僕は実際に文科省や経産省の、ナショプロにお金をつけている現場を見てきている人間なので、そこで展開されていることの意義も、アホらしさも知っているし、また、そこに取り込まれている人達の大変さも良く知っている。
例えば、このところ、良く槍玉にあげられることが多いのが横山茂之さん。僕は、前にも書いたけれど、彼は十分に尊敬されるべき人だと思っているし、彼には彼なりの苦悩があるんだと思っている。予算が取れなくなって、それまで使っていた人達を一挙に切らなくてはならなくなるのは仕方のない話であって、逆に考えれば、それまでの期間、研究者達が働ける場所を用意したのである。それだけでも大したものだと思うのだが、「研究者達が職を失ってもあいつは平気だ。冷酷だ」という批判があったりするようだ。じゃぁ、一度雇った研究者達を未来永劫面倒を見なくちゃいけないのだろうか。あるいは、面倒を見れなくなった研究者達の就職の世話をしてやらなくちゃいけないのだろうか。今のご時世、そんなことまで要求するのはあり得ないと僕は思う。そこから先はどうしたって自己責任だろう。ところが、一昔前の家族経営的な研究室運営を見てきた人達は、そういう対応を要求するところがあるようだ。これではたまったものではない。また、横山さんのように一度行政の波に乗ってしまったら、あとはもう乗り続けるしかない。その時点で、研究者として何か一本の筋を通すことが重要なのではなく、バランスを取り続けることが重要になる。「NMRこそすべてを解決する」と言っておいて、しばらくすると「やっぱりX線も大事」となるし、「完全長cDNAだ」と言っておきながら、いつの間にかRNAを主戦場にしていたり、そういった波乗り技術が要求されるようになってくる。つまり、研究者としてというより、政治家として身を振っていかなくてはならなくなるのだ。日本の場合、結局のところ研究者というのは役所の下に配属されているので、どうしようもないところがある。
世の中は目に見えるものの中で、一番わかりやすいところを叩く。だから、横山さんが叩かれる。そりゃ、確かに大金をつぎ込んだタンパク3000プロジェクトは失敗だったかも知れない。でも、これもこのブログで何度か書いているけれど、もし、タンパク3000の結果は投入した予算に見合わないものだったとしても、それ自体は横山さんの責任ではない。横山さんを担いだ理研や文科省、そしてその説明を受け入れた財務省の責任である。ところが、タンパク3000が失敗だったかどうかという議論とセットで語られるべき、理研の責任、文科省ライフ課の責任、そして財務省の責任を問うている場面にはほとんど出くわさない。横山さん個人を批判するだけだ。横山さんはもうこういうことにすっかり慣れてしまっているのかも知れないが、本当なら、横山さんはまず第一にタンパク3000が失敗だと指摘する人達を相手に直接面と向かって反論する機会を持ててしかるべきだし、また失敗だという結論になった場合には、責任を取るべきは横山さんではなく別のところだと主張するべきだ(それぞれがそれぞれの場所で批判、反論はしているようだが、物凄い金額が投入されているのである。もっとオープンに、それこそ仕分け作業と同じように、誰もが見ることができる形でやれば良い)。それがきちんと行われないところに、日本の科学技術行政の未熟なところがある。
ところで、先日の仕分け作業で科学技術関連の予算の大幅見直しが決まって以降、いくつかの動きがあった。最も目立ったのはこのブログでも取り上げた、
ノーベル賞科学者達の馬鹿会見だ。あれを見ているとノーベル賞科学者っていうのは本当にアホだな、と思うわけだけれど、少なくない人達が、彼らが会見をやったことによって溜飲を下げたようで、それはそれで悲しい気分になる。それからもうひとつの動きが、馬鹿研究者達が集まって署名活動を繰り広げたことだ。これはこれで頭が悪い。そのどちらも、どこが筋が悪いかって、向かっている先が行政だからだ。やっていることは街宣車で霞が関に乗り付けることと何ら変わりがないのだけれど、おそらくは当事者たちはそんなことは露程も思っていないに違いない。
