僕自身こうしてブログをやっていて、ブログの中では時々お店や商品の紹介をやっている。自分でSNSを運用して、そこで口コミを集めることもある。また、近い将来、その延長線上にある評価システムを開発、発表する予定もあって、すでにプログラムを開発中でもある。このように自分で情報発信をして、自分で仕事として利用している一方で、こんなエントリーをあげていたりもする。
結局は個人に帰着するネット情報
↑(注意)古いエントリーなので、テクノラティの検索結果などは一部閲覧できなくなっています。
詳細に僕の発言を追っている人なら「お前の行動と発言は矛盾しているんじゃないか?」という意見も出てきそうである。僕の中では整合性はわりと取れているのだけれど、折角なので一度ここでまとめておこうかな、と思う。なぜなら、もう少し立つと僕のポジションは完全に「事業者」としてのものになって、これらの事象をより主観的に見るようになるからである。そのとき僕の意見がどう変わるかはわからないが、少しでも客観性が高いうちに考えておくほうがフェアなような気がする。正直なところ僕の中でも考えはまとまっていないので、以後の文章はかなり散文調になると思うのだけれど、その点ご容赦願いたい。何しろ今思っている考えを書いておいて、後々、これをベースにきちんとした「口コミ論」に仕上げてみたい。
そもそも、口コミというものが成立する背景には、「バイアスがかかった広告宣伝なんかよりも、自分が知っている、信用している人からの情報の方が信頼がおける」というものがある。口コミというのは「知人からの情報」というのが大前提で、知人からの情報だからこそ信頼できる、ということだったはずなのだけれど、インターネットの普及によって口コミの性質が変わってしまった。性質が変わったにも関わらず、その新しい「口コミ」を古い口コミと同じ言葉でくくっているために、それを使っている人間の感性がごまかされてしまっている気配がある。
端的に言ってしまえば、「どこの誰かもわからない人間がネット上で発信している情報などは古い定義における『口コミ』ではない」ということだ。
以前は口コミではなかったものがネットの普及によって口コミになってしまい、その性質が変わったにもかかわらずそれを称する言葉が相変わらず口コミであるために、今の口コミが古くから存在する口コミと同様に信頼がおけると勘違いしているわけだ。その流れを簡単にまとめると次のようになる。
1.口コミとは信頼のおける知人からの情報(→信頼度が高い)
2.ネットで個人が情報発信できるようになった
3.「個人が発信する情報」という点に着目して、これを広義の「口コミ」と定義した
4.口コミの性格は大きく変わり、結果として口コミの信頼性は低下した
5.口コミの質の変化に大衆は気づいておらず、引き続き信頼性は高いと勘違いしている
では、口コミは本当に役に立たないのかといえば、そんなことはない。「信頼のおける人物が発信している情報」だけを集めているのなら、それは間違いなく役に立つ。では、信頼がおける人間が発信する信頼のおける情報をどうやって集約するのか、ということになってくるわけだが、これを機械的に実施することはなかなか難しい。もちろんその解法が全くないわけではなく、実際に今ライブログで開発中のシステムはここにフォーカスしている。しかし、何しろ現時点ではまともに動いている評価システムがほとんどない、というのが実情である。個人的にはGoogleのPageRankなどは比較的うまくまわっているシステムだと思っているのだけれど、それにしてもSEOなどという商売が成り立ってしまう程度のものであって、完璧でもなければ完璧に近いわけでもない。
僕が上の文章で「機械的に」と書いたのはもちろん理由があって、実は「機械的」でなければ、かなりの程度まで口コミ情報を信頼性の高いものに変えていくことができる。簡単に思いつくのはブックマークの利用で、例えば僕が「このラーメン評価は参考になる」と思ったエントリーだけをどんどんブックマークしていくのであれば、僕という個人のフィルターを通した「魔人ブウ*によるラーメン評価エントリー集」ができあがるわけで、非機械的な手法によって優良(とは限らないが、魔人ブウ*の主観としては優良)情報の集約が可能になる。もちろん、僕はそんなことをやる気はさらさらないのだけれど、技術的には可能だし、もしある程度の熱意を以ってやるのであれば、それなりのアクセスも稼げるはずだ。
では、そういう口コミ情報を上手に利用してマーケティングに利用できるのだろうか。こちらに「クチコミマーケティング勉強会」なるもののブログがあるのだけれど、
口コミマーケティング勉強会
この「WOM勉強会の今後(転載)」という文章はなかなか面白い。僕などは「口コミマーケティング」なる名称を聞いただけで、「マーケティングに利用されている時点で口コミは口コミにあらず」などとすぐにはんこを押したくなるのだけれど、きちんと読んでみれば書いてあることはまっとうである。そして、その中で僕が一番注目したところは下記の部分。
