2018年02月17日

最低賃金が米国並みにアップすると、日本の社会はどう変わるのか

ヨミドクターにこんな記事が掲載された。

データで見る「共働き社会」…妻にのしかかる家事・育児、夫の年収は減少激しく
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180217-00010000-yomidr-soci

「少子高齢化社会の日本においては、共働き社会の構築が大切」という内容で、この内容に異を唱えるつもりはないのだが、共働き社会の構築と非常に相性が悪いのが最近良く耳にする最低賃金のアップである。「え?」と思う人も多いかもしれない。

去年、最低賃金のアップを声高に訴えるデモのニュースを目にした。

「最低賃金、時給1500円なら夢ある」若者らデモ
https://www.asahi.com/articles/ASK4H46FSK4HUTIL00T.html

彼らの主張はもっともなように見える。しかし、この主張は自分たちの首を絞めかねないし、少子高齢化社会の日本にとっては大きなダメージを与えかねない。なぜそうなるのかについてこのブログでは時々書いてきたのだが、もう一度まとめておく。

最低賃金のアップを主張することの落とし穴は、「自分の給料がアップするだけではない」ということだ。世の中の遍く全ての労働者の賃金がアップする。ちょうど米国がそういう社会なので(最低賃金が時給15ドル〜18ドル)、世の中がどう変わるか、参考になるだろう。

最低賃金が上昇するということは、単純労働の単価が上がるということなので、そういった労働に依存するサービスの料金が上昇する。

まず、飲食店のスタッフの人件費が上昇するので、飲食店の価格がアップする。ワシントンDCでは、ラーメン一杯15ドルが相場である。おそらく、吉野家や松屋といったお手軽な定食屋は、料金が倍近くになるか、業態が変わるだろう(自動化、セルフサービス化など)。外食産業は、軒並み価格がアップすると予想される。

次にコンビニなどの24時間営業店である。これらの業態維持も困難になるだろう。今は客が少なくても、スタッフの数を絞ることによってなんとか採算を維持できているようだが、最低賃金がアップすると、負担が大きすぎる。歌舞伎町のど真ん中など、特殊な環境にある店以外は、24時間営業の維持は困難になるだろう。ワシントンDCの郊外だと、24時間営業の店はほとんど存在しない。

今後の日本で影響が大きくなりそうなのが育児のコスト、保育料である。時給1800円として、1日8時間、月に22日働いてもらえば、その費用は単純計算で31万6800円である。時間を半分に減らす努力をしても、月額15万円を超える。ちなみにニューヨークやワシントンDCでの保育料は、子供ひとりあたり月額20万円が相場である。

この他にも、人の手によるサービス業は軒並み価格がアップするだろう。たとえば介護などもその一つである。それらをひとまとめにして表現するなら、「金持ちは面倒なことを他人に任せて楽をして、貧乏人は自分でできることは全部自分でやる社会」である。スーパーで食材を買ってきて自分で調理して、子供がいれば自分でその面倒を見るなら、高コストの影響はない。

また、見逃せないのが、自動化である。人件費が高いなら、可能な限りマンパワーを機械に置き換えてしまおう、という判断があって当たり前である。したがって、最低賃金に近いところでの雇用はどんどん減少していくだろう。

最低賃金をアップさせろという主張そのものに反対する気はないのだが、主張している側に「コンビニがなく、ラーメン一杯1500円が当たり前で、子供を持てば一人当たり月額20万円かかり、老後に向けてきちんと貯蓄しておかなくてはならない社会」のイメージがあるのかはやや疑問なのだ。

そして、もちろん、共働き家庭の家計も直撃することになる。弊社の営業部長の姉がニューヨークで暮らしているのだが、共働きの彼女も「2人いる子供の保育費用で収入のほとんどが消えていく。何のために働いているのかわからない」と嘆いている。子供が2人いる共働き家族では、妻が50万円を稼いでも、保育料で40万円が消える。税金のことを考えると、マイナスになりかねない。それなら働かない方がマシなのだが、仕事をやめてしまうと、復帰したいと思ったときに、仕事が得られる保証がない。

全く別の話だが、先日、「米国の景気が回復したという数値データをもとにして米国の企業が従業員の給与をアップした」というニュースを読んで、「米国はすぐにこうやって反応するのに、日本はなぜベースアップに応じないのだ」というつぶやきをTwitterで見かけた。理由は簡単で、米国は解雇規制が緩いから、経営が難しくなれば解雇すれば対応できるところ、日本ではそれが難しいから、容易にベースアップに応じることができないのである。

物事は複雑に相関しあっていて、一つのところに外力を加えて変化させれば、それに合わせて様々な要素が姿を変えて、全体としてバランスを取る。最低賃金を1.5倍、あるいは2倍に増やすとすれば、その影響は小さくない。幸いにして、米国は一足先にそういう社会を選んでいるので、きちんと米国の現状を観察して、本当にそれで良いのか、きちんと考えておく必要がある。賃金がアップしてから、「賃金が上がったのに、暮らしは全然楽にならず、むしろ不便になった」と言っても、後の祭りである。

最低賃金は現状維持で、と言いたいわけではない。仮に、最低賃金を大きくアップさせた場合、どんな社会になるのか、そのイメージをきちんと持って主張して欲しいと思うし、それを支持するなら、同じように未来図を共有しておいて欲しい。その上での選択なら、それはそれで一つの見識である。  

Posted by buu2 at 13:12Comments(0)ニュース

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2016年10月05日

(若手)研究者が研究を続けたいなら、やるべきたった一つのこと

●研究者の運、不運
日本人がノーベル賞を獲るたびに、「科学系の予算が減っていて困っている」という日本人研究者たちの嘆きが聞こえてくるのだが、「お前ら、そろそろ気がつかないと馬鹿のレベルだぞ」と思う。君たちのためのお金は、もう日本にはほとんど残っていない。よっぽどの馬鹿が財務省の主計官にならない限り、大幅な予算増は望めない。また、仮に増額されたとしても、君たちの懐は全然暖かくならないだろう。それでも文句を言うことしかできないって、本当に気の毒だ。気の毒って、置かれた状況が、ではなく、頭の中身が少なくて気の毒なのである。

今、ノーベル賞を獲っている人たちは、実力だけでなく、運も良い人たちだ。

山中さんでも、利根川さんでも、大隅さんでも、第二次世界大戦の時代なら、どんなに能力が高くても、まともな研究はできなかっただろう。多分、これは誰もが同意できるのではないか。戦争で国が貧乏なら、科学どころではない。科学には金が必要だ。つまり、国に余裕が必要なのだ。良く「人材育成が必要で、貧乏だからこそ基礎科学が必要だ」という趣旨の能書きを目にするのだが、これまで大学はそういう活動をほとんどしてこなかったし、人材を輩出してこなかったのではないか。だからこその、今の日本経済の低迷なのだ。

山中さんについては例外だが、ほとんどの研究者のノーベル賞に至るまでの業績は、海外での研究か、バブルがはじける前の予算によるものだ。その頃と今とでは、状況が大きく異なっている。今は戦時とは異なるが、高度成長期やバブルの時代とも明らかに異なる。残念なことに今の研究者は運の悪い人たちだが、その運が今後良くなる可能性はかなり低い。

国に金がない、というのは科学に十分な(?)予算が配分されない理由の一つだが、他にも二つ要因があって、それは、「科学にはこれからもどんどん金がかかり続ける」ということと、「科学の価値が下落している」ということだ。

科学に金がかかる、というのはもうだいぶ前からで、僕が理研のゲノム科学総合研究センターの事務方をやっていたときから、すでにヒトゲノム計画とか、タンパク3000とかで膨大なお金を使っていた。DNAシークェンサーなどの技術開発スピードがすごいのは喜ばしいことだが、それに合わせて必要な投資額もどんどん増えている。米国が潤沢な資金で研究を推進する以上、それに対抗するためには同じか、それ以上の投資が必要になってくる。アイデアがほとんどで、お金は全然要らない、という研究は数学ぐらいに限定されていて、残念ながらノーベル数学賞は存在しない。「これからも国家としてノーベル賞を獲り続けたい。あわよくば自分の研究や、自分の後進の研究で」と思う研究者もいるかもしれないが、その可能性は日本にいる限り非常に低いだろう。

また、科学の価値の下落については、3年前に、「科学の価値は?」という記事の中で科学の価値の非普遍性について次のように書いた。

科学の価値は一定ではない。多くの人々は、その価値が不変だと思ってはいないだろうか?しかし、そんなことはない。科学は生活を豊かにする手段である。その価値が過去において高かったとしても、今も高いとは限らない。そして、その価値が大きく下がっていく局面に、僕たちはそろそろさしかかっているんじゃないだろうか?