日本人の多くは、何か困ったことがあるとすぐに政治家や役人にすがろうとする。それがそのまま、彼らの権利を拡大することになる。結果的に、科学はいつまで経っても行政に隷属することになるのだ。そういうことに全く気がつかないということが、馬鹿の馬鹿たる所以でもある。もともと日本人というのは官僚に隷属することに対して非常に鈍感な種族だと思うのだけれど、中でも理科系の人間というのは特にそういうところがある。なぜなら、興味の対象が物だから、社会の成り立ちとか、人間関係とか、コミュニケーションといったところへの注意力が不足してしまうのだと思う。これは例えば役所の内部などを見ても一目瞭然であって、それは事務官の技官に対する絶対的優位となって具現化している。
さて、多分科学者という人達の多くは次の文章を読んだことはあっても、理解はしていないと思うので、参考までに書いておく。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
(出典:日本国憲法)
これを読めば、科学者達がアピールすべき先は政治家や役人ではなく、国民だというのがはっきりするはずだ。残念なことに、理科系の人間はこういう文章に触れる機会が全然ないのだろう。だから、頓珍漢な行動にでて、失笑を買うのだ。
そんなことを思っていたら、このブログでも時々取り上げる中村桂子さんが生命誌研究館のサイトでこんなことを書いていた。
科学と社会とかサイエンス・コミュニケーションと称する活動の浅薄さを見た気がします。
(出典:中村桂子の「ちょっと一言」:
「ちょっと疲れました」)
あぁ、なんだ、やっぱりこういう考えを持つ人もいるんだなぁ、と思った次第。前にも書いたけれど、僕からすると中村さんは生命誌研究館とか、三菱総研社外取締役といった看板が僕から見ると邪魔であって、もっとフリーな立場になればすっきりするのになぁ、と思う。
科学者達は、「このままじゃ手遅れになる。すぐに動かなくちゃ。まず出来ることは政治家に圧力をかけることだ」とか、「何はともあれ署名活動をしよう」などとなるわけだけれど、それは完全に筋違い。今まで何もやってこなかったことを棚上げして、手っ取り早く、というのは、いわばドーピングである。
僕は仕事において、主に二つの場面で「ドーピング」という言葉を使う。
一つは、SEO対策をやりたがるウェブ運営者に対して、「SEOとは一種のドーピングです」という場合。そしてもう一つが、何か困ったことが起きたときに政治家や官僚にお願いしようとしている人を見た場合。
前者については、僕は「検索エンジンというのは、検索する人間に対して最適化されるべきであって、検索されるサイトに対して最適化されるべきではない。それぞれの検索エンジンは少しでも検索者に対して最適化されるように知恵を絞っており、もしそれに逆らった形で検索結果に対して圧力をかけるのであれば、それはフェアなことではない。ウェブサイトの運営者がやるべきは、検索者が閲覧したいと思うサイトを創り上げて行くことで、これは一朝一夕にできることではない。また、努力だけでは不可能かも知れない。それでも、日々の努力で少しずつ、閲覧者のニーズに適合したサイトにして行く必要がある。そうした日々の努力、いわばトレーニングを怠り、安易に検索結果を都合の良いように変えてしまうことは、ドーピングのようなものだ」と説明している。
後者については上にも書いたけれど、今回のケースで言えば、「時間がないから政治家に訴えよう」といった行動。本来、科学技術の重要性というのは政治家に理解してもらう筋のものではない。主権者である、国民に理解してもらうべきものだ。国民が「スパコンは世界一である必要がある」「SPring-8には十分な予算を与えるべきだ」「科学者の卵達にはきちんと投資しなくてはならない」と感じているなら、そもそも仕分けで減額しようなどという話にはならない。そうなってしまうのは、科学者達が主権者たる国民に対してきちんと科学の重要性をアピールしてこなかったことによる。科学者の本音は「国民は馬鹿だから理解できない。官僚が理解してくれれば十分だ」というものに違いない。
例えば、僕は10年近く前に、「親と子のゲノム教室」という、バイオの入門書を出版したことがある。僕がこの本でやろうとしたことは、家庭の中で、一冊の本を共有し、親から子供までそれぞれのレベルでバイオについて理解を深めてもらい、場合によっては親子で一緒に工作をしたり、実験をしたりして、今まで気がつかなかった生活の中の「不思議」に気がついてもらうこと、興味を持ってもらうことだった。今読んでみると、内容的には確かにちょっと古い部分もあるし、至らないところもあると思う。でも、自画自賛しておくなら、ストライヤーかコーン・スタンプかレーニンジャーはどれか一冊あれば十分だけれど、この本の代替書はどこにも見当たらない。普通の主婦と小学生が一緒になって読める、ちょっとした試薬を使ってもしかしたらDNAを目で見ることができる、簡易なDNAのモデルをペーパークラフトで作ることができる。そんな本がどこにあるのか、ということだ。