ぱっと思うのは、ブログ+動画+イベント、みたいな組み合わせで、これからの企業コミュニケーションは作られていくのかなあと。
まだぼくも具体的なところまで詰め切れてないのですが、そういう活動を通じて本当に「ブランディング」をやっていかないといけないんじゃないかと思ってます。
我田引水だけれど、これこそ、今ライブログがあちらこちらの営業で喋っていることである。厳密に言えば、「ブログと画像とイベントを組み合わせましょう。将来的には画像は動画に変えていきましょう。そして、新しい形のブランディングをしましょう」ということで、動画ではないのだけれど、一方で動画の導入も検討中であり、基本的なところで大きく違っているわけではない。
こうしたブランディングの事例として僕が紹介してきているのは、横浜市の東戸塚にある「Blooom」という中古車屋さんである。この中古屋さんの最大の特色は扱っているのが日産のラシーンのみ、つまりラシーンの専門店であるということだ。
日産RASHEENラシーン専門店BLOOOMブルーム
このサイトは立ち上げからすでに数年経っているのだけれど、現在はGoogleで「ラシーン」と入れればWikipediaの次に表示されるまでになっている。「ラシーンのことならここに聞け」という状態が出来上がっていて、ネット内においては完全にブランディングに成功しているのである。このサイトのポイントは「車を買ったお客様の顔が見える」ということ。実際に買った人の、買った瞬間の顔が見えて、そして彼らの声が聞けるのである。また、ラシーンオーナーによるバーベキュー大会などのイベントも徐々に増やして行っている様子だ。車業界は今非常に厳しい環境にあるわけだが、こういう状況になってはじめて動き出してもなかなか効果はあげられない。長い時間をかけて、徐々に作ってきたコミュニティでなければ評価されないのである。もちろんBlooomも今は厳しい状況だとは思う。しかし、ブランディングで成功しているというアドバンテージは大きいはずで、傷は業界内では浅いはずだし、回復したときの立ち上がりも早いと確信している。当初はもっと口コミ色が前面に出ていたのだけれど、今は口コミも利用した一般サイトに成長し、さらに新しい展開を模索中である。この事例のような「企業と顧客のネットによるコミュニケーション」というのは、企業規模が大きくなるにしたがって困難になるわけだが、逆に小さな会社であればあるほどやりやすいし、効果も期待できる。
いつの間にか口コミに関する記述がブログを利用したブランディングへと変わってしまったのだけれど、上で紹介したBlooomのサイトの場合、中核になっているのがBlooom自体なので、厳密な意味では「バイアスのかかっていない情報」とは言いがたい。口コミ的性質を利用しつつブランディングしていった成功事例である。企業が主体となって口コミを利用していく形態としては、これが典型的なものになるだろう。
(注意:きちんと書いておきますが、Blooomを成功事例として紹介したのはもちろんライブログの顧客だからです。でも、成功してないのに成功と宣伝しているわけではありません。理想的な事例なので紹介しています。「うちの会社でもネットを使ったブランディングをしたい」という人は遠慮なくご連絡ください)
では、「純粋な」口コミマーケティングって何よ、ということになるのだけれど、やはり広告する側、特に代理店などが旗を振って「口コミを利用しましょう」となった時点でその性格は本来の意味での口コミカラーを失ってしまうわけで、消費者が期待する意味での口コミマーケティングなどというものが本当に存在するのかすら疑問に思ってしまうのである。
そんなことを思っていたら、「なぎのねどこ」さんが「
もう、昨日の広告かも」というエントリーで
クチコミマーケティング業界の健全な発展を目指して、「WOMマーケティング協議会設立準備会」発足
なんていうのを紹介していて、これについては口コミマーケティング勉強会をやっていた河野さんも「
WOMマーケティング協議会」というエントリーで紹介しているわけだが、
そもそも、広告代理店が注目するような口コミというのは消費者にとってそれほど魅力的ではないし、もし口コミをきちんとマーケに利用しようと思うのであれば、そこで着目される口コミは商業主義となるべく独立している必要があるわけで、結果として「マーケに主体的に利用できるような口コミは存在しない」ということになってしまう。しかし、そんな状況にあっても口コミマーケティングが注目され、存在価値を議論される理由は何なのか。