ブログでバイオ 第82回 「科学の価値は?」
http://buu.blog.jp/archives/51415573.html(註釈1)

僕はこの仮説にかなりの自信を持っているのだが、これが正しいとすれば、科学へ投資することに対する日本人の意欲は、今後も減衰していくだろう。

この他にも、少子高齢化が進んで、社会保障に必要なお金が増え続けているといった社会環境もある。米国の都市部を歩いていると頻繁に妊婦と出会うのだが、日本ではそういうことがない。日本社会には、明るい兆しが何一つ見当たらない。そして、それはそのまま日本の科学に対する逆風でもある。ところが不思議なことに、自分たちの研究費が削られていくことと、日本の経済状態をリンクして考えることができる研究者は非常に少ないようだ。自分の専門領域のことにしか興味がない人種を専門馬鹿という。

●研究の個人性と公益性
また、研究者たちが理解すべきことに、研究は極度に個人的なもので、公益性が低いということがある。要は、研究なんてプラモデルを作ったり、麻雀したり、野球をしたり、釣りをしたりしているのと大差ないということだ。この認識を共有することがまずスタートで、その上で、なぜ研究に税金を投入しなくてはいけないかを考えなくてはならない。

「いや、科学は公共の利益に資する」というのなら、それを提示する必要がある。しかし、残念ながら公共の利益につながった研究は、最近ほとんど目にすることがない。僕が専門のバイオ・ベンチャーだけを見ても、古くはアンジェスMGに始まって、オンコセラピー、さらには最近株式公開に至った会社まで含めても、創薬に成功した会社は一つもない。公開後の初値や、直後に記録した最高値を維持することも困難な会社ばかりである。本庶佑さんなど、いくつか期待が持てる研究者はいるものの、これまで投資してきた金額を考えると砂漠に水を撒いていたようなものだ。

前項で書いたように、今、ノーベル賞を獲っている日本人研究者のほとんどは、1990年代のバブル経済によって好き勝手に実験できた人たちだ。その研究者たちと、今の研究者が置かれている状況は全く異なっている。また、実験にかかる費用も異なっている。実験機器は大型化し、導入コストも、ランニングコストも高騰している。大量のデータをアウトプットしなくてはならず、労働力も必要だ。つまり、国の金はなくなってきているのに、実験にはどんどん金がかかるようになってきている。

ガソリン代が高くなってきているのに収入は減ってきて、おまけに車が古くなってきて燃費が悪くなってきているような状態だ。これでは、車でどこかへ遊びに行くなどはもってのほかである。

それでも、研究者たちは馬鹿の一つ覚えで「金をくれ」と言い続けている。やれやれ。貧すれば鈍するの言葉通りである。君たちの研究資金のほとんどは税金が原資なんだよ。君たちは国に向かって「金をくれ」と言っているつもりかもしれないけれど、実際は国民に向かって言ってるんだよ。

プラモデル作りにも、麻雀にも、野球にも、釣りにも、一定の必要性は存在する。同様に、研究にも必要性は存在するだろう。しかし、大金をつぎ込むほどの必要性があるのか、という、プライオリティの問題になってくると、話はいきなり不透明になってくる。電車のホームに柵を作って自殺者を減らしたほうが良いのではないか、国民みんなが等しく健康的な暮らしを続けていくための出資のほうが重要なのではないか、リニアモーターカーを作って東京名古屋間を40分で結ぶほうが重要なのではないか、国立競技場を作って東京五輪に備えたほうが良いのではないか。比較すべき話は山ほどある。そして、こうした山ほどの案件を精査して優先順位をつけているのが財務省だ。色々な考え方はあるだろうが、僕は近年の財務省の科学に対する姿勢はそれほど冷淡だとは思わない。科学の予算が今すぐなくなっても人の命が短くなることはないが(註釈2)、社会保障費が減額されたら、これまでなら生きていられた人が死ななくてはならない可能性も少なからずある。そうした状況にあっても、科学技術振興だけで1兆3千億円も出しているのである。

研究者たちは何か特別なことをやっているつもりなのかもしれないが、個人的な好奇心を満たすために、税金を使って研究しているに過ぎない。そりゃぁ、他人のお金を使って、自分の好きな研究ができればこんな幸せなことはないだろう。

●ある家族の状況
ある家族を想定してみよう。3世代家族で、50歳前後の夫婦と寝たきりの祖父、20代前半の子供の4人家族だ。夫婦の所得はそれほど多くなく、祖父の面倒を見なくてはならず、生活は苦しい。それなのに、20代の子供は全く働こうとせず、競輪競馬と宝くじの購入にせいを出していて、良い加減にしろとしかると「これで1億円が当たれば、家族みんなで楽ができる」と言うばかりである。バイトをして金を稼げと言えば、「そんなくだらないことで貴重な時間を浪費したくない」と言い、もっと可能性の高いことをやれと言えば、「俺は競馬が好きなんだ」と言って聞き入れない。そして、小学校時代の同級生で大金持ちの息子を例に出して、「俺もあいつの家に生まれれば良かった。好きなことをやっても誰にも文句を言われずに済んだのに」と嘆いている。

これが、そのまま、日本の研究者の状態である。もちろん、研究者は、20代の子供だ。金になるかどうか全くわからない遊びが、研究である。バイトは大学における事務仕事だ。大金持ちの幼馴染は米国の研究者である。

今はこれでも生活が成り立っているが、50代の夫婦もいつまで働けるかはわからない。今後の見通しは全く立たない。

この家族の例で、子供がギャンブル生活を継続するためにはどうしたら良いのだろう。一番簡単なのは、幼馴染の家の養子になることだ。それが無理なら、乞食になって、お金を恵んでもらう手もあるだろう。大金持ちに上手に取り入って、お小遣いをもらうという手もありそうだ。しかし、どれもこれもまっとうに自分の力で生きていくわけではない。科学者とは、そういう人種なのだ。

この中で他人に迷惑をかけずに安定した生活が続けられるのは、金持ちの養子になることである。すなわち、米国の研究機関で研究を続けることだ。なぜ、多くの研究者がそういう手段に出ず、貧乏な日本という国で乞食みたいに「金をくれ」と言い続けているのか、僕にはさっぱり理解ができない。打ち出の小槌がどこかにあると思っているのだろうか。

もちろん、理想的な最善策は、この家族の収入が安定して増え続けることなのだが、今の安倍晋三自民党の経済政策、アベノミクスでは無理である。そのあたりはこちらに書いてあるので、興味があればこちらを読んで欲しい。

日本の向かう先
http://buu.blog.jp/archives/51522712.html

日本の成長力が低い理由
http://buu.blog.jp/archives/51522713.html

贈る言葉
http://buu.blog.jp/archives/51522714.html

また、「俺たちがやっているのは、本当に社会貢献なんだ」と強弁したい人は、こちらでもどうぞ。

明日はどっちだ?(引き続きの現実逃避)
http://buu.blog.jp/archives/51099611.html

●まとめ
(1)日本は貧乏
(2)科学は金がかかる一方で、そこに投資する余裕が日本にはない
(3)科学は以前のような価値が失われつつある
(4)そもそも、研究なんて所詮は個人の道楽
(5)道楽に「金をくれ」というのは貧乏人のいうことではない
(6)好きなことをやりたいなら、日本の外へ行け

●NIHなら
ここからは、僕の専門のバイオ分野に限った話になるのだが、医薬系バイオに限定すれば、NIHは世界でも有数の予算規模を誇っている。医薬系の研究を続けたいなら、NIHは有力な就職先である。だから、「研究費が減額される一方だし、研究環境は悪化の一途である。ノーベル賞研究者たちも改善を主張しているのだからなんとかして欲しい」と乞食の真似事をしている暇があったら、NIHへ行くべきだ。

もちろん、海外の脱出先はNIHの他にもいくつか候補があるのだが、残念ながら、NIH以外の場合は、僕は協力できない。あくまでも、NIHに限定した話だが、もしNIHのポストを確保できたなら、僕に相談すれば良い。どこに住んで、どうやって暮らしていけば良いか、これは研究とは別の話だから、研究者にとっては荷が重いかもしれない。そこは、僕がアドバイスするし、NIH周辺の日本人コミュニティを紹介することもできる。家族がいるなら、家族の英語力をどうやってアップさせるのかといった内容でも相談に乗ることができる。研究以外の場面では、可能な限り支援しようと思う。

米国にも差別はあるし、米国においては日本人は差別される側である。他にも、日本とは違う生活習慣がたくさんあって、誰でもそれなりにストレスは抱えるだろう。それでも、好きな研究を思う存分できるなら、文句はないのではないか?

