとつの気持ち悪く感じた場面も、性質的にはほとんど変わらない。彼がお世話になった上司が異動になった際、「異動先でも頑張ってください」といった内容をFacebookに書き込んでいた。これまた、場所が不適切である。そんな個人的なセリフは、上司に直接言えば良い。しかし、500人の人間に衆人環視されている状況において、彼はこれを書かずにはいられなかったのだろう。友達、家族、職場の仲間といったさまざまな人間たちに監視され、「感じの良い人」「格好良い同僚」「ステキな父親」を演じることが、彼にとってのFacebookをやる意義になってしまったのだ。

加えて、一つ目のケースではKと同じ姓の女性からも妙な横槍があった。私たちのやり取りを見てのコメントだったのだが、「なんとまぁ、無為なる?会話」(原文ママ。おそらく無虚と書きたかったのだと思うのだが)とか、あるいは途中で話題に上った芦田宏直氏について「私は芦田先生のご子息に「幼稚舎出身のまともな女子はいないとおっしゃる父上は不幸だね〜」といっておきました。」などと書く、かなり恥ずかしい人物だった。この人物がどこの誰なのかは不明だが、在京キー局に在籍する芦田氏の子息に対して面と向かってこういったコメントができる立場の人間なので、それなりの年齢と地位のある人間なのだと推測する。そして、Facebook上でKを中心に形成されているムラ社会(それが慶應ムラなのか、他のムラなのかは不明だが)の一員でもある。

当時、この横槍に対して私が書いたコメントをそのまま転載する。引用は件の女性の文章である。また、必要に応じて一部を伏せ字にしてある。

> なんとまぁ、無為なる?会話(失礼!)。

無虚かどうかは不明ですね。芦田さんが極論なのはおっしゃるとおり。ただし、極論の中にも真理はあるし、ひとつの意見としてとても参考になるところがある。だから僕は「こういう意見もあるよ」と示したわけです。Kさんは狭い視野でものを考えがちで、しかもそれを自己肯定する人だからです。

> 私は芦田先生のご子息に「幼稚舎出身のまともな女子はいないとおっしゃる父上は不幸だね〜」といっておきました。

このやり取りは芦田さんの主張の正当性を論じているのではないですよ。僕は芦田さんの意見に対して一度も、肯定も、否定もしていません。僕がやったのは、慶應大学というのが理系の研究者を目指す人には適していない、ということを客観的データを示しながら提示したことと、中学からエスカレーターで大学に進学してしまうことは、自身の可能性をなくすことだ、ということを提示したことです。あと、結果的にまんまとKさんは芦田さんが否定するたこつぼ思想を開陳したことを、指摘しましたが。

では、会話が無虚であったかは今後のKさん次第でしょう。このやりとりを精査すれば、

1.冒頭の書き込みは◯◯くんに宛てたものではなく、自分の友だち(その中には◯◯くんやその親族が含まれている可能性はありますが)に対して、自分のために書いたものであると自覚していない。
>◯◯くんにお祝いしたいなら、こんなところに書く必要はないし、直接言ったほうがずっと効果的。「おれって、こんな気の利いたことを考えているんだぜ」と、自己顕示しただけ、というのが元木の判断です。

2.途中、元木のことを心配するそぶりを装いながら、その実、自己弁護をしつつ、元木の発言を統制しようと意図している。
>発言が困るなら、「やめてくれ」と書けば良いだけ。よく、「みんなもそう言っている」と、そこにいもしない発言者をでっち上げって相手に自分を正当化する人間がいますが、ここのKさんはそれですらない。だって、「僕はそうは思わないけれど」と、自分だけ安全なところに避難しているんです。これって、元木の考えでは、最も卑怯なことです。文句があるなら、自分の価値観と考えだけで元木と対峙すべきです。

でも、Kさんは多分、そういう自分の間抜け具合に気がついていないんです。


この横槍女性が最も気持ちが悪いのは、全く関係のない芦田氏の子息に対して、常識では考えられないような言葉を投げかけたことである。子供は親を選ぶことができない。その子供に対して、親の発言を取り上げて悪口を言うことは、ちょっと私には考えられないことである。文句があるなら、正々堂々と芦田氏本人に言えば良いのだ。それをわざわざ子供にいう理由は、芦田氏本人に言って反論された時に言い返す自信がないことぐらいしか考えられない。自らの地位を利用して、弱者に対してひどい言葉を投げかけるとは、唾棄すべき行為だと思う。自己の立場を正当化するために、その子供に対して親を誹謗する言葉を投げかけるあたりが、このFacebookムラの醜悪なところだと思う。加えて、私の記憶が確かなら、Kは芦田氏から中古のiPadを譲ってもらってもいるのである。そのことをKと同姓の女性が知っていたかどうかは知らないが、この発言を受けても、Kは件の女性に何も言わなかった。恩を仇で返すとはまさにこのことである。

この女性は「こんなこと(Facebook内での議論)より、もっとやるべきことがあるだろう」といった主旨のことも書いていた。しかし、Kは、天下国家を語りたい人間ではない。休みが取れて安定した生活が楽しめる組織(しかも、給料の原資は税金である)に転職した人間である。二人の子供にとって恥ずかしくない親となること以外に「もっと他にやるべきこと」などないはずだ。

今回提示した事例は、かなり特殊な例である。しかし、レベルの差こそあれ、Facebookとは、リアル社会に形成されているムラ社会をネットに持ち込むものだ。このシリーズでは何度か書いているのだが、陰湿なムラ社会を形成しがちな日本人にはフィットしない。その上で、大して気の利いたことも書けないような人間でも、形の上では、数百人に自分の文章を開陳できる立場になることが可能だ。その結果、傍観者から「KはどうしてFacebookであんな馬鹿なことばかり書いているのだろう」などと言われる人間に成り下がってしまうのである。

面白いことを書き続ける自信がないなら、Facebookをやるべきではない。もしやるにしても、「友達」は厳選し、やりとりは日常生活のコミュニケーションを補完するような内容にすべきだ。間違っても大量の「友達」とつながるべきではない。それでもどうしてもつながりたいなら、記事の公開範囲の設定については慎重になるべきだ。でも、最善はやらないことだ。やればまず間違いなく自分の評価を落とすことになる。なぜなら、大半の人間は、人に読んでもらう価値があることなど、そうそう書くことはできないのだから。

Twitterはそこにある馬鹿を顕在化するシステムだ。なぜなら、そこでは思考が足りなくなりがちだからである。一方で、Facebookは馬鹿を育成するシステムだ。リアル社会の人間関係をネットに持ち込んだものだから、ムラ社会の性格が色濃くなる。ムラ社会は、強固になればなるほど、外が見えにくくなる。Facebook内の一部の人間は、これが猛スピードで進行する。外が見えない奴は、すなわち馬鹿である。外部からどう見えようが、どう評価されようが、ムラ社会の中で評価されることが重要になる。冷蔵庫や冷凍庫に入って記念写真を撮る奴らと一緒だ。

私は、Facebookの「ムラ社会を強固にする力」が非常に強いと感じている。そして、もうすでにFacebook内のムラ社会は形成されてしまっている。成立したムラ社会は新参者を求める。だから、「Facebookやってないの?やりなよ」と勧められたら、何かしらの理由を用意して、拒否したほうが良い。間違っても、「Facebookをやらないと仲間はずれになる」などとは考えないことだ。

「半沢直樹」は最近ではリーガル・ハイ並にヒットしているドラマなので、観ている人もたくさんいるだろう。あのドラマの中では、上戸彩演じる主人公の妻が、銀行の社宅でのくだらない人間関係に翻弄されている姿が描かれている。可視化されていないだけで、Facebookの中で展開されている人間関係はあれと何も変わらない。

関連エントリー
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その15 Facebookの怖い話


  

2012年07月24日

Twitter後のネット社会番外編 その15 Facebookの怖い話

「FacebookとTwitterの違いはなんだと思いますか?」と聞かれれば、誰でもすぐに「実名か、匿名か」と答えることができると思います。そして、この回答は正しいと思います。では、実名であることのリスクとは何でしょうか。現在のFacebookの利用者は、ほとんどがこのリスクを考えずにいるのではないでしょうか。

これまで、一般の日本人は実名での情報発信をほとんどやってきていませんでした。それは、村社会体質、長いものに巻かれたいマインド、個性的であることよりも他者と同じでいたいという横並び志向、あるいは「和を以て貴しと為す」といった言葉に象徴されるのですが、なるべく目立たないでいることが美徳とされていたからだと思います。

そういう匿名社会に実名主義が導入されるとは、どういうことでしょうか。実名主義とは、各種の情報に「名前」という固有の情報がタグ付けされるということです。

今、例えば「大島優子」という人間をネットで調べても、それほど多くの人は見つかりません。日本にたくさんいるであろう同姓同名の「大島優子」さんは、ひとりの非常に有名な大島優子さんの陰に隠れることができます。これが匿名主義の特徴です。これまでずっと匿名主義でやってきた日本のネット社会には、実名でタグ付けされた情報がほとんどないのです。逆に言うと、今後、実名でタグ付けされた情報は物凄く目立ってしまう、ということです。これが日本における実名主義の最大のリスクです。

例えば私が自分のブログで、「どこのたれべえという非常にけしからん人物がいる」と告発した場合、それはあっという間に白日のもとに晒されてしまいます。これまで「どこのたれべえ」というタグがついた情報がほとんど存在しなかったために、それにタグ付けされた「非常にけしからん」という情報が目立ってしまうのです。有名人ならともかく、一般人であればこれは大きなリスクです。私のブログはPageRankが3しかありませんが、それでもGoogle上ではそれなりの情報発信力があります。私が実名で誰かの不始末を晒した場合、それはあっという間に、Googleでその人を検索した時の上位にリストされてしまいます。これまで全然情報を発信していない人の場合は、下手をしたらトップに掲載される可能性すらあるのです。

試しに私がこれまでに実名でブログで取り上げた人物たちをGoogleで検索した場合のリスト順位を列挙してみます。

Aさん 1ページ目、5番目
Bさん 1ページ目、6番目
Cさん 1ページ目、1番目
Dさん 3ページ目、4番目
Eさん 1ページ目、6番目
(2012年7月23日)

このように、私が自分のブログで取り上げただけでも、その記事は簡単に目立つ場所に置かれてしまいます。

Facebookを実名で利用することによって、実名と情報が関連付けされた状況が生まれやすくなります。これがTwitterのような匿名情報であれば痛くも痒くもないのですが、Facebookは実名なのでそうは問屋が卸しません。仕事で名刺交換した誰かについて、「この人、どんな人だろう」と調べた際、ネガティブな記事がリストアップされたら、調べた人は「ん?」と思うに違いありません。もちろん、ポジティブな情報もリストアップされますが、多くの場合、検索者の興味は10のポジティブな情報よりも1つのネガティブな情報に注目します。どちらかと言えば、不都合なケースの方が多くなるのではないでしょうか。

最近はコンビニやTSUTAYAのレシートに、レジの対応者の個人名が記載されることがあります。このデータとFacebookの個人データも、Facebookのアカウントできちんと対応していなければ、容易に紐付けすることができます。コンビニのレジで「あ、可愛いな」と思った場合、そのレシートに記載された名前をGoogleで検索すれば、その女性が見つかるかも知れません。それを手がかりに、Twitterや他のSNS、ブログのアカウントを見つけられてしまうかも知れません。あるいは、Facebookの利用者で良くあるのが、女性で生年を隠しているケースなのですが、子供の頃の、男性の同窓生などを見つけられてしまえば、そんなものはあっという間にバレてしまいます。年齢は一例ですが、実名で紐付けられた情報をプライバシーと切り離すのは非常に難しいのです。レジの女性が、話をしたこともないただのお客さんからストーカー被害にあってしまう可能性もゼロではないのです。少なくとも、Facebookを利用していることによって、そのリスクは格段にアップすると考えられます。

米国の場合は、これまでもたくさんの実名記事があったので、日本ほどフェイタルではないのだと想像します。なぜなら、たくさんの記事の中にデータが埋もれてしまうからです。しかし、匿名文化でずっとやってきた日本においては、実名制で、しかもミクシィと違いかなりオープンな形で利用されているFacebookのデータは、とにかく目立ってしまいます。Facebookを実名でやっている方は、試しに自分の名前で検索してみて下さい。検索結果に自分のFacebookアカウントが出てきませんか?

「大島優子」さんなら、有名なひとりの陰に隠れることも引き続き可能でしょう。鈴木一朗さんも大丈夫かも知れません。でも、珍しい名前なら、すぐに検索できてしまうと思います。これがキラキラネームなら一発です。つい先日も、キラキラネームの大学生が集団準強姦容疑で逮捕されましたが、「強姦 キラキラネーム」で、名前を入れるまでもなく一発検索されてしまいます。

もし、不倫相手が過去の行為についてブログに記載したら、あなたはどう対応しますか?これまで、そういうリスクは原監督や橋下市長のような、一部の人だけのものでした。これからは、Facebookをやっているほとんど全ての人が、そうしたリスクを抱えることになります。有名人たちは、そういうリスクを前提にして生きてきているので、それほど問題がありません。でも、大勢の、Facebookを利用している一般人は違います。実名でFacebookを利用するということは、これまで保護されてきたのに、突然素っ裸でネット社会に飛び出したようなものです。でも、多くの人には、まだその自覚も、覚悟もないのではないでしょうか。もちろん正しい知識を持ち、適切にFacebookを使っているのであれば、一定のプロテクトはできます。しかし、そこまでのリテラシーを持つことや、危機管理できることを多くの人に求めるのは難しいでしょう。

一週間ほど前に、米国ではFacebookユーザーが減少に転じたようだという報告がありました。

フェイスブックユーザーが欧米で減少か、アナリストが報告
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE86H01A20120718

私はこのシリーズで再三「日本においてはFacebookの時代は終わりつつある」と書いてきていましたが、それが目に見える形になるのは意外と早いかも知れません。日本の社会には、Facebookは決定的にフィットしないのです。

関連エントリー
その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

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その11 Twitter微分論について

その12 地獄への道は善意で敷き詰められている

その13 来る前に終わったFacebookの時代

その14 Facebookの行政利用って、本当にうまくいくの?


  

2012年06月09日

Twitter後のネット社会番外編 その14 Facebookの行政利用って、本当にうまくいくの?

