昨日、あるところで「元木さんはなぜこんにゃくゼリー問題にあそこまでデリケートに反応するのですか?」という質問をされた。
理由はそれほど複雑じゃない。日本の抱えている問題を顕著に表した事案であり、それに対して生理的気持ち悪さを感じたからである。この気持ち悪さは理屈ではないけれど、気持ち悪さを感じた理由は理屈なのでちょっと書いておく。
この案件は、一言で片付けてしまえば「自己責任」で終了すべき案件だと思う。
こんな細かいところまで一々行政が介入していたらどういうことになるのか。
先日のエントリーでも触れたが、この製品のバックにはそれで食べている人たちがいる。そして、この人たちは、すでに目に見える形で対策をしてきている。パッケージに注意が記述されているのだから誰でも確認できるだろう。個人的にはこれでもちょっと消費者寄り過ぎなんじゃないの?と思わないでもないのだが、実際のところ、これらの商品がお年寄りや幼児をメインターゲットにしているとは思えないので、「デザイン費用、パッケージの刷りなおしぐらいで済めばまぁいっか」という経営判断があったに違いない。とにかく、メーカーの方は要求されている責任を果たしているというのが僕の考えである。その問題に対して一部のメディアが過剰に反応し、感情的な消費者をあおり、行政が圧力をかけているというのが僕の受け止め方。これによって、間違いなくメーカーは疲弊している。こうしたマスコミ主導の感情的意思決定こそが沈滞した日本経済に対する毒だと感じるのである。この毒は猛毒であるにもかかわらず、その効果はあまり目に見えないところで影響を及ぼす。だから、そのあたりの因果関係が証明しにくいし、対策も難しい。
日本人の悪いところは、目の前の事象について感情的に煽るマスコミに踊らされ、その先にある世界がどういうものなのか理解できないところだ。一言で書けば近視眼的。それはばら撒き政治が大好きなところと共通している。
あるメーカーを感情的に叩くと、その企業も、周辺の企業も、当然製造に対して慎重になる。この刷り込みは企業の姿勢そのものをコンサバティブにする。企業マインドが保守的になれば、新しい製品は生まれにくくなるし、人材を確保するモチベーションも落ちる。ひとつひとつの会社がこういった状況になっていくと、社会全体が沈滞していく。今の日本社会の雰囲気は、こうした少しずつの元気のなさの集合体でもある。
問題になるのは、「企業叩き」が理論的ではないことである。「子供がかわいそう」という感情は理屈ではないから、それに起因した企業叩きが理論的ではないことは自明だ。そして、企業は本来理屈で動くべき組織だが、それが外部の感情というある意味予測困難な事象についてリスクを持たなくてはならないとなれば、それは大きな負担である。
今回のこんにゃくゼリー問題は、その典型である。もちろん、「17人も死者が出ているのだから、理性的に判断して対応が求められる」という意見もあるだろうが、それを理性的というのであれば、再三書いているように「餅はどうなる」ということになる。中国新聞は「餅で死んでいるのは年寄りばかりだ」としてその場で思考停止しているが、これでは全然説明になっていない。まぁ、新聞などといってもただの主観の集合体であって、たとえば先日の中山大臣(当時)の失言問題のときなども、産経新聞は日教組関連に関しては完全にスルーだった。公平性などというものは新聞には存在しないし、別にそれで構わないと思うのだけれど、日本人は「新聞は公平」などと勘違いしているからおかしなことになってしまう。もちろんこれは新聞の責任というよりは日本人の問題だが、新聞社もあたかも自分たちが公平であるようなアピールをしているのであればそれはそれで問題だ。って、ちょっと話がそれたが、新聞の主張はいつでも公平というわけではないし、社説というのはそれこそ新聞社の主観を主張する場なので、「あぁ、この新聞社は馬鹿なんだな」と判断すればそれで済む。さて、話を戻して餅である。これは「死んでいるのが年寄りだから」ということでこんにゃくゼリーと別問題にしてしまうのはあまりにも乱暴である。危険な食べ物であることにはなんら変わりがない。もちろん、僕は餅を規制しろ、と言いたいのではない。餅が良いならこんにゃくゼリーだって良いじゃん、ということであり、そして最も恐れているのは、「必要以上に企業に負担を求める姿勢が蔓延すること」である。特にそれが生活者の感情に起因するようなものであった場合、近視眼的にはその感情を満足させることができたとしても、日本の経済のアクティビティには大きな影響を及ぼすようになると思う。というか、もうすでにこうした過剰反応が日本経済に対して影響を及ぼしているのではないかというのが個人的な感想である。
何でもかんでも全部自由にすべき、などとは言わない。ただし、規制にはある一定の理性的歯止めが必要だ。餅に関して言えば、長い日本の食の歴史の中で、その危険性を国民全体で共有している。そして、「これは販売停止にすべきものではない」という意識も共有している。長い歴史の中で構築されたこの判断(餅を規制すべきではないという判断)は決して間違っていないと思う。なぜその感覚を一般化して、後から出来てきた新しい製品に対処できないのか。これが不思議でならない。いや、なぜ出来ないかって、それは新聞やら、テレビやら、政治家やらが騒ぎ立て、そして近視眼的な一部の国民がそれを支持しているからに他ならない。日本はそういう社会なのである。しかし、本当にそれで良いのか。