沈んでいく船にしがみついていても良いことは何もない。溺れる前に、さっさと船を降りたら良い。自由と可能性を求めて外に出るか、乞食のままで溺れるか、あるいは研究を諦めて別の仕事に就くか、なのだ。

生物以外の領域については僕は良く知らないのだが、研究費が必要な分野なら、日本以外で研究できる場所があるはずだ。日本の歴史や文化を研究するとか、東日本大震災の影響を研究するといった例外を除けば、おおよそどの分野でも、日本を脱出するのが最善策だろう。自分の能力に自信があるのなら、生産的なことに時間を使った方が良い。金くれー、金くれーとTwitterでつぶやき続けているのはみっともないだけだ。

#ちなみに、NIHは博士取得から5年以内の制限がある。ということで、一応タイトルには(若手)と括弧書きしておいた。

(註釈1)科学の価値の下落について疑問を呈しているはてブがあったのだが、ここでリンクしている記事を読んでいないのだろう。

(註釈2)はてブを見ていたらここの文脈を読み切れない読者が数名いたようなので、ちょっと修正した。元は「科学がなくても人の命が短くなることはないが」だった。  
Posted by buu2 at 01:45Comments(0)バイオ

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2013年06月18日

残業まみれの組織を回ってきた僕が脱高残業体質への処方箋の一例を書いてみる

日経ビジネスにこんな記事が掲載された。

「人命よりも企業?!」 過労がなくならない日本の歪んだ価値観
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130616/249728/

読めばわかるけれど、なんか、評論ばかりで実のない記事である。こういう記事は「ダメだなぁ、じゃぁ、できる範囲で僕が書いてあげるよ」というトリガー程度にしか貢献しない。これで誰も何も書かないとゴミ記事になってしまうので、ちょっとだけ書いて、記事の顔を立ててあげようと思う。

僕は残業が多い、いわゆるブラックを渡り歩いてきたのだが、「なぜ高残業なのか」はそれぞれの組織によって違った。それぞれ、僕が見てきた時代における状況を中心に分析し、残業体質の改善についてアイデアを出してみる。

三菱総合研究所(1992〜1998)
この会社の体質は「実績主義」である。受注が多い人間の意見は何でも通ったので、成績が良い社員が禁煙スペースである就業室内での喫煙を主張すれば、喫煙室が存在するにも関わらずその主張を突っぱねることができず、嫌煙者である僕に空気清浄機を買い与えるような会社だった。つまり、「俺は稼いでいるから喫煙しても良いんだ」と、ドヤ顔でそっくり返って喫煙することが許されるような会社だった(今はどうなのか不明)。そんな実績主義の会社だが、上長から強制的に長時間労働を迫られることはあまりなかった。むしろ、残業が増えたのは、クライアントからの要求によるところが大きかった。

日本ではこの会社の業務内容を知らない人が多いのだが、要は中央官僚や地方公務員の雑用係である。官僚が財務省に予算要求する際の資料を作成し、官僚がその資料を財務省の主計官に見せて「民間シンクタンクの調査によれば、こんな状況なんです」と説明する。あるいは、官僚が有識者会議の事務局を命じて、議事録作成や必要な資料の作成、日程調整、最終報告書の作成、および効果測定などをやらせたりする。こんなのが日本におけるシンクタンクの使い方である。肝心要の「シンク」の部分はキャリア官僚が担当する。シンクタンクと言いながら、実情は官僚の手足である。当然のことながら、発注者の意向通りの資料を作成するので、入り口と出口が決まっているブラックボックスの中身を創作するのが仕事だったりする。簡単にいえば、「各省の考えた施策はこれ」という入り口と、「2010年のバイオ市場規模は25兆円」という出口が決まっている時に、どういう理屈でバイオ市場が25兆円になるのかを考えるのである。だから、色々な有識者会議の末席にシンクタンクの研究員の名前が良くある。

さて、この会社がなぜ高残業なのかといえば、最大のものは「報告書に満点がない」ということである。作業は「より満点に近くなるように努力すること」になる。実質上のゴールがないので、最終的には顧客の「満足」ではなく、「妥協」を得ることが重要だ。つまり、「これだけやらせたのだから、そろそろ我慢してやろう」と思ってもらうことが大事なのである。多くの場合、発注者も高残業なので、電話したのに不在、などは非常にイメージが悪い。イメージが悪いと、リピートオーダーが取れなくなる。また、相手が官僚だと、突然「国会の質問が当たったので、至急対応して欲しい」といった電話がかかってきたりする。クライアントの要望に的確に応えるためには、いつも会社にいることが重要だ。

では、なぜこんなにまでして仕事を取らなくてはならないのか。それは、やりたい仕事をやるためである。やりたい仕事を確保できない場合、この会社ではやりたくない仕事の手伝いをやらされることになる。給料をもらっている以上、これは当たり前だ。三菱総研の場合、所員は小規模事業者的な色彩が濃く、できる奴は頑張れ、できない奴は手伝え、会社は知らん、という感じだった。

#僕は、この姿勢は良いと思っている。不幸にして僕の専門であるバイオは政策課題の表舞台に出てくることがなかったので、ほとんど何もできずに退職した。それまでに担当したことは、環境アセスのマニュアル作り、大深度地下駅におけるごみ処理システムの提案、空港の付帯設備の検討、水産業振興プラン、高速道路の割引制度設計、高速道路の補修技術の調査とまとめなどで、バイオ関連の仕事は一つもなかった。

そして、この会社が取ってくることができる仕事の「柱」は、中期的に変わってくる。1990年頃は防衛庁の仕事が花形だったし、そのあとは環境や住宅、そしてITと変わってきた。今はどのあたりが花形なのかわからないが、以前飛ぶ鳥を落とす勢いだった管理職が窓際に追いやられているとかの噂は頻繁に耳にする。社会情勢はコロコロ変わるけれど、自分の専門性は簡単に変わらない。とすれば、少しでも長く、役所にぶら下がって仕事を確保することが大事で、そのためにはクライアントのご機嫌取りが欠かせない。これが高残業体質の理由である。

では、どうしたらこの会社の高残業体質は改善できるのか。結局、問題は「専門に流行り廃りがある」ことで、こればっかりはどうしようもない。仕事内容に対策がないのだから、考えるべきは人事である。つまり、もっと人間の出入りを頻繁にすれば良いのである。仕事が増えてきたら人材を増やし、減ってきたらクビにする。こんなにも終身雇用が似合わない会社も珍しいのだ。30代前半でも1000万円以上の年俸を稼ぐ人材なら、すぐに次の仕事ぐらい見つからなくてどうする(もちろん、日本のような硬直した労働市場では、実際には難しかったりする(笑))。

#実際、総研を辞めて独立し、総研の外注先として頑張っている人も数名知っている。仕事があるときは発注できて、ないときは発注しなくて良いのだから、総研としてもありがたいはずである。

理化学研究所(1998〜2001)
この組織は三菱総研以上にクライアントがはっきりしてる。言うまでもなく、文科省である。完全に文科省の下請け組織、予算消化組織だが、この組織の面白いところは高残業と低残業の所員がくっきりとわかれていることである。高残業なのは企画担当者で、研究所の研究員の意向と文科省の意向をすり合わせ、一所懸命調整を続ける。特に予算の時期は大変で、文科省の担当補佐のオーダーにあわせて各種資料を作成している。ここで文科省に対して「今日は定時で帰りました。明日対応します」といった返答をしたらどうなるのかは非常に興味深いのだが、その影響は文科省にとどまらず、財務省や政治家にも及ぶ可能性があって、「どうなるか」は空論に過ぎない。このあたりを理研の人事部も良くわかっているので、そもそも「もう帰りました」などという事態になりそうな人間をこうした要職に配置することはない。

そうやってボロボロになるまで働く人材は、異動のたびに忙しい部署にまわされ、あっという間に出世する。このあたりの人事制度はそこそこ良くできていると思う。

理研の場合、こういった優秀な人材の他に役に立たない人材も山ほどいるのが特徴で、彼らは同僚が残業していると、お付き合いのように会社に残ってゲームをしていたりする。僕などは全く気にしないタイプなので「お先にー」と言って帰っていたのだが、「同僚が頑張っているので帰りにくい」という意識と、「でも、手伝う能力はないし、やることがない」という現実と、「とりあえず残っていたら残業代が貰える」という打算から導き出される結論がゲームだったようだ。

この組織の場合、意識の高い少数の人間に仕事が集中する仕組みになっている。平準化しようにも、意識が低い人間はそもそも能力が低いので、対応できない。じゃぁ、どんどんクビにして、新しい血を導入したらどうか、というのも正論ではあるけれど、所詮、主役は研究者だし、組織は文科省の予算消化が主業務で別に面白い仕事でもないし、優秀な人材はそうそう集まるものでもない。実際、天下り以外の、プロパーの所員で東大卒とか、全然いないんじゃないだろうか。

公務員の正しいあり方とは、それほど能力が高いわけでもなく、野望もなく、ただ性格はそこそこ良くて、普通に結婚してマイホームを築き、子どもを育てて幸せに生きて行きたいだけの人に仕事を与えることだと思っているので、ある意味、理想的な組織だと思う(ただ、給料はもうちょっと安くても良いと思うけれど(笑)。ノーリスクなんだし。あと、厳密にはここは公務員ではなく準公務員)。そういう理想的な組織を支えているのが、高い意識のもとに働き続けている少数の優秀な人材、というのが実情だった。

この組織の一部の人材の高残業体質を改善することは、組織の存亡に関わるので、非常に難しい。おそらく、唯一の解決策は企画担当者の給与をアップすることである。これによって、有能な人材を少しでも増やす。今は優秀な人間が少ないのが最大の問題点であって、でも、給料は安い、仕事はつまらない、周囲には役に立たない給料泥棒が溢れている、では優秀な人間は見向きもしないだろう。同時に、能力が低い所員の給料は下げる必要がある。安定して給料がもらえるだけでもありがたい話なのだ。

経済産業省(2001〜2003)
この組織は前述の2組織と比較して、人材の能力という点では頭ひとつ(いや、ふたつ)抜けていて、とにかく優秀な人間が多かった。中にはこれまでの一生で見たことがないほどに優秀な人材もいた。