Facebookもそろそろ頭打ち感が強くなってきているのですが、不思議と行政関係者にはウケが良いです。市民との新しいパイプとして期待しているのかも知れませんが、経産省のTwitter利用がいまいちうまくいかなかったのと同様、Facebookも行政に対してそれほどポジティブな効果をあげるとは思えません。ちょうど、調布市でFacebook利用の提案があったようなので、どういったところがダメなのか、下記のエントリーを引用しつつ、指摘してみたいと思います。

市民まちづくり記者構想
http://ameblo.jp/minnanochofu/entry-11272638253.html

#アメブロを使っている時点でどうなのよ、という感じなのですが・・・(^^;

利用者数でtwitterを追い越してしまったfacebook


日本におけるFacebook利用者数は、ニールセンの調査ではTwitterユーザーとほぼ同数(2012年4月のデータではFacebookの利用者数が減少に転じた(!)ため、Twitterの方が多い)です。

追い越したというのが正確かどうかは細かい話なので置いておくとして、重要な点は、FacebookがTwitter並の利用者数であったとしても、それは公共インフラではないということです。ほぼ一年前、私は「自治体までFacebook」というエントリーでその問題点を指摘したのですが、

Twitter後のネット社会 番外編 その9 自治体までFacebook
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51279183.html

その中で指摘した7つの問題点は一年経ってもまだひとつも解決されていません。加えて、いくつかの新しい問題点も顕在化してきています。それを含めて以下で指摘していきたいと思います。

多くの市民がまちづくりに参加出来るシステムをつくってしまおう


「政治」とは、「私(=個人)の生活を良くして下さい」という私的要望を集約し、取捨選択してその一部を実現するシステムです。道路の整備状況が良くない、保育施設が足りない、バスの本数が少なくて不便だ、地元の駅に急行が止まって欲しい、税金を安くして欲しい、補助金をばらまいてほしい、どれもこれもが私的な要望です。それがたとえ「世界平和」であったとしても、「私を戦争に巻き込まないでほしい」という要望が根底にあります。

実際に中央官庁で行政官として勤務していると、こういった「私的」な要望がひっきりなしにやってきます。なぜなら、行政官は予算を持っているからです。元も子もない話ですが、彼らの主張は「そのお金を使って、私の生活を良くして下さい。私に儲けさせて下さい」ということです。

Facebookのようなシステムを行政に導入すると、おそらく要望には抑制が効きにくくなります。生活者たちは山ほど不満を抱えて生活しています。彼らは自分の要望をどうやって行政に伝えたら良いのかを知りませんが、「あ、こんな方法があるのか」と知ってしまうと、みんながそれをやりだします。ところが、その要望を叶えるにはお金が必要で、「財源はどうするんだ」「やるべきこととやる必要のないことはどう線引きするんだ」という話になります。もちろん、何でもできるわけでもなく、むしろできないことの方が増えます。結果として、市民はフラストレーションを溜めることになります。できないなら、最初から聞かないほうがマシなんです。

政治家がやる「まちづくり」というのは、こういう要望のうち、自分に投票してくれそうな人間の声を支持者にわかりやすく(わからないと投票してもらえないので意味がない)吸い上げることに他なりません。そして、Facebookを行政に利用したら、吸い上げることのできない意見ばかりが増えてしまいます。

むしろ、行政は、何もやらないほうが良いくらいなのです。ほとんどの生活者の要望が叶わないなら、いっそのことほとんどのことを辞めてしまい、税金を安くしたほうが良いはずです(ただし、私見)。

市役所が市政情報の発信にfacebookページを活用する


もう、この時点で話がおかしいと思います。この話を、表現を変えるならば、「市政情報を知りたかったらFacebookをやりなさい」ということです。新しいシステムにかぶれ易い人間はすぐに「これは素晴らしい。どんどん使わないと」と思ってしまいますが、実際にはオールマイティなシステムなど、この世にはほとんど存在しません。存在するとしても、それは公共インフラ色の非常に強いものである必要があって、少なくとも一民間企業が運用しているSNSなどは、それになりうるものではありません。

実際、今の日本人は、発電と送電のシステムを民間企業に握られていることによって身動きが取れなくなっているではありませんか。もちろん、「全ての情報発信にFacebookを利用する」ということではなく、今までのウェブサイトなども並列に使うことになるのでしょうが、それにしても先行きの不透明感が強いです。

加えて、Facebookとは、既存の人間関係をそのままネットに持ち込んだものです。現実の社会には、仲の良い人もいれば、悪い人もいます。友だちの友だち、ぐらいであっても、「あいつは嫌いだ」という人間の一人や二人、必ずいるはずです。そういった状態において、一層個人のエゴが丸出しになるような「行政」を取り込んだら、一体どんな状態になるのでしょうか。「あいつの要望だけ実現したのはおかしい。今度はこっちの番だ」といった話がそこここで見受けられるようになりそうです。

生活者が、自分の意志でやるのであれば、Facebookだろうが、ミクシィだろうが、グリーだろうが、勝手にやれば良いのです。あるいは、政治家が、自分の選挙区の有権者の意見を吸い上げるツールとして利用するのも良いでしょう。しかし、行政や政治家が「みんなでFacebookをやろう」と旗を振るのは、わかってねぇなぁ、という感じなのです。

市役所は、市民向けのインターネット講座を徹底的に開催


「インターネット講座をやる業者(=タックスイーター)に丸め込まれているんじゃないの?」感が満載です。私の会社もソーシャルメディアの利用方法をレクチャーしてお金を頂いている会社ですが、間違ってもタックスイーターなどにはなりたくありません。もちろん役所に「Facebook導入を進めましょう」などと提言することもありません。

「市民向けのインターネット講座」にかかる費用の原資は税金です。こんなアホらしい税金の使い方はありません。それを業者に丸投げではなく、市役所の職員がやるとしても、です。「徹底的に」というのもちょっと笑ってしまいます。Facebookの利用方法を私が徹底的にレクチャーしようと思ったら、一対一の個別コンサルティングをそれなりの期間継続しないと無理です。実際、現在の日本人で、一体どれくらいの人がFacebookを上手に利用しているというのでしょうか。

そもそも、SNSというシステムの寿命などたかが知れているのです。あれだけ全盛を誇ったミクシィですら、今では青息吐息となっています。一時期200万円を超える値をつけていたミクシィの株価は、今では14万円程度です。
(株)ミクシィ(日経会社情報)
http://www.nikkei.com/markets/company/chart/chart.aspx?scode=2121&ba=1&type=5year

先のことを100%見越すことは不可能ですが、Facebookであろうとも、その寿命はせいぜい5年程度と見るのが常識的なところです。ましてや、今のFacebookはかつてのミクシィのような勢いが感じられません。このあたりについては最新の「Twitter後のネット社会番外編」で指摘したとおりです。

Twitter後のネット社会番外編 その13 来る前に終わったFacebookの時代
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51341269.html

では、なぜ今頃(すでに頭打ち感が出てきている状態)になって、政治家がFacebookを連呼するのでしょうか。それはおそらく「遅れてきた村の重鎮」に物凄くフィットするシステムだったからなんだと思います。このことについても、私はちょうど一年前に次のように指摘しています。

しかし、一方で、この融合は、あるクラスターに対しては大きな福音でしょう。それは、ムラ社会が大好きな、いわゆる官僚とか(ここでの「いわゆる」は、皆さんが想像する典型的な、という意味です)、いわゆる大企業の社員とか、いわゆる学者とかです。そういった、ムラ社会が大好きで、そこの居心地が良く、できればネットにもその居心地の良さを持ち込みたい層にはものすごくフィットするかも知れません。

前回、私は「フェイスブックは加齢臭に満ちている」と書いたのですが、その原因がどにあるのか、確信しました。何か自分の意にそぐわないことがあると、こっそりとメールしたり、悪口を言い合ったり、肩書きを利用して黙らせたり、ついつい日頃日常生活でやっていることをネットの中でもやってしまうような人が存在するからです。「村の重鎮」によって、日本のフェイスブックは色付けされつつあります。今後、この流れはかわっていくのでしょうか。引き続き、観察を続けたいと思います。

以上、下記より引用
Twitter後のネット社会 番外編 その8 遅れて登場した「村の重鎮」
http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/51267244.html

何のことはない、私が予言したとおりにFacebook周辺の事象は進んでいるのです。

(いまのホームページと同じ様に、見るだけならfacebookを使わない人でもみれます)


「Facebookを使わないと村社会から仲間はずれになります」と同義です。

市民は自分が住む地域の情報をfacebookを使って発信することで、他の地域の市民とその情報を共有出来る。


もちろん、不満を共有することになります。

インターネットなので、市役所が開いてない夜でも、土日でも、時間が無い方は電車の中からでも発信できる。


そして、その情報を適切に管理するためにお金が必要になるのです。

投稿された情報は、facebookを使っている人は誰でも見て楽しめる


誰でも不満を持つことになります。仮に楽しめたとしても、Facebookを使っていない人は蚊帳の外です。何でもかんでも平等であるべきだとは思いませんが、Facebookはあまりにもピンポイント過ぎます。

この投稿記事を見た市役所職員は、提供された情報を確認次第、すぐさま対応する。


最近、「事故が起きたのに飲み会をやっていた警察幹部」とか、「容疑者が逃亡したのに飲み会をやっていた警察幹部」とかが話題になっていましたが、同じように、「不満が書かれていたのに飲み会をやっていた市役所職員」と非難されそうです。

問い合わせには、すぐに回答したり、まちの危険な場所なら、すぐに現場に急行し対処する。


情報がまともなものだけだと思っているのでしょう。実際にはつまらない情報の方が多いというのに、です。本当にFacebookを問い合わせ窓口にしたら、市役所の職員はノイローゼになりそうです。

まちで見掛けた「異変」も、その場・その時でなかったらなかなか役所に伝えたり出来ませんよね。


逆ではないでしょうか。何でもかんでも伝えられてしまったら、重要な仕事に支障を来たします。

facebookなら自分の好きな時間に、好きな場所で投稿出来たりします。


世の中、性善説だけでは回りません。特に公共サービスはそうです。

休日だったら「あとでいいや」になり、連絡もしないままになってしまうこともあります


「あとでいいや」で忘れてしまうようなどうでも良い話は、市役所に持ち込まなくて良いということです。

市役所も予防接種の案内や、学校行事、花火大会、「○○フェア」などのイベント情報もこのfacebookを使って情報発信する。


既存のウェブサイトで十分です。わざわざ新規でお金を投入し、市民を教育する意味がわかりません。もちろん、調布市で油田が見つかって、湯水のごとくお金が湧いてきて、使い道に困っているというのであればこの限りではないのですが、調布市がお金が余って困っているという話は寡聞にして聞いたことがありません。

「ここをこうしてもらえないか?」などの希望もコメントすることが出来る


実現したら、職員はてんてこ舞いでしょう。

こんなことが実現出来たら素敵だと思いませんか?


昔こういう話(=絵に描いた餅)をどこかで聞いたよなぁ、と思ってちょっと記憶をたどってみたら、幸福実現党の選挙公約でした。

全国にはすでに、そんなことを実現できている自治体があるのです。


一体どこでしょうか。まさか、佐賀県武雄市のことでしょうか?もしそうだとしたら、それが実現したことによって武雄市の財政がどう変化したのかとか、効果をきちんと見せて欲しいのですが。

残念ながら調布市は、首を縦に振りませんでした


私は調布市の判断が正しいと思います。

ネットのことが全然わかっていない人が物珍しいシステムに夢中になってしまったのか、あるいはタックスイーターの業者に色々と良い所だけ吹きこまれちゃったのかなぁ、と心配になってしまいます。

実際のFacebookの中を見てみればすぐにわかることがあります。私の友達だけを限っても、Facebookを積極的に使っているのは「自分から情報発信することによってメリットがある人」だけです。その割合はどんなに多く見積もっても3割程度でしょう。Facebookとは、所詮はその程度のシステムなんです。

#ただし、イベント関連の機能だけは非常に便利です。いつもFacebookについてネガティブなことを書いていますから、今度はイベント機能の魅力について記述したいと思います。

もう一点、Twitterで遺伝子組換え食品関連のつぶやきをウォッチしていて気がついたことがあります。それは、不安を抱えている人は、機械のように反遺伝子組換えの投稿を繰り返す、ということです。同じ人が、何度も同じような情報を発信するため、凄く大勢の人が不安を持っているのかと勘違いしていました。ところが、身の回りの人に聞いてみると、実際にはそんなことがなかったりします。Twitterでは、人数はそれほどでもないのに、投稿数だけが増大するので、不安や不満にバイアスがかかってしまいます。そして、それが雰囲気を作り出してしまいます。そういった雰囲気は、世の中をミスリードしかねません。行政が旗振りをして半ば強制的に市民をSNSに参加させてしまうと、ありもしない雰囲気が形成されてしまう可能性があります。ところが、行政が旗振りをしたら最後、そういう雰囲気は公式のものとなってしまい、無視できなくなります。「どこかのSNSではこんなことになっているらしい」では済まないのです。そして、それは衆愚につながるだけなんじゃないかと思うのです。

上にも書きましたが、政治家が世の中を知るためにFacebookを利用することは決して悪いことではないと思います。それは「私的」な利用だからです。一方で、行政が公的な部分で利用することには、かなりの無理があると思います。

後日談
調布市議会議員高橋ゆうじさんへ

関連エントリー
その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

その2「自分ができることをやる」

その3「ポジティブ情報も生き残れないTwitter」

その4 ツイッターでの議論はソーシャルリンチにつながります(草稿)

その5 自分にとってのカリスマ

その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」

その9 自治体までFacebook

その10 芦田宏直氏の講義の事例

その11 Twitter微分論について

その12 地獄への道は善意で敷き詰められている

その13 来る前に終わったFacebookの時代


  