この本は大した数が売れたわけではない。良く憶えてないけれど、せいぜい5000部程度だったはずだ(ただ、韓国人の目に留まったようで、韓国語に翻訳されて出版されている)。それで、別にこの本を買えというわけでもない。でも、科学者が、こういう活動を怠ってきたからこそ、今があるんだということは肝に銘じて欲しいと思う。その上で、今からでも遅くはないのだから、地道にひとつずつ、積み重ねて行って欲しいと思う。僕の本がイマイチだというのなら、その延長線上にもっと良い本を出せば良いだけのことだ。
安易に政治家に頼ると言うのは、この瞬間だけは状況を改善するかも知れない。しかし、簡単に改善すればするほど、長いスパンで見れば状況は悪化することになる。ノーベル賞科学者が集まって意見を言うとか、あるいは仕分けの結果に異議を唱える署名活動を繰り広げるなんていうのは間違いなくこの手の領域の活動である。
非常に残念なのは、サイエンス・コミュニケーションといった活動を繰り広げている人達の中の少なくない人が、平気でこの手の馬鹿署名活動に参加していることでもある。「出来ることは何でもやろう」というのは確実に間違いだ。きちんとやるべきことを精査して、その上で的確に行動すべきなのである。本来科学者というのは冷静に事実を見極めようと努力する人、その事実を尊重する人、事実に対して誠実で謙虚である人達のはずだ。目の前にある現象をきちんと把握し、それを理解しようとするためには、最低限、それが必要なはずである。ところが、その人達が、事実を目の前にしてパニックに陥り、その事実をねじ曲げようとしている。ここにこそ、日本の科学者達の質の低さが露呈しているのである。今目の前にある事実は、「国民は科学技術の重要性をきちんと理解していない」ということである。そのための努力を怠ってきて、その結果困ったことになったとたん、「官僚の皆さん、助けてください」では都合が良すぎる。きっとこういう人達は平気で実験結果を捏造する人達だと思う。
もうひとつ、僕はBT戦略会議がバイオテクノロジー戦略大綱をまとめたとき、経産省のバイオ課にいて、その作成の一部を手伝った。その際、僕が最もこだわったのが、大綱の3本の柱のひとつ、「国民理解の徹底的浸透」である。僕はこの部分について、是非とも数値的目標を設定すべきだと主張したのだが、結局それを実現することはできなかった。バイオ予算の○○%を国民理解の浸透のために使う、という形にしたかったのだが。もちろん、ただお金を使えば良い、というわけではないのだが、やはり数値目標は必要だったと思う。大綱ができたのが平成14年。それから7年経って、国民の理解が進んだかといえば全然そんなことはない。遺伝子組換え作物に対する理解も全然だし、BSE対策の何が良くて何がダメなのかもわかってない。もちろんコラーゲンを飲めばお肌がプリプリになると真剣に信じている人が山ほどいて、それを良いことに国民を騙し続けている大企業がある。こんな状態で、科学が国民に受け入れられるわけがない。まぁ、大綱に数値目標を入れられなかったことは僕にも責任があるので、一方的に非難はできないのだけれど。
ということで、長々と書いてみたけれど、僕が言いたいことは、今必要なのは、地道なトレーニングである、ということ。決してドーピングをしてはならない。僕自身、すでにITの分野に軸足を移してしまい、バイオの領域についてはダイレクターではなく、評論家的な立ち位置にいることは間違いない。ただ、もし僕がトレーニングの一部を手助けした方が良ければ、その時間を作ることは可能である。僕が常々言っていることは「理研や経産省において、税金から給料をいただいて勉強させてもらったことは、きちんと国にフィードバックしなくてはいけないと考えている」ということだ。
そろそろ何かやった方が良いですかね?
#これは全く余談なんだけれど、文科省が取ってきた予算は理研で執行できない、経産省が取ってきた予算は産総研で執行できない、というルールにしたら面白いだろうなぁ(笑)。