ここでは役割分担がはっきりしていて、各人が求められている能力を提供していた。残業の理由は主として政治家対応と財務省対応があって、根が深いのは政治家対応の方だった。「政治主導」と言えば聞こえは良いけれど、実際には政治家の能力はほとんどのケースで官僚よりも下(それも、はるかに)なので、放っておくととんでもない方へ行ってしまう。問題は先送りすればするほど悪影響が大きくなるので、なるべく早いうちに修正しておく必要がある。つまり、将来の泥沼を避けるために、今の残業があるのである。特に筋が悪いのが議員立法で、法律の初心者が法律を作ろうとするのだからうまくいくわけがない。官僚の仕事を増やすのは、多くの場合で政治家である。政治家が「役所とは敵対するのではなく、使いこなさなくてはならない」と言っているのを耳にすることがあるがとんでもない。使いこなされているのは政治家の方である。能力が低い側が、能力の高い側を使いこなせるわけがない。もし本気で使いこなそうと思うなら、相当真剣に勉強し直す必要があるだろう。

この組織の面白いところはそこそこに勢力争いがあることで、一つの課の中でも「◯◯派と☓☓派の対立」などが存在する。課長が敵対している派だったりすると、部下の課長補佐は全く動かなくなったり、指示を無視して勝手に動いたりする。こういう事態になっても、誰かが仕事をしなくてはならず、結果として課長派の補佐と、派閥争いとは無関係に処理能力を発揮するノンキャリがとばっちりを食うことになる。彼らは彼らで意識が非常に高いので、文句をいう事もあまりなく、黙々と仕事を続ける。こうして、役所はより一層高残業体質になっていく。

中央官庁の残業体質の改善は非常に簡単で、1つ目に国会待機をなくすこと、2つ目に財務省待機をなくすことである。さらに理想を追求するなら、政治家には出馬前に資格試験を受験させ、一定の知性と知識を持ち合わせていない人の議員立法は禁止する、といった手段もありうるだろう。とにかく、この国の政治家の能力は低すぎる。では、政治家の能力をアップさせる近道は何か。僕は政党が自分のシンクタンクを作って、所員として中央官庁の課長や課長補佐を引き抜くのが近道だと思っている。もちろん、彼らは有期雇用だ。

まとめ
理研はともかく、三菱総研と経産省はエリート組織なんだから、そろそろ有期雇用に切り替えて、人材の流動化を図るべきだろう。

三菱総研ははっきり言えば「辞めることができない人」ばかりが残っている会社なので、将来性が感じられない。本当なら、むしろステップアップとして利用されるべき会社である。そもそも、この会社には人材を育成する能力などこれっぽっちもないのである。この会社で優秀な社員は、最初から優秀なのだ。

経産省も、もっと外部人材を取り入れたら良いと思う。僕は任期付きで転職したけれど、入省してすぐの段階でたった一人で外部の委員会に出席させられて、意見を言わされてびっくりしたことを覚えている。何にびっくりしたかって、好き勝手に自分の意見を言って良かったからだ。喋った内容は議事録に残るけれど、事前にストップがかかることはなかった。こうした体質は素晴らしいと思うし、より多くの人が経験すべきだと思う。日本では、役所の内部のことなど何も知らないくせに、新聞やテレビのコメンテーターの無責任な発言をそのままに「だから官僚は」と発言する奴が多すぎる。何か気の利いたことを言いたいなら、まずは2年ぐらい、現場でやってみろ、と思う。でも、今はまだその機会が十分に与えられていない。役所への理解を深める意味も含め、さらに人材交流を深めるべきだろう。それも、企業からの出向という形ではなく、有期雇用で、である。

僕は、全部の人間を有期雇用にしろ、とは考えていない。できる人は有期、できない人は無期、そのかわり、有期雇用は相対的に高給で処遇、ということから始めて、徐々に有期の割合を増やしていけば良いと考えている。少なくとも、東大を出ているぐらいの人材なら、有期雇用で良いでしょ、と思うのだが。

おまけ
冒頭の記事では、人命と企業を天秤にかけている。どちらが大事かって、それは人命だろう。しかし、人を大事にしていたら、企業そのものが潰れかねないという現実もある。企業と労働者の闘争を見ていると、労働者が「会社は潰れない」という前提に立っている気がしてくるのだ。会社の役割は雇用を創出することで、そこに「絶対的安定」までを求めてしまえば、会社そのものがなくなってしまう可能性もある。山一證券、カネボウ、サンヨー・・・と、色々な事例を見てきているのだから、そろそろ会社は潰れるもの、という現実を直視すべきだ。労働者は、もう少し会社から距離をおくべきで、それができないからこそ、会社はブラック化するのである。  
Posted by buu2 at 11:18Comments(0)ニュース

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2012年11月07日

「科学的には、コラーゲンは効かない」

コラーゲンが効くとか、馬鹿言ってんじゃないぞ、というキャンペーンを改めて展開中なんだけど、予想通りのツッコミがコメント欄に入った。

曰く、

サイエンスの世界では、「ない」ことを証明するのはとても難しい。コラーゲンを食べて、はだがぷりぷりになるわけは「ない」ということを、どうやって証明しますか?


本当に科学を知っている立場の人間は決して「ない」などと断言はしない。
効果があるかどうかわからないが、今のところ、効果があるというデータは発表されていない(科学者の支持を得られていない)。だから、科学者の現時点での合意としては、「効果はなさそうだ」という話。
教科書的に考えても高分子のコラーゲンがそのまま吸収されて肌に届くなんてことは考え難いが、教科書で全て片付けば世の中に科学はいらない。
教科書を否定し、更新していくのが科学であって、はじめから「ない」と否定しているだけでは何も進まない。


だそうで。こういう科学原理主義者(?)がいるから、資生堂や明治や富士フィルムやアサヒやロッテやグリコやハウス食品や森永製菓がインチキ商品を売り続けるのである。

「科学的である」とは、「絶対に正しい」ということではない。コメントの主も書いているように、「その時点でどうやら正しいようだ」と合意形成されているという意味だ。例えば野口英世の研究は、当時は国際的に評価されたけれど、今となってはその多くが間違いだと判明している。これらの間違い(=否定されている研究成果)は、当時の技術的限界に起因するもので、仕方のないことである。それらは、野口英世の時代には"科学的に"正しかった。

繰り返しだが、「科学的である」ということは、その時点で蓄積されているデータによって、科学者が合意しているということで、「必ず(=絶対に)正しい」という意味ではない。大体、「必ず正しい」ということが大前提で、「少しでも反例があれば断言できない」ということであれば、空を飛べる人間がいるかもしれないし、水中でも生存できる人間がいるかもしれないし、月の裏側には近代都市が存在しているかもしれないし、今これを書いている僕はすでに死んでいるのかも知れないのだ。もちろん実際にはそんなことはなくて、どれも科学的には否定できる。

コラーゲンについて言うなら、現在の科学的知見は

調べられる限りにおいて、ヒトにおける有効性については論文が見当たらない(「「健康食品」の安全性・有効性情報」(独立行政法人 国立健康・栄養研究所)の情報をもとに判断)


の一行で終了である。コラーゲンの有効性を主張したいのであれば、まずそれを支持するような実験結果を論文によって示し、他の科学者による追試と議論を経て、「どうやら有効性が認められるようだ」という合意を形成する必要がある。ところが、現状ではコラーゲンの有効性に関するまともな論文がひとつもないのだから、議論にすらならない。「まともな」とわざわざ但し書きを書いたのはもちろん意識的で、まともではない論文が何かの間違いでどこかに掲載されてしまうことはままある。論文は書かれただけでは意味がない。多くの科学者によって吟味され、認められて初めて価値が出る。ときどき新聞に「論文が掲載された」と書かれたりするが、これは必ずしも論文の正当性を担保するわけではない。

では、なぜ誰もがコラーゲンの有効性を主張するような実験をやらないのか。それは、これまでの科学的知見からは、容易に「どうせ有効性はないだろう」と推察が可能だからである。無駄な実験は誰でもやりたくない。

やや専門的になるが、地球上のほとんどの生物は、限られた種類のアミノ酸しか、たんぱく質合成の材料として利用できない。一般的には、20種類のアミノ酸だけで、しかもL型とD型の2種類が存在する同一アミノ酸の中でも、L型のアミノ酸しか利用できない。コラーゲンにはヒドロキシプロリンという特殊なアミノ酸が大量に含まれている(プロリンと合わせて約20%)けれど、これはコラーゲンを合成する際にはプロリンという形で導入されており、ポリペプチド鎖が形成された後に翻訳後修飾を受ける。なぜなら、ヒドロキシプロリンに対応するtRNAが存在せず、たんぱく質の合成系に直接ヒドロキシプロリンを導入できないからだ。では、ヒドロキシプロリンからプロリンを合成できるのか、ということになるのだが、僕が調べた範囲では、体内でヒドロキシプロリンから直接プロリンが合成される反応は見つかっていないようである。つまり、体内にヒドロキシプロリンを供給しようと思うなら、コラーゲンを材料とするよりはプロリンを直接補給した方がずっと効率的ということになる。この他にコラーゲンに特徴的に含まれているアミノ酸としてグリシン(約30%)、アラニン(約10%)をあげることができるが、プロリン、グリシン、アラニンはどれも必須アミノ酸はおろか、準必須アミノ酸ですらなく、通常の食生活を送っている限りにおいては不足するはずのないものである。