2012年05月26日

Twitter後のネット社会番外編 その13 来る前に終わったFacebookの時代

ミクシィからTwitterへの過渡期の時代、Twitterにはまった人たちの中には「ミクシィはだめ。ツイッターはここが素晴らしい」と書きまくる人がいました。今は同じことがFacebookで起きていて、「ツイッターは終了。Facebookはここが素晴らしい」と書きまくる人がいます。どれもこれもある程度正しいのですが、本質的には間違っています。間違っている点が何かといえば、「ツイッターは無敵なくらいに素晴らしい」とか、「Facebookは無敵なくらいに素晴らしい」という考え方で、どちらのシステムも、「使いこなせばそれなりに便利だけれど、所詮は流行りモノ」というのが本質です。じゃぁ、全然ダメかといえばそんなこともなく、ミクシィにしても、Twitterにしても、爆発的に利用者が増大するわけでもなく、かといって一気に減少するわけでもなく、インフラの一つとして、あるいは空気のような存在として存在し続けることになるでしょう(どこかに買収されたりしない限りにおいて、ですが)。おそらく、Facebookも、近い将来、ミクシィやTwitterと同じような場所に落ち着くと思います。今は、「みんながやっているからやってみよう」という人たちがFacebookに登録する作業が一巡したぐらいで、もうそろそろ限界が見えてきた感じです。

先日、経産省の同窓会に行ってきたのですが、参加者は現時点で室長クラス、僕がいたときの補佐や係長4人でした。途中、Facebookの話になったのですが、5人のうち、Facebookを使っていたのは僕だけでした。その僕も、「そろそろオワコン」という認識で、「役に立つのはイベント機能と書類共有機能だけ。現実に存在する人間関係をネットに持ち込んだだけで、それが可視化される分、居心地が悪いことが多い」というスタンスでした。Twitterの潮時宣言をしたのが拙著「Twitter後のネット社会」でしたが、Facebookもそろそろそういう時期に来た気がします。

ミクシィの時も、Twitterの時も同じでしたが、Facebookも、信者たちはそれが「公共インフラ」になると信じています。しかし、そんな時代はまず間違いなく来ません。私は、特にFacebookの寿命は短いと予想しています。Facebookが一番ダメなのは、方向が「制限」だということです。池田信夫さんがブログのコメント欄を閉じてFacebookのコメント機能を設置したのが象徴的なのですが、池田信夫さんは自身のブログの記事への誹謗中傷を避けるために、はてなブックマークを利用できなくするとともに、ブログに付属していたコメント機能を排除し、基本的に実名での投稿になるFacebookのコメント機能を利用することにしました。おかげで池田さんのブログへのコメントはある程度池田さんにとって居心地の良い内容にスクリーニングされたようです。しかし、これは単に「都合の悪い情報から目を背けただけ」のことです。池田さんはもう結構な年齢で、社会に対する発言力も大したことがないし、将来性もあまり感じられない人です。加えて物凄い頑固者なので、池田さんに限れば、このやり方は正解だったと思うのですが、「これから先」がある人たちにはちょっと薦めにくい、下手くそな対応だったと言えます。批判にいちいち反応・対応する必要はもちろんありませんが、批判は批判として見えてくるような窓を設置しておくべき、というのが私の考え方です。そして、Facebookとは、こうした窓が自然に閉ざされてしまうシステムです。特に日本のようなムラ社会気質の国民性においては、「自分たちにとって居心地の良い情報」だけが純化していく、当事者にとっては非常に気持ちが良く、第三者にとっては非常に気持ちの悪いコミュニティ(代表例はオウム真理教)が形成されていきます。同じ事をすでに私たちはミクシィで経験していますが、Facebookも同じです。

私などはFacebookだろうがどこだろうが馬鹿には馬鹿と言うし、デブにはデブと言いますが、こういうタイプの人間は日本社会では稀です。ですから、私が今、Facebookで馬鹿に向かって馬鹿というと、その馬鹿はより純化が進んで味方ばかりのミクシィに行って、「こんな酷いことを言われた」と泣きつきます。これはFacebookにおいてはまだミクシィほど純化、カルト化が進んでいないからですが、早晩ミクシィと同じ状況になるでしょう。

ちょっと言葉を変えて、Facebookというシステムがダメな(というか、日本ではあまり発展しないと考えられる)理由を書いてみます。

Facebookは、日本人が非常に苦手な「比較」を可視化するシステムです。比較されるものは、学歴だったり、年齢だったり、性別だったり、職歴だったり、資産だったりします。Twitterでは基本的に「発信された情報の質」によって情報発信者が評価されましたが、Facebookでは、情報発信者に学歴や年齢、肩書きといったタグがついています。ちょっと気の利いたことを書いたとしても、「あいつ、偉そうなこと言っていて、◯◯大学かよ」みたいな評価を受けます。じゃぁ、Facebookはそういうギスギスした空間になるのかといえば、表向きはそんなことはありません。表面上は仲良しを装いつつ、裏でこっそり「あいつは二流大学だから、どうでも良い」とネグレクトすることになります。要は、日本の実社会で行われていることが、ネット内でも全く同じように行われるのです。結果として、Facebook内での交流の方向は限定的になり、クラスターはカルト化し、ムラ社会が形成されます。ミクシィではこうした現象が趣味の領域で発生しましたが、Facebookではそれが学歴や会社などの領域で起きています。その点、Twitterは方向が逆(身分などから発言を分離する方向)なので、比較的長持ちした印象があります。しかし、Twitterのように極端に「発言だけを評価する」システムも、付随的に発生してきた各種システム(代表例はTogetter)によって発言はストックされ、発言者は「面白い人」と「それ以外」に二極化し、「それ以外」にとっては「面白い人」の発言を読むだけのシステムになってしまってきています。

所詮、世の中には、面白いことを継続的に発信できる少数の人と、そうでない人しかいません。そして、圧倒的多数の「つまらないことしか発信できない人」(=凡人)も、自分の発信する情報は誰かに読んで欲しいのです。人間は本質的に社会的な生物ですから、自分の存在は他者に認識して欲しいという欲求を持っています。だからこそ、ソーシャルメディアに飛びつくのです。Facebookの場合、ミクシィにも、グリーにも乗り遅れたやや高齢の高学歴層が飛びつきました。高学歴層はすでに自分のネットワークを持っているし、そこそこ高齢であれば「自分の部下」が自分の話を聞いてくれます。だから、特段、新しいソーシャルメディアに参入する必要がありませんでした。しかし、Facebookが既存のソーシャルメディアとちょっと違っていたところは、「既存の人間関係をそのままネットに持ち込んでいた」点です。つまり、上司と部下の関係とか、一流大学の同窓生とか、そういった「自分が発信する情報の面白さ」とは無関係のところで、自分を優遇してもらえるシステムでした。「あぁ、一からやらなくて良いのか。あぁ、面白い情報を発信しなくて良いのか」と、多くのつまらない大人たち(笑)がこのメリットに目をつけたわけです。

Facebookの利用者にありがちなのが、良い大学を出ていて、社会的ステータスがそこそこ高く、友達が100人以上登録されているのに、発言を全くしない人です。もともと情報発信に慣れていないし、Twitterなどでは恥ずかしくて何も書けず、とはいえ自分の存在だけは他者に認識して欲しいという人たちなので、ただただひっそりと存在しています。そんな人たちにとってうってつけの機能がFacebookには2つあって、それが「挨拶」と「いいね」です。挨拶ボタンなど私は使ったことがないのですが、おそらく「こんにちは」と、相手に表明するだけの機能だと思います。語ることは何もないけれど、存在を認識して欲しい人にはとても便利なはずです(私には全く意味が理解できませんが)。「いいね」ボタンについては、自分の友達に記事を紹介する機能が付随しているようなので、ただの無駄撃ちとは異なりますが、自分の意見を表明していない点は一緒です。

「実社会ではそれなりに評価されている人」で、かつ「ネット内ではただの凡人」を救済できるシステムがFacebookだったのです。

言葉を裏返すと、実社会ではそこそこ評価されている人にとって居心地が良い場所は、実社会ではあまり評価されていない人にとって居心地の悪い場所です。そして、それが「友達の数や質」などによって可視化されます。加えて、「どんな大学を出ているか」とか、「どんな肩書きか」とか、面倒くさい付帯状況がラベリングされてきますから、庶民にとってこんなに居心地の悪い場所はありません。要は、「日本的上流階級」のためのシステムなのです。これだけでも私にとってはちょっと気持ちの悪い場所なのですが、個人的にFacebookが嫌いな点はもうひとつあって、それは「システムがストックに対応できていないこと」です。表現が難しいかも知れませんが、蓄積された(=ストックされた)情報へのアクセシビリティが低く、目的とした情報に到達するのが非常に難しいという意味です。もっと簡単に言うなら、検索性が低い、となるのですが、「あれ?以前書いたあの記事、どこだっけ?」と思っても、その記事を見つけることが非常に難しいのです。目的としている情報にアクセスしにくい、という点では、FacebookはTwitter以上に不便です。ですから、私のようなストック型の人間には非常に居心地が悪い環境です。ところが、そもそも面白い情報や役に立つ情報を発信していない人なら何の問題もありません。結果として有意義な情報は発信されず、刹那的な、消費スピードが高い情報だけがやり取りされることになります。

ちょっとTwitterに話を戻すと、TwitterではFacebookよりも面白い情報がやり取りされています。Twitterも、Facebookも、「世の中つまらない奴が多い」という現実をいかにわかりにくくし、つまらない人間でも居心地が良い状態にすることに腐心しているわけですが、その方向が180度異なります。Facebookは、学歴とか、住んでいる場所とか、社会的ステータスを持ち込むことによって、「つまらない人間の中で、一定のラベルを持っている人間を救済する」ことに成功しましたが、Twitterはそういったラベルを極力排除し、情報を大量に発生させ、「数撃ちゃ当たる」という状況を作り出しました。前述のようにTwitterのこの戦略はストック・システムによって崩壊しつつありますが、個人的にはなかなか面白い試みだったと思いますし、だからこそ、短命のネットシステムの中において比較的長い期間、評価されつづけているのだと思います。

さて、Facebookは「つまらない奴」のうち、実社会で評価されている人を救済したわけですが、その他の「つまらない奴」の行き場所がない、という状態には変化がなく、むしろ隠れる場所がどんどん減ってきているという現状があります。他人と一緒であることが最大の美徳であり、他人と一緒であることによって「つまらない自分」を隠すことができたのが日本社会でしたが、徐々に「つまらない奴」が顕在化されつつあります。私はこういう理由によって、「農耕民族」「村社会」的な日本社会が内部崩壊を始めてきていると感じています。内部崩壊と言っても、村社会構造が崩壊するという前向きな話ではありません。村社会でありつつも、それがあまり表面化しなかった日本社会が、その事実をまざまざと見せつけられることによって、諦めにも似た雰囲気となりつつあります。

雨後の筍のように次から次へと現れてくるソーシャルメディアですが、その寿命はせいぜい10年程度でしょう。コンテンツ(画像とか、動画とか、テキストとか)の価値は長持ちしますが、ネットワーク(人間関係とか)は長持ちしないのが世の常であって、だからソーシャルネットワークシステムは長持ちしないのだと思います。それはFacebookと言えども同じです。じゃぁ、Facebookは全然ダメか、なくなったほうが良いシステムなのか、といわれればそんなこともなく、例えば「イベント機能」とかは非常に便利で、これだけのためにFacebookは存在しても良いくらいだと思います。それは、ミクシィがコンサートのチケットのやり取りにおいて一定の威力を発揮するのと同様で、部分的には、使いようによっては非常に便利なのです。ただ、ちょっと違うよな、と思うのは、Twitterのときも同じでしたが、「これは凄い」「これを使わないのは馬鹿だ」「これこそが次世代の公共インフラだ」などと旗を振る信者たちに対してです。

インターネットは公共インフラですが、FacebookもTwitterも、非常に個人的なシステムで、公共インフラではないのです。一部の自治体などでFacebookを公共インフラとして利用する動きがありますが、これは間違った方向だと感じます。もし信者の皆さんが「次は公共インフラとしてのFacebookの時代が来る」と考えているとすれば、私は「Facebookの時代は来る前に終わった」と断言します。

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その11 Twitter微分論について

その12 地獄への道は善意で敷き詰められている


  

2011年11月10日

Twitter後のネット社会 番外編 その12 地獄への道は善意で敷き詰められている

「福島の子供たちを救うために24時間」というサイトがあります。
http://www.avaaz.org/jp/save_the_fukushima_children_1/?fp

「請願書に署名してください」という主旨のサイトで、請願書の内容は次のようなものです。

内閣総理大臣 野田佳彦 殿:
私たち憂慮する市民は、日本政府が、 未だに高放射能汚染地区に閉じ込められている福島市の子ども達を守るため、 早急に行動をとるよう強く要請します。 特に、渡利地区の住民に避難の権利があることを認識し、 安全地域に移住したいと望む人々に緊急の支援を提供するよう求めます。 子ども達、孫達の未来がかかっています。もはや時間はありません。


この記事を書いている時点(2011/11/10 11:00)で、Facebookで情報共有した人が約3.8万人、ツイッターでつぶやいた人が1.4万人もいるようです。私の友達の中にも、何人も「署名しました」と表明した人がいます。

しかし、署名する前に一度立ち止まってみて欲しいのです。このサイトの文章には2つ、「?」と思う所があります。

一つ目は、「黒い雨が空から降り」というものです。これは本当なのでしょうか。黒い雨が降ったとなればかなりセンセーショナルなのですが、私は昨日までこのニュースを知りませんでした。

もう一つは請願書の中身で、「特に渡利地区を何とかして欲しい」という趣旨のことが書いてありますが、渡利地区って、どこ?というものです。この手のことはちょっと調べればすぐにわかりますから、渡利地区について調べてみると、こんなニュースが見つかりました。

妊婦と子どもだけでも避難させてほしい――放射能汚染が深刻な福島市渡利地区住民の切実な訴えにも無策の政府
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111029-00000000-toyo-bus_all

なるほど、渡利地区の人々の状況はこの記事を読めばある程度理解することができます。ただ、同時に、「福島には同じような地域があるのではないか。そこも何とかしないとまずいのではないか」という疑問が生じてきます。それより何より、これまでに署名した人のどのくらいが、このニュースを知っていたんだろう、とも思います。少なくとも私は、こちらについても昨日まで知りませんでした。

ネットでの署名集めは非常に簡単です。しかし、簡単だからこそ、一時の感情でなんとなくやってしまう部分があるのではないでしょうか。そういう署名には、どの程度の価値があるのでしょうか。活動の目的自体は正しいと思いますが、きちんとした活動であることを示すためには、まず渡利地区の実情に関する記事をきちんと読んで理解してもらい、その上で署名してもらうべきだと思います。たとえば、良くある、Eコマースサイトの利用規約に関するシステムの利用などが考えられます。恐らく、利用規約をきちんと全部読んでいる人は少ないと思いますが、何もないよりはずっとマシなはずです。大事なことは、署名する人が渡利地区に関する知識を持っていることです。

