車椅子の乗客に、タラップを自力で上らせたというニュースがあった。
車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪
http://www.asahi.com/articles/ASK6H4HCWK6HPPTB004.html
このニュースに対する僕の第一感はこれ。
一方で、他の人の考えはどうかというと、むしろバニラ・エアに同情的なものが多く、
hitode99 タイトル見た時「ひでぇ」って思ったけど、本文読んでると「お客様!お客様!!困ります!!あーっ!!! 困ります!!お客様!!困ります!!あーっ!!!あーっお客様!!」案件に見える
chopapapa サイトに搭乗日の5営業日前に連絡くれれば対応するって書いてる。しかもわざわざ奄美の件も階段昇降機で対応するって書いてる。うちの親は半身麻痺だったからここらへん自分で確認してたけど。ようは客がクレーマー
negi_1126 これは事前に「車椅子ですけど使えますか?」の確認を怠った利用客の落ち度でしょ/格安航空に過剰なサービスを求めたらアカン。対価出さずに過大な要求してたらブラック化まっしぐらやぞ。
などというコメントがはてなブックマークでは人気である。
しかし、おそらくこれらの考え方は、少なくとも米国では受け入れられないだろう。米国の大都市、ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴや、観光都市、マイアミやラス・ベガスを見ていると、車椅子で行き来しているディスアビリティの人を頻繁に見かける。彼らの多くは、独力で外出することができて、一般の人と同じように生活できる。
この背景には、日米の文化的基盤の相違がある。たとえば日本では公共交通機関が遅れると一大事になる。丸ノ内線のように、4分おきに正確に運行している電車にとっては、一分一秒が大切だし、今の東京のように他社乗り入れが頻繁だと、例えば副都心線や埼京線などだと多方面に影響が出てしまう。この状態では、「車椅子で電車に乗りたい人がいたので、電車が5分遅れました」という事態は許容されない。駅員が協力して素早く乗降させることになるし、これが一度に数名とか、朝のラッシュアワーとかでは対応不可能になる。ところが、米国では交通機関の遅延は日常茶飯事だ。30分に一本しか運営されていないバスが30分遅れて、後発のバスに路上で追い抜かれるとか、突然バスが停車して動かないのでどうしたのかと思えば、パシリの男の子がダンキン・ドーナツで運転手のために買い物をするための待ち時間だったり、(日本の)常識外のことが時々発生する。でも、誰も文句を言わない。ちなみに飛行機だともっと酷くて、1時間、2時間の遅れは当たり前。先日なんか、フロリダからDCに戻るLCCの飛行機が5時間も遅れた。これでもみんな文句を言わない。「安いんだから仕方ない。嫌ならもっと高い交通手段を使え」ということなのだ。
もちろん、ビジネス上の時間の約束は、米国人も厳守する。しかし、公共交通機関は、遅れて当たり前なのだ。この状態は、一義的には、規則的にきちんと運用されている日本の方が望ましいのは間違いがない。ところが、ディスアビリティの受け入れという視点では、米国の方がはるかに優れているのである。バスから自動でブリッジが現れて、それを使って車椅子でバスに乗って、所定の場所に車椅子を固定する。この間、約3〜5分。この時間的余裕が米国にはある。だから、社会がディスアビリティたちを取り込むことができるのだ。米国社会には余裕があって、その余裕を有効活用することによって、ディスアビリティたちは日常生活を楽しんでいる。
ディスアビリティの数は、健常者に比較すると、圧倒的に少数になる。多数決で意思決定する民主主義においては、これは当然不利だ。その、不利な人々の権利を保護するという視点が米国にはある。一方で、日本ではその感覚が薄い。
ちょっと前に同じような問題点を内包する記事を見かけたのだが、これである。
<わいせつ教員>再犯相次ぐ 他県の処分把握困難で対策苦慮
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170625-00000001-mai-soci
記事では
松野博一文科相は「対応を検討していきたい」と答弁しつつ、処分情報の全国共有に関しては「職業選択の自由、個人情報保護、罪を償った後の人権の問題も考えないといけない」と述べた。
などという頭の悪そうなコメントが書かれているのだが、子供は自分で自分の権利を主張できないのだから、彼らが安全に勉強できる権利は、大人がきちんと確保しなくてはならないはずだ。その権利は、性犯罪者の職業選択の自由や個人情報保護、罪を償ったあとの人権などよりも遥かに重要だと思うのだが、日本の大人たちの感覚は違うらしい。
事程左様に、日本人のマジョリティたちはマイノリティの権利を軽視しがちである。これは、おそらく想像力の欠如によるのだと思う。だいぶ昔、喫煙者の友人に子供が生まれた時、彼は子供のいるところでの喫煙をやめた。しかし、僕たちとの飲み会では、引き続き喫煙を続けていた。彼は、「すべての人間は、誰かの子供である」ということに考えが及ばなかったのである。あるいは、単に自分の子供だけよければ良いという利己主義者だったのか、どちらにしても、米国では白い目で見られるだろう。
米国におけるディスアビリティ対策の基本は、特別な手続きなしに、一般の人と全く同等の生活を送ることができるということだ。これが、米国人の想像力で、日本人には欠落している視点である。
#「優遇」ではなく、「同等」である。優遇、すなわち障害者の映画料金を割引せよ、とかとは別の話である。
また、性犯罪者については、常にネットでその住所と名前と写真が参照できる。これによって、親は警戒し、対策できる。そこまでされたくないなら、性犯罪を起こすな、ということだ。性犯罪者と、子供の人権はイコールではない。ここが日本と違うところだ。
日本人の民主主義は、戦争に負けて押し付けられた民主主義である。そのためなのか、民主主義を維持していくプライドが感じられない。民主主義における意思決定手法の大きな柱は多数決だが、そこに埋もれてしまいかねない少数派や、そもそも民主主義へ参加できない者たちへの配慮は必要不可欠で、それがないと大きな瑕疵を抱えることになる。ディスアビリティや子供の権利は、過剰なくらいに重視されても不足ではないと思うし、米国社会はそういう社会になっている。日本は全くそうではない。文言だけで受け取って、咀嚼していないからだろう。