こうした知識が、「これまでに蓄積されている知見」であって、これをもとに、科学者は「コラーゲンなんか、食べても無駄だな」という結論にいたり、結果として、「無駄な実験は辞めておこう」と考えるのである。

もちろん、どこかの誰かが、「これまでの科学的知見には穴がある。改めて実験を重ねて、これまでの常識をひっくり返してやろう」と思うのは勝手だし、やりたければやれば良い。しかし、その実験をやってみて、「コラーゲンは肌をぷりぷりにするサプリとして有用」という結果が出て、それが論文となり、多くの科学者がその結果を支持し、「どうやら、コラーゲンは肌に良い影響を及ぼすようだ」という合意が形成されるまでは、「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ(笑)」というのが、科学的な結論なのである。1億人ぐらいが食べれば一人ぐらいは効果がある人間がいるかも知れない。しかし、その状況において「効果がない」と断言できなくてどうする。これができないというのなら、「効果がない」はもちろん、「効果がある」とも断言できないことになる。「科学的」であるということは、「絶対的な真理」と同値ではない。「科学的には」とはひとつの免罪符であり、その但し書きをつければ断言は可能であるというのが僕の考え方である。

つまり、「科学的には、コラーゲンは効かない」。

#こう書くと「科学的には」という言葉の信頼性が低く感じられるかも知れないが、この上を行くことができるのは「神」レベルである。

「絶対に効かないとは言えないでしょ?だから、コラーゲンを入れた商品を、さも効果があるように宣伝して販売するのもオッケーだよね」というのはただの詭弁なのである。「本当に科学を知っている人間」かどうかが問題なのではない。「科学」をどうやって産業にフィードバックするかを考えるときに、「科学」が抱えている弱点に付け込んだマーケティングを許すのか、許さないのか、ということだ。僕は、それを許しているからこそ科学が信頼されていないと考えているし、科学のステータスをアップさせるためにも、今のようなマーケティングを許容するべきではないと思っている。しかし、消費者庁はそういった対応をせず、こんにゃくゼリーなどのどうでも良いことへの対応に終始している。仕方なしに、自主的にキャンペーンを張っているのである。

#僕のスタンスからすれば、「コラーゲンを食べても、肌がぷりぷりになるという科学的データは存在しません」と注意書きがされるなら、コラーゲン入りの食品を売っても構わないと思っている。正確な知識をもとにした判断であれば、そこに第三者が口をはさむ必要はない。

冒頭で紹介したコメントの発言者がどういう属性の人間かは不明だが、「本当に科学を知っている人間」を自称しながら、実は科学をわかっていないのか、あるいはコラーゲン商品を扱っている当事者であろう、というのが僕の判断である。何しろ、僕は今でこそITベンチャーの社長だが、それ以前はずっと、国やそれに近い組織において、約15年間に渡ってバイオテクノロジーを推進する立場にいた人間である。どこの誰なのか、自分の素性や属性すらも表明できないような人間に、「あなたは本当の科学を知らない」と言われる筋合いではない。

#と、非常に丁寧に書いたけれど、本音はもっと毒入りで、かつ端的なので、興味がある人は「「コラーゲン食って肌がぷりぷりになるわけねーだろ(笑)」のまとめ(インチキ企業リスト付き)」というエントリーのコメント欄をどうぞ(笑)

##この手の奴の始末におえないところは、全部が全部間違いなのではなく、ほぼほぼ正しいのに、肝心なところでおかしい、ということである。正しい中に巧妙にインチキを忍ばせる点は、コラーゲン関連商品を販売している企業と全く同じである。  
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2011年06月14日

二日酔いについて考える

最先端似非(?)科学のリバネスの博士たち(爆笑)がサイエンスにこだわって(爆笑)ウコンを売っている件に関連して「二日酔い」について考えてみた。飲み過ぎは誰もが経験のあることで、「二日酔い、やだなー」とみんなが思っているから、「これ、二日酔いに良いらしいよ」などと聞くとみんな試したくなる。ダイエット食品と同じ構図だ。では、二日酔いの薬とか健康食品はどの程度の効果効能が期待できるのだろう。

まず、二日酔いより一歩進んだ、急性アルコール中毒について調べてみた。急性アルコール中毒は血中のアルコール濃度が一定量を超えた場合に発症する。急性アル中の治療法はネットで調べる限り、経過観察、胃洗浄(アルコールの吸収を予防)、下剤(アルコールの吸収を予防)、利尿剤の投与(アルコールの体外遊離)、ビタミンB1の投与(アルコールの代謝促進)、血液透析(アルコールの体外遊離)といった対応が為されるようだ。ここで、ビタミンB1の薬効について、「健康食品」の素材情報データベース(国立健康・栄養研究所)で調べたところ、アルコール中毒によるビタミンB1の欠乏症に対して栄養補助食品として経口摂取した場合に有効であるけれど、アルコール中毒においてビタミンB1の欠乏症になることはまれであるとのことだった。
出典:http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail50.html

続いて、二日酔いについてである。二日酔いは血中のアルコール濃度ではなく、アルコールが代謝されて生じたアセトアルデヒドによる。ここで急性アルコール中毒との対処の違いは、利尿剤の投与は二日酔いにはあまり効果的ではない、ということだ。アルコールの分解フェイズにおいて大量の水を消費しており、体が脱水症状を起こしているというのがその根拠らしい。したがって、利尿剤によって水を体外に出すのではなく、水分(スポーツドリンク等)を大量に補給するのが良いということになる。

さて、こうした対応策の他に、日本には第三類医薬品に分類される二日酔い薬が存在する。エスエス製薬のアルケシクールである。
アルケシクール(凄く重くて不安定です)

ちなみに「第三類医薬品」とは、医師による処方箋なしで購入できる一般用医薬品の中で、副作用などに特に注意が必要なもの(第一類)、日常生活に支障を来す程度の健康被害の可能性があるもの(第二類)を除いた一般医薬品で、要は医薬品の中では最も効果が期待できない部類のものである。ただ、もちろん医薬品なので、効果効能は期待できるはずである。

ウェブサイトによると、アルケシクールは次の3つの作用機序によって二日酔いを治療するようだ。

1.アセトアルデヒドと直接結びつき解毒する
2.アセトアルデヒド代謝酵素を活性化する
出典:http://www.ssp.co.jp/alkeshi/product/pop1.html
3.TCAサイクルを回して体力を回復させる
出典:http://www.ssp.co.jp/alkeshi/product/pop2.html

では、アルケシクールの有効成分は何なんだろう、ということで、それを調べてみたら、次の3つが主成分とのこと。

1.L-システイン 240mg
2.アスコルビン酸(ビタミンC) 300mg
3.パントテン酸カルシウム 24mg
出典:アルケシクール製品情報

他に添加物が色々書いてあるけれど、このあたりはパス。そして、この3つの主成分について見てみる。

まず、L-システインである。システインはアミノ酸の一種で、それほど大量にあるわけではないけれど、どこにでもあるものである。にんにくや玉ねぎ、唐辛子のような、あの手の植物に多く含まれていることが知られており、特に変わったものではない。エスエス製薬のサイトではシステインについて「アルコールを分解するSH酵素を活性化し、さらに二日酔いの原因物質(アセトアルデヒド)の代謝・解毒を早め二日酔いを治療します。また、エネルギー産生にも関与、二日酔いなどからくるカラダのだるさに対しても効果を発揮します。」と記載されているけれど、「健康食品」の素材情報データベース(国立健康・栄養研究所)で調べたところ、これといった有効性は見当たらなかった。
出典:http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail618.html

ただし、ラットにおいては低グルタチオンレベルを改善したとあるので、これをもってアルコールデヒドロゲナーゼやアセトアルデヒドデヒドロゲナーゼを活性化するとしている可能性はある。

一部に肝機能向上をうたう健康食品サイトが存在したが、論文ベースではシステインの人間に対する効果効能については今のところ見つからない。その効果を否定するわけではないけれど、「玉ねぎやにんにく、あるいはプロテインで良いんじゃない?」と思わないでもない。また、サプリメントでもシステインのタブレットは多数存在する。

次に、アスコルビン酸である。これはビタミンCであり、巷に溢れている非常に一般的なサプリメントである。清涼飲料水などにも大量に含まれているし、どうしてもビタミンCだけ摂取したければ方法はいくらでもある。「健康食品」の素材情報データベースで調べたところ、様々な有効性は見られるものの、アセトアルデヒドの分解に限定すればこれといった有効性は見当たらなかった。
出典:http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail45.html

アスコルビン酸はアルケシクールの効果効能の中では体力回復の部分を担っているのだと思われる。

最後にパントテン酸カルシウムである。パントテン酸カルシウムはパントテン酸のカルシウム塩(弱酸性のパントテン酸と水酸化カルシウムの中和物)で、コエンザイムAの構成成分である。主としてエネルギー生産に関わる重要な物質ではあるものの、通常の食生活でそうそう欠乏するものでもない。また、これも「健康食品」の素材情報データベースで調べたところ、有効性が認められるのはパントテン酸欠乏症に対してのみということだった。
出典:http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail592.html