署名した人は現時点で8万人近くになります。その人達は全員が福島に黒い雨が降ったと信じているのでしょうか。あるいは、全員が渡利地区のことをきちんと知っていたのでしょうか。

「Twitter後のネット社会」で指摘しましたが、今のネット社会は「空気を読む」「雰囲気に流される」社会です。雰囲気に流されただけの署名を集めるのには、Facebookやツイッターは大きな威力を発揮すると思います。しかし、今回の署名で大事なことは、私達が渡利地区、もしくはその近所の、同じような状況に追い込まれている地域に関する正確な知識を得ることです。知識を得た上で、「これはおかしい。野田総理、なんとかしてください」と署名することには私は賛成です。しかし、多くの人が、何も調べず、なんとなく福島が可哀想っぽいから、とか、みんなが署名しているから、とか、知り合いが署名したから、とか、知り合いに頼まれたから、という理由で署名したのであれば、その署名の価値は大きく低下すると思います。

すでに署名した人が、どの程度、「黒い雨」や「渡利地区」についての知識を持っていたのか、私にはわかりませんし、調べようもありません。しかし、そこそこの割合の人が何となく署名をしていたんじゃないかな、と思いますし、何より、この署名サイトにおいて、そういった情報の提供がなされていないことに違和感を持ちます。

私は福島の人達、特に子供たちのうち、避難したいと考えている人は自由に避難できるのが当たり前だと思います。色々と調べた後では、この請願書の主旨にも賛同します。しかし、この請願書に署名することについては後ろ向きです。

繰り返しですが、署名したみんながきちんと理解した上で署名しているのなら、何の問題もありません。しかし、もし理解しないで署名しているとすれば、それは典型的な「衆愚」です。3.11の前も、そして後も、散々言われた言葉をもう一度思い出してください。

The road to hell is paved with good intentions.
地獄への道は善意で敷き詰められている
  

2011年08月25日

Twitter後のネット社会 番外編 その11 Twitter微分論について

まず、Twitter微分論と心理主義について、乱暴に3行でまとめます。詳細は資料をあたってください。

Twitter微分論のまとめ
ツイッターは単に人間の行動を切り取り続ける。ネットの向こうにいる生身の人間の、「メシを食っている」といった行動だけが伝わってくる。その人間の肩書やこれまでの行動といった付帯状況が排除され、全ての人間が平等化される。
参考資料:【第二版・PDF版】twitterとは何か(中級) ― 「タイムライン」とは何か(twitter=「タイムライン」は何が新しいのか)

心理主義のまとめ
人工知能に「Aさんは牡羊座のO型です。Aさんの性格を正確に述べなさい」と聞いても返答は得られない。このような、機械的な応答が期待できないことに対して応えるのが心理主義。音楽や美術に関する評論が典型例。心理主義的な主張は「私はそうは思わない」と反論されると再反論が難しい。
参考資料:近代主義と心理主義と

さて、芦田さんの主張するTwitter微分論について、今日の時点での僕の見解をまとめます。

微分論は、「ネットのメディアはことごとくストックタイプ(データベース型)だった。ツイッターははじめてのフロータイプ・メディアである。ここにツイッターの面白さがある」というものです。フロータイプのメディアの良さは、情報発信者に関する付帯情報がどんどん切り捨てられる点だと芦田さんは述べています。確かに、そういった付帯情報によって、人間の発言は多様に歪められます。刑務所にいるホリエモンが「トイレなう」とつぶやくのと、AKBの前田さんが同じ事をつぶやくのでは全く意味が異なります。前者を見れば「ええっ、ホリエモンって、長野の刑務所にいるんでしょ?刑務所って、ツイッターできるの?」と考えるかも知れませんし、後者であれば「そんなこと、アイドルがつぶやくんだ」と考えるかも知れません。なぜそう考えるかといえば、私たちにはホリエモンや刑務所や前田敦子さんやトップアイドルやトイレについてのぼんやりとした(=自分以外の他者とは絶対に共通でない)イメージがあって、「トイレなう」という情報にそのイメージが付加されるからです。刑務所やトップアイドルに対するイメージは人それぞれ(=心理主義的)なので、これらの情報を受け取った時の感想もバラバラになるはずです。だから、「そんなこと考えてどうする。そいつらは今トイレに行ってるんだ。それだけで十分だろ」というのが微分論的なスタンスなんだと思います。付帯情報がなければ、「あぁ、ホリエモンと前田っていうどこかの誰かがトイレに行ったんだな」でおしまいになるわけです。そして、そこから始まるコミュニケーションに、今までにないものを期待するのが微分論なんだと思います。

微分論で述べられていることは確かにツイッターの可能性を述べているのですが、決して今のツイッターの特徴を述べていません。なぜかといえば、ツイッターにはプロフィールが記述できて、発言は3,000個までストックされ、データベース化されます。これらはツイッターの標準機能によってデータ検索が可能です。また、やろうと思えばTogetterのような外部システムを使って特別な意図を持ってストックすることも可能です。つまり、ツイッターは微分的な側面を持ちつつも、積分的な機能も提供しているわけです。微分論的に言えば、ソフトバンクの社長である孫さんを「50人以上の会社の社長をやってから偉そうなことを言え」と恫喝することも、オバマ大統領を「日本に住んでいるんだから、米国のことをとやかく言うな、バカ」と罵倒することもありうるわけですが、実際にそんなことをすれば「こいつはどこの馬鹿だ?」ということになります。ツイッターには微分論で述べられているような特性は確かにあるのですが、実際にはそういう使い方はされていない可能性が高いのではないでしょうか。

一方で、微分論的なスタンスが全く意味がないとも言い切れません。例えば、孫さんに対して、「ソフトバンクの経営方針はおかしいと思う」と、どこの誰だかわからない人間が直接発言し、コミュニケーションを取ることも可能です。そういった活動がツイッターによって簡易化されたことは事実でしょうし、意味もあることです。ところが、これが意味を持つのは、経営方針について意見を述べた人が、「孫さんはソフトバンクの社長である」という付帯情報を知っているからこそ意味があるわけで、どこの誰ともわからずに、手当たり次第に述べているだけでは、孫さんにはその言葉は届かないでしょう。

つまり、利用者がそぎ落としたいと考える付帯情報には、レベル差があることになります。「この情報は残しておきたい」「この情報は切り捨てたい」という、差異があるわけです。その差異は心理主義的ですから、人によって異なります。ある人は何も考えずに全てを無視するかも知れませんし、またある人は相手のプロフィール、過去の発言、さらにはリンク先などを徹底的に調べて利用するかも知れません。そして、その利用方法について、「こうやるべき」と主張することは意味がありません。ツイッターは他のネットメディアと同様、自由度が高く、その使い方は利用者に任されています。逆に言えば、ブログであっても微分論的に利用することは可能なのです。違いは、それぞれが持っている方向性だけ、つまりストック的になりやすいか、フロー的になりやすいか、というだけのことです。

たとえば、島田紳助さんのニュースについて、テレビはどの局もワイドショーで取り上げて、「写真があった」だの、「手紙が見つかった」だのと似たような放送を繰り返しています。一方でネットでは、Yahoo!のトップでも8個のニュースのうちの1つに過ぎず、他には岩手県知事選やら、マチャアキの新妻の話やら、一般の人にとっては比較的どうでも良い話と並列に述べられています。今、人工知能がテレビを見たら、恐らく紳助さんの話しか見ることができません。ネットでは、好き勝手に情報を選ぶことができます。これは一例ですが、そもそもネットメディアは利用に際しての自由度が高いのが一つの特徴で、その意味で非常に心理主義の影響を受け易いことになります。それは、ツイッターであっても同じです。

ですから、芦田さんが「ツイッターとは微分的なメディアである」と述べても、利用者がそれを望まないのであれば、全く微分的に利用されないことになります。実際のところ、正しく(笑)微分論的に使うなら、プロフィールも見ない、リスト機能も使わない、検索もしない、フォローする数は数百以上・・・といった、かなり特殊な(「特殊な」は、心理主義的な判断です)利用方法をしなくてはならない、ということになります。しかし、少なくとも私は、知らない人に何かを言われればプロフィールを読むし、タイムラインはノーマルはほとんど読まず、リスト化されたものを読みますし、必要に応じて検索もすればTogetterも使います。ほぼ、微分論的な利用法をとっていないことになります。では、それによってツイッターを使いこなせていないか、ツイッターの魅力を十分に満喫できていないか、と問われれば、別にそんなこともないと思っています。それ以前に、私にとってのツイッターは、ブログ、フェイスブック、Google+、スカイプといったネットメディアの一つに過ぎず、ツイッターに対してそれほど多くのものを期待してもいないのです。そして、これも非常に心理主義的な判断ですが、世の中の多くの人が、私と似たような感覚でツイッターに接しているのではないでしょうか。

微分的か積分的か、フロー的かストック的か(微積分を換言しただけ)というのは、ネットメディアについてはそれほど大きな問題ではない、というのが私の考えです。なぜ問題にならないかと言えば、テレビと違い、ネットメディアはその利用にあたって、格段に自由度が高いからです。

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その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」

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その10 芦田宏直氏の講義の事例


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aftertwitter
  

2011年08月15日

Twitter後のネット社会 番外編 その10 芦田宏直氏の講義の事例

芦田宏直氏の「近代主義と心理主義と」という講義に参加したことにより、Twitterをやっているだけではわからない「フラッグマン」(=芦田氏)と「信者」を直に見てくることができました。その直後の感想はここに書いたとおりです。

「近代主義と心理主義と」

芦田氏は以前、私の「Twitter後のネット社会」について次のように述べました。

微分論を取り上げないで、信者論に徹するのはずるいなぁ。しかもこの「信者」論、間違ってるし(笑)。 そもそも1万人程度のフォロワーで信者も何もないよ。


では、私の信者論はどう間違っているのでしょうか。私が書いた「フラッグマン」と「信者」の定義は次のようになります。

フラッグマン
様々な意見を一次情報として発信する人。堀江貴文氏、勝間和代氏などの文化人が代表例。フォロワー数が多いのが特徴。時に批判的になることも特徴で、基本的に他者に迎合しない。Twitterを自己のブランディングに利用している人々で、数少ない「実利を得ている」人々。それに加えて最近は芸能人もフラッグマン色を濃くしている。

(131ページ)

信者
フラッグマンに追随する人。ほとんどのケースで妄信的にフラッグマンの意見をそのまま是とする。また複数のフラッグマンに追随することも珍しくない。フラッグマンに自己同化することによって満足を得る。自分が信仰するフラッグマン同士がコンフリクトを生じたときには大きなダメージを受けるが、自分からどちらかを選択することはできないことが多い。また、思想的な部分ではなく、ネットアイドルに群がるといった形の信者も相当数存在する。一時期眞鍋かをりさんや中川翔子さんのブログに集まっていた人たちがTwitterに入ってきている。
(131〜132ページ)

芦田氏のフォロワー数は1万人で、フラッグマンとしてはぎりぎりの数字かも知れません。しかし、他の部分ではほぼ定義に合致しており、「フラッグマン」の一人として認定して問題ないでしょう(こういうのを「心理主義」と言います)。

「信者」について今回検証できたのは「妄信的にフラッグマンの意見をそのまま是とする」という部分です。講義では質疑応答の時間もかなりありましたが、芦田氏のスタンスに疑問を呈する立場からの質問は私から以外は一切ありませんでした。芦田氏の発言の中にはいくつか芦田氏自身が忌み嫌う「心理主義」的な発言がありましたが、これらについても全く疑問を呈することはありませんでした。こうまとめると、これも「心理主義」と言われるでしょうが、参加者たちは絵に書いたような「信者」たちでした。

また、私は「Twitter後のネット社会」において、信者について次のようにも分析しました。

最近で面白かったのは芦田宏直氏のケースです。彼が独自の理論で展開するネットコミュニケーション(罵倒型コミュニケーション)に心酔したTwitter利用者が彼の取り巻きとなり、信者層を形成しています。芦田氏は多くの経験と非常に深い洞察力とを兼ね備えた人物ですが、当然のことながら、Twitterを利用することによって彼に同化できるわけではありません。ところが、信者たちはそのあたりが今ひとつ理解できていないようです。つまるところ、新興宗教にはまるのも、フラッグマンにはまるのも、現象としては大きな差異が存在しません。ですから、傍から見ていると気持ちの悪い部分もあるのですが、当人にとってそれが救いとなり、また外部に悪影響を及ぼさないのであれば、その存在は否定されるべきではありません。

(136ページ)

芦田氏は「若いうちにしっかりとインプット(勉強)しろ」と力説しますが、彼の信者たちは芦田氏を理解することには熱心であるものの、肝心のインプットについてはかなりおろそかな印象を受けます。信者たちは、芦田氏の取り巻きであることによって同化したつもりになっていますが、残念ながら、それは無理です。なぜなら、芦田氏は彼らでは到底及びもつかないだけのインプットを行って来ているからです。そして、そのインプットに並ぶためには、Twitterなど、やっている場合ではないはずなのです。彼らが誰かに迷惑をかけるわけでもないので、「現状のあなたたちは他でもない、芦田氏によって否定されているんだよ」と教えてあげる義理もないのですが、もし本当の意味で彼らが芦田氏に匹敵したい、あるいは芦田氏の弟子として認められたいと思うなら、まずやらなくてはならないことは勉強です。

講義を終えての私の感想は、「今日の参加者たちは、本で定義した「信者」像にぴったりの人たちだったな」というものでした。少人数による講義でしたが、そこに存在したのは一人のフラッグマンと、彼を妄信的に信頼し、同化することを望んでいる多くの信者たちでした。そして、信者論のどこが間違っていたのかはまだわかりません。

なお、本を買っていない信者の皆さんのために、「Twitter後のネット社会」で信者に向けて書いた処方箋を引用しておきます。

フラッグマンはいつでもあなたを助けてくれるわけではありません。きちんと自分で考えて、きちんと自分の意見が言えるようになったら良いですね。

(144ページ)