つまるところ、消費者の製品に対する要求レベルというのはそれほど高くなくて、最近は商品そのものに「情報」を付加することによって満足を得ている節が強いんじゃないかと想像するのである。それは僕の領域であるラーメンで言えば「有名なあの人が常連らしい」とか、「テレビで紹介されていた」とか、「評論家のだれそれが勧めている」みたいな情報なわけで、そういった付加情報を得る仕組みとして、最近認識されている意味での口コミというものの役割がクローズアップされているのではないかと思うのである。だから、それほど信頼性の高くない、あるいはバイアスがかかっている口コミであっても、消費者はそれなりに満足してしまう。だからこその口コミマーケティングではないか、ということである。現状はこの程度の背景で口コミマーケティングが成立しているというのは間違いないだろう。作為的にネットの中に雰囲気を作ってしまうと、その口コミが新しい口コミを生成し、やがて全体の雰囲気が構築される。さて、「←今ココ」という状態だが、ではこの状況が続くのかといえば、決してそんなことはないと思う。色々な口コミ情報の裏がわかってくるにつれて、「口コミ情報はあまり信頼できない」という合意が形成されてくるはずだ。
結局消費者の意識は「その情報は本当なのか」という点に集約されてくるのだが、「これを書いてくれたら1000円払いますよ」みたいなサービス(「結局は個人に帰着するネット情報」で紹介している奴です)によって人工的に生み出された情報が役に立たないのは自明であって、では、そうじゃない情報をどうやって情報過多の状況においてスクリーニングするのですか、ということになるはずである。
こうした混沌とした状況というのはもちろんネットだけではなく、非常にわかりやすい例を挙げれば僕が去年の年末にこれでもかというくらいに叩いたマクドナルドネタがあるわけで、
最近のマクドナルドネタは
ここのカテゴリの12月分あたりをどうぞ
なぜ僕が去年あのねたをあそこまで叩いたかといえば、それはあの手を使ったマクドナルドに嫌悪感を持ったからではなく、ああいう手を使ってでも広告宣伝費を取ろうとした代理店側に嫌悪感を持ったからである。本当に良いものをみんなに使ってもらいたいと思って、そのための手段として広告を行うのは非常に当たり前のことだし、むしろ必要なことだと思うのだけれど、クォーターパウンダーの場合、食べてみて全然美味しくない(ただし僕の主観ですよ)わけで、それをあの手この手で売ろうとするそのやり方、それも有名人を使うならともかく、全くニュートラルに見えてしまうような一般人を使うという手法に対して生理的に嫌悪感を持ったのである。行列というわかりやすい事象をあたかも自然発生的に生じたように見せた、という点がどうにも気に入らない。もちろんそういう手法はビジネスとしてありだと思うし、それに騙されてしまうほうも騙されてしまうほうなのだけれど、広告のプロがそういう手法を提案したというところがどうも納得がいかない。それで、この事例は天下のマクドナルドがやったから、あちらこちらで大々的に批判されることになったわけだけれど、現時点での「口コミマーケティング」といわれる領域の広告手法は実際のところこのマクドナルドの手法となんら変わるところがないわけで、そのあたり、皆さんはちゃんとご理解していらっしゃいますか?と聞いてみたいところである。しかし、何にしても、人の心は弱いものだから、目の前に餌があればついつい心を動かされてしまう。
僕とかはアルファどころかベータにもガンマにもならないような弱小ブロガーで、世の中に対する影響力などもないし、このブログで「この本が良いですよ」などと推薦してもアフィリエイト収入はたかが知れている。たいした利益も生じないので、馬鹿正直に「この本はつまらない」などと色々な本、映画、演劇、グルメ情報などについてネガティブ情報を交えて書き散らしているわけだけれど、もしポジティブな情報を書くことによってアフィリエイト収入がばーんと上がるというのなら、小市民である僕などは平気で「この本お勧め!」「この本、役に立つ!」などと書いてしまいそうである。そうした人の心の弱いところを利用しているところがどうにも嫌な感じなのだ。放っておいてもそちらに流れていきそうになる(小遣いが稼げる方向)ところを、さらに商業的に誘導していくところが気持ち悪い。そして、その結果、ネット内にはわんさとバイアスのかかった情報があふれているわけだ。口コミ情報の価値をあげるためには、どうやって恣意的バイアスを削除していくのか、という課題を避けて通れない。
またラーメンの話を例にしてみる。調布と代々木にある「たけちゃんにぼしラーメン」というお店のマスターが「にぼしブログ」というブログで評論家批判を展開していて、これがなかなか面白いのだけれど、
にぼしブログ
お店をやっている側からすれば無責任に評価する評論家などは話もしなくない一方で、もし高く評価してくれるなら仲良くしたいわけで、「どうやって利用したら良いんだろう」という、頭痛の種のはずである。このブログでは、そういう微妙な立場からの意見をストレートに書いている。このブログは口コミとの付き合い方の難しさ、あるいは自らを「普通の口コミとは一味違いますぜ」と一段上に位置づけた「評論家」との付き合い方の難しさを提示した例なのだけれど、たけちゃんのマスターの主張を2行で説明すれば、「評論家などといっても、基本的には何らかのバイアスがかかっている。そんな情報を鵜呑みにしていてどうする」というものである。