ちなみに上記3つはそれぞれ医薬品として販売されているが、その効果効能はおおよそ次のようになる。

L-システイン
(湿疹、尋常性ざ瘡、多形滲出性紅斑、中毒疹、薬疹、蕁麻疹)、放射線障害による白血球減少症

アスコルビン酸
(ビタミンC欠乏症、メルレル・バロー病、壊血病)の(予防、治療)、(激しい肉体労働時、消耗性疾患、授乳婦、妊産婦)のビタミンCの補給、(ビタミンC欠乏、ビタミンC代謝障害)の(炎症後の色素沈着、肝斑、血尿、歯肉出血、雀卵斑、鼻出血、毛細管出血、光線過敏性皮膚炎、骨折時の骨基質形成、骨折時の骨癒合促進、副腎皮質機能障害、薬物中毒)

パントテン酸カルシウム
パントテン酸欠乏症の(予防、治療)、(甲状腺機能亢進症、消耗性疾患、授乳婦、妊産婦)のパントテン酸の補給、(パントテン酸欠乏、パントテン酸代謝障害)の(カナマイシンによる副作用、ストレプトマイシンによる副作用)の(予防、治療)、(パントテン酸欠乏、パントテン酸代謝障害)の(弛緩性便秘、急性湿疹、接触皮膚炎、慢性湿疹)

この3つをまとめて飲んだ時に二日酔いの医薬品になる理屈はよくわからないのだけれど、このあたりが第三類医薬品の第三類たる所以なのかも知れない。ともかくわかったことは、「二日酔いを効果的に治す薬は存在しない」ということである(ちなみに急性アルコール中毒についても同様)。

このような状況下にあって、もし本当にアルコール中毒や二日酔いの治療薬が開発された場合、相応の市場規模が見込まれると考えられる。しかし、現状はそれが未開発である。

なお、上記の調査の中でわかったほぼ確実な点を以下にまとめる。

1.空腹時の飲酒を避ける
2.飲酒前だけでなく、食べながら飲む
3.飲み過ぎない
4.二日酔いになったらスポーツドリンクで水分を補給する

なんだ、全部当たり前のことですね。その上で、ウコンのなんとかとか、そんなものはほとんど全部役に立たない、ということのようです。皆さん、騙されないように。特に、「飲む前にウコンを飲んだから大丈夫」とか言って大酒を飲むのは危険です。もちろん1があるので、飲酒前に何かを口に入れておくことは重要ですが、ウコンである必要性は今のところ確認されておりません。それから、「二日酔いに」などとして売っているものはほとんど全部怪しい商品ですから、そういう商品を扱っている会社のものは、自己防衛として買わないことをお勧めします。たとえ、博士が勧めていてもです。

#時々、リバネスについて「最先端似非(?)」と書いているのを、「もしかしたら科学かも?」と僕が思っていると誤解している人がいるようなのですが、とんでもない。リバネスはこの手のインチキ健康食品の販売にあたって、科学的なことなど何もしていません。単に「博士がお勧めしている」だけです。僕のスタンスはリバネスは科学でないのはもちろん、似非科学でもない、というものです。ただ、「博士」という肩書きを利用しただけの看板商売です。良くあるじゃないですか、白衣を着た「〇〇先生(医学博士)がお勧めします」っていう怪しい宣伝。あれと一緒です。  
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2011年04月22日

落ちこぼれ向け特別補講「サイエンス・コミュニケーションに求められるもの」

先日、芸術家の卵(絵画系の芸大生)と飲み会をやった。早い話が合コンだ。でも、話の内容は結構まじめ。「興味のないひとにどうやって作品を観てもらうか」とか、「村上隆さんは芸術をきちんとビジネスにしていて凄い」という話をしてきた。

この間のエントリーについても意見を聞いてみようかな、と思って、「科学って面白い?」と聞くと、「全然面白くないし、興味もありません」と。そうでしょうとも(笑)。続けて、今度は総統閣下シリーズの「買い占めするならカネ送れ」を見せてあげたら大受け。その上で、「こういう感じでサイエンスを語られたらどう?」と聞いたら、「見たい、見たい」との返事。嘘じゃないよ。思ったとおりの返事が来て嬉しくなった(笑)。


要は、世の中なんてこんなもの、ということ。ブログの記事には立花さん(以前からサイエンスコミュニケーション的な活動を個人的に支援している人で、僕も前から良く知っている)がコメント欄で「でも、頑張っている人もいます」的な主旨のことを書いていたけれど、それは論点がずれてるんだよね。やっている人がいる、とか、頑張っている、とかが問題じゃない。活動として成功しているか、成果を挙げているか、役に立っているか、生活者のニーズに適合しているか、ということ。僕は成功していないと思っている。それだけのことなの。成功している、うまく行っていると思っているならそれまで。引き続きがんばってください。僕はどうでも良い。ただ、つまんないことに税金を使ってくれるな、とは思う。やるならボランティア(笑)とか、民間資金で是非やっていただきたい。日本にはお金がないんだから、迷惑はかけんなよ、と。

さて、件のエントリー、「これまで誰も書かなかった「サイエンス・コミュニケーションに求められるもの」」は、僕にしては物凄く親切に、まとめまで書いてあげた。非常に分かりやすいから、一々追加の説明も必要ないでしょ。と、言いつつ、もう一度親切に言葉を変えてあげているんだけどね、この文章は(笑)。

新潟とか、いくつかの地方大学の似非科学否定クラスターの研究者達がはてブを付けているけれど、こいつらについては、以前大御所が飲み会で言っていた「あいつらは一人ひとりでは何の役にも立たないけれど、数だけはいるんですよ。そして、似非科学の否定には結構数が大事なんです。だから、馬鹿だとは思っているけれど、一応表面上良い関係を保つことにしています」っていうのがもう的のど真ん中を射ているわけで、でも僕はそいつらと仲良くする気はさらさらない。30前後になっても研究とゲームとネットサーフばかりやっていて、10年後は何をやっているのか楽しみですねぇ、という感じだ。こちらも、要は、どうでも良い。

直後に書いたバイオ市場25兆円の話も同じ。僕は事実をきちんと把握して、分析して、「このままではだめですよ」と発言した。僕は政治家でもなければ役人でもない。為政者じゃないんだから、これ以上はどうにもならない。でも、とにかく5年前に、大臣たちがいる(実際には大臣の代理だったかも知れないけれど)オフィシャルな場で、「このままではダメです」と警告をしてあげた。全ての日本人で、僕だけだよ、僕が知る限り、きちんと無理だって発言したのは。感じていたのはもちろん僕だけじゃないよ?っていうか、バイオの関係者はほとんど「こりゃぁ無理だろうな」って思っていたはず。でも、それを黙っているのが日本の社会なんだよ。「放射線レベルが非常に高くなっていました(←過去形なのが重要)。ごめんなさい」「販売できないはずの野菜が流通に乗っちゃってました(←過去形なのが重要)。一週間前から分かっていました。ごめんなさい」って、今だってこんなニュースばかりじゃん。「バイオバブルがはじけました」っていう日本総研の人の話はそのとおり。でも、大勢のみんなは、バブルだってわかっていて、見ないふりをしたんだよ。今わかった話じゃない。何故見て見ぬ振りをしたのかって?その方が予算が取れるからでしょ。その方が業界にお金が落ちる。先がどうなるかが問題じゃない。自分たちの業界に税金が投入されることが重要だったんだよ。行政の市場予測って何のためにあると思っている?あれは、財務省に説明するための道具なんだよ。「三菱総研が25兆円と予測しています」って、でも、その数字を考えたのは経産省だし、BT戦略会議のバイオテクノロジー戦略大綱策定に当たって指示を出したのは内閣府だ。業界はお役所に頭を下げて、「その調子でどんどん予算を取ってきてください」って、御輿を担ぐ。そして、ガケから落っこちるって分かっているのにアクセルを踏み続けた。さすがにここ数年、25兆円の数字を出す人はほとんどいなくなったけれど、おかげでガケから落っこちた人たちがたくさんいるわけだ。

#落っこちた人たちの多くも僕から見たらタックスイーターだけれど、とにかく僕達は「税金がどういう仕組みで再配分されているのか」をきちんと見ていく必要がある。有効に活用されているかチェックする必要がある。ただ、それはそれ。ちょっと本筋から離れるから、もとに戻す。

ダメな奴にダメって言わない、うまくいきそうにないことをその通り言わない、失敗しているのにそれを認めない、予測なんてでっち上げだったのに見て見ぬふりをする。これが日本の国民性ってやつなんでしょ。

だから、科学が「面白いんだ!」「大事なんだ!」っていう奴らは、そのまま頑張れば良い。それが心地良いなら、そのままでどうぞ。僕は僕で、僕の中の正義に従うだけです。つまんないんだ、大事じゃないんだ、っていうのが認識できたとしたら、「じゃぁ、なんで科学を教えなくちゃならないんだ?」ってことになる。学者が増えたほうが数撃てるようになるから?科学技術系の予算が増えるから?両方ともありそうだけれど、基本的には「教えたいから」なんじゃないの?でも、教えられる側は別に興味がないんだよ。ここまで認識できて初めて、スタート地点に立てる。科学は面白くないし、科学は大事じゃない。でも、それがエンターテイメントのフォーマットに乗るなら楽しんでもらえる。もし話を聞いてもらいたいなら、理解してもらいたいなら、その工夫をしたら良いんじゃないの?ということ。そして、これはマーケティング手法の話。もちろん、エンターテイメント以外のアプローチだってあるはず(おっぱいだって可能性のひとつ)。あくまでも、僕の提案がエンターテイメントっていうだけのことだ。