さて、残りの「微分論」については、次回、取り上げたいと思います。また、今回の講義で勉強させていただいた心理主義についても、機会を見て取り上げてみたいと思います。

関連エントリー
その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

その2「自分ができることをやる」

その3「ポジティブ情報も生き残れないTwitter」

その4 ツイッターでの議論はソーシャルリンチにつながります(草稿)

その5 自分にとってのカリスマ

その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」

その9 自治体までFacebook

アゴラブックスより「Twitter後のネット社会」絶賛発売中!「ブログ・ビジネス」が今ではスタンダードになったのと同様、Twitterの今とこれからを知る上で必読の書です(多分(笑))。

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2011年07月30日

Twitter後のネット社会 番外編 その9 自治体までFacebook

こんなニュースがあって、どうして日本人は海外ブランドが大好きなんだろうね、と驚きます。

「市長がはまっている」 佐賀県武雄市、市のページをFacebookに完全移行へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110729-00000043-zdn_n-inet

自治体の公式サイトをFacebookにしてしまうそうですが、これは問題点が多すぎてどうなの、という話です。

ちょっと別の話になりますが、私が良く受ける相談として楽天への出店相談というのがあります。小さな会社が「営業チャンネルを増やす目的で楽天に出店したいと思うが手伝ってくれないか」とコンサルテーションを申し込んで来るのです。その際に私がお伝えするのは、

「楽天に出店するということは、いわば銀座の一等地や、超一流のデパートに出店するのと一緒です。また、どんなに長いことそこにいても地上権は発生しません。ブランド力は強化できますが、かなりの部分を運営コストとして持って行かれます。否が応でも、多売を強いられることになります。「たくさん売れると良いな」から、「たくさん売らないとまずい」へとスタンスが変わります。忘れてはならないことは、楽天が多額の利益を出しているということ。その利益は、皆さんのお客様たちが、皆さんにお支払いするお金の中から、広く浅く吸い上げるお金です。言葉は悪いですが、やればやるほど楽天が儲かります。その点を認識してください」

ということです。ごく一部の例外を除いて、楽天への出店はすぐに「こんなはずではなかった」ということになります。なぜなら、楽天に出店する方々がきちんとこのことを理解していないからです。

さて、Facebookです。Facebookは確かにそこそこコミュニケーション機能が利用できて、そこそこに楽しいシステムです。例えば、私は合コンに行った時、そこにいた女性がFacebookに登録している、ということなら、すぐにフレンド申請をします。そのおかげで、相手との連絡が簡単になるのはもちろん、飲み会の際にはわからなかった相手の人となりを知ることができます。そういう、コミュニケーションの補完ツールとしては非常に優れた特性を持っていると言えます。だから、公共機関が、一般生活者とのコミュニケーションチャネルを増やす、というのなら、「あぁ、それは良いかもね。ちゃんと使いこなせるなら」ということになります。

しかし、この場合はどうでしょうか。サイト機能を丸ごとFacebookに移転、というのには、いくつかの疑問があります。それは、楽天への出店(=銀座のデパートへの出店)に通ずる部分が少なくありません。では、疑問点を「銀座の一流デパートに出店する」ということにたとえつつ、説明していきます。

1つ目。まず、公共機関のサイトは常時アクセスできる必要があります。地震で大きな被害が出た時も、津波でやられた時も、常に情報を発信し続ける必要があります。そういう責任があるわけです。ところが、サイトをFacebookに移した場合、アクセシビリティは全てFacebookに丸投げ、という状態になります。デパートへの出店で言えば、「市庁舎をデパートの中に置く」ということになります。確かに、デパートの中にあれば便利かも知れません。しかし、デパートがお休みになったら、同時に市庁機能も麻痺します。Facebookは、ときどき「閲覧できない」とか、「なぜかメッセージが読めない」といったトラブルに見舞われます。そのシステムは決して強固ではありません。そういうトラブルの最中に災害が起きたらどうするのでしょうか。何かが起きたときに「現在、定期メインテナンス中です」とか、「原因不明だけどアクセス出来ない」ではお話になりません。

2つ目。Facebookも何らかの広告モデルを導入するかも知れません。そこに掲載される広告を、店子である自治体は操作できません。市庁機能をデパートに入れた時、横にどんなお店があっても文句を言えないのです。さすがに一流デパートでは隣がキャバクラです、といった事態にはならないでしょうが、Facebookがそういうコントロールをきちんとやってくれる保証はありません。

3つ目。サイトの閲覧環境に口出しできません。Facebookでは、コンテンツを表示できるサイズに制限があります。好き勝手にどんなサイズでも掲載できるわけではありません。大きな地図を載せたいな、などと思っても、その仕様はFacebookサイドに決められてしまいます。デパートに間借りしようと思ったら、借りるスペースの間取りについては文句を言えませんし、たとえバリアフリーじゃないとしても、「これでは困る」とは言えないわけです。その対応は全て大家さん次第になってしまいます。

4つ目。Facebookというコミュニケーションツールと融合してしまうことによって、確かに市民とのチャンネルは増えますが、それは必要以上になってしまう可能性があります。市長のアカウントはもちろん、市役所の職員のアカウントも普通に公開されるわけで、同時に市民もアカウントを持った場合、職員と市民が常につながってしまう可能性があります。「俺が市役所に大事なお願いをしたのに、職員は『今日の昼ごはんがさぁ』などと寝ぼけたことを話していやがる」などとフラストレーションを持たれかねません。職員がオフの時間にデパートで買い物をしていたら、「あんた、職員でしょ!私が出した苦情に対応しなさいよ、今すぐ!」と文句を言われちゃうようなものです。Facebookは実名利用が前提で、複数アカウントも持てませんから、「私は市役所の職員です」とのぼりを立てながら歩き回っているようなものです。

5つ目。下世話な話かも知れませんが、市役所機能をFacebookに移行したことによって、何かしらの経済的効果が発生したとします。たとえばバナー広告とかですが、こうした際に生じた利益は全てFacebookのものです。そういう利益は、できれば国内、もっと言えば市内の企業のものになった方が良いのではないでしょうか。Facebookを使っていては、市の税収も増えなければ、雇用も創出されません。市庁舎機能を移転したデパートが、市の外にあるようなものです(Facebookなら、米国です(笑))。

6つ目。Facebookは、Facebookの論理でアカウントが削除されてしまうことがあります。何かの間違いで市長のアカウントが削除されたらどうするのでしょうか。店長が自分のお店に入ろうとしたら、訳もわからず「あなたは立ち入り禁止です」と言われるようなものです。自分のお店なのに(笑)。しかも、その基準は全てFacebook次第で勝手に決められてしまうのです。

7つ目。FacebookとGoogleが喧嘩をして、Googleの検索結果にFacebookが含まれなくなるといった可能性もゼロではありません。デパートの案内嬢に「納税課はどこですか?」と聞いたら、「そんなの、知らないですよ。勝手に探してください」と言われちゃうようなものですね。

ぱっと考えただけでも、こんなにたくさんの問題が考えられます。ソーシャルメディアは確かにメリットも多いのですが、逆にデメリットもたくさんあります。市のサイトを完全に移行してしまうというのは、非常にリスクが大きいことです。あくまでも、プラスアルファの機能強化策と位置づけるべきでしょう。

今後どうなっていくのか、その動向に注目したいとは思いますが、安易に真似をするとやけどしかねない、というのが現在の私の見解です。


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その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

その8 遅れて登場した「村の重鎮」


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2011年06月12日

Twitter後のネット社会 番外編 その8 遅れて登場した「村の重鎮」

フェイスブックに私の友達が作っているコミュニティがあって、以前、そこに招待されたので参加しています。宗教団体のコミュニティとかではありませんから、別に毒になるわけでもなく、「まぁいっか」という感じで参加しているのですが、その管理人氏、一所懸命そのコミュニティを盛り上げようとして投稿を繰り返しています。しかし、投稿するのはその管理人氏のみです。他の参加者はときどき「いいね」ボタンを押すか、ほんの数文字のコメントを書くだけです。そして、コミュニティの参加者は25名です。

それで、少し前に、管理人氏はネットメディアの専門家である僕に「どうやったら増えますかね?」と聞いてきました。

彼がフェイスブックに投稿していたコンテンツは、そのどれもこれもが本来ウェブサイトに系統立てて記載されるべきもので、もしフェイスブックを利用するのであれば、あくまでも本コンテンツはウェブ上に記載され、補助的な手段として更新情報がコミュニティ参加者に配信されるべきものでした。フェイスブックへの投稿はアーカイブ性が低いため、例えば一ヶ月後に参加した人は、今ここで行われているやりとりを見る機会がありません。これでは砂漠に水を撒いているようなものですし、そこに投入されている労働力はただの無駄になってしまいます。

つまり、

1.ウェブサイトの構築
2.フェイスブックのコミュニティ参加者を増やす
3.コミュニティに更新情報を流す
4.フェイスブックでフェイスブックにふさわしいやりとりをする

といった手順が必要なのに、ウェブサイト、フェイスブックの特性を把握していないために、管理人氏は毎日せっせと無駄作業に励んでいました。そこに投稿されているネタが面白いものであれば、これによって参加者の増加も期待されますが、もちろんそのネタは面白くも何ともないものです。これでは参加者は増えるはずがありません。ちょうど、サイエンス・コミュニケーターが抱える問題点と同じものを抱えていたわけです。

赤の他人なら「無駄作業ご苦労様」で終了なのですが、さすがに彼は私の友達なので、放置しておくわけにもいきません。そこで、「私のTwitter後のネット社会を読んだほうが良いよ」と書いてあげました。管理人氏は「読んでみます」と答えましたが、その後も相変わらず砂漠に水を撒いています。そこで、「読むとか言って、読んでないでしょ」と書いてあげました。

すると、しばらくして、管理人氏からチャットで「元木さんは生産的じゃない、前向きじゃないと不快に思っている人から複数メールが来た」と連絡が来ました。私は、「あぁ、なるほどねぇ」と膝をうちました。

私たちのような、ネット住民は「文句があるなら、その場で書けば良いじゃん」と思ってしまいます。ところがそうではない人たちが一定量存在します。これまでは、それに該当するのは「情報病」患者であり、「変異型情報病」患者でした。そして、フェイスブックによって、もう一つが加わったことになります。名称はないのですが、これまで技術的なハードル故に2ちゃんねるやミクシィを使うことができず、ようやくネットに入ってきた人たちです。仮に、ここでは「村の重鎮」とでもしておきます。彼らは肩書きや人間関係をそのままフェイスブックに持ち込みました。日頃の人間関係をただ単にインターネットの中に持ち込んだだけです。そして、彼らは、日頃やっているように、背後でこっそりと自分の不満を管理人氏にぶつけるのです。これを見て、「あぁ、フェイスブックとはつまらないメディアだなぁ」と痛感すると同時に、2ちゃんねるに代表される匿名メディアの素晴らしさに、今更ながらに気がつかされました。

2ちゃんねるであれば、私が何を書こうとも、それはどこの誰ともわかりません。その文章を読んで、「お前、アホかよ、もっと生産的なことを書けよ」(実際には、2ちゃんねるではこんなコメントはつかないでしょうが)と批判がありそうなものです。なぜかと言えば、「発言」と「発言者」が厳密に分断されている(=匿名化されている)からです。フェイスブックの場合、「俺のような肩書きの人間に対してなんて言いぶりだ」とか、「お前は俺の友達なんだから、もっと親切に書けよ」とか、「お前は俺の部下なんだから黙ってろ」とか、そんなこんなの圧力が存在してしまいます。ですから、背後で、人間関係を利用して「不愉快なんですけどぉ」とかメールすることになります。

私はこれまで、2ちゃんねるやツイッターといったメディアの匿名性をそれほど重要視してきませんでした。そして、私自身、ネットではほとんど実名で情報発信してきていました。ただ、私の場合は、相手がどんな肩書きだろうと基本的にそれを考慮しません。ですから、これまでも問題がなかったんだと思います。しかし、普通の人は違います。ネットの中にリアルな肩書きや人間関係が持ち込まれた場合、自由な発言が阻害されてしまう人の方が多いでしょう。それを目の当たりにして、私は愕然としました。

フェイスブックに対してはこれまでも、アーカイブ性が低いとか、インターフェイスがわかりにくいとか、システム的な部分でクエスチョンマークをつけ続けてきたのですが、今回は決定的に「つまらない」と感じてしまいました。これならミクシィのほうがまだマシだとも感じました。

これは、フェイスブックというシステムへの失望ではありません。日本のムラ社会気質とフェイスブックが融合したからこその失望感です。私のように、インターネットに対して、制限のない、自由闊達な、きままな、自律的な情報のやりとりを期待していた人間には、この失望は衝撃的ですらありました。

しかし、一方で、この融合は、あるクラスターに対しては大きな福音でしょう。それは、ムラ社会が大好きな、いわゆる官僚とか(ここでの「いわゆる」は、皆さんが想像する典型的な、という意味です)、いわゆる大企業の社員とか、いわゆる学者とかです。そういった、ムラ社会が大好きで、そこの居心地が良く、できればネットにもその居心地の良さを持ち込みたい層にはものすごくフィットするかも知れません。

前回、私は「フェイスブックは加齢臭に満ちている」と書いたのですが、その原因がどにあるのか、確信しました。何か自分の意にそぐわないことがあると、こっそりとメールしたり、悪口を言い合ったり、肩書きを利用して黙らせたり、ついつい日頃日常生活でやっていることをネットの中でもやってしまうような人が存在するからです。「村の重鎮」によって、日本のフェイスブックは色付けされつつあります。今後、この流れはかわっていくのでしょうか。引き続き、観察を続けたいと思います。

ここまで書いてふと気が付きました。物凄くだだっ広い大自然の中にいながら、ルールでがんじがらめにされて、マナーにもうるさく、高齢者愛好家が多い、というところで、ゴルファー層に共通点がありそうです。「村の重鎮」とすべきか、「ゴルファー」とすべきか、これももう少し考えてみたいと思います。  

2011年06月04日

Twitter後のネット社会 番外編 その7 来る前に終わった?フェイスブックの時代

そろそろ、フェイスブックの利用状況が明確になってきました。「Twitter後のネット社会」ではまだ不透明だったため、フェイスブックの利用に関する考察は行いませんでした。ここで簡単にまとめておきたいと思います。