正直に書くけれど、僕がラーメン評論家をしていたとき、僕は一切ラーメン店から便宜を図ってもらったことはなかった。だから、僕が書いたラーメン評論は全てニュートラルである。その後のことを考えても、ごく一部のお店で「今日はチャーシューの切れ端が余っちゃったから、どうぞ」などとお土産をもらうことはあるものの、ほとんど全ての店で何の便宜も図ってもらっていない。当時一緒にやっていた石神氏、大崎氏、北島氏、大村氏あたりがどうだったのかは良くわからないけれど、コレクタータイプの石神氏、大崎氏あたりは別に何もなかったんじゃないかな、と思う。しかし、今はどうなんだろう、ということになるとこちらもかなり疑問がある。半年ほど前に
日本ラーメン協会の記事を書いたけれど、
こうした活動に踏み込んでいくと、ラーメン評論をニュートラルに展開するのは限りなく困難だと思う。ただ、評論ではなく応援団という立場ならありなのかな、とも思う。つまり、スポーツにおける松岡修造氏みたいな感じである。松岡氏は別に全てのアスリートを取り上げて応援しているわけではない。バリューのありそうなところを選んで応援しているわけだ。その背後には色々な関係者が絡んでいるはずで、テレビの画面で見ることができるだけのお気楽極楽で済んでいる話ではないと予想する。この松岡氏のように、関わりのある仲の良いラーメン店を応援する、ということなら「なるほど」という気がしてくる。ところが、応援団という立ち位置ではなく、「(一見フェアに見える)評論家」としての立ち位置から商業的バイアスのかかった情報を発信していると、たけちゃんのマスターのように感じる人もでてきちゃうだろうな、と思うのである。それで、理想的なのはこうした状況を全部ウォッチしておくことなのだけれど、そんなのは現在の情報過剰時代には無理、ということになる。お金はないけれど情報だけはおぼれるほどある、というのが今の日本なのだ。以前石神氏原作の漫画で「ラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ」という名言があったけれど、今はラーメンに限らず、多くの場面で消費者は情報を食っている。問題は、その食っている情報にさまざまなバイアスがかかっているということだ。
そもそものところとして、日本人は情報ソースとして新聞を過大評価している節があるのだけれど、もちろん新聞の立ち位置はニュートラルではない。たとえば先日、朝日新聞に
ムハマド・ユヌス氏へのインタビュー記事が掲載された。
彼については僕は下記のエントリーで言及しているのだけれど、
ブログでバイオ 第51回「
オフ会に向けて」
ユヌス氏というのは貧乏人にただただお金をばらまいて有名になった人ではない。彼のスタンスは誰も彼も助けるというものでもない。ところが、朝日新聞の記事を読んでいるとそんな印象を受けてしまう。別に朝日新聞が捏造しているわけではなく、そういう方向に、自分達が意図している方向に読者がミスリードされるような書き方をしているのである。朝日新聞が左よりなのは日本人なら誰でも知っていることなので、そういうバイアスがかかっていると思いながら読むのであれば記事としては問題ないのだけれど、ユヌス氏の活動がこれによって誤解されてしまうのであれば、それはユヌス氏にとって迷惑な話だし、彼の活動を支持している僕にとってもありがたい話ではない。大新聞であってもこの状況なのだから、個人のブログなどから思想的バイアスを削除することは至難の業であると言わざるを得ない。というか、そんなのは無理だ。
結局のところ、情報そのものの質を考えるならば、情報を発信している個人・組織のキャラクターをどう評価するのか、というフェイズが必要不可欠になる。日本の場合、そのキャラクター決定要因として主たるものが「有名人」だったり、「テレビ局」だったり、「新聞社」だったりするわけで、おかげで有名人ブログなどは情報的には全くたいしたものではないのに、アクセスを稼げたりする。しかし、いつまでもこうした状況が続く保証は何もない。
情報の質が変わりつつある中で、今はそれを取り巻く環境が混沌とした状態である。こうした中で明確な方向性を打ち出すのは困難だし、意味を成さないケースがほとんどだろう(折角打ち出しても、その基盤が軟弱だから、全部おじゃんになってしまう可能性が高い)。ただ、10年後に「あれが正しかった」と評価されるような方向性を現時点で打ち出すことに成功すれば、ほぼ間違いなく勝ち組となると思う。バイアスのかかりやすい、あるいは作為的にバイアスをかけやすい「個人が発信する情報」をどうやって「価値のある情報」に変換するのか。これから数年は非常にエキサイティングな時代になると思う。
うーーーーん、このネタだと本当なら本が一冊書けそうなくらいに言いたいことが山ほどあるのだけれど、それを思いつくままにだらだらと書いてきたらこんな散文になってしまった。とりあえずこの文章は草稿ということにしておいて、あとできちんと推敲しようと思う。