百歩譲って、科学が面白くて、大事だったとしても、だからってそれが売れるとは限らない。良いものが売れるんじゃない。上手にマーケティングしたものが売れるんです。

モノを売ったことのない理系の学生には難しすぎますかね?これがわかっていれば、就職活動だって楽勝なはずなんだけれど(就職活動は自分を企業に売り込むマーケティング活動)。いや、もちろん、付け焼刃じゃだめなんだけれどね。2年ぐらいをかけてじっくり考えなくちゃだから、就職活動は。

ということで、もう一度まとめてあげよう。

1.科学は大事でも、面白くもないことを認識すべき
2.サイエンス・コミュニケーションしたいのは、研究者サイドの都合
3.つまらないものを受け取ってもらうには、付加価値をつける必要がある(美味しくない生野菜にドレッシングをかけるようなもの)

#納得しない奴はどうでも良い。じゃぁ、サイエンス・コミュニケーションでちゃんとメシを食っているタックスイーターじゃない奴を見せてみろ、ということ。

#ニューヨークとワシントンにある二つの自然史博物館には興味があって、自腹で(←はい、今、大事なことを書きましたよ。役所のお金で視察に行ったりする奴とは一緒にしないでね)両方共観てきたけれど、確かによくできている。そして、人気があるのもわかる。また、そのコンセプトを真似して日本に導入しているところがいくつかあるのも知っている。お手本にするのは良いけれど、あのコンセプトが真の成功を収めるためには、ハレの場(博物館)の整備だけじゃダメだよね。

#ちなみに科学はカネにはなると思うよ。でも、カネにする奴らには、別にサイエンスコミュニケーションなんていう啓蒙活動は不要だと思う。

#もう、ほんとに税金泥棒、税金乞食って嫌だよね。でも、震災のおかげで彼らへの税金供給はかなり絞られるでしょ。兵糧攻めで絶滅して欲しい。世間のチェックも厳しくなってほしい。
  
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2011年03月10日

雑文:日本のシンクタンクとは

友達がツイッターで「シンクタンクへの就職も選択肢」みたいに書いていたので、ワンポイント。前にも似たようなことを書いたと思うけれど、探すより書いたほうが早い。

シンクタンクの仕事は大きく分けて3種類ある。一つは企業のアドバイザー的な役割。二つ目が看板付け(箔付け)。三つ目が小間使い。

多くの人は一つ目の、アドバイザー的な役割がシンクタンクのメイン業務だと勘違いしているけれど、実際にはこの業務はあまりない。なぜなら、ちょっとした企業なら、シンクタンクに相談なんかせず、自前で検討して答えを出すからだ。だって、シンクタンクの無責任なアドバイスに従って何か間違った経営判断をしてしまったらどうする。結果的に損害が発生してもシンクタンクは責任を取ってくれないのだから。真の実力があるなら別だけれど、そんな実力があるシンクタンクが国内にあるのは今のところ見たことがない。

二つ目の看板付け。実はこの仕事はそこそこある。要は、クライアントの社内的な調整において、「○○総研さんもこう言ってます」という、担当者の自説の正当性を補強する目的のものだ。特に半ば官僚組織的な旧態依然とした大企業では、この手の書類のニーズがまだあるようだ。

三つ目の小間使い。これは圧倒的にというか、ほとんど全部役所からの仕事である。まず、事務局みたいな仕事。この仕事はついこの間まで、役所の天下り法人が担当していた(バイオで言えばバイオインダストリー協会とか)のだけれど、その手のお金の流れに対して2000年ぐらいからチェックが厳しくなって、仕事を出しにくくなった。それで、財団法人やら社団法人やらにこの手の仕事を出せなくなって、でも、忙しいし、こんな仕事やりたくないよね(中央の官僚)、というのをチョロチョロとシンクタンクに出すようになった。面倒くさいだけで馬鹿でもできる仕事だ。それから、財務省説明などに使う資料の作成。これなんかは、入り口と出口が決まっていて、中身をなんとかしろ、という仕事。喩えて言えば、「出演する役者は里見浩太朗と東幹久と的場浩司です。登場人物は黄門様と助さん、格さんです。ラストは助さんが印籠を見せて、みんなが土下座して、黄門様が大笑いして終わりです。間のストーリーを考えてください」という感じ。クリエイティビティ(繰り返しますが、「クリエイティビティ」です。調査能力とか、分析能力ではないです)を全く要求されないものではない。ただまぁ、「バイオ市場を試算してください。結果は2010年で25兆円にしてください」というオーダーが出て、それにぴったりと合うような試算をすることが楽しいかどうかは正直微妙である。さらに、色々な資料で「○○総研の試算によると」と書かれてしまう。「おいおい、2010年のニューバイオ市場は3兆円ぐらいなんじゃないの?酷い計算間違いだな、25兆円って、脳みそ大丈夫か?」みたいなことになって、責任を取らされるのもなんとなくすっきりしない(笑)。まぁ、それなりにお金は貰っているのだし、その責任料も込みではあるんだけれど。

それで、シンクタンクの質は?ということになると、当然のことながら、1の仕事の割合が多いほうがレベルが高いということになる。だから、シンクタンクがまともな会社かどうかを判断しようと思ったら、そのシンクタンクの受注実績における産官の比率を調べれば良い。

官僚は、間違ってもシンクタンクの出した数字を鵜呑みにしたりなんかしない。だって、自分たちのほうが最新のしかも良質なデータを持っているんだから。僕は三菱総研から経産省に行って、彼此の差に唖然としましたよ。  
Posted by buu2 at 14:52Comments(2)日記

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2007年05月17日

今日の朝日新聞朝刊の中村桂子さんの「私の視点」について

今日の朝日新聞の15面、オピニオンの「私の視点 ワイド」に中村桂子さんのオピニオンが掲載された。非常に良い文章なのだが、なぜかasahi.comでこの記事を見つけることができない。なので、まず簡単に要約を載せる。

生命科学分野では近年、多額の費用と多数の人材を必要とする大型プロジェクトが実施されるようになってきた。これらのプロジェクトの成果は国民全てにとって重要である。
さて、最近発表された二つのプロジェクトを比較することによって日本の問題を指摘したい。
米国ではヒトゲノム解析をがん理解の第一歩と位置づけ、がんに関する遺伝子をすべてリストアップ、徹底的に調べ上げることによって、2005年には今後のがん研究には100を越えるタイプの研究が必要だとわかった。今後3年間に合計1億ドルを投入し、代表的ながん3種類について研究を進め、もし有用性が見極められなければプロジェクトを停止することとした。
一方、日本では3千種類のたんぱく質の構造と機能を研究する「タンパク3000」が2002年に始まった。たんぱく質の研究は確かに必要だが、具体的な目的、なぜ3000種なのか、どんなたんぱく質を調べるのかについての科学的検討のないまま始められ、5年間で578億円という巨額の費用を使って昨年度終了した。高価な機械を大量設置し、3000という数はこなしたが、薬品産業や医療に結びつく成果は出ていない。「明らかにされた基本構造は全体の5%だった」「重要な膜タンパクがほとんど扱われていない」などの評価がプロジェクト後に発表されたが、これは開始前や中途に検討すべきだ。
米国では必要性や実現可能性を検討するが、日本ではそれらなしにいきなり大型プロジェクトが開始され、評価が生かされずに次に進んでいく。
税金の投入や成果も問題だが、そこに大勢の若者が投入されることも気になる。これでは科学の本質を深く考える科学者が育たない。学問と社会の行く末を見つめ、難しさにたじろぎ、悩みながらも重要な課題に挑戦するのが科学者である。
プロジェクトの必要性は認めるが、本来研究は個人的なものであることを忘れてはならない。このままでは10年先が怖い。
(以上、僕が勝手に要約)

さて、このオピニオンは非常に重要な指摘だと思うのだけれど、一般の人がこれを読んでもピンとこない部分が多々あると思う。実際に理研(文科省ライフ課所掌)でタンパク3000を指揮した横山さんと仕事をし、それのカウンターパートである経産省バイオ課でも働いてきた立場から、もうちょっとわかりやすく、かつ詳細に書いてみたい。

中村桂子さん(バイオ関係には中村さんが色々と登場するので、フルネーム)の指摘はいくつかあるのだけれど、それを理解するにあたっては、日本でどういう流れでこの手の大型プロジェクトが設置されるのかを知っておく必要がある。今は総合科学技術会議などが設置されて若干の変更はあるものの、基本的な流れはこんな感じである。