まず、ミクシィとTwitterの状態についてまとめます。ミクシィのファーストアダプター達は、主として学生でした。彼らはミクシィ内で徐々にムラ社会を形成し、現在に至ります。その社会は背景に学生時代のネットワークを持っているため、同窓会的な色彩を持っています。現在はその多くが大学を卒業し、社会人になっています。彼らの情報交換ツールとしてミクシィは依然として愛用されているようで、メインユーザーは20代後半から30代前半の男女となっているようです。私が利用している限りでは、特に結婚して子供を持った女性が会社を退職したあと、暇つぶしと情報交換に利用しているケースが良く見受けられます。ミクシィユーザー達のうち、これらの「学生としてファーストアダプター」となった層はすでにミクシィ内で友達関係を確立しており、新しくツイッターやフェイスブックを始める理由がありません。したがって、かなりのケースで引き続きミクシィを利用し続け、新しいプラットホームへは移行しないケースが多いようです。

ミクシィがスタートしたときにパソコンスキル・携帯スキルが低かった層はミクシィのムラ社会体質に対して疎外感を持っており、はまり切れず、どっちつかずの場所に存在したようです。彼らを取り込んだのがTwitterでした。ツイッターはミクシィに比較して圧倒的な使いやすさで新しいユーザーを獲得しました。Twitter利用者のメインは、当初はパソコンスキルが低く、iPhoneの登場によって携帯端末からのネット接続が可能になったiPhone利用層です。Twitterでは人間関係の存在しない人も気軽にフォローできるので、ミクシィよりも新しい人間関係を創出可能になりました。これによって、広く薄いネットワークが構築されつつあります。

そして、フェイスブックがやってきました。フェイスブックの利用者の中心はミクシィで出遅れ、携帯・iPhone文化圏にも属さない高齢層がメインユーザーです。彼らはフェイスブックの中に、すでにリアルに存在する人間関係をそのまま持ち込みました。新しい人間関係を構築する性質のものではなかったことから、フェイスブックの中はファーストアダプターの中でもムラ社会的性格を強く持ち合わせています。個人的な感覚でいわせていただけば、フェイスブック内は加齢臭で満ちています。

それぞれの利用層を一言で表現すると、
ミクシィ:主婦
ツイッター:iPhone
フェイスブック:おじさん

となります。

今後の成長性を考えればどのメディアもあまり期待はできないでしょう。ミクシィはすでに衰退期に入っている印象がありますし、ツイッターも勢いは失われました。フェイスブックの時代は来る前に終わっている印象すらあります。ただ、ネット内のソーシャルメディアはこの程度の利用が適度なのではないでしょうか。みんながみんな特定のプラットホームを利用していたら気持が悪いことになります。「Twitter後のネット社会」で指摘した「変異型情報病」の患者たちは「自分が使っているプラットホームを友達にも使ってもらいたい」と考えますし、少なくない割合の日本人がこの変異型情報病の患者ではありますが、どのプラットホームもそれなりに暇な時間が存在しないと、ハマるまで使うことにはなりません。だからこそ、専業主婦や窓際族のおじさん達が徐々にこれらのメインユーザーになりつつあると考えられます。

私は、フェイスブックはそろそろピークを迎えつつあるのかも知れないと感じています。なぜなら、ミクシィも、Twitterも使えず、でも何か新しいものを使いたいと考えていた層は、すでにフェイスブックを使っているからです。今使っていない人は、おそらくは半年経ってもやはり使わない可能性が高いと思います。また、ユーザー獲得数が少ないため、ビジネス面での魅力もアップしてきません。私はフェイスブックのみならず、ミクシィもTwitterも、ビジネスでの利用は非常に難しく、かつリスクのあるものだと捉えていますが、この3つの中では今のところフェイスブックが最も可能性がないと考えています。

フェイスブックの時代は来る前に終わったのかも知れない。この私の感覚が当たっていたかどうか、半年後ぐらいにまた検証してみたいと思います。  

2011年05月28日

Twitter後のネット社会 番外編 その6 芦田さんのツイッター微分論について その2

なんと、芦田さんから直々に教えを受けております。

このエントリーは「Twitter後のネット社会 番外編 その6 芦田さんのツイッター微分論について その1」の続きです。

芦田さんより「次の二つの文書を読め」ということでしたので、読ませていただきました。最初はこちらです。

【第二版・PDF版】twitterとは何か(中級) ― 「タイムライン」とは何か(twitter=「タイムライン」は何が新しいのか)

以下、まとめと感想となります。なお、感想、意見は一番最後のセンテンスに対してのものになります。

タイムラインは、一個の人間を付帯情報(肩書きとか、実績とか、学歴とか、職歴とか、家柄とか、国籍とか)から分離する。
タイムラインから「現在」だけを切り取ると、全ての発言者は平等になる。
誰の意見に対しても、誰もが発言できる。
より平等性を高めるためには、フォロー数が必要である。
フォロー数が増えれば、発言対象となりうる発言が増える。発言機会が増大する。
フォロー数を増やすことによって、情報はより一層付帯情報と分離される。

→11「フォロー数を増やして微分化すればするほど、関心は連続する。つまり情報選択の主体(特には「検索」の主体)はここでは不要になる。」についてはちょっと疑問です。本当でしょうか?例えば、ランダムにつぶやきを選択したらどうなるのでしょうか。ランダムな選択は機能的ではないということかも知れません。無意識のうちに、自分に都合の良いつぶやきが選択される、ということかも知れません。それを称して、「情報選択の主体は不要」ということでしょうか。

これまでのネット情報は有効利用にスキルが要求された。
それを少し容易にしたのがSNSとRSS。しかし、スィートスポットが狭かった。
タイムラインの情報量が、自動的な(能力的ではなく)スルーを可能にした。
同時に機会を増大もしている。
スキルが低くても、自分に適合した情報に行き着くことができる。(18について。例えばあずまんとかは逆の状態)

→全般的に、異論はありません。その通りだと思います。


続きまして、こちらの文章です。

機能主義とメディアの現在−情報社会とデータベースと人間の死と(講演) ※補論:土井隆義の『個性を煽られる若者たち』における個性論

以下、まとめと感想になります。

機能主義の「機能」とは、原因と結果を外観上直結するもの。中間の動作をブラックボックス化する。

サイバネティクスの思想は、まず「制御できるもの」と「制御できないもの」の二つで世界をみる。そして、制御できないものを、制御できるものを使って相対的に制御する。メルトダウンした原発を注水によって冷却、安定化するとか。ウィナーはこれを全ての事象に応用できると考えた。

機能主義的な動き、すなわち機械的な動きは、動いたところで完了する。
サイバネティックスでは、必要に応じて動く。自動。

→機械的と自動的は違うのでしょうか。踏んだら開く、そこでおしまいなのが機能的で、開いたものが閉じて、また次に踏まれるのを待つのが自動的、ということでしょうか。

動いたことを検証し、その原因について検証する場合、その存在は人と区別がつかない。

行動主義とは、外観(外部から観測可能な事象)が全てを規定するという考え方。外から見た行動が同じなら、中身が生身の人間であろうが、アンドロイドだろうが、無関係、ということ。

賢い奴がいたので、東大卒だと思ったら実は中卒だった。でも、外観が賢いのであれば、そいつは東大卒と同等に評価されるべき。

人間は関係のあるものと関係の無いものを分類し、重要度の低いものを無視できる。

人工知能だと、環境要因について、あらかじめ関係のあるもの、関係のないものを分類しておく必要がある。電話をする、という目的に対して、部屋の電気、そとの天気、ファックスの調子、パソコンの調子・・・と、色々存在するものについて、これは関係がある、と定義する必要がある。関係ないものを定義して外さない限り、それは関係のあるもの。

関係ないとした部分でアクシデントが起きたときに人間は驚く。人工知能は全てを関係があると思っているので、驚くことができない。全て想定の範囲内。

現在について評価できるのは未来でしかない。現時点において、現在の評価はできない。

→多分、このあたりが芦田さんと私の立ち位置の違いなんだと思うのです。現時点で「正しい可能性の高い選択肢」を選ぼうとするか、最初から諦めるか、です。でも、芦田さんも別にそれを諦めてはいないはず。それをツイッターに求めるかどうか、ということでしょうか。

過去の悪さを人前で公言できる人間は自分の現在を肯定しているだけ。

データベース主義は、とにかくデータを集める。何が必要になるかは将来しかわからないから、今のところはデータを集めておく。

データは入力段階で差別してはならない。

大量のデータを差別(選別)するシステムが「検索」である。

検索には情報量と抽出スピードが要求される。

膨大な情報をベースにして最適化された行動を選び出せることが最も幸せなこと。

→データベースを共有化でき、検索システムが共有化されれば、「判断」は不要になるわけですね。個性がなくなり、全ての人間(とロボット)が機能的に同一になると理解しました。未完成で、理解不能な事象の前でオロオロし、R2-D2に愚痴をこぼすのがより人間的なC-3POであり、その愚痴の中で不要なものをスルーし、重要なものにだけ対応する能力を持つのがR2-D2である、と理解しました。

機能主義的に言えば、人間は実力のみで評価されるべき。そのひとつが学歴主義。これに対立する概念は階級主義、家族主義。

マークシート試験は非差別主義のシステム。

一人の人間の中から受験日の一日を切り取って、評価する。より自由であり、平等である。

ツイッターは、それをさらに140文字まで縮めたもの。データベース主義をやめようというメディア。

→なるほど。私の場合、ツイッターを見て、「?」と感じると、その人の背後のデータベースを見てしまいます。それは過去の発言であったり、プロフィールだったりします。そして、それを見た上で、「あぁ、こいつは馬鹿なのか。じゃぁ、納得」として、私のデータベースにそれを入れなかったりします。つまり、入力段階でデータを選別、差別していることになります。この行動について、「データはほとんど無限に蓄積できるんだし、その情報の良し悪しは現段階では評価できないんだから、とりあえず放りこんでおけよ」というのが芦田さん的な考え方ということでしょうか。

短い時間で切り取ると、人間は誰でも同じ。

→本当にそうなのでしょうか?例えば昨晩、私が

すげぇ、ツイッターっていつの間にか、フォローしておいてタイムラインに出さないっていうのができるようになったんだ(笑)。お付き合いでフォローしておいて、でも目障りだからタイムラインに出さない(笑) 非常に日本人的な機能だな、おい。米国人もこのような日本的なもののあはれを解するようになったとはいとをかし


と書いたら、

「いとをかし」は「とても趣がある」ということですが・・・趣?


と書いてきた馬鹿がいて、想像するに、この方は私に対して「あんた、「をかし」の意味を勘違いしているんじゃないの?」と思っているわけですが、私は当然「をかし」の意味を理解した上で、「米国人ですらこんな風に他人の目を気にするようになってしまったのねぇ。感慨深いですねぇ」と書いています。そして、そのことぐらいは普通の常識的な日本人なら簡単に理解するわけです。140文字まで切り取っても、その文字はやっぱり大量の「付帯情報」を背負っていて、そこを切り離すのは難しいのではないか、と私は思います。

単に、私がそういう使い方をしている、ということかも知れませんが。

ツイッターによって人間を小さく切り取る(→これを芦田さんは「微分」と表現)ことによって、賢い人も馬鹿も一緒になってコミュニケーションができるようになる。交流が活発化する。

→なるほど。私のように、「あぁ、こいつ馬鹿だな。さようなら」というのは、芦田さん的には間違った使い方になるのかも知れません。前提には、現時点で情報の良し悪しは評価できない、というのがあるのでしょうか。あるいは人間の良し悪しも評価できない、と。私は明確に評価しています(できる、できない、あるいはその評価が正しい、正しくない、に関わらず)。そういう意味では、私は物凄く評価が好きですし(ラーメン評論家だし、なんちゃって映画評論家だし)、差別的な人間でもあるんだと思います。「こいつとのコミュニケーションは時間の無駄だから、辞めておこう」と考えるような人間です。

インターネット利用の活性化の鍵は検索能力の向上と思われていた。

→今も私はそうだと思っています。

情報検索の問題点は情報の時間軸が見えにくいこと。抽出結果が古くて役に立たない可能性が否定出来ない。検索が役に立つのは、検索者に時間差を埋める能力がある場合。データ識別能力(評価能力)がある場合。

専門家は安易に発言しない。馬鹿はインプットとアウトプットの間に時間がない。土日に読んだドラッカーの話を月曜日の朝礼で話す。

専門性とは、時間による蓄積と評価がなされること。

ミクシィにしろ、ブログにしろ、その場の発言ではない。時間をおいている間に、書き手は情報を評価している。ツイッターはその評価の場面が存在しない。

ツイッターには、「現在」が内包する迫力が存在する。

→確かに、総統閣下動画が一晩で10万ヒットしたときのツイッターは凄いものがありました。

ツイッターは、利用主体の意欲と選択なしにネット情報を活用できるメディア。

ツイッターのつぶやきは「現在」の共有である。

→ここも私とは違うところです。私にとってのツイッターは、あるデータベースへのトリガーでしかありません。ただ、ツイッターをどういうツールとして捉えるかはそれぞれで、芦田さんが主張するような使い方が「最も効率的かつ本質的な使い方」である可能性は否定しません。私はあまりそういう使い方をしていない、ということです。その上で、一般の人にどういう利用方法をオススメするのか、という問題は引き続き存在します。このあたりが、「ツイッターの利用法」につながりそうです。

テーマ主義はストックの文化で、専門家が必ず勝つ。

→そうですね。だから、専門家である私は安心なのです(笑)。

ツイッターは人間を細かく切り取ることによって平等性を増大させるツール。これによって多様な交流を実現する。

社会のサービス産業化が進み、営業マンニーズが高まっている。「売る人間」が必要。

営業マンに必要なのは体系的な知識ではなく、空気を読む力。コミュニケーション能力。

人間は他者に敏感になることを要求されている。人が来たらドアを開く自動ドアと一緒。いつ誰が来ても大丈夫なように構えている。

今の若者は24時間コミュニケーションに縛られ、疲弊している。
→このあたりは「情報病」と同一の考察で、言葉が変わっているだけです。おそらく三浦展さんとの情報交換はなされていないと思うのですが(勝手な推測ですが)、結論が非常に似通っていることは興味深いです。