日本の経済がいつまで経っても活性化してこない理由はいくつもある。それは単純ではないし、僕のように基本的に理系で、経済の勉強を大してやってきていない人間にはコメントしにくい部分でもある。ただ、素人の感覚として、そういう色々な要因のひとつとして、ここに書いた「感情的な企業叩き」が挙げられると思っている。
では、どうしたら良いのか。結局のところ、求められるのは情報の公開である。先のエントリーでも触れたが、「餅を喉に詰まらせて死ぬ人の数」というデータはなかなか見つからない。おそらく厚労省の白書などを調べればどこかに載っていると思うし、そういったパブリッシュされたデータがないにしても、厚労省に電話をして情報を求めればどこかには数字があるはずだ。このデータが今回の案件に対して非常に重要なデータを提供してくれることは想像に難くない。しかし、そのデータにアクセスできないのでは、理性的な判断が阻害されてしまう。
「餅ではこのくらいの人数が死んでいる。一方でこんにゃくゼリーではこのくらいの人数が死んでいる。餅とゼリーの危険性を客観的に判断すると、対策にはこんなことが求められる」
みたいな判断が必要なはずなのに、その根拠となるデータが得られないのでは、そもそも客観的な評価ができないわけだ。日本の役所は僕自身も所属していたことがあるから良くわかるけれど、とにかくデータを外に出したがらない。これは本能的に、なのかも知れないし、無自覚的になのかも知れないけれど、とにかく自分たちだけがデータを持ちたがる。学校別の成績に関するデータとか、その顕著な例で、「愚民どもは詳細は知らなくても良いんだ。俺たちだけがデータを持って、政策を考える」という姿勢。違うだろ、と。お前らだけが正しい判断ができるわけじゃないし、そもそも「正しい」なんていうのは主観的な判断なんだから、まずデータは全部開示しろ、と。その上でみんなで考えれば良い事。ところが、日本はそうならない。偉い人に任せておけば良いや、なるべく無関係でいられればそれに越したことはない、みたいな考え方がマジョリティだったりする。情報を持っている側も、情報を持っていない側も、情報が公開され共有されることに対して否定的なのだから、状況はなかなか変わってこない。しかし、この情報公開をどんどん進めていかなければ、官僚主導の政治はいつまで経っても修正されない。逆に言ってしまえば、情報が公開されるだけで社会は随分と変わるはずだ。
僕が生理的に嫌なことは日本の社会にいくつもある。被雇用者が保護されすぎていて雇用が流動化しないなんていうのもそのひとつである。一見すると今回の問題とは全く関係なさそうだが、実は根っこは同じである。
被雇用者の権利が強くなれば強くなるほど、雇用の流動性は低くなる。結果、既得権者の権利ばかりが守られてしまう。今発生しているポスドク問題の根源はここにあると言って良い。馬鹿な奴らはそこに金をばら撒けだの、適当な職を手配しろだの、大企業に引き取ってもらえなど、アホな提言を繰り広げているけれど、これは何も本質を改善しない。ただの対症療法である。金をばら撒くのをやめたら、適当な職を手配するのをやめたら、大企業に引き取ってもらうのをやめたら、それでおしまい。元に戻るだけだ。こういう対策は本質的ではない。本質的なのは、あくまでも雇用の流動化、それも、若年層だけではなく、中高年も含めた雇用の流動化である。しかし、中高年層は既得権者だから、そんなことは認めたくない。結果、「対症療法で良いじゃないか」ということになる。その結果、過剰に保護された中高年はどんどん役立たずになっていき、彼らが場所を譲らないから若い人たちの活躍の場は現れない。活躍の場がいつまで経っても現れないから、若手は若手で諦めてしまい、そちらはそちらで能力の向上が見られなくなる。この例なども「近視眼的」だからこそ、良い対策を打てない例である。目の前にいるポスドクに仕事がなくて可哀想だ、だから何とかしよう、ぐらいで思考停止するから、本質にたどり着けないし、有効な施策を講ずることもできない。
何しろ、目の前に起きている問題だけにとらわれて、その延長線上に何があるのかをしっかりと見据えていない対策を打つのは理性的な人間のやることではない。日本人が高度に教育され、高い知能レベルを持った国民だというのであれば、もうちょっと大局的な視点、長期的な視点から検討する癖をつけてほしい。これは短期間で異動してしまう官僚にとって構造的に苦手な分野でもあり、だからこそ日本の社会にはそれを見直す機運が希薄である。官僚のシステムがそのまま日本の価値観に直結している事例(こうした事例には事務官の技官に対する優位性などもあるかもしれない)だと思うが、漫然として生活していては、いつまでも変わりがない。
「子供が死んだらかわいそう」が第一歩。「それで規制したら、規制された会社はどうなる」が二歩目。「その製品はどういう背景で開発されてきているのか」あたりはちょっとした寄り道。そして「そういう規制が当たり前になった社会はどうなるのか」を考えるのが三歩目。その社会を想像した上で、「どうしたら良いでしょうか」を考えるべきだ。もちろん、そこまでを考えて、「やはり規制しましょう」という結論ならそれはそれでひとつの見識ではある。すべての規制は撤廃しましょう、すべては自己責任です、政府は何もしなくて良いです、なんていうことを言う気はもちろんないわけで、安全や安心や環境や経済のために政府がやるべきことは当然ある。しかし、やらなくても良いことも山ほどあるはずで、こんにゃくゼリーの規制なんていうのはその典型例だと思う。
「複雑じゃない」と言いつつかなり長くなったけれど、そんなこんなが「気持ち悪さを感じた理由」である。