まず、文科省ライフ課、経産省バイオ課などの担当課長補佐、あるいは係長レベルの人間が日ごろから感じている問題意識などをもとに勉強会を開く。この際、自分達が所掌している組織へのヒアリングなども実施するし、また逆に予算が欲しい研究者が研究テーマを持ち込んでくることもある。文科省の場合は東大などの大学や、理研の主任研究員などが中心である。また経産省の場合は文科省に距離の近い教授と対立している教授、あるいはもともと経産省と距離の近い教授などが話を持ち込むケースと、産総研などの経産省が所掌している研究者が中心となる。中には東大医科学研究所の中村祐輔さんのように、文科省では経産省の悪口を言い、経産省では文科省の悪口を言いながら双方から予算をゲットするような世渡り上手も存在するが、基本的には予算を取る立場の研究者は文科省系、経産省系のどちらかにわかれる。余談だが、予算の規模は文科省の方が圧倒的に大きい。また、これらの生物系の部署には理研、産総研からそれぞれ研究者が出向してきており、本省とのパイプ役を務めている。

こうして日頃から中央省庁の役人は「自分のテリトリーの中」から情報を収集している。そして、春の終わりぐらいから「予算取り」の準備を始める。そうやって収集してきた情報をいかに予算につなげるかが彼らの腕の見せ所になるわけだ。予算を取ってくることによって彼らの省内での評価は上がっていくわけだが、その額は大きいほうが良いし、また継続玉ではなく新規玉が高く評価される。今は予算の上限が財務省からかなり厳しく提示されるため、それにあわせてまずそれぞれ省内で調整を行い「今期はコレで行く」と判断することになるが、これを最終的に決めるのは役人であって科学者ではない。そうした意思決定のフェイズを僕は直接見たことがないのだけれど、中村桂子さんが指摘するような「必要性や実現可能性」を専門家がオープンな状況下で実施しているとは考え難い。

さて、僕は経産省では本省で予算を申請する立場にいたが、文科省においてはその下の特殊法人(当時)、理研で働いていた。理研には文科省からどういう要請が来るかと言うと、「これこれこのぐらいの額を財務省に申請できるような玉を揃えてくれ」という内容である。これにあわせて、理研の事務方は申請資料を作ることになるが、その時期には事務方は理研の主任研究員と毎日のように企画を練り、文科省の要望にあわせていくことになる。理研の事務方はあくまでも主任研究員の代理人のような立場なのだが、最近は研究員もすっかりメジャーになったので、横山さん(タンパク3000)、林崎さん(マウスcDNAエンサイクロペディア)などは代理人を通すのが面倒になると直接ライフ課に行ってしまうこともあるようだ。予算申請は文科省、理研事務方、理研研究者の三者による共同作業ということになる。

中村桂子さんの書いている「多額の費用と多数の人材を必要とする大型プロジェクト」は大抵の場合、まず研究者から提案が行われる。それらを見比べて、どれにするかを決めるのが役人である。その際重要なのは、「他省庁のやっていることと重複がないこと」である。例えば一時期、文科省はマウスのcDNAライブラリー、経産省はヒトのcDNAライブラリーを大型プロジェクトで実施した。「あっちがネズミならこっちはヒトだ」というマインドである。

#もちろんこれ自体は全く問題がないが、そこからどういうリザルトが生み出されたのか、ということになると議論は途端に尻すぼみになる。

省内の調整が済むと、その企画は省から出て財務省へと持ち込まれる。僕もバイオの人材育成の予算取りのリーダーとして財務省にでかけて説明をしているのだが、相手は財務の専門家であって、サイエンスのプロではない。なので、素人でもわかるような資料を作成して、「日本にとっていかにこのプロジェクトが重要なのか」を説明する。この説明の後、財務省の中でどういう検討が行われるのか、これまたこちらにはブラックボックスなのだが、このフェイズでも恐らく専門家がオープンな状況下で検討しているわけではないだろう。最終的に財務省がオッケーとなったところで折衝は終了である。

ここまでの説明の中で何度か「専門家が検討しているわけではないと思う」と書いたが、「専門家がきちんと検討する」という部分をしっかりとさせるために設置されたのが総合科学技術会議だったはずである。しかし、どうも見ている限りではワークしている感じではない。それは中村桂子さんが「今の日本のプロジェクトは駄目だ」と指摘していることからも窺い知ることができる。

以上の流れを物凄く乱暴にまとめると、

1.政治力のある科学者が「この研究が必要です」と役所に陳情に行く
2.それをもとに、役人が勉強して、資料をつくる(場合によっては研究者がつくる)
3.財務省に説明する
4.財務省がオッケーと言ったら予算化され、プロジェクトが実施できる

という感じで、マネージャークラスの研究者になると、メインの仕事は研究ではなく、いかにして予算を取ってくるか、になる。今のバイオ研究はどれもこれも大規模プロジェクト化しているので、研究者の評価も政治力に密接に関係している。そして、このフローの中に「中立な専門家が俯瞰的に判断するフェイズが存在しない」という点に問題はある。

また、日本においては予算を取ってくる段階ではそこそこにきちんとした検討を行っていると思うのだが、それを執行する段階以降については検討が非常に甘い。そもそも一度取ってきた予算は全て使い切るのが研究者の役割なので、途中で駄目だとわかろうが何しようが、とにかく全部使い切る。これは年度末に一所懸命必要のない道路工事をやるのとなんら変わりがない。文科省や経産省の役人からすれば「予算は取ってきたんだから、それを全部使い切るのが研究者の役目だ」ということになる。なぜそうなるかって、節約しても何も良いことがないからだ。お金が残れば、財務省に対して「あそこの申請はずさんだ。お金がない今の時期に必要のない費用を計上した」と判断されかねない客観的な事実を提供してしまうことになる。

これは日本のシステムの構造的な欠陥であり、これまでもこれを指摘した人は山ほどいるはずなのだが、なぜか全く改善されない。予算を立てるのは良いが、それを執行する段階においては「いかに節約するか」が重要で、節約することによって評価があがるという評価システムが必要である。

とはいえ、今はそういうシステムがないので仕方がない。もらったお金は全て使う、これが日本の常識である。留意点がこれしかないので、成果がどうなのか、ということは基本的に眼中にない。もちろん一部のマスコミやウェブサイトで「あれは費用対効果が見合っていないのではないか」と指摘されることはあるだろうが、それがその後に何らかの影響を及ぼすことはほとんどない。マネージャークラスの研究者はお金を取れるプロジェクトを企画立案するのが仕事、各省はそれをベースに予算申請を行うのが仕事、財務省はそれらを俯瞰して調整するのが仕事、であって、本気で成果を検討することもなければ、成果を次の予算申請にフィードバックすることもない。要は、みんながみんな、食べたら食べっぱなし、後片付けのことは知りません、という感じである。

中村桂子さんの言うことは全てもっともで、僕としてはほぼ全面的に賛同するのだが、ではどうしたら良いのか、ということになると日本の社会システムの根幹にも関わることで、その改革は容易ではない。そもそも、それを改革するために設置されたはずの総合科学技術会議が実質的に機能していないのだから、その難しさは想像に難くない。

中村桂子さんはさらに人材の育成についても危惧を述べている。これも全くの正論だと思う。かく言う僕自身も元々バイオの研究者を目指した人間だった。80年代の生命科学の世界は多くの発明や発見が行われ、非常に刺激的だった。しかし、それが労働力やお金の大量投入大量消費の世界に変わってしまい、評価されるのは予算を取ってくる先生だけ、という状況になってしまい、僕にとってのアカデミックな生命科学の世界は途端に色あせてしまった。上の人間(もちろん全てではない。大学院のときの指導教官の西川一八さん(現岐阜大教授)などは完全な例外)が自分に求めているのがアイデアではなく労働力であるということがわかってしまったからである。
#このあたりのことについてはこちらもどうぞ

ただ、この件についていえばプロジェクトリーダー格の研究者も頭を悩ませている点だと思う。例えばタンパク3000が終了した際、プロジェクトリーダーの横山さんは、当然それまで一緒に研究してきた研究者達を食べさせていけるような新規玉を用意しようと努力しただろうし、終了とともにその後の進路が不透明になってしまった研究者達に対しては彼なりに心を痛めたんだと思う(横山さんとはもう何年も話をしていないけれど、彼の人柄から勝手に想像)。大型プロジェクトのリーダーは大勢の研究者を抱える株式会社の社長のような立場であり、それはそれで、社員たちを食べさせていくためにマラソンを続けなくてはならないのである。

#これはまたどこかで近いうちに触れるつもりだけれど、この若手人材の浪費の背景には、日本に実質的に有効な宗教が存在しないことが大きな影響を及ぼしていると思う。

さて、中村桂子さんがなぜ新聞にこのオピニオンを載せたのか。これまで書いてきたように、この問題は普通の生活者が考え方を変えることによって改善されることではない。変えることができるのは政治家と役人である。中村桂子さんは新聞にオピニオンを載せることによって国民の意識を変え、その代表である政治家に問題提起したいのだろう。その声が国民に、そして政治家に届くのか。個人的には非常に懐疑的なのだが、そんな状況でも情報を発信し続けている中村桂子さんは素晴らしいと思う。  
Posted by buu2 at 17:20Comments(12)TrackBack(4)バイオ

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2005年07月31日

2010年のバイオ市場規模の持つ意味(2年前に書いて忘れてた)

長いから、全部追記に書きます(笑)。あぁー、ただで公開しちゃった。原稿料損した(^^;  続きを読む
Posted by buu2 at 14:57Comments(10)TrackBack(0)バイオ

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