友人関係が密になり、コミュニケーションを継続していることが大事になる。内部に物凄く巨大な他者を抱えている。

ツイッターはそうした拘束感がない。

ツイッターは、ストックのない人間でもある種の社会性を構築できる。
→ストックのある人間も、それとは別の社会性を構築できるはずです。

牛丼をトリガーにして哲学に踏み込んでくる人がいる。これが「ソーシャル」。

→これはそのとおりだと思います。

大量にツイートするとフォローを外す奴がいる。こういう奴らは元々のフォロー数が少ないから。これではツイッターならではの有効利用は難しい。

→昨日、「あなたの窓」機能を使ってのぞき見したら、その人のタイムラインが私のつぶやきでいっぱいだった、ということがありました。確かにこれでは困ってしまいます。つまり、ゴミ情報が大量に流れていて、自分に都合の悪いものは機能的に意識の外に排除されていくのがツイッターだ、と理解しました。

「時間を忘れること」と「死を忘れること」

→残念ながら、このパートは私に哲学に関する基礎的な知識がなさすぎて読解不能です(汗)。しっかりと理解するためには相応の勉強が必須です。


芦田さんと私の違いは、まず、芦田さんがツイッターを「教育する場」としている一方で、私は「情報を発信する場」としている点にあると感じました。ここに、ツイッターに対する認識の違いが生じているような気がしました。

そして、芦田さんは、生徒を前にして、勉強したがっている人にどうやったら機能的に勉強できるかを説いていると感じました。一方で私は、一定のスキルを持った人を対象として、情報を効率的に集めていく方法について論じています。両者の違いは、芦田さんはツイッターによってコミュニケーションを発生させ、その先に学びの機会を設定していることに対し、私はツイッターをトリガーとしてデータベースへのアクセスする手順について考えています。

芦田さんの手法は、コミュニケーション能力を必要とし、私の手法はデータ抽出能力を要求します。その上で、芦田さんの主張は、ツイッターで要求されるコミュニケーション能力は、ツイッターが持つシステム上のメリットによって、かなりの部分まで低減されている、ということなんだと思います。問題は、そうしたクラスターからのアクセスに対して、「なんだよ、お前は」とブロックする有識者の存在ということなのかも知れません。相手が大量のフォロワーを持つ場合、パンピーからのアクセスも大量となりますから、相手が反応してくれる可能性はどうしても低くなります。  

2011年05月25日

Twitter後のネット社会 番外編 その6 芦田さんのツイッター微分論について その1

芦田宏直さんに「Twitter後のネット社会」を献本させていただいたところ、アホか、馬鹿か、くだらん、と酷評されるかと思いきやさにあらず。大変好評だったのでびっくりしました(ただ、芦田さんはとてもシャイな方なので、「素晴らしい」とか、「お前ら全員買って勉強しろ」などという言葉は一切ありませんでした)。なお、蛇足のような形で、下記のコメントをいただきました。

@jai_an 芦田宏直
微分論を取り上げないで、信者論に徹するのはずるいなぁ。しかもこの「信者」論、間違ってるし(笑)。 そもそも1万人程度のフォロワーで信者も何もないよ。

http://twitter.com/#!/jai_an/status/72554947383803905


なるほど。実は、「Twitter後のネット社会」の大部分を書き上げたのは2010年のゴールデンウィーク前で、大変恐縮ではあるのですが、その時点では芦田さんの「Twitter微分論」は私のタイムライン上で微分化されてしまい、その内容についてきちんと勉強しておりませんでした。それで本を書いてしまうとは大変お恥ずかしい話です。その後、Ustreamで一度流し観をしたのですが、結局結論が良くわからず(というか、だからどうなの?と思ってしまいました)、まぁ良いや、とスルーしておりました。しかし、「アホか」でもなければ「馬鹿か」でもなく、「ずるい」と、日頃の芦田さんのボキャブラリーには登場しない単語を引き出した(女性に言われてこんなに自惚れてしまう単語もありません、個人的に。究極の褒め言葉でもあります)ことに気を良くしまして、まずはTwitter微分論について再度勉強してみました。今回は、そのレポートです。まずは微分論の要約です。

ブログ→読み手が見えない。更新していくのにはスキルが必要。
SNS→誰が読んでいるか見える。反応を獲得しやすい。
これらのメディアは利用主体の能力格差が出てくる。能力を要求する。
ツイッターはそうじゃない。
誰でも楽しめる。
ツイッターでリストを使うのは、積分世界で生きてきた人間が微分世界のツイッターを無理やり積分化しようとしているケース
古い考え方の奴はフォロー数とフォロワー数のギャップにプレゼンスがあると思っている。つまり、フォロー数が少なくて、フォロワーが多いと偉い、みたいな。
そんなの関係ない。
いろんな付属品をそぎ落として、コメントだけがそこに存在しているのがツイッターの存在意義。
例えば「ミトコンドリアでそいつを判断する」ということ。そのミトコンドリアがだれのものかなんて考えない。これが「微分」の意味。
じゃぁ、何をするの?>楽しむもの。勉強できるわけがない。商売できるわけがない。


なるほど。このサマリーが正しいかどうかについて絶対の自信はないのですが、おおよそのところはあっているのではないかと思います。私は以前この微分論を見たときに、これをスルーしました。なぜかというと、最後の部分が私にとって面白くなかったからです。「色々とそぎ落として、140文字のデータだけがある」までは良いのですが、「データ」そのものが私にとっては面白いものではなく、それならツイッターは要らない、ということになってしまったのです。「ツイッターをどう利用するのか」ではなく、「ツイッターはあなたにとって無用のシステム」という結論になってしまい、これでは元も子もないな、と考えたわけです。

さて、ここでちょっと話を変えてみます。私は、芦田さんはツイッターを芦田さん流にとても有意義に利用していると見ています。それはどういう理由なのかをちょっと述べてみます。私の理解は、芦田さんは教育に関する教師、つまり、教師に教育を教える立場の方というものです。そして、馬鹿な教育論(これを展開するのは主として教師ですが、微分論的に言っても、発言者の肩書きは関係ありません)を見つけたら「馬鹿だ」「アホだ」と述べて、芦田さんの考える教育論を提示することを楽しみとしています。また、そのやりとりを周囲に見せることによって、当事者以外をも教育することを目論んでいます。つまり、芦田さんは頭の悪い教育論を常に探しているのです。そして、ツイッターの中にはそれがたくさん溢れています。だから、芦田さんはツイッターを馬鹿発見器(あるいは馬鹿な教育論発見器)として利用しているわけです。こうしたスタンスの芦田さんにとっては、次から次へと湯水のごとく馬鹿が供給されるツイッターはまさに天国。水を得た魚のごとく、また、モグラたたきよろしく、馬鹿を見つけては叩いて楽しんでいるわけです。

つまり、芦田さんの「楽しみ」とツイッターの微分的性格が物凄くフィットしたわけです。また、これを逆に言うなら、微分化されればされるほど、芦田さんの楽しみは増えることになります。なぜなら、芦田さんはひたすら馬鹿を探しているからです。そして、馬鹿には、付帯情報が必要ありません。今そこにある文字データが馬鹿であるかどうかだけが重要です。そして何より、芦田さんは自分の中にしっかりとした「正解」を持っている方です。その正解に照らすことによって、馬鹿はすぐに見つけることができます。おそらくは「教育」とか、「キャリア」とか、芦田さんにとって餌場になりそうな単語で検索をかけて(これは、魚群探知機のようなものです)、その結果から馬鹿を見つけてきているのではないかと推測します。満員の海水浴場に放たれた人食いザメのようなものです。

さて、話を自分のところに戻します。私の場合、ツイッターには馬鹿を求めていません。多くの場合、私の中に確固たる正解もありません。自分の中の正解を見つけるための情報や判断材料を求めています。その場合、ある情報について、それが信用に足るものかどうかの判断材料、つまりはその人の過去の発言が重要になります。ですから、ツイッターでも、私は「おや?」と思うと、その人の過去の発言を遡ってチェックします。ブログがあればそれを観に行くこともあります。ところが、これは芦田さんの微分論によれば、これはナンセンスです。まさに、「アホか」という奴です。芦田さんは、「そもそもツイッターには有益な情報なんてないんだから、それをツイッターに求めるのはナンセンスだ。有益な情報は140文字で収まるわけがないんだから、ブログでも、ウェブでも、SNSでも、他のところをあたるべきだ」と言うと思います。

実際のところ、私はデータオタク的な部分があり、だからこそ三菱総合研究所とか、経済産業省とか、データが集まるところで働いてきたんだと思います。芦田さんの微分論からすれば、ツイッターには最もフィットしないタイプの人間ということになります。

以上、芦田さんのツイッター微分論を見させていただいた上で、芦田さんの立ち位置と私の立ち位置を分析してみました。その上で、次回以降は「私はどうあるべきか」つまり、「積分型の人間はどうあるべきか」や、芦田さんに唯一間違っていると指摘されました「信者論」について、考えてみたいと思います。

#間違った認識があると以後の考察は意味をなさなくなりますので、まずはここまでをブログに記載し、皆さんのご意見を(もし得られるなら、ですが)聞いてみたいと思います。  

2011年05月23日

Twitter後のネット社会 番外編 その5 自分にとってのカリスマ

先日、Yahoo!映画のレビューにナタリー・ポートマン主演の新作「ブラック・スワン」のレビューをアップしました。私はこの手のレビュー活動をラーメン、外食グルメ、映画、演劇、書籍などで行っていますが、映画についてはかなり書きこんだレビューを書くことが多いです。大体1000〜1500文字程度で、あらすじや俳優など基礎データを書くことはあまりないので、映画のレビューとしては長い部類だと思います(もちろん、本職の映画評論家の方々はもっと長い文章を書いています)。さて、そんな私が書いた内容は、こんな感じのものでした。500文字弱です。

え?これがアカデミー賞、主演女優賞しか獲れなかったの?
信じらんない。
これから大事なことをいくつか書きます。まずその1。レビューは読んじゃダメ。このレビューを最後にしましょう。
その2。ナタリー・ポートマンのファンなら文句なくおすすめ。
その3。必ず大きな画面の、音響がしっかりした映画館で観ること。しょぼいテレビとしょぼい音響施設じゃダメです。
その4。怖いのが苦手ならやめておいた方が良いかも。
その5。「白鳥の湖」のストーリーは勉強しておいた方が良いかも。「どこで勉強するのさ」という人はウィキペディアでもどうぞ。
ウィキペディア「白鳥の湖」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%B9%96
ここ1年ぐらいでは一番の衝撃だった。総じて音響がイマイチの試写会が当たらなくて、今となっては逆にラッキー。
ということで、もう一度書いておくけれどこれ以上レビューは読まないほうが良い。さっさと映画館へどうぞ。
怖かった。

http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id337733/rid194/p3/s2/c21/

このレビューを掲載して12時間ほどで、「参考になった」という役立ち票が16票になりました。それよりも一日ほど前に掲載した「奇跡」は、その時点で14票しか投票されていなかったので、ブラック・スワンのレビューは奇跡よりもずっと好意的に受け入れられたようです(ただ、映画自体の注目度がこれを書いている時点では全く異なるのですが)。

レビューの内容を一読してもらえばわかることですが、このレビューにはほとんど感想らしきものが書いてありません。書いてあることは「予備知識なしで、映画館で観てきて」ということだけです。僕のブログの読者であれば、「普段、たっぷりとネタばれする人がどうしたんだろう?」と思うような内容ですが、Yahoo!映画の場合は、そのレビュアーが普段どんなレビューを書いているかなどには無頓着だと思いますから、多くの人にとっては、個人の主観的な感想よりも、「ネタバレなしで楽しめ」という情報の方が価値があったということでしょう。

また、ブラック・スワンよりも少し前に、「トゥルー・グリット」という映画のレビューを書いたのですが、このレビューも比較的多くの「参考になった」票を集めました。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id338090/rid128/p0/s0/c0/

このレビューの特徴は、「良くわかんなかったけれど、こちらで物凄く丁寧に説明してくれている動画があるから、そちらを見てね」という、素人評論家ならではの丸投げレビューという点です。僕には理解不能だったけれど、町山さんという、もっと詳しい人がこちらで説明してくれています、などとは、プロだったら口が裂けても言えないセリフですが、それをやってみたところ、これも好意的に受け取られたようです。僕の役割は、役に立つ情報の発信ではなく、役に立つ情報へのガイドでした。

「Twitter後のネット社会」では、1-3章で「情報の信頼性というのは「みんなが言っている」のではなく、「誰がその情報を発信しているのか」ということに帰属することになります。信頼すべきは、「大勢の意見」ではなく、「信頼に足る特定の個人が発信する情報」に帰着すると考えられるのです」と書きました。トゥルー・グリットの事例では、僕が果たした役割は「信頼に足る特定の個人への水先案内」だったわけです。

つい先日、ZAPAnet総合情報局のzapaさんがツイッターでこのように書いていました(部分引用)。

実は、カリスマの主観的レビューが一番参考になる。

http://twitter.com/#!/zapa/status/72236498493255682

私も全くこの通りだと思います。自分にとってのカリスマをどうやって見つけてくるかが大事だということです。

なお、映画関係で私が参考にしている(自分でレビューを書く前に読むことはほとんどありませんが、書いた後に読んで、なるほどなぁ、と感じることが多々あります)、私にとってのカリスマを開示しておきます。このリスト自体はそのまま真似をしても意味がありません。それぞれが自分のリストを作っていく必要があって、そのための参考資料です。

破壊屋さん
http://hakaiya.com/

町山智浩さん
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/

つぶあんこさん
http://blog.livedoor.jp/tsubuanco/  

2011年04月22日

Twitter後のネット社会 番外編 その4 ツイッターでの議論はソーシャルリンチにつながります(草稿)

今、ちょこっとネットウォッチしていた。まず、Aさんが、「うーーーん、ややこしいことになったなぁ」と書いている。どうやら彼は被災地支援のウェブサービスを作っているらしい。「BさんとCさんがケンカするなら、僕は手を引きます」と言っているようだ。続いてBさんを見てみる。「やるべきことをやるよりも、やるべきじゃないことをやらない方が良いこともある」って言っている。その通り。

正確な引用は下記
今僕たちに何ができるかよりも、今僕たちは何をしない方がいいかを考える方が良いこともあると思う


すぐに事例は思いつくよね。放射能差別はしない方が良い。電気を無駄遣いするナイターはやめた方が良い。デマかも知れない情報は安易にバケツリレーしない方が良い。

するとそこに無関係の中学教師が絡んできている(笑)。僕の経験からすると、中学教師とかはたいていは馬鹿だ(笑)。いや、もちろん良い先生もいると思うのだけれど、僕の知る限りはほとんど馬鹿。もっと言ってしまうと、「センセイ」と呼ばれている人は大抵馬鹿。なので、こいつもどうしようもない。何の生産性もなく、横からちゃちゃを入れているだけ。「あぁ、やっぱりセンセイと呼ばれている奴は馬鹿だな」と僕の自説を補強した上で、次に移る。

ケンカ相手のCさん。あぁ、なるほど、やっていることは全く正しいけれど、世の中を客観的に見ることができないタイプ。「俺、こんな事やっちゃってカッコイイでしょ?」と、そこに溺れている(笑)。自己顕示欲が強い人ってこうなるよね。誰に似ているかなぁーって思い出してみると、中谷彰宏さんだ!みんなでCM作ったはずなのに、「あれも、これも、俺が作ったから!」っていうタイプ。だから、Cさんのサービスにも「俺のツイッター」「俺のブログ」みたいなリンクがてんこ盛り(笑)。で、Cさんは自分がカッコイイことが大事なので、技術的なリスクや運用上のリスクは比較的どうでも良い。ところが、全体を取りまとめているAさんや、技術面をサポートしているBさんはそれでは困る。表面上の旗頭はCさんだ。ということで、BさんとCさんがケンカをして、Aさんがストレスをためている、という状態。

そして僕は、「まぁ、僕はツイッター上で眺めているだけだから、正確なところはわからないよね」と思っている。でも、少なくとも僕はAさんは昔からスジが通ったことを言っていると思っているし(面識はないけれど、ツイッターでフォローはしている)、今回も正しいと思う。

Cさんは、中谷タイプというか、政治家タイプ(つまり、手柄は全部俺のもの、俺ってカッコイイ、っていうタイプ)なので個人的には嫌い(笑)。だけれど、やっていることの理念は間違っちゃいないと思う。でも、使い方が酷いんだよな、技術の。ウェブにしても、ツイッターにしても、何にしても、「俺は正しい」って上に、ツールの使い方だけは知っているから始末に終えない。「一番面倒なのは勤勉な馬鹿」という言葉があるけれど、「道具を手にした正義」も結構面倒くさい(笑)。結果として、その正しさの押し売りになっている。理念は正しいのに、表現方法やツールの使い方がダメなので理念が実現しなくなりつつある。そもそも、内部調整をツイッターでやって、第三者がクビを突っ込んで来たら「そうでしょ?そうでしょ?俺って正しいでしょ?俺ってカッコイイよね!だから、AとBは俺に従え」っていうのは相当にズレている。

AさんもBさんもサイトの意義は認めているのだけれど・・・どこが共有化されていないかといえば、「Cさんがカッコイイ」っていうことについてなんだよね、あたりまえだけれど(笑)。Cさんがキムタクだったら、みんなが「キムタクだから仕方ねぇ」って思うんだけどね。「被災地を支援しよう」が唯一の目的であるAさん、Bさんと、「被災地を支援している俺ってカッコイイ」と思っているCさんとの温度差が、ネットツールを使うことによって顕在化してしまったようだ。いや、あくまでも僕にはそう見える、っていうだけだけど。

結論。ツイッターはプッシュツールなので、節度ある利用を心がけましょう。第三者を巻き込むのも簡単ですが、内部調整はメールがオススメです(笑)。

以上、「Twitter後のネット社会 番外編 その4」のための草稿でした。いや、最近色々なことを同時並行させているので、思いついたときに書いておかないと忘れてしまうのです。  

2011年04月13日

Twitter後のネット社会 番外編 その3「ポジティブ情報も生き残れないTwitter」

徳力さんがこんな記事を書いています。

嘘やデマが“生き残れない”ツイッター

この記事を読むのが面倒くさい人のために3行でまとめますと、「ツイッター上の嘘やデマは一日もすれば沈静化します。企業のネガティブ情報や炎上などもすぐ沈静化しますよ」といった内容です。書いてある内容はその通りだと思います。この記事を通じて、徳力さんは逆説的に、「だから安心してください。マーケティングツールとして使えますよ」ということを言いたかったんだと思います。

でも、別の視点から言えばポジティブ情報もすぐ沈静化するということになります。たとえば先月僕が作った「買い占めするならカネ送れ」という動画の場合、ツイッター上でのピークは17日、19日、25日といくつかのピークはあったのですが、4月以降はそれほど大きなピークがありません。もう、ネタとして消費しつくされたということです。おそらく30万人ぐらいが閲覧したと推測できるのですが、それをテレビの視聴率で言えば0.3%にしかなりません。この数字は視聴率としては非常に低い数字です。日本人で言えば、300人に一人しか見ていない勘定になります。「あなた、これを見ましたか?」と片っぱしから尋ねても、知らない人のほうが断然多いことになります。この動画の拡散の少なくない部分はツイッターによるものですが、だからこそ、定着もせずにすぐに消費されてしまうのです。YouTubeの場合、「チャンネル登録」という形で読者を固定化できるのですが、今回、一連の動画で僕のアカウントを登録した人は750人ぐらいです。僕のブログのPVが大体平均して3000ぐらいですから、25%ぐらいでしかありません。ツイッター経由のメッセージ送付というのは、その程度の威力しかないということです。

ツイッターは、お客様とのパイプという意味ではそれなりに機能します。ただし、それは企業→お客様というよりは、お客様→企業という色彩が濃くなります。企業サイドからはなかなか声が届きません。そして、お客様からの声にはきちんと耳を傾けないと、お客様がフラストレーションを抱えることになります。「伝わらなくて当たり前。対応して当たり前」がツイッターの商用利用の基本的な考え方です。「嘘も、デマも、そしてもちろん自分たちにとって都合の良い情報も、全てが素早く消費される」のがツイッターなのです。

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aftertwitter
  

2011年03月13日

Twitter後のネット社会 番外編 その2「自分ができることをやる」

拙著2−6「Twitterも衆愚化する」から一部抜粋します。

多くの日本人が、「みんなが私と同じ意見だから、私の意見は正しいと思いたい」し、「自分の意見はないけれど、みんながどう思っているのかは参考にしたい」し、「みんなに溶けこむことで安心したい」し、そして「みんなと一緒であることによって考えることから解放されたい」のだと思います。


今、Twitterの一部のコミュニケーションでこうした傾向が見られます。「国の一大事だから、国民が一致団結しよう」というのはそのとおりですが、受け止め方や貢献の方法は人それぞれです。みんながみんな同じ反応をする必要はありません。ですから、「どの局でも同じような番組を放送していても無駄だ。それくらいなら通常の番組を流して欲しい」という意見もあって当たり前です。昨日の夜、テレビ東京ではショウビズカウントダウンをいつもどおり放送していたと思うのですが、さっぱり要領を得ない原子力保安院の記者会見よりは、ショウビズカウントダウンの方が精神衛生上よっぽど良かったと思います。「他局も流しているからうちも」というノリで津波の映像を流したり、ある町では人口の半分以上(約1万人)が全く消息不明だというのに、「行方不明500人以上」などと流していることにどれだけの意味があるのでしょうか。もちろん、意味がないとは言いません。でも、通常番組を流しているテレビ東京には、一つの見識が感じられます。

また、別の例を挙げてみます。私たちの会社は、微力ながら製品の売上の一部を災害復興に対して寄付することにしました。今回の地震にあたり、私たちがどう考えたのかを紹介します。まず考えたのは、被災した子供たちが遊べるように、どうぶつしょうぎアプリを無料化することでした。しかし、実際の現場は電気が不足しているようです。また、ネット環境が存在しなければ、そもそもダウンロードすらできません。お父さん、お母さんのiPhoneで遊んでいて、緊急の連絡や安否の問い合わせに気がつかなくても困ります。こうしたことを考えてみると、ただただ無料で配布してみても、あまり意味はないんじゃないかと考えたのです。そこで、全ての利益を赤十字に寄付する(寄付先は正確には未定)ことにしたのです。

一方で、「家庭の医学」というアプリは無償化されています。
iPhoneアプリ「家庭の医学」が無料になっています(追記あり)

このアプリの場合は現場にいないと役に立ちませんから、無償化は英断だと思います。

このように、iPhoneアプリひとつ取っても、考え方も対応のやり方も色々あるのです。そもそもこういった活動をせず、普通に会社を営業し、その売上の中から「税金」という既存の「富の再分配システム」を利用するのも全く普通のやり方です。寄付をするから偉い、無償化するから偉い、ということではありません。こういった事態に遭遇したときこそ、みんながそれぞれに「何が出来るのか」を考えなくてはなりません。

多くのネット住民がTwitterやmixiや2ちゃんねるやFacebookで情報の共有と意見交換をしていると思います。そこで考えて欲しいのは、「みんなと一緒であることによって安心していないか」ということです。人と一緒であることが貢献ではありません。それぞれが、自分にしかできないことをやるのが貢献です。それが今まで通りに生活することであったとしても、それは決して間違ってはいません。そうやって普通に暮らしていても、被災した方々にはきちんと支援が行われるような社会システムが日本には存在します。ネットにいると、その事実を見失いがちです。

「被災者に対してできること」について情報を収集するには、ネットは非常に効果的です。その上で、「自分には」何ができるのかを考えてください。  

2011年03月12日

Twitter後のネット社会 番外編 その1「情報拡散は公式RTを利用しよう」

拙著「Twitter後のネット社会」2−4において下記のような記述があります。

デマに対しては2ちゃんねるですら「ソースを出せ」というオーダーがでるものですが、Twitterの場合は「誰が言い始めたんだ」という部分がわかりにくく、結果として「デマに弱い」状況が生まれています。特に多いのが「助けてください」と人情に訴えるものなので、注意が必要です。Twitterの情報に触れたときは、常にその信頼性に気を配る必要があります。(要約)


今、まさにこの状況が生まれています。現時点では、Twitter、mixi、Facebookは、それぞれデメリットよりもメリットが生かされている状態です。特にTwitterは、公式RTを上手に活用し、必要以上の情報の増殖が抑制されています。しかし、そんな中でも、徐々に不確実な情報が現れてきています。例えば、この情報です。

【拡散】友達のお父さんがコスモ石油に勤めていて教えてもらいました。首都圏の方へ。千葉の製油所、製鉄所の火災の影響で首都圏では、科学薬品の含まれた雨が降ることが予想されます。 傘やレインコートの使用をお願いします!雨にあたらないようにしてね!


この情報はまず間違いなくデマです。こうした情報が「善意」によってどんどん増幅してしまうのがネット社会の脆弱性です。しかし、もちろん、対策はあります。Twitterを利用している方は、「拡散希望」と言われ、その情報を拡散する場合には、必ず公式RTを利用してください。これによって、情報発信拠点の固定化が可能になります。もし初期情報提供者が自身の発信した情報について間違いであると認識した場合、大元の情報を削除することによって、Twitter上の情報は全て削除されます。情報伝達の途中で誰かが非公式RTを実施した場合、その情報は削除が不可能になります。

また、Twitter上の情報を他所(例えばmixi)に転載する場合は、「拡散希望」といったやり方はやめてください。あくまでも、自分のマイミクまでにとどめてください。情報の発信拠点の固定化が必要ないのは、情報の信頼性が担保されている場合のみです。今回の例で言えば、「友達のお父さん」という情報源に全く信頼性がありません。また、もしその情報が重要なものであれば、インサイダー情報としてではなく、必ずオフィシャルな形で報じられます(例えば、NHKの番組で告知されるなど)。

ただ、緊急の情報というのも間違いなくあります。ですから、情報を拡散する際は、必ずTwitterの公式RTを利用してください。今は誰もが「デマ」を流してしまう時代です。そして、それが社会を混乱させます。誰もが情報を容易に発信できるからこそ、それぞれが発信する情報に対して慎重である必要があります。Twitterの場合は、「公式RTを利用する」というだけで、かなりのリスク軽減が可能になります。

ただし、もちろん何でもかんでも公式RTをすれば良いというわけではありません。必ず、「これは本当だろうか」と一度考えるようにしてください。また、流してしまったデマは削除せず、修正するようにしてください。削除してしまっては、デマだったことが周知されず、拡散に歯止めが効かなくなります。

17:04追記
朝日新聞のサイトにデマであると掲載されました。
コスモ石油が否定 「火災で有害物質降る」のメール連鎖  

2011年03月01日

新刊のご案内「Twitter後のネット社会 〜コミュニケーション中毒患者の処方箋〜」

新刊のご案内です。2月28日、アゴラブックスより「Twitter後のネット社会 〜コミュニケーション中毒患者の処方箋〜」が発売されました。

以下、目次になります。

はじめに

第1章 Twitter前
1−1. ブログによる広報活動
1−2. 口コミとは何か
1−3. 個人に帰着するネット情報
1−4. ミクシィ難民たち
1−5. 商業主義と慣れ合いに汚染される口コミ情報
1−6. まとめ

第2章 そしてTwitterがやってきた
2−1. 難民が行きつく先のTwitter
2−2. TwitterユーザーとiPhoneユーザーの類似点
2−3. 一般ユーザーはなぜソーシャルサイトが好きか
2−4. Twitterの利用上の注意
2−5. 政治家のTwitter利用
2−6. Twitterも愚衆化する
2−7. Twitterはビジネスで使えるのか?
2−8. Twitterの表層性と部分性
2−9. 情報と情報源の結びつき
2−10. TwitterのSN比
2−11. だれでも情報を発信できる時代
2−12. Twitter利用者向け分類別Twitterおすすめ度
2−13. 変異型情報病時代におけるTwitter利用の典型的成功例
2−14. どうしてTwitterを辞めてしまうのか

第3章 Twitter後
3−1. メディアはこうなる
3−2. SNSはこうなる
3−3. 口コミサイトはこうなる
3−4. ブログによるセールスプロモーションはこうなる
3−5. Twitterはこうなる
3−6. まとめ

おわりに


販売サイトはこちらになります。95,000文字なので、かなりのボリュームになります(「ブログ・ビジネス」で約50,000文字です)。

現在はプラウザ対応のみとなっておりますが、数日中にPDFでも読むことができるようになります。「PDFで読みたい!」という方は、2、3日の間だけ、ブラウザで読んでいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。

2011/3/1 21:24追記
PDFでも読めるようになりました!ダウンロードしてゆっくりお読みください。